御言葉を聞くことを妨げるもの

2021年5月23日

主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」
神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。
わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。
今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。
それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」
モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。

出エジプト記 6章1~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが天国に入るためには、御言葉を聞くことが必要です。なぜなら、天国に入るためには、御言葉を聞いて従うことが必須だからです。今日は、御言葉を聞くことを妨げるものについて、見ていきたいと思います。

 先ほどお読みした9節の御言葉が、今日のハイライトです。「彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった」とあります。その前の箇所はどうでしょうか。神様は、「あなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」と、イスラエルの民に約束されています。神様から、このような素晴らしい約束を頂いていたにも関わらず、イスラエルの民はそれを聞くことができませんでした。それはなぜでしょうか?それは、「失意と激しい労働のため」とあります。

 御言葉を聞くことを妨げるものは、「失意」と「激しい労働」です。

 まず、失意について見ていきましょう。先ほどお読みした箇所とは別に、御言葉を聞くことができなかった例があります。それは、カナンの地に偵察に行った12人の箇所です。

四十日の終わりに、彼らはその地の偵察から戻った。
彼らは、パランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところにやって来て、二人と全会衆に報告をし、その地の果物を見せた。
彼らはモーセに語った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。
ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。
アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。」
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」
しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」
彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」

民数記 13章25~33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 カナンの地の偵察から帰ってきた12人のうち、カレブとヨシュアを除く10人は、「あの民のところには攻め上れない」と言いました。このとき、状況は2対10です。多数派である10人がこのように言ったのです。「その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく」「あの民は私たちより強い」「そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。(・・・)私たちの目には自分たちがバッタのように見えた」と。それを聞いた民は失意にかられたことが、次の箇所でわかります。

すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。
なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」
そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。

民数記 14章1~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かし」ました。彼らは失意にかられていたのです。そして、「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。」と不満を言いました。彼らは失意のゆえに、主の御声に聞き従うことができませんでした。そしてカレブとヨシュア以外で二十歳以上の者は約束の地に入れず、荒野で屍を晒すことになりました。それだけでなく、14章で出てくるとおり、カナンの地について悪く言いふらした者はすぐに亡くなりました。

 ここで覚えるべき大切なことは、失望や失意は信仰の妨げとなり、破滅や損害をもたらす、ということです。

人の霊は病苦も忍ぶ。しかし、打ちひしがれた霊はだれが担えるだろう。

箴言 18章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 お読みした箇所にもあるとおり、私たちは、病苦をもしのぶことができます。しかし、打ちひしがれた霊には、耐えることができません。実際に、医師もこのことは指摘しています。ある人にとっては、病気そのものよりも、失意の方が大きいと、その病気はみるみる悪くなるそうです。その反対に、希望を持ち続けた人は、医師がこの病状は厳しい、と思っていても、たとえ癌であってもそれに打ち勝つ人がいるということです。

 アウシュビッツでも、大勢のユダヤ人が亡くなりました。しかし、アウシュビッツという過酷な条件で生き残った人びとは、最後まで希望を失わなかった人だそうです。

 失意とは、厄介な問題です。病気そのものよりも、大きな問題と言えるでしょう。実際、失意に打ちひしがれることは皆あります。それでは、失意に打ちひしがれた時に、私たちはどうしたら良いのか、見ていきたいと思います。

 実際、がっかりした時は、自分でもそのことがわかります。そんな時は、自分を奮い立たせることが必要です。

わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

詩篇 42篇5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

詩篇 42篇11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

詩篇 43篇5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この詩篇の著者は、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」と、3度も自分を奮い立たせています。自分自身に、客観的に語りかけ、自分のたましいに「なぜ?」と語りかけているのです。このように、誰が言ってくれなくても「神を待ち望め」と自分のたましいに語りかけることが必要です。自分は這い上がれる、と自分を励ますのではありません。神様を待ち望むのです。

 そして、神様を待ち望むことは、祈ることとイコールです。2番目に覚えておきたいのが、失望した時に祈ることも必要、ということです。第一テサロニケ5章17節やローマ12章12節でも、「絶えず祈りなさい」「ひたすら祈りなさい」と語られています。どんなに失意をおぼえる状況であっても、神様が変えてくださいます。神様に不可能なことはありません。祈りは働くと力があります。

 たとえ打ちひしがれている時であっても、神様は希望を与え、慰めて下さるお方だということが次の御言葉に書かれています。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

コリント人への手紙 第二 1章3~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが会うであろうどのような苦しみのときも、神様は慰めてくださる、とあります。絶えず祈り、ひたすら祈りなさい、と言う御言葉に従うことが重要です。そうすれば、神様は私たちを引き上げてくださいます。私たちは、自分で状況を変えることはできませんが、神様は状況を変えることのできるお方です。

 3番目に覚えておきたいのは、御言葉を読むことも大切、ということです。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。

ローマ人への手紙 15章4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちはたとえ、失意に打ちひしがれたとしても、聖書によって、忍耐と励ましを得ることができます。そして希望を持ち続けることができるのです。

 そして、4番目に、クリスチャンたちと交わりを持つことも必要です。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

ヘブル人への手紙 10章25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、私たちがひとりで生きていくのではなく、励まし合うことを意図されています。聖書に出てくる幕屋の板は、右と左に支えられるように立っており、クリスチャンたちを表しています。そして、あの大使徒パウロでさえも、いつも希望に満たされていたわけではありません。次の箇所で、彼は気落ちしていた、とあります。しかし、彼は、コリントの人びとによっても慰めを受けました。

マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。
しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。
テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。

コリント人への手紙 第二 7章5~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この世の成功哲学、自己啓発などと呼ばれている教えは、ネガティブな人々と交わってはならない、成功している人々と交わりなさい、と言います。落ち込んでいる人と交わると、自分までもその影響を受けてしまう、と。成功している人と交われば、自分も成功しますよ、と語ります。しかし聖書には何と書かれているでしょうか。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。
私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。

ローマ人への手紙 15章1~2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、聖書は、「力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきでは」ない、と語ります。そして「益となることを図って隣人を喜ばせるべき」と語ります。成功した人と交わることによってさらに喜びに満ちた自分になれる、と語るこの世の教えとはまったく異なります。御言葉はその逆で、隣人を愛しなさい、と言っているのです。このことと共に、自分が弱っているときに、他のクリスチャンたちから慰めと励ましを受けることも大切です。

 ここで注意が必要なのが、クリスチャンの兄弟姉妹に慰めを与えるか与えないかで、天国に行くかどうかの運命が決まるということです。

いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

マタイの福音書 25章39~40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 福音のために、病気をしたり牢に入れられたりした人たちであっても、やはりその状況にいると気落ちしたり、心細く孤独感を感じ、失意にかられたりします。そして、自分のことを思って来てくれると、慰めと励ましを受けます。このことは、イエス様にしたのと同じように、大切なことだとイエス様は言われているのです。

 そして反対に、このことをしなかった人について、聖書は次のように語っています。

すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。

マタイの福音書 25章44~46節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで語られているイエス様にしなかったのと同じように小さい者たちの一人にしなかったことは、物品を提供しなかった、といったことではありません。しかし、兄弟・姉妹を尋ねて、慰める人は天国に入り、しなかった人は永遠の刑罰に入る、と言われているのです。

 私たちは、もしかしたら経済的な余裕もなく、宿を貸すこともできないかもしれません。しかし、尋ね、慰め、励ますことをするかしないかで、大きく変わってきます。

 あくまでも、イエス様は見ておられることをおぼえることが大切です。それをすることでイエス様は報いてくださいます。私たちは、「自分は成功者と一緒にいることで幸せな気分になるんだ」というような、この世の成功哲学に惑わされないようにしなければなりません。私たちに、それをするための健康が与えられているなら、人々を尋ねていくことも大切です。

 もう一つ、神様の御言葉に従うことの妨げになることについて見ていきます。それは激しい労働です。

 私たちは、激しい労働によって、体力も気力も奪われてしまいます。身体を酷使すると、健康が奪われます。その結果、心の健康も奪われてしまいます。過度の労働によってうつを発症し自殺してしまう、と言った出来事を私たちはニュースで目にします。激しい労働は、霊的な状態にも影響を与えます。実際に、身体と心と霊は密接に結びついていて、どこかが悪いと他にも悪い影響を及ぼすのです。

 ネヘミヤ記に登場するネヘミヤは、バビロン王国に滅ぼされたエルサレムの城壁を建て直すため使わされた人でした。ネヘミヤ記では、城壁を建て直していくという労働によって、失意に駆られていく人びとについて書かれています。

ユダの人々は言った。「荷を担ぐ者の力は弱り、瓦礫は山をなしている。城壁を築き直すことなど、私たちにできはしない。」

ネヘミヤ記 4章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 城壁を修復することは激しい労働でした。その上、邪魔したいと思って来た、敵対する勢力とも戦わなければなりませんでした。そのことは、城壁を立て直した民にとって失意に繋がっていくことでした。上の御言葉にあるとおり語ったユダの民は、うつ状態に陥っていたと言えます。

 神様は、激しい労働によってこのようなことが起こることを既にご存じで、次の御言葉のように、私たちに命じられています。

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

出エジプト記 20章8~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、安息日を制定することによって、六日働いたあと七日目は休むことを私たちに命じられています。安息日は、主を礼拝するだけにして、仕事をせず、身体を休めるためのものです。そしてこれは私たちの益のためである、と次のように書かれています。

そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。

マルコの福音書 2章27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ニューホープチャーチのウェイン・コデイロ先生は、本の執筆や作曲など、様々な働きをされている先生ですが、主の働きだから、と言ってずっと休まずにいた結果、ある日ブレイクダウンして仕事ができなくなったそうです。この出来事をとおして、疲れていなくても必ず、週の一日は安息日を設けなくてはならないことを学んだ、と先生は言っていました。

 若いうちは、もしかすると休まずにいられるかもしれません。しかし、無理をしていくうちに、どこかで疲れが出てきて問題になってきます。安息日を週一回もうけ、それを繰り返すことによって、身体と心と霊も元気を取り戻していけます。

 中には、仕事をしないと生活が大変だ、と言う人もいます。しかし、神様に不可能なことはありません。主に祈れば、安息日を守れるように導いてくださいます。主は、安息日を守れるように祈るなら、奇跡を起こしてでも助けてくださいます。

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

ヨハネの手紙 第一 5章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

前のページに戻る