御霊を消してはいけません

2022年2月6日

御霊を消してはいけません。

テサロニケ人への手紙 第一 5章19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日は短いけれども、とても大切な御言葉です。

 御霊とは聖霊のことです。そして、聖霊はとても大切な働きをされます。私たちの祈りの中でも働いてくださいます。また、聖霊は何が良いか私たちに示し教えてくださいます。それだけでなく、私たちを導き、人をも動かしてくださいます。聖霊は、今でも私たちクリスチャンの間で働かれていて、今日の御言葉にあるとおり消してはいけません。これは大切な命令です。

 それでは、聖霊とは一体どのようなお方でしょうか。

 まず、私たちクリスチャンが信じる神様は、三位一体なる神様です。そして、聖霊はその第三位です。父なる神様がいて、その子なるイエス様、そして内なる聖霊様がおられます。私たち人類の救いを計画されたのが神様で、それを実行するために来てくださったのがイエス様です。イエス様が、私たちすべての人の罪を赦す道を開いてくださいました。そのイエス様が、聖霊を送られました。そして、聖霊が働かれて、私たちの救いを完成されます。聖霊こそが、私たちを天国に行けるようにしてくださるお方なのです。

 私たちは、聖霊のことを感覚的に捉えるのではなく、今も働いておられる神様であると認識する必要があります。

 聖霊のことを良く理解するために、次の御言葉をお読みします。

しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、『どこに行くのですか』と尋ねません。
むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

ヨハネの福音書 16章5~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 まず、イエス様がこの地を去って天に入られたほうがあなたがたの益となる、イエス様は語られました。もし、ご自分が去られたなら、あなたがたのところに助け主を遣わし、そのほうがもっとあなたがたに益となる、と言われたのです。また、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」と言われました。聖霊は、人びとの間でどこが間違えているのか教えてくださいます。三番目に、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」とイエス様が言われたとおり、聖霊は私たちをすべての真理に導いてくださいます。このように、聖霊が来られたほうがもっとあなたがたの益となるので、ご自身が天に昇られた後、聖霊をあなたがたのところに送るとイエス様は言われました。

 こうして、イエス様は、十字架の死ののち復活されて、40日にわたりお弟子さんたちにご自分を現されたあと「聖霊を待つように」、と彼らに命じられました。

イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

使徒の働き 1章3~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は「四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた」とあります。そして、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」と言われました。言い換えれば、「聖霊を受けるから、その約束をエルサレムで待ちなさい」ということです。

 はっきりと申し上げて、それまで弟子たちには力がなかったのです。弟子の筆頭のペテロでさえ、3度もイエス様を否定しました。また、その他の弟子たちも皆、いよいよイエス様が十字架刑に処されるといったときに、イエス様を見捨てて逃げて行ってしまいました。

 しかし、イエス様が約束されたとおりに聖霊が下られたあと、ペテロはまったく変えられました。キリスト教界の伝説によると、ペテロは宣教ののち、イエス様と同じように十字架ではりつけにされて殉教の死を遂げました。また、もう一人の弟子のトマスは、インドまで行ってイエス様のことを宣べ伝えて殉教した、と言われています。

 彼らに聖霊が下ったときのことが、以下の御言葉に記されています。

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

使徒の働き 2章1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「五旬節の日になって」とは、50日が経って、ということです。この日に、聖霊が弟子たちに下られました。「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」とあります。このとき、異言と呼ばれる現象が起こったことがわかります。

 聖霊が下られるときにどのような現象が起こるのか、これ以外にも聖書のいくつかの箇所に書かれています。例えば、御言葉に以下のようにあります。

ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。
割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。
彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。
「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」

使徒の働き 10章44~47節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでも、聖霊が人びとに異言を語らせたことがわかります。また、神を賛美した、ともあります。このように、異言を語り神様を賛美するのを聞いたので、その現象をとおして、人びとに聖霊が下られたことがわかったのです。また、次の箇所もお読みします。

アポロがコリントにいたときのことであった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。
彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。
「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。
そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

使徒の働き 19章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉にも「彼らは異言を語ったり、預言したりした」とあり、これらの現象が起こったので聖霊が下られたことがわかります。

 以上例を挙げて見てきましたが、今の時代、観念的に、イエス様を信じたら聖霊は与えられるものだと信じる人が多いのも事実です。しかし、聖書を読むと、聖霊ははっきりとわかる形で私たちに下られることがわかります。それは例えば、異言や賛美、預言であったり、また中には喜びで満たされる人もいます。つまり、聖霊が下るということは決して観念的なものではないのです。

 それでは、どのようにすれば聖霊を受けることができるのでしょうか。次の御言葉をお読みします。

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」

使徒の働き 2章38~39節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 まず、一つ目に大切なのは、悔い改めることです。悔い改めるとは、単に後悔することではなく180度方向転換することです。自分中心になり、いろいろな人を搾取してきたことを全部やめるということです。実際には、悔い改めました!と言っても、本当に悔い改めていないので聖霊がその人に下られていないということが多いです。

見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。
むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

イザヤ書 59章1~2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉のとおり、罪が神様と自分との間の仕切りとなり、神様は聞いてくださらないのです。そして、聖霊も下られないのです。このため、悔い改めることが大切です。これは、自分中心から、イエス様中心に方向転換するということです。そして、そのような人には次の約束が与えられています。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。

使徒の働き 2章39節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は、時代、地域を超えて、悔い改めてイエス様の御名によってバプテスマを受けるなら、ペンテコステの日のように皆に聖霊が下られるという約束です。

 しかし、聖書の御言葉には、次のようにも書かれています。

愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。

コリント人への手紙 第一 13章8~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 完全なものが現れたら、預言や異言、知識はすたれる、とあります。それでは、この完全なものとは何でしょうか。

 私たちはこれをイエス様の再臨と捉えます。私たちは、今、このような不安定な時代にあって、イエス様のご再臨を待ちわびています。火山、噴火、地震などの危険がいつ、迫ってくるかわかりません。また、アメリカでは、出血熱と言って、目から出血するような、コロナと同じ症状の感染症が見つかり、脅威とも騒がれています。確かに、聖書では、疫病によって多くの人が亡くなると預言されていて、そのとおりになってきています。しかし、聖書の御言葉どおり、顔と顔を合わせて見ることになったなら(コリント人への手紙 第一13章12節)預言や異言がなくても聖霊が導いてくださいます。「愛は決して絶えることがありません」とあるとおり、愛だけは決してすたれないのです。つまり、ここで完全なものとは、イエス様ととることができます。

 このように、異言や預言は、私たちがこの地上で生きている間に起こることですが、それと同様に聖霊様が私たちになしてくださることがあります。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネの福音書 14章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、仕事があったりすると、日常の中で聖書を持ち歩くことができません。しかし、その中でもいろいろなことが起こり、どのように行動したら良いのだろう、と疑問に思うことが多々あります。そんなときに、聖霊が私たちのうちに語ってくださいます。例えば、何か理不尽なことをされたときには、赦しなさい、怒ってはいけない、といったようにです。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

ヨハネの福音書 16章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

ヨハネの福音書 16章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、人は基本的に自己中心なので、聖書が言う自分の肉に従うものです。しかし、肉に従うことについて、聖書は以下のように言っています。

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。

ローマ人への手紙 8章5~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様に喜ばれないのは、肉に従うから、と聖書に書かれています。しかし、聖霊はそのことに打ち勝つことができるようにしてくださるお方です。

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

ローマ人への手紙 8章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、御霊、すなわち聖霊によって肉の思いやからだの思いに打ち勝つことができます。例えば、不倫がやめられなかった人や、性的に中毒な人がそれらをやめられるようになるのも、聖霊による働きです。なぜなら、聖霊はイエス様が言われたように、助け主だからです。

 以上、御言葉から見てきたとおり、聖霊は罪について、義について、さばきについて、はっきりと示してくださいます。すべての真理に導くだけでなく、私たちのうちにある、肉の欲望に生きたいという思いにも打ち勝たせてくださいます。

 このため、聖霊は「受けたら良い」というものではありません。受けたらよりベターというものではなく「必須」です。御言葉にはこう書かれています。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

マタイの福音書 7章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

マタイの福音書 7章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉からわかるのは、「自称クリスチャン」が天国に入るのではなく、「天におられるわたしの父のみこころを行う者」、すなわち、神様の御心を行う者が入るということです。だから、「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです」とイエス様は言われたのです。この地上で神様の御心を行う者はまれなのです。

 しかし、神様の御心を行うため助けてくださるのが聖霊です。私たちは、神様の御心を行うためには、そもそも神様の御心を知ることから始める必要があります。ただ、私たちには、本当の神様の御心を知ることができません。それには聖霊の助けが必要不可欠だからです。

しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。
それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。
人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。

コリント人への手紙 第一 2章9~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様の御心を知るために聖霊の力が必要不可欠なのは、私たちが肉にあるものだからです。肉は、常に神様の御心に反していきたいと思うものです。例えば、理不尽なことをされたら仕返しをしたい、と思うのが肉にある私たちにとっては普通のことです。しかし、聖書の御言葉のとおり、敵のために祈りなさい、というのが神様の御心です。そのようなとき、仕返しをストップさせて御心を行うように助けてくださるのが聖霊の働きです。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

ヨハネの福音書 6章63節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 実は、聖霊の働きなしには私たちは救われることはできません。

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

ヨハネの福音書 3章3~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様が言われた水と御霊によって生まれる、とは、水のバプテスマと聖霊のバプテスマ両方のことです。両者をまとめると、罪の赦しのことを指します。つまり、水と御霊、両方のバプテスマによって、罪が洗い清められることをイエス様は言われています。水のバプテスマを受け、聖霊も受けて新しく作り変えられることによってイエス様のご性質を受けなければ、私たちは天国に入ることができない、とイエス様はここではっきりと語られたのです。次の御言葉にも同じことが書かれています。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。
キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。
イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。

ローマ人への手紙 8章9~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

ローマ人への手紙 8章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書は、聖霊を持たなければ神の子どもではない、とはっきりと書いています。よって、聖霊を受けることは必須であって、選択ではありません。

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

エペソ人への手紙 1章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉からも、私たちは聖霊のゆえに必ず天国に入ることがわかります。このため、聖霊は必須であり、私たちにとってどうしても必要なお方です。

 しかし、「御霊を消してはいけません」とあるとおり、たとえ聖霊を一度受けたとしても、消してしまうことが起こりえます。御霊を消すとは、どういうことでしょうか。次の御言葉にそのことが書かれています。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

エペソ人への手紙 4章30節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 御霊を消すとは、神の聖霊を悲しませることです。ここからさらに踏み込んで、御言葉には次のように書かれています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、
神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

ヘブル人への手紙 6章4~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は、聖霊を受けたあとも、堕落して肉に従って生きる人たちがいることを示しています。イエス様から離れ、聖霊を去らせてしまったら滅びに至ることになりますよ、と私たちに警告しているのです。これは、私たちが天国に行くために知っておくべき大切なことです。

 さて、今日のメッセージは、いつもと内容が異なり、初めて聞いた方はえっ、と思われたかもしれません。しかしこれはキリスト教界の大切な核となる部分です。イエス様も、イエス様がこの地上におられることよりも、聖霊が来られたほうが良いことだ、と言われました。そして、約束どおり、はっきりとわかる形で聖霊は下られました。

 聖霊は、私たちに御言葉を思い起こさせ、すべての真理に導いてくださるお方です。また、私たち人間の罪にどんな問題があるのかといったことを教えてくださいます。そしてそれを正してくださいます。このように、聖霊は、私たちが天国に入るために必須な存在です。

 御心を知り、行うことは人間にはできません。ただ、聖霊によってのみ可能だからです。神様の御心を行うことと聖霊を受けていくことは、それらがないと天国に入れないという聖書の御言葉によって、全部一致します。そして、これは、自分の罪を悔い改め、イエスの御名によってバプテスマを受ける人たち皆に与えられているものです。また、聖霊は神の子どもとされ、天国に行く保証だ、とも言われています。

 実際に、聖霊は普段の私たちの生活の中でも働いてくださいます。私の実体験としても、普通は頭に思い浮かばないことであっても、祈っている中でこうしなさい、と言われることもあります。その内容はタイムリーなことであったりするので、導き助けてくださっているのだな、といつも思わされます。このように、日々の生活の中であっても聖霊は働かれます。そして、そのことを求めるものには皆に与えられるのです。

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