クリスチャンとは

2021年12月12日

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

マタイの福音書 16章24~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 クリスチャンとは何でしょうか。洗礼を受けてイエス様を救い主です、と告白し、教会に連なったらその人はクリスチャンなのでしょうか。実際にこのことを、誤解している日本人は、多くいると感じます。

 クリスチャンとは何か。今日はもう一度基礎に戻って、先ほどお読みした聖書の御言葉から見ていきたいと思います。

 私は、アメリカに行って驚いたことがあります。それは、信仰の質が日本人と違った、ということです。本当にイエス様に従いたい、実践したいと思っている人が多かったのです。

 クリスチャンであるということは、イエス様が救い主です、と言うことにとどまりません。もう一度先ほどの箇所をお読みします。

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

マタイの福音書 16章24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は弟子たちに言われた、とありますが、この弟子はクリスチャンのことです。そして、だれでもわたしについて来たいと思うなら、と言われました。これは弟子が主人に弟子入りしたいと思ったら、自分で志願するように、クリスチャンたちも自分から志願してイエス様に従う人たちだからなのです。また、弟子は自分で志願して弟子入りしたなら、主人の言うことを一生懸命聞いて習って、そのとおりにしていくものです。イエス様も、それと同じことを言われているのです。

 クリスチャンたちは、キリストのもの、という意味です。ただ単に、イエス様は救い主です、と言う人ではありません。

 イエス様は、十字架にかかり、墓に葬られ、天国に帰られるとき、グレイト・コミッション、すなわち、偉大なる使命をクリスチャンたちに与えられました。グレイト・コミッションの中身が、次の御言葉に書いてあるとおりです。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイの福音書 28章18~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、グレイト・コミッションの中で、「あなたがたは行って」「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われました。では、どのようにしてその弟子をつくるのでしょうか。まず一つ目には、行くことによって、福音を伝え、宣教をすることです。二つ目には、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」とあるように、信じた人にバプテスマを授けることによってです。三つ目には、「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」とあるとおりです。すなわち、イエス様が命じられたすべてのことを守るように、教えることです。

 このように、イエス様は、自分が弟子となり、また自分が弟子をつくることを命じられています。それでは、弟子となるにはどうしたら良いのでしょうか。一般的に、弟子は、師匠の言うことをすべて書きとめて、一生懸命、実践しようとします。イエス様の弟子とは、イエス様を救い主とただ単に同意するだけではなく、その命じられたことすべてを守る人です。確かに、完璧に守れる人はいませんが、不完全ながらも何とか守っていくようにしていくのが、本当の弟子です。

もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。
このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

ペテロの手紙 第一 2章19~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、理不尽な苦しみを受け、善を行ったのに、誰にも理解されず、ご自分の弟子にも裏切られ、十字架刑を受けられました。たとえ善を行っても、全然理解されず、かえって苦しめられ、善にかえて悪を報いられること、裏切られることは、よくあることです。これらは皆が経験することです。しかし、イエス様が赦されたように、私たちも、仕返しをせず赦していくことが必要です。

 弟子である、ということは、ある意味とても大変なことです。もし、私たちが、自分というものを持っていたら、決して従うことはできません。

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

マタイの福音書 16章24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 自分の十字架とは、自分を苦しめるものです。自分を捨てて、これを負っていかなければ、イエス様の弟子には決してなれません。聖書は次のように命じています。

「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

マタイの福音書 22章36~40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「律法と預言者」とは、聖書のことです。この二つの戒めに、聖書の全体がかかっている、とイエス様は言われました。一つ目の戒めは、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めです。二つ目の戒めは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めです。

 クリスチャンは、イエス様の弟子です。イエス様の弟子になるとは、自分の肉の思いを捨てて、イエス様の思いを持つということです。自分にして欲しいように、人にもすることをイエス様は命じられています。それが隣人を自分自身のように愛する、ということです。また、聖書には、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい、ともあります。もし、祝福されている人がいて、その人が悲しんでいたとしたら、「その人はちょっとくらい悲しんだほうが良い」などと思うことはイエス様の命令に反するのです。もし、たとえ自分の肉の思いがイエス様の命令に反するものであったとしても、その肉の欲を捨ててイエス様の御心に従うのが、イエス様の弟子です。私たちは、イエス様に従うために、自分の欲、すなわち自我を捨てなければなりません。

 また、聖書には次のように書いてあります。

そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。

ルカの福音書 14章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 多くの人にとって、お金は自分の命の次に大切だ、と言えるものです。ネロの皇帝の迫害のとき、クリスチャンたちは、全部の財産を没収されても従いとおしました。また、財産没収だけではなく、その命さえも取られた人びとがたくさんいました。そして、その次に多くの殉教者を出した迫害が、江戸時代の日本と言われています。その時代に、多くの日本のクリスチャンたちが命を取られました。

 プライドや自我と、イエス様に従うことは必ずぶつかります。金銭欲、プライドや欲望を持っていると、イエス様の教えに従えません。これらが邪魔してイエス様の教えに従えないのであれば、天国に行く道はないのです。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

マタイの福音書 7章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 天国に入る門はとても狭く、その道もとても細い、とイエス様は言われました。「それを見出す者はわずか」と書かれているのは、原語では「それを見出す者は奇跡」という意味です。だから、自分を捨てなければ、イエス様に従えない、と聖書は語っているのです。自分の気が向いた時だけ、イエス様に従っていく人は入れないのです。

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

マタイの福音書 7章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉が言うとおり、「主よ、主よ」と言うからと言って、皆が天国に入れるわけではありません。これは、クリスチャンたちに対して言われているのです。「父のみこころ」を行うこととは、イエス様の命令を守ることそのものですから、自分をクリスチャンです、と言っている人皆が天国に入れるわけではないのです。

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

マタイの福音書 16章24~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い」とあるのは、自分を捨てられないと思って自分を捨てない人はいのちを失い、天国に入れない、ということです。しかし、イエス様のためにいのちを失うものはそれを見出すとあります。イエス様がここで言われている、いのちとは、この世のものとは到底比べ物にならないほどのものです。いくら私たちが、この地上で2千万、一億、十億儲けたとしても、すぐになくなってしまうものです。しかし、いつまでもなくならない、天国の宝を、神様は、イエス様をとおして与えてくださいました。人は、結局120年しか生きられません。地上でのたった120年のために、自分を捨てることができないなら、その人は滅びます。天国が永遠のように、地獄も永遠のように。

 「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます」とあります。これは人の子、すなわち、イエス様が、天国に昇られたときと同じように、この地に戻ってこられる、という意味です。これから起こると言われている経済破綻や、日本で連発している地震、世界各国で起こっている噴火、そして12月に起こるのは珍しいアメリカでの竜巻は、人間ではなく神様がこの地を納めておられるしるしです。

 世の終わりには、ありとあらゆる災いや天変地異が預言されています。そのような中にあっても、イエス様のためにすべてを捨てた人は、この地でも100倍受ける、と言われています。

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

マルコの福音書 10章29~30節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 自分の大切だと思うのものを捨ててイエス様に従う人は、幸いだと言われています。天国においても報いが与えられ、この地においても100倍受ける、と言われています。このことを、私たちは信仰を持って受け入れていく必要があります。信仰とは、神様がおられることと、神様が求めるものには報いてくださる方であることを信じることです。私たちは、このような報いが与えられていることを信じて、自分を捨てて、イエス様に従うものでありたいと思います。

前のページに戻る