イエス様が来てくださった祝福

2021年12月19日(クリスマス礼拝)

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

ルカの福音書 2章1~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 大学生のとき私は驚いたことがあります。私が、クリスマスの日、地元の人に、これから教会でクリスマスをお祝いすることを伝えた時、「へえ〜っ!今どき教会でもクリスマスをお祝いするの!」と驚かれたことです。

 この地では、クリスマスから、できるだけイエス様を排除しようとします。でも、クリスマスの本当の意味は、サンタやケーキではなく、イエス様の誕生をお祝いすることです。

 イエス様は、神様の一人子でしたが、この天と地が造られる前から存在しておられました。そして、今から二千年前、処女であるマリアが聖霊によって身籠り、イエス様がこの地にお生まれになりました。イエス様誕生の知らせは、当時貧しく、社会的に見下されていた羊飼いたちに前もってもたらされました。また、マリアと夫のヨセフは貧しい家族でした。このように貧しいところにお生まれになったイエス様は、貧しく、へり下る人びとのところにまず、現れてくださるのです。

 そして、イエス様はお生まれになった後、私たち全ての罪を背負い、十字架の上で死んでくださいました。この地における全歴史上で罪のないお方はイエス様だけです。だからこそ、イエス様は、十字架にかかり、死んでくださることによって罪の赦しをなすことがおできになったのです。

 イエス様の前は、罪の赦しを得るために動物の血が流されていました。しかし、イエス様は罪の問題を解決してくださいました。そして、死後三日目によみがえられ、四十日にわたって人びとに現れられた後、天に引き上げられました。イエス様が天に引き上げられる様子を弟子たちが見ていたことが、聖書に記されています。イエス様は、天に上げられましたが、今も神様の右の座にあって私たちのためにとりなし、共にいてくださり、私たちの主であられます。イエス様がこのようなことを、私たちのためになしてくださっていることを、このクリスマスの日に感謝したいと思います。

 それでは、今日はイエス様が来てくださったことの祝福について見ていきたいと思います。イエス様がこの地に来てくださらなかったら、どうだったのでしょうか。このことについて見ていくことで、イエス様の祝福の意味がわかります。

 イエス様なしの人生は、自分中心に生きていくことに他なりません。人びと皆がもし、自分中心に生きていたなら、世界はもっと殺伐としていたことでしょう。自分中心に生きる人は、自分が良い思いをするなら、人から取っても、悪口を言っても、最終的には殺しても良いとさえ思います。今でも確かにこのような人は存在していますが、もしイエス様が来られなかったら、世界はもっともっと、殺伐としていたはずです。

 人は、よくこのように思うものです。「自分が良いと思うように生きられれば、それこそ良い人生だ」と。しかし、聖書には、罪を犯しているものは罪の奴隷だ、と書かれています。快楽を求めて生きるなら、酒を思う存分飲みたい、と思ってアルコール中毒になって身を汚し、クスリをしたい、と思ったらその虜になって破壊を招きます。あるいは、性的快楽を求めるならセックス中毒になり、身も心も破壊されてしまいます。

 このように、自分の思い通りに生きる人生は、破壊を招き、鎖に繋がれた人生となります。このような状態はとても苦しいものです。

 また、イエス様がいなければ人生には不安しかありません。親や兄弟は今は生きていて頼っていたとしても、いずれ別れが来ます。親と言っても、子供を支配するという問題があります。本当に親身になって助けてくれる人は、一人もいません。このような状態では、何の希望もありません。いずれ歳をとり、病を経て、死を迎えることになります。「これからどうなるのだろう」と不安しかありません。

 イエス様なしに死を迎えるとどうなるのでしょうか。自分の罪のゆえに反抗して生き、周りの人に悪いことをしたことのゆえに刑罰を受けなければなりません。そして火と硫黄の中に投げ込まれて昼も夜も永遠に、苦しまなければなりません。

 よく、苦しいと言って自殺する人がいますが、もっと苦しむことになるので、絶対にしないでください。死んだから楽になるのではなく、地獄で昼も夜も永遠に苦しみが待っているからです。

 このように、イエス様がいなければ、私たちは先が見えず、悲惨なところに行き、苦しみを受けるものでした。しかし、二千年前にイエス様は来てくださいました。誰でも自分の罪を認め、悔い改めて、イエス様が自分のために死んでくださったと信じ、イエス様を自分の救い主、主として受け入れる者には永遠の命が与えられるのです。このように、イエス様が来てくださったことによって、鉛のように閉ざされていた道が開かれました。そして、神様の子どもとして、私たちは受け入れられたのです。

 私たちの肉の力では、罪の奴隷状態で、妬みや怒りが渦巻く、生まれながらの人間でした。しかし、イエス様は私たちをそのような状態から助け、解放するために来てくださいました。

 イエス様は、私たちの祈りを聞いて助けてくださいます。聖書には、イエス様が全ての苦しみを経験されたので、私たちは恵みを頂き、折に叶った助けを受けることができると書かれています。奇跡がないとにっちもさっちも行かない状態でも、助けを得て、試練を乗り越えることができます。そして、イエス様が共にいてくださると言う喜びがあります。涙も死もない天国に行くことができます。天国は、この地上の何百倍も比べ物にならないところです。イエス様によって、私たちはそのような素晴らしい場所に行けるという希望があるのです。

 ある方は、10人も子どもがいて奥さんがいて幸せな家族がいましたが、交通事故で死を経験して、天国を見てきました。すると、いくら地上に愛する奥さんがや子供たちがいても、もう地上には帰りたくないと思ったそうです。その方は、イエス様に自分は帰りたくない、と言ったそうですが、天国のことを話すように、と言われて地上に帰されたそうです。

 天国は、このように本当に素晴らしい場所なので、(もしかしたら不謹慎かもしれませんが)キリスト教会のお葬式は湿っぽい、というよりも喜びがあり、明るいものです。もっと良い場所に行ける、という希望があるからです。

 完全ではないけれども、愛がわかった人は、見返りを求めない愛を与える人です。地上では、このような愛をもった人がいるので、この世界も保たれている部分があります。ある精神科医は、このように言っていました。この難しい世界で正常な精神を保つのは難しい。精神が破壊されてしまう、と。イエス様なしでは、何の希望もなく、罪の奴隷で、惨めな人生です。しかし、イエス様がおられるからこそ、私たちは、折に叶った助けを受けられるのです。イエス様は、私たちが何か良い人間だったから、私たちのために死んでくださったわけではありません。イエス様が死んでくださった時、私たちは皆、罪人だったのです。しかしイエス様は辱められ、鞭打たれ、十字架にかかられました。イエス様は、愛されるのにふさわしい人のために来てくださったのではなく、ただ、惨めな私たちを救うために、この暗い地に来てくださったのです。

 このように、イエス様は、私たちに永遠の命を与えるために、大きな犠牲を払ってくださいました。イエス様が死なれる七百年前に、イザヤが次のように預言しています。

私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。

イザヤ書 53章1~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様には、見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもありませんでした。イエス様は、蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていました。「人が顔を背けるほど蔑まれ」とありますが、イエス様は、十字架に書かられる前、誰が叩いたのか、と言ってぶたれたりしました。また、お弟子さんたちにも裏切られました。そして、私たちも、「彼を尊ばなかった」とあります。イエス様は、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったのに、「神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだ」と私たちは思いました。 しかし、イエス様は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれました。イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされたのです。私たちは皆、自分勝手な道に向かって行ったのに、神様は私たち皆の咎を、罪のないイエス様一人に負わせました。

 十字架刑は、当時残酷だと言われたローマの処刑法でした。それはローマ市民には適用されませんでした。体重を支えて苦しみながら息を引き取る、無惨な死を遂げる処刑法だったからです。イエス様は、私たちに罪の赦しを与えるために、このように大きな犠牲を払われました。そしてこれは天の神様の御心だったと、聖書に書かれています。そうすることにより、信じて従う多くの子孫を末長く見ることができるから、と。

しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

イザヤ書 53章10~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する」とあります。イエス様は、ご自身の激しい苦しみによって得られたものを見て、満足されたのです。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

ピリピ人への手紙 2章6~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、私たちと同じに人間になられました。そして何の見返りも求めず、自らを低くして、十字架の死にまで従われました。そのため、神様はイエス様を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられたのです。神様は、私たちにも、次のように行うよう命じられています。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

ヨハネの福音書 15章12~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、このことを何の見返りも求めず行うよう、命じられています。この人はいい人だから良くしてあげようとか、仲間だから、とかではありません。神様は、イエス様から受けた祝福を持って、人びとを祝福するように私たちに願われています。

あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

マタイの福音書 25章35~40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 多くの人びとの欠乏を満たしていくことは、主の御心です。「空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し〜裸のときに服を着せ」とあるとおり、人びと、それも最も小さい者たちの一人の物質的・肉体的な必要を満たすことはイエス様にしたことと一緒です。イエス様を信じるゆえに牢に入れられた人たちを訪ねることも大切です。これらのことは、人びとが天国に行けるようになることとも通じます。そして自分も救われることと直結します。

 また、さらに覚えておくべきことは、イエス様以外には誰の名によっても救いはないということです。

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

使徒の働き 4章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「この方」とは、イエス様のことです。

 多くの日本人は、富士山の頂点に登るには御殿場でも山梨でも良いし、色々な道がある、と言います。しかし、天国に行く道は一つです。それは神様が、イエス様によって赦しを得なければ天国に行くことはできないと定められたからです。このため、私たちは福音を宣べ伝えていかなければなりません。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

ローマ人への手紙 10章11~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが宣べ伝えなければ、誰も神様のことを知ることはできません。希望のない世界に希望を持って、平安のない世界に平安を持って、喜びのない世界に喜びを持って、天国に行ってほしいと思って伝えなければ、誰も天国に入ることはできないのです。このため、イエス様は、天に昇られる前、大宣教命令として次のように私たちに命じられました。

それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

マルコの福音書 16章15~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。

マルコの福音書 16章19~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが、人びとに与えることができるのは、永遠の命を宣べ伝えることです。

 また、私たちは人を赦すことによって、与えることもできます。人を赦すことは自分の祝福でもあります。赦さなければ、怒りの奴隷となってしまいます。相手も解放されません。聖書には、相手を赦さないなら神様もあなたを赦さない、でも相手を赦すならあなたを赦す、と書かれています。赦しは、双方にとって大きな恵みです。

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

マタイの福音書 6章14~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、神様から赦されたものです。それなのにちょっとした相手の過ちを赦さないなら、神様から、あなたも赦さない、と言われてしまいます。怒りほど、人の身体を蝕むものはありません。イエス様にあって、赦し、解放されることが可能です。

 また、私たちは、人のために祈っていくことも、人に与えることのできる祝福です。

 以上、人に与えることのできる祝福として、身体の必要を満たすことや、魂の必要を満たすこと、すなわち、福音を宣べ伝えること、そして人を赦し、祈っていくことについて述べました。神様は、これらのことを何の見返りを求めずにやりなさい、と言われました。もし、見返りを求めて与えなければ、この人はなんて恩知らずな人だ、と怒りに囚われてしまいます。このため、人には下心なく与えた方が良いです。なぜなら、天の神様が報いてくださるからです。

 そして聖書には、喜んで与える人を神様は愛してくださる、祝福してくださる、と書かれています。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

コリント人への手紙 第二 9章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 惜しみなく分け与える人には、天国でも覚えられます。「彼の義は永遠にとどまる」と次の御言葉に書かれています。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。
種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

コリント人への手紙 第二 9章8~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、惜しみなく分け与える人には、もっともっと与えられるように、神様が助けてくださいます。

 また、イエス様は与えなさい、と私たちに命じられました。そうすれば与えられ、祝福されます。

与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。

ルカの福音書 6章38節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、神様は私たちがするように、返してくださるお方です。このため、人をさばかないようにも、しなければなりません。

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

ルカの福音書 6章37節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、自分がしたように返されます。もし、喜んで与えるなら、喜んで与えられます。祝福は、与えることによって与えられるのです。幸いな人生とは、人びとに機会があるたびに与えることです。そうすれば、神様は私たちにも与えてくださいます。その模範をイエス様は示してくださいました。

 どのような犠牲があったとしても、犠牲を払ったものよりも、もっともっと受けられるものがあります。神様は報いてくださるので、喜んで与える人にこそ本当に幸いな人生が与えられるのです。このことを実行する人は、本当に幸いです。なぜなら、その人には、全ての必要が与えられて、天国でも大きな報いがあるからです。

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