ヨアブについて

2021年11月7日

ダビデの死ぬ日が近づいたとき、彼は息子のソロモンに次のように命じた。
「私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。
あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ。
そうすれば、主は私についてお告げになった約束を果たしてくださるだろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、いのちを尽くして、誠実にわたしの前に歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』。
また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは彼らを虐殺し、平和なときに戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。
だから、あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい。彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない。

列王記 第一 2章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日は先週に引き続き、ダビデの死期が迫ったとき、その息子ソロモンにダビデが残した遺言にフォーカスをあてます。そして、ダビデが遺言を残したヨアブという人物から、私たちが学ぶことについて見ていきたいと思います。

 ダビデは、死ぬ日が近づいたとき、自分の息子、ソロモンに、先ほどお読みした遺言を残しました。彼は、開口一番、「主に従いなさい」とソロモンに命じました。そしてその次に大切なこととして、ヨアブのことについてソロモンに命じました。

また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。ヨアブは彼らを虐殺し、平和なときに戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。
だから、あなたは自分の知恵にしたがって行動しなさい。彼の白髪頭を安らかによみに下らせてはならない。

列王記 第一 2章5〜6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ダビデはその遺言で、まず、主に従いなさい、と自分の息子ソロモンに命じたすぐ後で、ヨアブを「安らかによみに下らせてはならない」と言いました。このように、ヨアブについて、厳しい言葉を残していますが、なぜこれほどまでに厳しい言葉を残したのか知るために、ここで、ヨアブがどういう人物だったのか、見ていきたいと思います。

ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った。
ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャファテは史官、

サムエル記 第二 8章15~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ダビデは、最初南ユダ王国だけ治めていましたが、後に全イスラエルを治めるようになりました。そして、「ツェルヤの子ヨアブは軍団長」であった、と書かれています。ヨアブは、若くしてダビデに仕える人でした。そして、ダビデに取り立てられた、武勇に秀でた軍団長でした。

 しかし、後にダビデはソロモンに、ヨアブを「安らかによみに下らせてはならない」と遺言を残しました。それは、彼がイスラエルの二人の軍の長、ネルの子アブネルとエテルの子アマサを虐殺したからだ、と。

 こうしてソロモンは、後にヨアブをダビデの遺言に従って殺しました。ヨアブは、こうして悲惨な最期を遂げたことが次の御言葉に記されています。 

この知らせがヨアブのところに伝わった。ヨアブはアブサロムにはつかなかったが、アドニヤについていたのである。ヨアブは主の天幕に逃げ、祭壇の角をつかんだ。
ソロモン王に「ヨアブが主の天幕に逃げて、今、祭壇の傍らにいる」という知らせがあった。するとソロモンは、「行って彼を討ち取れ」と命じて、エホヤダの子ベナヤを遣わした。
ベナヤは主の天幕に入って、彼に言った。「王がこう言われる。『外に出よ。』」彼は「いや、ここで死ぬ」と言った。ベナヤは王にこのことを報告した。「ヨアブはこう私に答えました。」
王は彼に言った。「彼が言ったとおりにせよ。彼を討ち取って葬れ。こうして、ヨアブが理由もなく流した血の責任を、私と、私の父の家から取り除け。
主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返される。彼は自分よりも正しく善良な二人の者に討ちかかり、剣で虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、イスラエルの軍の長である、ネルの子アブネルと、ユダの軍の長である、エテルの子アマサを虐殺したのだ。
二人の血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭に注ぎ返され、ダビデとその子孫、および、その家と王座には、とこしえまでも主から平安があるように。」
エホヤダの子ベナヤは上って行き、彼を打って殺した。ヨアブは荒野にある自分の家に葬られた。

列王記 第一 2章28~34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、ソロモン王によって殺され、悲惨な最期を遂げたヨアブですが、ここから、ヨアブがこれまでに、どういうことをしてきたのか、具体的に見ていきたいと思います。

 アブネルは、ダビデの前の王様であるサウル王がイスラエルを治めていたときの、イスラエルの軍の長でした。彼は、ダビデが、サウルに代わって、イスラエルを統一するというときに、私が、皆がダビデに従うように取りまとめて、イスラエルを統一させるように働く、と言いました。こうしてダビデはそのことを喜んで受け入れ、彼を祝福して送り出しました。そしてアブネルは安心して出ていったことが次の御言葉に書かれています。

アブネルはイスラエルの長老たちと話してこう言った。「あなたがたは、かねてから、ダビデを自分たちの王とすることを願っていた。
今、それをしなさい。主がダビデについて、『わたしのしもべダビデの手によって、わたしはわたしの民イスラエルをペリシテ人の手、およびすべての敵の手から救う』と言われたからだ。」
アブネルはまた、ベニヤミン人とじかに話し合った。それから、アブネルはまた、ヘブロンにいるダビデのところへ行き、イスラエルとベニヤミンの家全体が良いと思っていることを、すべて彼の耳に入れた。
アブネルは二十人の部下とともにヘブロンのダビデのもとに来た。ダビデはアブネルとその部下のために祝宴を張った。
アブネルはダビデに言った。「私は、全イスラエルをわが主、王のもとに集めに出かけます。彼らがあなたと契約を結び、あなたが、お望みどおりに王として治められるようにいたしましょう。」ダビデはアブネルを送り出し、アブネルは安心して出て行った。
ちょうどそこへ、ダビデの家来たちとヨアブが略奪から帰り、たくさんの分捕り物を持って来た。しかし、アブネルはヘブロンのダビデのもとにはいなかった。ダビデがアブネルを送り出し、もう安心して出て行っていたからである。
ヨアブと、彼とともにいた軍勢がみな帰って来たとき、「ネルの子アブネルが王のところに来たが、王がアブネルを送り出したので、彼は安心して出て行った」とヨアブに知らせる者があった。

サムエル記 第二 3章17~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 しかし、アブネルが安心して出ていったことを聞いたヨアブは、彼を殺してしまいました。

ヨアブは王のところに来て言った。「何ということをなさったのですか。ご覧ください。アブネルがあなたのところに来たのです。なぜ、彼を送り出して、出て行くままにされたのですか。
あなたはネルの子アブネルのことをご存じのはずです。彼はあなたを惑わし、あなたの動静を探り、あなたのなさることを残らず知るために来たのです。」
ヨアブはダビデのもとを出てから使者を遣わし、アブネルの後を追わせ、彼をシラの井戸から連れ戻させた。しかし、ダビデはそのことを知らなかった。
アブネルはヘブロンに戻った。ヨアブは彼とひそかに話そうと、彼を門の内側に連れ込み、そこで彼の下腹を刺した。こうして、アブネルは、彼がヨアブの弟アサエルの血を流したことのゆえに死んだ。
後になって、ダビデはそのことを聞いて言った。「ネルの子アブネルの血については、私も私の王国も、主の前にとこしえまで潔白である。
その血は、ヨアブの頭と彼の父の家の全員に降りかかるように。またヨアブの家には、漏出を病む者、皮膚をツァラアトに冒される者、糸巻きをつかむ者、剣で倒れる者、食に飢える者が絶えないように。」
ヨアブとその兄弟アビシャイがアブネルを殺したのは、アブネルが彼らの弟アサエルをギブオンでの戦いで殺したからであった。
ダビデは、ヨアブと彼とともにいたすべての兵に言った。「あなたがたの衣を引き裂き、粗布をまとい、アブネルの前で悼み悲しみなさい。」そして、ダビデ王は棺の後をついて行った。
彼らはアブネルをヘブロンに葬った。王はアブネルの墓で声をあげて泣き、民もみな泣いた。

サムエル記 第二 3章24~32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ヨアブがアブネルを殺したのは、「アブネルが彼らの弟アサエルをギブオンでの戦いで殺したからであった」とあります。しかし、それはある意味仕方のないことでした。

その日、戦いは激しさを極め、アブネルとイスラエルの兵士たちは、ダビデの家来たちに打ち負かされた。
そこに、ツェルヤの三人の息子、ヨアブ、アビシャイ、アサエルがいた。アサエルは野のかもしかのように、足が速かった。
アサエルはアブネルの後を追った。右にも左にもそれずに、アブネルを追った。
アブネルは振り向いて言った。「おまえはアサエルか。」彼は答えた。「そうだ。」
アブネルは彼に言った。「右か左にそれ、若い者の一人を捕らえ、その者からはぎ取れ。」しかしアサエルは、アブネルを追うのをやめず、ほかへ行こうとしなかった。
アブネルはもう一度アサエルに言った。「私を追うのはやめ、ほかへ行け。なぜ、私がおまえを地に打ち倒さなければならないのか。どうやって、おまえの兄ヨアブに顔向けができるというのか。」
アサエルはなおも拒んで、ほかへ行こうとしなかった。それでアブネルは、槍の石突きで彼の下腹を突いた。槍はアサエルを突き抜けた。アサエルはその場に倒れて、そこで死んだ。アサエルが倒れて死んだ場所に来た者はみな、立ち止まった。

サムエル記 第二 2章17~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 アブネルは、ダビデの敵の軍の長でした。ここでは、ダビデの側につくアサエルがアブネルを追ってきました。そこでアブネルは、「私を追ってくるのはやめてくれ」「もしおまえを殺さなければならないのなら、どうやっておまえの兄ヨアブに顔向けできるというのか」と言って彼に自分を追うのをやめるように頼んだのです。しかし、アサエルはアブネルを殺そうとして追ってきました。こうしてアブネルは、自分の命を守るため、しょうがなく、正当防衛として彼を殺しました。このため、アサエルの兄であったヨアブは彼を恨んでいました。

 こうしてヨアブは、その恨みの結果、卑劣なやり方でアブネルを殺しました。そしてダビデの怒りを買ったのです。

 ここまでアブネルについてみてきましたが、今度はヨアブがアマサを殺した理由についても、見ていきたいと思います。アマサは、ダビデの代わりに王になろうとした、ダビデの息子アブサロムの軍団の長でした。そして、アブサロムは、アマサをヨアブの代わりに軍団長に任命していたことが、次の御言葉に書かれています。

アブサロムはアマサをヨアブの代わりに軍団長に任命していた。アマサは、アスリエル人イテラという人の息子で、イテラは、ヨアブの母ツェルヤの妹ナハシュの娘アビガルと結婚していた。

サムエル記 第二 17章25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 結局、アブサロムの反乱は失敗に終わりますが、その後、ダビデは、アマサをヨアブの代わりに軍の長に任命しました。

アマサにも言わなければならない。『あなたは私の骨肉ではないか。もしあなたが、ヨアブに代わってこれからいつまでも、私の軍の長にならないなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。』

サムエル記 第二 19章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このため、ヨアブは、自分に変わって軍団長に任命されたアマサを妬んでいました。そして、油断しきっていたアマサを非常なやり方で殺してしまったのです。

彼らがギブオンにある大きな石のそばに来たとき、アマサが彼らの前にやって来た。ヨアブは自分のよろいを身に着け、さやに収めた剣を腰の上に帯で結び付けていた。彼が進み出ると、剣が落ちた。
ヨアブはアマサに「兄弟、おまえは無事か」と言って、アマサに口づけしようとして、右手でアマサのひげをつかんだ。
アマサはヨアブの手にある剣に気をつけていなかった。ヨアブは彼の下腹を突いた。それで、はらわたが地面に流れ出た。この一突きでアマサは死んだ。ヨアブとその兄弟アビシャイは、ビクリの子シェバの後を追った。

サムエル記 第二 20章8~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 以上、ヨアブが、アブネルやアマサを虐殺し、ダビデ王の恨みを買った経緯についてみてきました。ここで、ヨアブから私たちが学ぶことのできる大切なことがあります。

 まず一つ目に、主に聞かないで自分の感情や悟りに頼って行動するなら破滅がくる、ということです。ヨアブは、自分の弟の仇を打ちたいと思い、物事を冷静に見ることができず、一方的にアブネルに恨みを抱いていました。こうして、彼は自分の感情に頼り、行動した結果、悲惨な最期を遂げたのです。

 また、アマサを殺したのも、彼に対する妬みからでした。このように自分の感情から行動し、彼はアマサを殺しました。その結果、ダビデはヨアブに対して怒りを燃やしました。そしてソロモンに、主に従いなさいと言った次に、ヨアブを殺しなさいと、遺言を残したのです。このようにして、ヨアブは、主に聞かなかったがために、自分自身に滅びを招きました。

 また、ヨアブは「私が王になる」と言って野心を抱いたダビデの息子、アドニヤにくみしました。

ときに、ハギテの子アドニヤは、「私が王になる」と言って野心を抱き、戦車、騎兵、それに自分の前に走る者五十人を手に入れた。
彼の父は、「おまえは、どうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことは一度もなかった。そのうえ、彼は非常に体格も良く、アブサロムの次に生まれた子であった。
彼がツェルヤの子ヨアブと祭司エブヤタルに相談をしたので、彼らはアドニヤを支持するようになった。

列王記 第一 1章5~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ヨアブが、アドニヤにくみしたのも、主に聞かず自分の悟りに頼ったからでした。

 ダビデは、イスラエル統一のため働いたアブネルを虐殺し、アマサを妬みから虐殺したヨアブを自分から遠ざけようとしていました。そこでヨアブは、なんとか起死回生したい、一発逆転したいと思っていたところ、アドニヤが野心を抱いたことを知り、これ幸いと自分の身を立てるためにアドニヤにくみしたのです。彼は、自分の地位を守るためにアドニヤにくみしました。しかし、結局、アドニヤもヨアブも、ソロモン王によって退けられました。

 ヨアブは、自分の悟りや感情により頼むことによって、ダビデ王だけでなくソロモン王の恨みも買いました。

 彼はとにかく、自分の感情に頼りました。その恨みや妬みによって、自分の身を守りイスラエルの軍団長に留まるためには、アドニヤにくみしたら良いのだ、という結論に勝手に至ったのです。これは、全然主に聞かなかった結果です。こうして、彼は、若くしてダビデに仕え、イスラエルの軍団長にまでなったのに、退けられ、自分の子孫にも悪い影響を残しました。

 私たちは、このことから、学んでいかなければなりません。ヨアブがもし主に訪ねていけば、愚かにならずに、イスラエルの軍団長として留まることができたのです。

自分の心に頼る者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる。

箴言 28章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「自分の心に頼る者」は滅び、救われません。しかし「知恵をもって歩む者」、すなわち、「神様の知恵によって歩む者」は救われます。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。
あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。
自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。

箴言 3章5~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、常に主に聞いて、祈って、主により頼むことが大切です。主に、「この道が間違った道なら教えてください」と祈ると、それが間違った道ならば、主はストップをかけてくださいます。そして時には、聖霊によって、人によって、また状況によって語ってくださいます。私たちが、へりくだって「御心の中心におれるように導いてください」と祈るなら、必ず色々な方法をとおして教えてくださいます。

 私たちが、自分の感情により頼んで「これは聖なる義だ」と怒っていたなら、それは自分勝手な怒りだということです。反対に、私たちが、主の御声に聞いて従うなら、必ず正しく導かれます。

 また、二番目に私たちがヨアブから学ぶべきことは、人の恨みを買うことがないように十分注意しなければならない、ということです。なぜ、ダビデはこれほどまでに激しい怒りを燃やして、ソロモンに遺言を残したのでしょうか。それは、ダビデのヨアブに対する恨みが大きかったからです。

 ヨアブは、ダビデの息子であるアブサロムを殺害しました。アブサロムは、父であるダビデに反逆しましたが、ダビデにとって、愛する息子に変わりはありませんでした。そして、アブサロムが反逆したとき、ヨアブに、その命は取らないでくれ、とお願いしたのです。

王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ。」兵はみな、王が隊長たち全員にアブサロムのことについて命じているのを聞いていた。

サムエル記 第二 18章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 しかし、ヨアブはそれを無視して、アブサロムを殺してしまいました。

アブサロムはダビデの家来たちに出会った。アブサロムはらばに乗っていたが、らばが大きな樫の木の、茂った枝の下を通った。すると、アブサロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていたらばはそのまま行ってしまった。
ある男がそれを見て、ヨアブに告げて言った。「今、アブサロムが樫の木に引っ掛かっているのを見ました。」
ヨアブは、これを告げた男に言った。「いったい、おまえはそれを見ていて、なぜその場で地に打ち落とさなかったのか。私はおまえに銀十枚と帯一本を与えたのに。」
その男はヨアブに言った。「たとえ、私の手に銀千枚をいただいても、王のご子息に手は下せません。王が私たちが聞いているところで、あなたとアビシャイとイタイに、『私のために若者アブサロムを守ってくれ』と言って、お命じになったからです。
もし、私が偽って彼のいのちに対して事を起こしていたとしても、王には何も隠すことはできません。あなたは素知らぬ顔をなさるでしょうが。」
ヨアブは、「こうしておまえとぐずぐずしてはいられない」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブサロムの心臓を突き通した。
ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブサロムを取り巻いて彼を打ち殺した。

サムエル記 第二 18章9~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 アブサロムが殺されたことを知ったダビデの嘆き悲しむ様子が、次の御言葉に記されています。

王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」

サムエル記 第二 18章33節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ダビデの、ヨアブに対する恨みは、これで決定的になりました。そして、自分自身に長年仕えてきたヨアブを殺すよう、遺言を残すに至ったのです。

 人の恨みは、非常に大きいものです。そして、恨みを抱いたまま、時を過ごすと、それが大きな害を及ぼします。

 もちろん、私たちは、恨みを抱いたなら赦しなさい、と主に命じられています。恨みがあると、私たちの祈りが聞かれるための妨げになります。ダビデの時代は、旧約の時代だったので、適用できませんが、私たちが恨んだままでは、自分自身の罪も赦されません。

また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」

マルコの福音書 11章25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 そして、自分自身が恨まれていることを思い出したなら、ともかくまず第一優先に兄弟と仲直りしなさい、と命じられています。

ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。

マタイの福音書 5章23~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが、何か約束をしたなら、損になっても守ることは大切なことです。また、損害を与えたなら弁償していくことや、和解していくことも大切です。なぜなら、そうしなければ、人の恨みはどんどん増大していってしまうものだからです。

 これくらはしょうがないだろう、と思っていたことでも、相手は自分が考える以上に恨んでいる、ということがあります。もちろん、ビクビクして過ごすことはありませんが、恨みを抱いたとわかったなら、すぐに行って弁償したり、仲直りすることが必要です。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。

ローマ人への手紙 12章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様に従うにあたって、相手が一方的に恨みを抱くこともあります。それは避けられない恨みではありますが、「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい」という御言葉に従っていく必要があります。

 以上述べたとおり、私たちは、自分が恨んでいたら人を赦していくこと、恨みを買ったら仲直りしていくこと、そしてすべての人と平和を保つことが大切です。

 三つ目に、私たちがヨアブから学ぶことは、種まきと刈り取りの法則は必ず働く、ということです。

 ヨアブは、自分よりも正しく善良な二人を殺しました。そして、自分に免じて殺さないでくれ、とダビデにお願いされたのに、その息子を殺しました。その刈り取りは、確かに、すぐにはありませんでした。晩年になるまで、なんとか軍団長にいましたが、結局は悲惨な最後を遂げました。

 私たちは、自分の人生においてどんな種を蒔いていくか、気をつけなければなりません。時間がかかっても、蒔いたものは必ず刈り取ることになるからです。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

ガラテヤ人への手紙 6章7~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが、自分の思いで蒔くと、滅びを刈り取ります。しかし、御霊に蒔くと、永遠のいのちを刈り取ります。

 今日は、ヨアブをとおして三つのことを学びました。まず一つ目に、主に聞かないで、自分の悟りに頼り行動していくならば、必ず滅びがくる、ということです。私たちは、自分の悟りは愚かであることを覚えて、主に聞いていくことが必要です。また、二つ目に、人の恨みは大きいので、できるだけ恨みを買わないようにしなければなりません。そして人の恨みを買ったことを覚えたならば、すぐに仲直りをして、人と平和を保つことが大切です。そして最後、三つ目に学ぶべきことは、種まきと刈り取りの法則は必ずある、ということです。私たちは主に喜ばれる種をたくさん蒔いていくものでありたいと思います。

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