救われるために必要なこと

2022年8月7日

それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

ルカの福音書 19章1~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会


 ザアカイは取税人の頭で、金持ちであったとあります。当時のイスラエルは(ユダヤもそうですが)ローマ帝国の支配下にありました。そして取税人は、ローマ帝国の手下として、決まった税に上乗せして、自分の懐にお金を入れていました。ですから、取税人たちは金持ちでした。しかもこのザアカイは、取税人の頭でしたから、普通の取税人たちよりもずっと金持ちであったことが容易に想像できます。今だったら「税務署に勤めています」と言うと「良い仕事ですね」と言われますが、そういう背景の中、当時の取税人は人々から嫌われ、「ローマ帝国の手下」「自分の利益を肥やす罪人だ」と軽蔑されていました。

 このザアカイは、イエス様を見ようとしましたが、背が低く、大勢の人たちのために見ることができず、いちじく桑の木にのぼってイエス様を一目見ようとしました。するとイエス様はそんなザアカイに目を止めて、「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。そのことを聞いてザアカイは急いで降りていき、イエス様を喜んで迎えたという話ですけれども、このザアカイの話から、今日は救いについて考察してみたいと思います。どうも日本では救いというのを簡単に捉えているところもあるので、救いにはどういう要素が加わっているのか、見ていきたいと思います。

 厳密に分けることはできないですが、救いには三つのプロセスがあります。まず一つは、イエス様を喜んで迎え入れるということです。イエス様の話を聞いて、「イエス様は神の子なのに、私達の罪を贖うためこの世界に来てくださった。そして私の罪を全部背負って、十字架で死んでくださった。ありがたい。イエス様を受け入れます!イエス様を救い主として受け入れます!」というふうに表明する人は実は多いわけです。もちろん、救いはイエス様の尊い十字架の贖いによって私達になされるものですから、イエス様を喜んで迎え入れることは、とても大切なプロセスです。でも皆さんに注目していただきたいのは6節です。ザアカイは、喜んでいちじく桑から降りてきてイエス様を迎え入れた、ということですが、そのときにイエス様は「救いがこの家に来ました」とは宣言されませんでした。

 いつ宣言されたかといったら、8節にあります。ザアカイは、「私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば四倍にして返します」と言って悔い改め、また悔い改めの実をどのように結ぶのかイエス様に提示しました。このザアカイの悔い改めの決心を聞いたとき、イエス様は「救いがこの家に来ました」とはじめて宣言されたのです。このことから、イエス様をただ単に受け入れるだけでは救いは十分でないことが言えます。

 イエス様の種まきの例えでも、「御言葉を聞いてすぐ受け入れるが、根がないのですぐ枯れてしまった」とあります。イエス様のことを聞き喜んで受け入れることによって救われるわけではなく、悔い改めが必要なのです。イエス様を受け入れ、そして悔い改めが必ず来なければいけないのです。イエス様も「悔い改めなさい」と最初に福音宣教で語られてます。マルコ1章14節と15節をお読みします。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

マルコの福音書 1章14~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 必ず悔い改めが必要です。イエス様も「悔い改めて福音を信じなさい」と福音宣教の第一声で言われました。使徒の働き2章38節見ていきましょう。

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。

使徒の働き 2章38節前半
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように「罪を赦していただくために、悔い改め」ることが必須の条件です。悔い改めなくして救いはないのです。

 それで多くの人は罪を告白しただけで、「もう私は悔い改めたんだ」と思ってしまうことがあります。もちろん自分の内面的な、人が関わっていないようなことであればそうかもしれません。しかし、悔い改めて罪を告白すること「プラス」悔い改めの実を結ぶ必要があるのです。マタイ3章4節から10節をお読みします。

このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。

マタイの福音書 3章4~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 悔い改めるために、大勢の人がヨルダン川に来て、罪を告白して、バプテスマを受けてに来ていました。そこにはパリサイ人やサドカイ人がいました。彼らは、当時のユダヤ教の宗教的指導者で、一方はよみがえりも天使も信じていたし、一方はよみがえりも天使も信じない、ということで対立していました。それはともかくとして、彼らもバプテスマのヨハネに興味を持ち、洗礼を受けに来ていました(中には見に来ただけの人もいたかもしれませんが)。彼らも罪を告白し、悔い改めの祈りをして、バプテスマを受けていたにも関わらず、バプテスマのヨハネはそういう人たちに向かって「まむしの子孫たち」「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と言いました。ただ単に悔い改めの祈りをするだけでは十分ではない、ということを言ったのです。

 「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます」とも言いましたが、「切り倒されて、火に投げ込まれます」というのは地獄に行ってしまうという比喩的な表現です。悔い改めの祈りだけして、悔い改めにふさわしい実を結ばないなら「切り倒されて、火に投げ込まれ」る、つまり「それでは天国に行けませんよ」とバプテスマのヨハネは言っているのです。ですから、イエス様も「天国の道は細い、またその門は狭い」と言われたのは、そのことなのです。イエス様を喜んで受け入れる人は多いです。また、悔い改めの祈りをする人も多いです。でも、悔い改めにふさわしい実を結ぶ人は少ない現状を私達は知っておく必要があります。

 私達は、悔い改めて自分の罪を告白し、イエス様によってその罪を赦していただき、悔い改めにふさわしい実を結んでいくことが必要です。人に迷惑をかけたなら「その4倍にして返す」とザアカイは言いました。そして自分の必要以上のお金があるお金持ちのザアカイは、「半分を貧しい人に分け与える」と言ったのです。

 その昔、パスカルという有名な物理学者、数学者、思想家がいました。彼はパンセという素晴らしい神学書を書いて、残念ながら、志半ばで37歳で天に召されたのですが、彼はフランスの貴族たちからとてもちやほやされて、裕福でした。しかし、イエス様と個人的に出会ったとき、「こんな名誉なんてクソくらえだ」と言って、自分の持っているものを貧しい人たちに施し、毛布を買ったりして助けていき、天国に召されました。

 このように、自分のできる範囲で貧しい人を助けることは主の御心です。また、迷惑をかけた人にはちゃんと償っていくことが、私達に求められている、悔い改めにふさわしい実です。贅沢ざんまいから立ち返り、「貧しい人に半分は分け与えます」「脅し取った人には4倍にして返します」と言ったザアカイの言っていることこそ、悔い改めにふさわしい実をどのように結ぶかを提示しています。イエス様はそれを聞いて初めて、「救いがこの家に来ました」と言われました。ですから、私達もこのことを覚える必要があります。

 するとある人は、「いやいやいや。バプテスマのヨハネとかの教えはまだ旧約の続きだから、悔い改めとそれにふさわしい実は関係ないんだよ」と言います。でも、パウロは何を伝えてきたのか、使徒の働き26章19節と20節に記されています。

こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、
ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。

使徒の働き 26章19~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このようにパウロは、ユダヤ人に対してはもちろん、神様に立ち返り、悔い改めにふさわしい実を結ぶように宣べ伝えてきたわけですが、日本人、すなわち私達異邦人に対しても同じように、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと伝えてきたのです。

 ですから、重なるところもありますが、救いには三つのプロセスがあると考えてはどうかと思います。まずイエス様を喜んで迎え入れること、これが第1の大切なプロセスです。2番目は、自分の罪を悔い改め告白する、そしてイエス様の尊い血潮によって赦していただくことです。この悔い改めの祈りで終わる人が多いわけですが、バプテスマのヨハネも、パウロも言っているように、悔い改めにふさわしい実を結んでいくことが、天国に行くためにはとても大切なことだということを、私達は覚えていきたいと思います。

 私のメッセージを聞くと、「もうまったく。行いによって救われると言っている」と批判する人がいることはちょっと残念ですけれども、私は、聖書は何と言っているのか、そこに立っていきたいと思います。聖書は単に「イエス様を喜んで受け入れるから救われる」とは言っていません。「罪を告白して悔い改めたら、もうそれでいいんだよ。あとはもう赦されたから、好き勝手に生きて良いんだよ」とは言っていません。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。斧はすでに木の根元に置かれている。だから、悔い改めの実を結ばない木は切り倒されて、火に投げ込まれる」と言われているのです。別の言い方では「地獄行きですよ」とイエス様は言われているわけです。ですから、天国への道は細い道であり、また狭い門なのです。

 イエス様がこのように言われ、招かれています。また、バプテスマのヨハネもパウロも、悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと自分は伝えた、と言っています。ですから私達はこの例にならい、イエス様を喜んで迎え、罪を告白し、そしてその罪の告白に沿って、悔い改めにふさわしい実を結んでいくものでありたいと願います。そして、この細い道を通り、狭い門を通って、天国に凱旋するものでありたいと思います。

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