死について

2022年1月9日

眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 4章13~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 多くの日本人にとって、死は悲しみ以外の何ものでもありません。人びとは死んで、すべてが終わりと思っています。一部の人は、輪廻思想と言って、死んだら風になるとか、木とかミミズになる、などと信じていますが、大多数の人は死といえば絶望以外の何ものでもありません。

 今日の箇所の最初の方では、眠っている人たち、とありますが、これは死んでいる人たちのことです。この、死んでいる人たちについては、望みのない他の人々のように悲しまないために、そのことを知らずにいて欲しくない、とあ記されています。私たちが悲しまないために知る必要があるのは、イエス様を信じている人は死んだらどうなるのか、ということです。そこで、今日は、聖書が語る死について見ていきたいと思います。

 イエス様を信じている人は死んだらどうなるのでしょうか。まず、一つ目に、死んだら肉体はこの地上に残ります。日本では火葬され、外国では埋葬されます。

 そして、イエス様を信じる人と信じない人との決定的な違いについて、聖書は次の通り語っています。

ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

ルカの福音書 16章19~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 金持ちは、地上で生きている間自分中心に歩んでいました。金持ちは、ラザロという貧しい人がいたことと、彼が生活に困っていたことを知りながら、助けることをせず、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。

 よみで苦しみながら目を上げると、とあるように、この金持ちは、よみにおかれました。よみ、とは、イエス様を信じなかった人びとが行く地獄のことです。このように、地上でイエス様のことを信じず、自分中心に歩んでいた人は、ハデス、すなわち、神様がおられない場所におかれます。彼はよみの中で、炎の中で苦しくてたまりません、とアブラハムに助けを求めました。このように、よみは、そこに行った人びとが苦しみを受ける場所です。

 どのように人びとがよみに行くのかということが次の聖書の箇所に記されています。

また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

ヨハネの黙示録 20章11~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た、とあるとおり、どのような人もすべて、死後によみがえり、からだを受け、御座の前、すなわち神様によってさばきを受けます。また、死とよみも、その中にいる死者を出し〜それぞれ自分の行いに応じてさばかれた、とありますが、ここでもイエス様を信じない人びとは、死後よみがえり、さばきを受けることが記されています。そしてさらに、死とよみは火の池に投げ込まれ〜これが、すなわち火の池が、第二の死である、とあります。永遠のいのちの書に記されていない人びと、すなわち、自分中心に生きてイエス様を拒んだ人びとは火の池に投げ込まれることが書かれています。

 私たちは、死後の世界の人のことを完全に理解することはできません。しかし、金持ちがよみで苦しみを受けていたように、肉体が行くところはハデス、すなわち神様がおられない場所です。そこは苦しみ以外にない場所です。それだけでなく、その苦しみは昼も夜も永遠に続きます。

 以上見てきたように、イエス様を知らずに死んだ人にとっては、死は悲しみや絶望以外の何ものでもありません。しかし、逆に、イエス様を信じる人びとがどうなるのかについて、聖書に約束が記されています。

イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。

テサロニケ人への手紙 第一 4章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は、イエス様が死んで復活されたので、私たちイエス様を信じる人びと、すなわちクリスチャンも、イエス様と同じように復活するという約束です。クリスチャンである私たちが水のバプテスマを受けたとき、どのようなことが起こったのかが次の御言葉に記されています

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。

ローマ人への手紙 6章4~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが水のバプテスマを受け、水につかるとき、イエス様と共に葬られます。そして水から上がるとき、イエス様と共に生き、新しく復活しよみがえります。こうして、もし、私たちがイエス様と一つ、つまり同じようになっているならキリストの復活とも同じようになっています。

 私たちクリスチャンは、死について悲しむ必要はありません。それはイエス様がよみがえられたように、私たちもよみがえらされるからです。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、

テサロニケ人への手紙 第一 4章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書には、クリスチャンに対して次のような約束もあります。

それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

テサロニケ人への手紙 第一 4章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先ほどお読みしたテサロニケ人への手紙 第一4章16節と17節の御言葉は、イエス様がこの地に再臨されるときの約束です。

 また、さらに、主のご再臨のとき、どのようなことが起こるかが次の御言葉に記されています。

人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。
死体のあるところには、禿鷹が集まります。
そうした苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。
いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。

マタイの福音書 24章27~34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます」とあります。また、次のようにも記されています。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。
そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。
女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。
ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。
ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。

マタイの福音書 24章35~44節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。」とあります。以上、御言葉から見てきたように、イエス様を信じる人びとは天に引き上げられます。私たちは、このことを空中再臨と呼んでいます。また、イエス様のご再臨は突如として起こります。イエス様のご再臨のとき、私たちクリスチャンは、空中でイエス様と出会い、いつまでもイエス様と共にいることになります。

 それでは、ここから、イエス様がご再臨される前に、私たちがクリスチャンたちが死んだらどうなるのかについて見てきたいと思います。クリスチャンたちは、死ぬと、イエス様を信じていなかった人びとと同じように、肉体からたましいが離れ、肉体は(日本においては)火葬されます。しかし、クリスチャンたちのたましいは、ハデス、すなわち苦しみの場所ではなくすぐにイエス様の元に行きます。

 イエス様とともに十字架にかけられた犯罪人の一人は、悔い改めて、イエス様を信じました。その人についてイエス様は次のように言われました。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

ルカの福音書 23章39~43節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

イエス様は、悔い改めて、イエス様を信じたたましいはハデスではなくパラダイスにいる、と言われました。

 また、クリスチャンのたましいが肉体を離れたらどうなるのかについて、次の御言葉にも記されています。

ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。

コリント人への手紙 第二 5章6~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、クリスチャンのたましいが肉体を離れたらイエス様のみもとに住むことになります。そのことが次の御言葉にも記されています。

私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。

ピリピ人への手紙 1章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 次の御言葉は、イエス様のゆえに殺され、殉教の血を流された人びとについての箇所ですが、これまで述べてきたことについてもう少し詳細に記されています。

子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。
彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

ヨハネの黙示録 6章9~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでは、はっきりと死んだ後のクリスチャンのたましいが肉体から分離した状態について書かれています。この箇所を記したのは、ヨハネでしたが、彼は、殉教者が体を持っているわけではなく、この時はたましいとして祭壇の下にいるのを見たのです。クリスチャンが死ぬと、肉体とたましいが分離して、たましいがすぐにイエス様の元に行くということがわかります。

 それでは、死後にクリスチャンたちは、いつ、からだを受けるのでしょうか。からだを受けることは、栄化、英語ではglorificationと呼びます。聖書では、天国のからだと地上でのからだがあるということが次の箇所のとおり、記されています。

また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。

コリント人への手紙 第一 15章40~54節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 血肉のからだ、すなわち、この地上での肉体は朽ちないもの、すなわち神様の国を相続できない、とあります。しかし、御言葉にあるように、終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。これはラッパが鳴って、イエス様がご再臨されるときに、イエス様を知って生きていた人びとは朽ちないものによみがえらされるということです。これは、新しいからだを受けるという意味です。この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着る、とあるとおりです。

 このことが神様の御心であるということを、イエス様は次のとおり語られました。

わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

ヨハネの福音書 6章39~40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、イエス様がその人を終わりの日によみがえらせることが神様の御心です。そして、神様が、私たちクリスチャンを、肉体のからだではなく、天の朽ちない、栄光に輝くからだに変えてくださるという約束が次の御言葉に記されています。

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

ピリピ人への手紙 3章20~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 以上見てきたように、クリスチャンが死ぬと次のことが起こります。最初に、肉体とたましいが分離します。そしてたましいはすぐに、イエス様のところに行きます。このときは、たましいのままです。そして、イエス様が再臨されるとき、そのたましいは新しい天国のからだ、言い換えると、御霊のからだを受けてよみがえります。これは先ほども説明した、栄化、glorificationです。

 つまり、私たちクリスチャンが新しいからだを受けるのは、イエス様のご再臨まで待たなければなりません。ご再臨までは、たましいだけがイエス様のところにいきます。しかし、パウロが言ったように、 「肉体を離れてたましいが主のところに行くほうが良い」のです。

 もし、イエス様のご再臨の時、私たちが地上で生きていたら、天国に引き上げられます。このことを空中携挙と言います。これは、イエス様のご再臨のときに、起こると言われている聖書の約束です。このときに、私たちクリスチャンは、たましいのままイエス様のもとに行くのではなく、天国のからだを受けることになるのです。

 クリスチャンにとって、死は悲しみでも何でもありません。むしろもっと良いことが起こります。イエス様にあって、知っている人びとと再開し、ずっと一緒にいることができます。そして、イエス様と共にいることになります。地上では、苦しみが色々とありますが、聖書は次のように私たちに命じられています。

ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 4章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様にあって死んだ人々はイエス様を知らない人びととは違う、ということを、互いに励まし合いなさい、と聖書は命じています。また、イエス様のご再臨の日が近いので自分たちの集まりをやめたりせず、励まし合いなさい、とも命じています。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

ヘブル人への手紙 10章25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは一人だと、どうしても意気消沈してしまいやすいものです。そのため、イエス様がおられると励まし合うことが大切です。

 イエス様が再臨される前の終わりの日について、聖書に書かれていること以外の詳細は私たちにはわかりません。しかし、私たちは、現されていることについて、にぎって歩むことが大切だということがわかります。

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

申命記 29章29節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 はっきりとわかることは、死は、私たちクリスチャンにとって、絶望でも悲しみでもなく、喜びのときです。確かに、この地上ではしばらくの間別れなければならないので悲しみがありますが、例えてみれば、「ちょっとアメリカに行ってきます、また会いましょう!」という感じです。また再開できるという希望があるからです。死は、かえって、イエス様と共にいるという、本人にとっても良いことです。このことは幸いであり、大きな恵みです。これは地上で買えるどのようなものよりも尊いものです。

 この地上ではせいぜい120年しか生きられず、あっという間に終わります。でも、その後どこで永遠を過ごすかが大切です。私たちはこのことを覚えて、地上でも希望を持って歩んでいきたいと思います。

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