御言葉を学ぶ態度

たましいに知識がないことは良くない。急ぎ足の者は罪に陥る。

箴言 19章2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここ三週間に渡って、信仰生活を支えていくものが、祈りと御言葉であり、この二つが大切だということをお話しました。そして先週は、御言葉の大切さについてお話しました。今週はその続きで、それでは、私達が御言葉を学ぶときの態度はどのようなものでなければいけないのか、ということについて、お話したいと思います。

 先程お読みした箴言19章2節には、「たましいに知識がないことは良くない。急ぎ足の者は罪に陥る」と書かれています。以前の訳では「熱心で知識がないのはよくない」とあるのですが、これは聖書の御言葉の知識のことです。聖書の御言葉を蓄えないで、熱心だけで急いで行くのは良くない、罪に陥ってしまう、ということです。例えば御言葉を曲解したり、好きなように解釈して身に滅びを招くと警告されていますが、そのようなことが起こるというわけです。ですから、魂に知識を蓄えていくこと、すなわち、御言葉を毎日読み、御言葉によって生きていけるように、地道に御言葉を蓄えていくことがとても大切、ということです。

 聖霊様は、確かにイエス様が言われたことを思い出させてくださいます。しかし、全然聞いたことがない、読んだことがない言葉であれば、そのようなことは起こらないわけです。ですから、私たちは、それぞれの大切な場面で、蓄えた御言葉からこの状況にはこれだ、というのを聖霊様が教えてくださるために、御言葉を毎日読み蓄えておくということがとても大切です。

 二番目に、御言葉に向かうにあたっての態度は、自分勝手に御言葉を解釈しないということです。曲解するなら身に滅びを招く、と聖書にあります。そして、終わりの時代には真理から耳をそむけて、自分の耳に心地よい話だけを聞く時代になると書かれています。「あの教会は自分に都合の悪いことを言ったから、今度は違う教会に行こう」などと思ったり、自分の好む集会巡りや、教会巡りをして、「御言葉をいっぱい蓄えてる」と自己満足に陥るという危険性を避けなければいけません。聖書は、はっきりと、神様は教師を建てられたと言っています。そこをもう一度確認するために次の御言葉をお読みします。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

エペソ人への手紙 4章11~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、はっきりと、イエス様ご自身が教師を立てられたと聖書に書かれています。「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」るためです。私たちイエス様によって救われた者は、この地上において神様の栄光をあらわすために生きています。神様の栄光をあらわすことは、すなわち、主に仕えるためで、そのために生かされてるということです。以前の礼拝で、信仰の両車輪が祈りと御言葉だと申し上げました。そして、主を証していく、主の栄光をあらわしていく、主に仕えていくというのが、私たちクリスチャンの地上での人生の目的です。ですから、主に仕える、奉仕する、という役目を終えたなら、私たちは天国に行って良いわけです。

 私たちは何のために生きているのか。それは神様の栄光をあらわしていくため、主に仕えるためだということを心に留めなければいけません。ですから、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」る、すなわち、主に仕えるものとされて「キリストのからだを建て上げるため」に、神様は教師や牧師を立てられている、ということなのです。

 そして、「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つと」なっていく、と書かれています。色々な間違った教えからではなく、本当のイエス様に対する「信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」とあります。そして、14節で、「人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく」とあります。間違ったリーダー、偽預言者や偽教師たちの悪賢い策略を通してサタンも働くわけですけれども、私達が、そういう教えの風に吹き回されたり、もてあそばれたりしないように、本物とそうでないものとを見分けていく大人になるように、牧師や教師が立てられているということです。

 ですから、子供であれば、最初はミルクだけであとは柔らかい離乳食など、食べやすいものを食べますが、大人になると硬いものも食べないと、身体が整えられていきません。このように自分の口にやわらかいものだけを受け取っていくよりも、聖書の御言葉を満遍なく読んで栄養を取っていくことが必要です。私たちの食生活においても、お菓子やインスタント食品ばかり食べていたら健康を害してしまいます。あらゆる食材を幅広く取り、栄養を摂取していくことによって、私たちの健康な身体が保たれるように、御言葉を読むことについても同じことが言えるわけです。「好きだからここだけ」ではなく、硬い御言葉も含めて、聖書全体を理解し、成長していくことが大切です。

 そして、「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです」とあります。私たちの目的は、主に仕えること、イエス様に向かって成長していくこと、イエス様のようになっていくことです。イエス様は、私たちのために天の栄光の御位を捨てて私たちに仕えるものとなり、この地上に来てくださいました。ですから、イエス様に向かって成長するということは、私たちもイエス様のように仕えていくものとして成長していくことです。そして、そのためにイエス様によって立てられているのが、教師であり牧師です。ただ、牧師や教師が言うことはいつも正しいわけではなく、ちょっと変なことを言う教師や牧師がいることも確かです。もちろん、私達は教師や牧師が変なことを教えていたら、そのような教会は避けなければいけません。ですから、本当に主が立てられた牧師や教師のもとで、御言葉を学ぶことが大切です。

 そして、先ほども申し上げたように、硬い御言葉もあります。しかし、「こんな硬いのは嫌だ!」と言って、幅広く御言葉を食べないなら、成長することはできません。主の御心を良く理解していくためには、御言葉を幅広く学んでいくことも大切です。御言葉を勝手に解釈して、曲解して滅びることを避けるために、主が立てられた牧師が教える教会の元で御言葉を地道に学んでいくこともとても大切だということです。

 これまでの内容をまとめると、私達が御言葉を学ぶ態度として、まず自分が毎日御言葉を読んで蓄えていくこと、二番目に、自分で読むと曲解してしまったり、理解できないところもあるので、イエス様が立てられた牧師や教師のもとで御言葉を地道に学んでいくことが大切だということです。

 そして、実際、聖霊の賜物だけに導かれている教会もあります。ある教会は賛美が中心で、御言葉も少し読みますが、その解き明かしではなく、主が語られたことを預言的に語ったりします。確かにそれは人びとの興味を惹きつけるものですが、御言葉がきちんと教えられていなければ、間違った方向に行ってしまいます。現象にばかり心を奪われていてはいけない、ということです。その代表例として、ジョセフ・スミスというモルモン教を設立した人がいます。彼は、とてもカリスマ的で、幻を見る人でした。そして、ある時、神様とイエス様の訪問を個人的に受け、「今の教会の教えはなっていない」「神様とイエス様を冒涜している」と言われた、と言って、聖書を全く改変し、省いたり付け加えたりして、モルモン教という、全くキリスト教とは異なる異端を作り上げました。彼は、幻を見る人でした。そして、「私は神様とイエス様の訪問を受けましたよ」と言って多くの人の心をとらえました。ですから、人間的には、そういう幻を見る、カリスマ的なリーダーに心惹かれていくわけですが、私たちはそこで、本当に御言葉がきちんと解き明かされているかどうか、見極めていかなければいけません。聖書から省いたり、付け加えたり、曲解したりしてはいけない、と聖書が警告していますから、その教えがきちんと教えらないということは、避けなければいけません。

 確かに、賛美中心で預言があって、癒しのミニストリーがあると、心惹かれます。そして、御言葉の一部は確かに硬いですけれども、御言葉の学びがないとちょっと変な方向に行ったりする危険性があります。このため、御言葉をしっかりと学び、硬い食物でも食べて、御言葉から満遍なく栄養を取って、ちゃんとした大人の健康な身体を作り上げていくことが大切です。柔らかい賛美とか、預言とか、癒しは本当に全部素晴らしいものですが、自分が好きだからと言って、御言葉の学びがないと、すぐにちょっと変な方向に行ってしまう危険性があることも覚えて頂きたいと思います。

 聖霊様が御言葉をを思い起こさせてください、と言っても、私達のデータベースに御言葉が入ってないと、聖霊様は時にかなった言葉を与えてくださいません。ですから、ともかく御言葉を毎日読んで蓄えていくことはとても大切です。また、自分が好む御言葉だけを読んで、柔らかい食べ物だけを摂取していくのではなく、御言葉のあらゆるところから、満遍なく、系統立ててしっかりと学んでいくことも大切です。確かに、それを教えると、「あー、固い固い!あの教会は固い」などと、結構皆から言われるわけですが、きちんと御言葉の知識を得るために、イエス様が立てられた教師や牧師のもとで御言葉をしっかりと学んでいくことも大切です。そして、先ほど申し上げたように、幻を見る人のところには、人が集まりやすいので、私たちは、本当にそこで、聖書から省いていないか、付け加えていないか、聖書の教えがきちんと教えられているかどうかを見極めていくことも大切であるということを心に留めたいと思います。

 御言葉と祈りは両方ともとても大切です。確かに、御言葉なしの、賛美が中心の礼拝や、預言や癒しに人は心惹かれます。けれども、御言葉のしっかりとした解き明かしがないと、色々な間違った教えにもてあそばされて、いつの間にかちょっとずれて行き、ずっと行くと、だいぶずれる、ということになってしまいます。このため、イエス様が立てれた牧師や教師のもとでに御言葉を地道に学んでいくこと、また自分が御言葉を蓄えていくことも大切です。柔らかい食べ物だけ求めていたら、なかなか成長できなくて、主の御心がわからない、ということもあるので、気をつけていく必要があります。

 また、祈りもすごく大切です。絶えず祈りなさい、いつも目を覚まして祈りなさい、とイエス様は言われています。私たちは、祈りを通して神様とのコミュニケーションを取ることができます。しかし、祈りがなくなったら神様とのコミュニケーションがなくなり、自分の力、肉の力で行くということになってしまいます。そうすると心が主から離れてしまいます。「人間の肉を自分の腕として主から心が離れるものはのろわれよ」と、エレミヤ書にありますから、私たちから祈りがなくなったら、主への信頼がなくなるのと同じです。牧師や教師で、いくら素晴らしい働きをされてても、祈りがなくなれば途端に落とし穴に入って、身に滅びを招きます。ですから、イエス様がどんなに忙しくても祈られたように、祈っていくことが必要です。ルターも、「私はあまりにも忙しすぎる。あまりにも忙しいのでたくさんの時間を祈りに費やさないといけない」と言いました。このように、私たちの責任が大きければ大きいほど、忙しければ忙しいほど、祈って主により頼んで歩まなければ、落とし穴に落ちるということがあるわけです。祈りを通して、神様とのコミュニケーションがしっかりと取られます。「私は自分の力ではなくイエス様に依存します」「私はあなた様によって生かされています」と言うことと、祈ることは同じです。この祈りを生活の中心に置き、本当に一日に何度でも、イエス様・神様に祈って、常にイエス様を目の前に置くことが一番大切です。ですので、祈りの生活を確立していくことを、私たちは心がけていきたいと思います。

 御言葉と祈りはどちらが欠けてもだめで、毎日祈り、毎日御言葉を読むことによって、健全な信仰生活が保たれます。そして、主を証し、主に仕えていくために、私たちは召されました。その勤めが終わったら、イエス様は天国に迎えてくださいます。祈りと御言葉を中心にして主を証し、主に仕えていくのがクリスチャンだということを、ぜひ心に留めて、クリスチャン生活を歩んで頂きたいと思います。

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