最後の裁きと地獄について

2022年9月4日

また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

ヨハネの黙示録 20章11~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

お祈りします。
愛する天の父なる神様。
今朝もこのご聖日の朝、御前に集い、あなた様を礼拝できることを心から感謝いたします。私たちの人生の終わりの大切なことについて、今日の御言葉より見てゆきます。聖書の御言葉を朗読する者は、またそれを聴く者は幸いだと、あなた様は言われました。どうか私たちが心して聖書の御言葉を聞くことができるように、多くの人たちがたかだか40年の人生を決める受験勉強のために一生懸命、試験に出ないところまで勉強しますけれども、私たちが今日学ぼうとしている箇所は、たかだか40年の年月に関わることではなく、永遠に関わることです。しかもそれは必ず起こることです。必ず試験に出る事です。どうか、聞く一人ひとりが心してこの御言葉を聞き、大切なことを守っていくことができるように助けてください。一人ひとりの上に、あなた様の祝福をおいてください。聖霊なる神様が、一人ひとりの心に働き、この御言葉を通してお語りくださいますように、また遅れておられる方があったら、足を早めて一緒にこの御言葉を聞くことができるように助けてください。また、色々な計画や思い煩いから、私たちの心をいっとき開放し、あなた様の御言葉にどうか集中させてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。


 この数週間前から、行いによる裁きについて見ていきました。そして、行いがとても大切だということをお話しました。ザアカイはイエス様を喜んで迎え入れましたが、イエス様はその時、ザアカイに「救いがこの家に来た」とは言われませんでした。ザアカイが罪を告白して悔い改め、悔い改めにふさわしい実を結ぶことを宣言した時、イエス様はそれによって、「救いがこの家に来ました」と言われました。

 ですから、イエス様を喜んで受け入れるだけでは十分ではなく、悔い改めるだけでも十分ではありません。そうではなく悔い改めにふさわしい実を結んでゆくことが大切ということをお話しました。

 そして、私たちにとってイエス様の十字架以外に救いはないということをお話しました。イエス様は神様のひとり子でありながら、天の栄光の御位を捨てて、この地に私達と同じ人となって来てくださいました。そして、私達のためにののしられ、迫害され、辱めを受け、十字架で苦しみ、御体を割き、その尊い血によって私たちの罪の贖いをなしてくださいました。十字架以外に救いはありません。イエス様の血潮だけが、神様の怒りをとく唯一の道です。イエス様は、神様の私達の罪に対する怒りと呪いを十字架で一身に受け、死んでくださいました。そして三日目によみがえり、天にのぼり、私たちのために今も取りなしてくださっています。イエス様の十字架の血潮によってのみ、私たちは救いと罪の赦しを得ることができるということは、動かしがたい真実です。しかしイエス様を救い主として受け入れるだけでは十分ではありません。イエス様の愛に応答し、イエス様にすべてを委ね、従って生きることを、イエス様は私達に要求されているのです。

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。
そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

マタイの福音書 16章24~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様が要求されているのは、私たちが自分を捨てるということです。つまり、全てをイエス様にゆだねて、イエス様に従うということです。信仰というのは、ただ単に日本語で言うご利益宗教での「信じる」ことにとどまりません。イエス様に自分のすべてをゆだね、信頼し、従うことが、イエス様が私たちに求めておられることです。

 イエス様を主人として受け入れるなら、当然、神様の御心を忠実に行われたイエス様のように、私たちも神様の御心を行います。善い行いをし、正しく歩むことがついてきます。ですからイエス様は、私たちはそれぞれの行いに応じて裁かれると言われたわけです。私たちはイエス様を救い主として受け入れて、「これで私はもう救われた、もうこれで天国に行ける、これで十分だ」と思うのではありません。そうではなく、イエス様を主として受け入れ、信頼して従い、良い正しい行いをして、天国に入れるのです。これまで以上のことを、お話ししてきました。

 実は私は、この真理がわかってからは、聖書が違和感なく読めるようになりました。私も日本人ですから、「イエスを救い主として受け入れて、もうあなたは救われて天国に行けるんですよ」と言われたので、最初はそれを信じていました。でも聖書を読んでいて、何か違和感がある、と感じていました。どうして「イエス様を信じて洗礼を受けたので、あなたは天国に行けます」という箇所がないのだろうと思いました。行いによって救われるとか、行いによって裁かれると出てきますので、聖書が違和感だらけで、これはどうなってるのだろうと悩んだ時期がありました。

 けれども、イエス様が求められているのは、イエス様を救い主として受け入れるだけでなく、主人として、主として受け入れることであり、そうすれば当然良い行いがついてくるとわかった時に、それまでの違和感が取れて、聖書が一貫してスーッと読めるようになったのです。

 なぜ私が何度も何度も、「イエス様を主として、救い主として受け入れることによって、良い行いを行う正しい人となり、永遠の命を受け、その命令を守り、天国に行ってくださいね」「永遠の命を受けてくださいね」ということを、お話しなければいけないのか、このヨハネの黙示録の箇所が説明してくれています。

 私たちは皆ある時、神様の御前に出て、裁きを受けることになります。そして悲しいことに、多くの人は地獄に投げ入れられると聖書に書いてあります。今日は、そのヨハネの黙示録を通して最後の裁きや御前に行って裁かれること、そして地獄はどういうところなのか皆さんにお話したいと思います。

イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてのことを証しした。
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。

ヨハネの黙示録 1章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様ははっきりと、時が近づいていると言われました。それをしもべたちに示すために、預言の書を与えられたのです。これらは必ず起こることです。私も聖書に書いてあることは、あまりにも理性を超越していて、信じられないと思った時がありました。しかし、直接イエス様とお出会いする機会が与えられた時、聖書の言葉は全て真実で、必ず実現するということが、理性を超えてわかるようになり、信じられるようになりました。

 このヨハネの黙示録にしるされていることは、すべて実現します。そして3節に、この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである、とあるわけです。ですから私たちは、御言葉に書かれていることを聞いて、それを心に留めていく必要があります。また、私達は、前もってこの御言葉を読むことを許された、本当に幸いな一人だということです。これらのことは必ず実現します。そしてその時は近づいています。

 今日の御言葉をもう一度お読みして、その内容を見て行きましょう。

また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

ヨハネの黙示録 20章11~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでわかるのは、天と地が消えうせたということです。イエス様は言われました。「天と地は消えうせる」と。そしてそれは「火で焼かれるために取っておいてある」と言われています。天と地が消え失せたあと、死んだ人々が大きい者も小さい者も、つまり大人も子供も皆、神様の御前に裁きを受けることになるとあります。

 二種類の書物が出てきて、いのちの書というのが出てきます。15節を見るとこのいのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれたとありますので、このいのちの書に名前がある人のみが天国に行く人々だということがわかります。

 その他に数々の書物というものも出てきますけれども、その書物にはその人が地上に生きている間にしたことの数々が記された書物です。2種類の書物が開かれるということです。

 13節には、各自が自分の行いに応じてさばかれた、とあります。ここでもやはり、行いによって裁かれています。常に「行いに応じてさばかれた」と記されているわけです。そして15節を読むと、いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれたとありますが、火の池がどういうところかを見るために、10節を読んで頂きましょう。

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。

ヨハネの黙示録 20章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 火の池の中に投げ込まれたら昼も夜も、世々限りなく苦しみを受けるとあります。地獄はそのような場所です。苦しみから逃れられず、ずっと苦しみを受け続けるのが燃える池の中、すなわち地獄です。本当にそれは苦しいところだということがわかります。

 この御言葉からわかることは、一番目に、私たちは地上でした行いによって裁かれるということです。地上での生活が終わってから救いのセカンドチャンスがあるという人がいますが、地上の行いによって裁かれるのですから、セカンドチャンスは残念ながらありません。地上でなした行いによってのみ、さばかれます。これが二番目にわかることです。

 三番目は、いのちの書に名の記されているものだけが天国に入るということです。

 四番目は、地上での行いは、善であっても悪であっても、裁かれるということです。いろいろな書物が開かれて、その人がなした善とか悪とかが全部記されていて、それによって裁かれますから、天国においても地獄においても、その裁きに差があるということです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

コリント人への手紙 第二 5章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 天国に行くか地獄に行くかという、大きな裁きのほかに、天国においても地獄においても、それぞれの報いが違うということです。聖書には多く与えられたものは多く求められる、とあります。そして多く与えられたものとありますが、実は牧師もそれです。牧師は聖書の御言葉を学び、多く与えられてたくさん知っているわけですから、教師は格別に厳しい裁きを受ける、だから多くのものが教師になってはいけないとあります。

 地獄を見てきた、救急医療によって生還した人は、地獄の一番中心が一番苦しみを受けるところだと報告しています。そして、そこには牧師や宣教師がいたと報告しています。ですから教師や牧師には厳しく求められます。知らずに罪を犯した人たちは、叩かれても少しですみますとありますから、知らなかった人たちにはひどい刑罰ではなかったと、やはり地獄を見てきた人が報告しています。

 ですから、地獄にも刑罰の度合いがあるということです。そして一番厳しい裁きを受けるのは、牧師や教師だということです。知らなかった人はそんなにひどい刑罰を受けてなかったと言っています。

 そして五番目に私たちが覚えないといけないことは、地獄は昼も夜も世々限りなく終わることのない苦しみを受けるということです。現実の生活は苦しいから、もうこの生活を終わりにしてラクになりたいと思う人もいますけど、残念ながら終わることがない苦しみのところに投げ入れられるという残念な結果が待っているということを覚えてください。

 ですから、私たちは地獄に入らないために、イエス様を救い主として受け入れ、自分のすべてを委ね、信頼し、イエス様に従ってゆくことが必要です。そして永遠の命を受けて、良い行い、正しい行いをすることです。天国に行くしか、この苦しみを逃れる道はありません。

 今日はもう一つ見てゆきましょう。イエス様が語られた御言葉ですが、この御言葉からも、最後のさばきについてよく理解することができます。

ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

ルカの福音書 16章19~31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここにラザロとお金持ちが出てきます。二人ともアブラハムの子孫で、神様を信じる人でした。そしてこの金持ちは地上では、自分の門前でラザロがその日に食べるものも困っていたのに、そのことに目もくれず、自分の楽しみばかりを追求し、贅沢三昧をしていたわけです。良い行いをなすとか、正しい人という人物像とは程遠いひどい金持ちでした。

 一方ラザロは、貧しく大変な境遇にあっても、神様を信じて、その境遇に不平も不満も言わずに生きてきました。

 ラザロは亡くなって天国へ連れていかれました。そして金持ちも死んで、地獄へ連れていかれました。自分の目の前にいる貧しい人々を無視して、贅沢三昧をし、良い行いが伴わないならば、その人は地獄に行くという、いままでの聖書の御言葉と何ら矛盾はありません。地上での行いによって裁かれるというイエス様の教えに一致しています。

 また二番目には、天国か地獄かが決まれば、そこからはもう離れられない、逃れられないということを、私たちは知ることができます。

 26節には、天国と地獄の間には大きな淵があって、自由に行き来できないと言われています。セカンドチャンスと言うのは無い、ということです。一度決まれば、そこから抜け出たり、ほかの場所に移るということは、できないということです。そして地獄では、止むことのない、火の炎の中で苦しくてたまらないのです。これは昼も夜も世々限りなく永遠に苦しみを受けるという箇所と一致しています。

 そして四番目には、救われるためには聖書の御言葉に耳を傾けることが必須だということです。有名な人がこう言ったからとか、聖書以外のものからみて理解しがちですが、聖書の中にある御言葉に耳を傾けることによって、私たちは救いを見出すことができます。人間が言ったことを信じていると、「あれ、何かつじつまが合わない。なんか違うところがある」と感じてしまいますが、聖書が語っているとおりに読むと、ああそうだと納得できます。

 今、ルカ16章19節から31節の御言葉をお読みしましたが、ここだけ読んで、だれでもイエス様を信じるだけで救われるんだと教えられた時も、違和感以外の何物でもなかったのです。いや、そうじゃない。信頼して、したがって、良い行いをなす。そのことによって、私たちは永遠の命を受けていくのだということ、その真実に接した時に、このルカ16章と、ヨハネの黙示録20章の御言葉は何の違和感もなく、一貫して受け入れられるようになりました。

 そしてもう一つ、地獄はどういうところかということを皆さんにお知らせために、一つの御言葉を読みましょう。

ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。

マルコの福音書 9章48節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 地獄はうじ虫に喰らわれても、なくなるわけではなく、炎の中で苦しくてたまらないのが地獄です。そこで昼も夜も永遠に苦しみを受けるのです。地獄を訪問した人が、一番困ったのが、うじ虫の匂いが鼻をついて、その匂いがずっとついてしまい、帰ってきてからも、そのうじ虫の匂いの記憶がなかなか抜けなかったことだと言っていました。地獄はこのくさいうじ虫から始まり、苦しみの中でのどが渇いてしょうがないところです。そして火と硫黄と炎は消えることがなく、世々限りなく続くと言われています。そのような何にも良いものがないのが地獄です。

 皆さんの中には、そんなことは嘘だと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、聖書に書かれていることはすべて真実です。必ずこれは実現します。私たちも永遠の命を持っていなければ、残念ながら地獄に行かなければいけません。

 でも「今は恵みの時」とイエス様はいわれました。また「狭き門から入りなさい」とイエス様は言われました。狭い方が天国ということですが、この狭き門を通って天国に入れるチャンスは残されています。救いは聖書に記されています。人が書いた本ではありません。人に言われたことでもありません。良い書物は聖書を理解するのに非常に助けになりますけれども、有害な書物もたくさんあります。

 私たちは聖書に聞いて、永遠の命を受けていきましょう。そのためにイエス様は私たちのために十字架にかかって死んでくださったのです。イエス様を救い主として受け入れ、イエス様の愛に応答するために自分のすべてを委ね、そしてイエス様に聞き従い、永遠のいのちを受けたいと思います。

 確率論やルーレットで有名なパスカルはイエス様を信じることには、何のデメリットもないと言いました。天国があって、そこで永遠に過ごせるなら、そのメリットはもう比べ物にならない、まさにローリスクハイリターンなことがイエス様を信じて、信頼して従うことだと、パスカルは言いました。私も全くその通りだと思います。天国への道が開かれている今、御言葉に聞き従い、狭い門を入って、是非天国に入っていただきたいと思います。


お祈りします。
愛する天の父なる神様、今日は裁きと地獄についてお話しさせていただきました。メッセージを聞かれ、黙示録を読まれた方々は本当に幸いで、それを心に留めて、守る人も幸いです。どうか皆さんが、イエス様を救い主として信頼し、聞き従い、神様の御心を行えますように。そして、正しい良い行いを積み、永遠の命を受け、天国に入れるその恩恵にあずかれますように。一人ひとりを祝福してください。ここにおられる方一人として滅びることなく、天国に入れるように、地獄の苦しみに入ることがないように助けてください。尊い救い主、イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

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