天国でのさばきと報い

2022年9月18日

『しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23~24)』

愛する天の父なる神様、あなた様の大いなる御名を今朝もほめたたえます。今朝もあなた様の大いなる恵みによって、こうして御前に出させていただけることをありがとうございます。あなた様こそ創造者なる方、支配者なる方、天と地のすべてをつくり、私たちをつくられ、治めておられる全能の方であることを告白し、あなた様の大いなる御名をほめたたえます。また御子イエス様を送ってくださり、私たちのすべての罪を洗い清め、そして私たちを神様の子とするため十字架にかかり、みからだを割き、とうとい血を流し、死んでくださったことを、ありがとうございます。イエス様のとうとい十字架のあがないと、私たちが折にかなった助けを受けるために神様の右の座に居ててくださることを、心から感謝いたします。天の神様と、御子なるイエス様に、とこしえに栄光がありますように。賛美とほまれ、力があなた様にありますように。とうとい救い主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

賛美<カルバリ山の十字架>

お祈りします。
愛する天の父なる神様。今日もこうして御前に集い、あなた様のとうとい御言葉をきける恵みをありがとうございます。今賛美したように、カルバリの十字架こそ、私たちのすべてです。そこからすべてが始まりました。イエス様のとうとい犠牲により、私たちがこうして永遠のいのちをうけるに至ったことを心から感謝いたします。今日は天国のさばきについて見て行きます。天国でもさばきがあり、報いがあることを見て行きますが、私たちはそこを目指して歩むものです。どうかしっかり御言葉をきいて、実践していくことができるように助けてください。色々な思い煩いや生活のいろいろな計画などがあると思いますけれども、今いちど、御言葉に集中して、雑念から解放してください。ひとりひとりに御霊様が働き、語ってください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。
だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、
それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。
だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。

コリント人への手紙 第一 3章10~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日は、天国においてのさばきと報いについて見てゆきたいと思います。地獄においてさばきに格差がありました。一番厳しく裁かれるのは、教師や牧師と言われている人たちです。地獄を見てきた人も、一番炎が強いところに教師や牧師がいたと言っていました。そして、あまり何も知らなかった人たちは、刑罰は少しだと報告しています。

天国も同じです。多く求められた者や多く与えられたものは多く求められます。そして、少ししか与えられなかったものは、その分に応じて与えられるという法則があります。地獄と同じように、どれだけ与えられたかによって、報いの量が異なってくるということです。

 それでパウロは、この10節で、「私は賢い建築家のように神様の恵みによって土台を据えた」と言っています。土台というのはイエス・キリストだと言っています。

イエス様は私たちの救い主であるということ、またイエス様は私たちのために死んでくださって、私たちがその大きな愛に応答して、イエス様を救い主として受け入れるだけではなく、主として受け入れる。私たちの全信頼をおくべきお方として、イエス様に私たちをゆだねてゆく。そして、イエス様に聞き従う。固い信頼と、私たちの献身としてイエス様に聞き従うということ、そして全てをゆだねるということ。全身全霊をかけて従う、王として受け入れるということ、主人として受け入れるということです。そのことをパウロは、「土台を作った」と言っています。

 そして、誰かがその上に家を建てているとありますが、パウロは巡回伝導者でしたから、その後、ほかの人が家を建てるわけです。その時、充分注意しないといけないということです。ほかの人がいろいろ指導して家を建てますが、中には現在ならリベラルの人が来て、リベラル系の家を建てる人もいますし、聖書と違った家を建てる人もいます。どのように建てるか注意しなければいけないということです。自分が家を建てるにせよ、ほかの人が来て指導するので、注意しなければいけない。そして自分がどのような家をたてたかが問われてしまうということです。

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

コリント人への手紙 第一 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この16節までは、神の宮が住んでいる人に対して言われていることばです。曲がりなりにもイエス様を救い主として受け入れ、また主人として、主として受け入れ、聖霊を受け神の宮を建てた人たち、つまり神の宮に聖霊様が住んでいる人たちです。聖霊様が住んでいるということは、救われているということです。

エペソ書に、救われている保障は何であるかが書かれています。

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

エペソ人への手紙 1章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 救いの保証は聖霊の証印だとあります。聖霊を受けている人は皆救われていると、天国に行けるということですが、教会でも天国に行けない人はどういう人でしょうか?

もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。

コリント人への手紙 第一 3章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖なる神の宮を壊す、すなわち聖霊様を悲しませて去らせてしまったということです。16節までの人は聖霊を受けて救われ、天国に行けるのですが、残念ながら17節からの人は、神の宮である聖霊を悲しませて去らせてしまった人ですから、天国に行けないということがここでわかります。

 そして、天国に行ける人の中でも、金、銀、宝石で家を建てた人と、木、草、わらで家を建てた人に分かれます。「その日」というのは、終末の日のことですから、終末の日にその人が建てた家がどんな家だったか、金、銀、宝石で建てた家だったか、木、草、わらで建てた家だったかがはっきりすると書かれています。

地上では大きい家だと称賛されていても、実はわらでできていたということもありますし、小さい家だと思われていても、実は高価な金で建てられた家かもしれません。人間は神様が見られるように見ることができませんが、終末の日にはどんな家を建てたのかを試されると書いてあります。金、銀、宝石で家を建てた人の報いはずっと残りますが、木や草やわらで家を建てた人は天国には行けますが、火の中を潜るようにして、やっとのことで自分の命を救うような状態ですので、天国でも報いのない生活を送ることになります。

 では、この違いは何でしょうか?それについてイエス様は私たちにヒントを与えてくださっています。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

マタイの福音書 6章1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 人前で施しをしたならば、みんなから報いを受けているから、神様からの報いはない、とイエス様は言われました。せっかく1億円とか1000万円とかをほどこしても、人前でしたのはもう報いを受けているので、神様からの報いはないということです。

祈りについても書かれています。

また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

マタイの福音書 6章5~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 祈りに関しても、人前で祈るならもう報いを受けていて、神様から報いを受けない。人に見せるために祈るのではなく、自分の奥まった部屋に入って、隠れたところで見ておられる主に祈りなさいと私たちに命じておられます。素晴らしい人だと思われていても、人前で祈ってもう報いを受けているので、天国での報いはないと判断される場合もあるわけです。ですから、家で戸をしめて、誰にも見られないようにして祈った祈りが全部天に積まれるということがあります。

 実は、この隠れた施しや隠れた祈りは、とても大切です。日本人で最初に救われた人も、あなたの祈りと施しはずっと覚えられていると言われたそうです。私たち隠れたところの施し、隠れたところの祈りはイエス様が喜んで報いてくださるものです。

 もちろん公同の祈りを否定するものではありませんが、隠れたところで主に祈ることにもっと私たちが力を入れないと、もうあなたに報いを与えましたよと言われることになりかねないということを心に覚えておく必要があると思います。

 私たちが、金、銀、宝石の家を建てるのと、木や草やわらの燃えてしまう家を建てるのかで、人の前で報いを受けるかどうか、すなわち自分を満たしてしまったか、それとも主に栄光を帰したかの差になるということ私たち覚えていきたいと思います。ライバル心や妬みも競争心も木や草やわらの燃えてしまう家です。競争心でもって主の働きをする人もいますが、自分の名誉の為なのか、執着心のためなのか、それとも主に栄誉を帰すためのものなのかを深く吟味する必要があります。

 主が見られる方法と私達が見る方法は、全然違います。

彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。
主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

サムエル記 第一 16章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 人はうわべを見るが、主は心を見るとあります。人はどんな大きなこと素晴らしいことをやったかだけを見て、その心の動機などは見ませんが、主が見られるのはうわべではなく、その心だということです。

 ある天国に行った人が、地上で二人の人を示されたそうです。一人はホームレスで、何もしないで時間を持て余し、公園のベンチで寝ていたそうです。もう一人は牧師で、福音を語り、多くの人をイエス様の元に導いたそうです。それで、天国でイエス様に聞いたそうです。「イエス様が喜ばれているのはもちろんこの牧師ですよね?多くの人に福音を語って、多くの人にイエス様を伝え、多くの人をイエス様の元に導いていますからね」イエス様はその人に「いやいや、全然違うよ。私が喜んでいるのは、こちらのホームレスの人だよ」と言われてびっくりして「どうしてですか?」と尋ねたそうです。するとイエス様は、「このホームレスの人に、私は本当に貧しい家庭に生まれる事しか与えられなかった。そのうえ、彼には口を利けないというハンディを与えたのです。しかし彼はそのハンデイに文句を言わずに、芝を刈る仕事の給料の大半をつかってキリスト教のトラクトを買って周りのホームレスに配って福音を伝えたんですよ。彼が導いたのはたったの一人でしたが、私は彼の心をとても喜んでいます」と言われました。そして「天国に呼んで彼を王にするつもりです」とも言われました。彼は1タラントしか与えられなかったが、1.2タラント分、彼は働いた。牧師は5タラント与えられたがそれを3.5タラントしか働いていない。ですから天国の報いはホームレスの人の方が大きい、と言われました。

神様は人が見るようには、見ていません。私たちは公園にいるホームレスを見ると、さぼっていると思いがちですが、実は神様の目にはとうとい働きをしてるということも充分ありますので、人をうわべで見てはいけないわけです。

 天国に行った人の報告で、ビリー・グラハムという大伝道者といっしょに働いていた同労者の話があります。全盛期には何千人もの人がビリー・グラハムのクルセードで導かれました。そのビリー・グラハムの同労者が、天国でイエス様に聞いたそうです。「イエス様が今までで、一番喜んでおられるのは、ビリー・グラハムですよね?こんなにたくさんの人をイエス様のもとに導いたのですから」するとイエス様は「違います」と言われたそうです。そこで彼は、「ビリー・グラハムでないなら、だれですか?」と尋ねました。するとイエス様は、「あなたはその人の名前さえ知らない。全然有名な人ではない。でも私は、その人がとても忠実に私に仕えているので、一番喜んでる」と言われたそうです。人をうわべで見てはいけないとイエス様は言われたそうです。人はうわべを見るが、主は心を見られるということです。だから私たちも、これだけやったと決して自慢してはいけないのです。タラントは主が与えてくださるもので、ひとりひとりに与えられているものが違いますから、私たちも気をつけて、自分がしたものを推し量ってはいけない。ただただ与えられたものを忠実に使っていく。そして他人に見せるためではなくて、主の栄光のために使っていくことこそ、本当に主に喜ばれることだということを、私たちも心にとめたいと思います。その日、終末の日にはすべて明らかにされます。天国には行けますので、感謝なことではありますが、願わくば天国でむくいを受けられるように、私たちも励んでいきたいと思います。

お祈りします。

愛する天の父なる神様。今日は何で家を建てるのかということについて、天国での報いやさばきについて教えていただいて、ありがとうございます。私たちは地上で人の目を満足させるものではなく、自分自身を満足させるものではなく、イエス様に喜んで頂けるために生活しているものです。どうか主よ、謙遜に、あなた様の栄光だけを求めて歩んでいけるように、私たちを助けてください。そして、天国に宝を積んでいただけるものとしてください。きょうのメッセージを聞いてくださった一人ひとり、またホームページで見てくださってる一人ひとりが主にあって、本当の天国の宝を積んでゆけるように助けてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

 最後に申し上げますが、クリスチャンにとって実は、「良いこと」が、最善をなすこと、つまり主のみこころをなすことの妨げになると言われています。クリスチャンはみんな悪いことは悪いと分かるので、良いことをやろうとします。そして、その「良いこと」のために主の御心、主が本当にやってほしいと願われていることをパスしてしまう傾向があります。そこが落とし穴だと、私も神学校の先生から聞いたことがあります。私たちも気をつけて、私たちクリスチャンは良いことをやるために、この地上にいるのではなくて、主のみこころをなすためにいるということ、覚えてゆきたいと思います。

祝祷します。仰ぎこい願わくば 主イエスキリストの恵み 父なる神の愛 聖霊の親しき交わりが、御前に集う一同の上に、これから始まる1週間、また御前に立つそのときまで、ゆたかにありますようにアーメン。

皆様の上に、ゆたかな主の恵みがありますようにお祈りします。

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