2022年5月1日
主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。
マラキ書 3章6~12節
あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。
人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。
あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──
すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今日の礼拝は、ゴールデンウィークの間で、人数が少ないことがわかっていたので、Nさんから個人的に受けた二つの質問に、今週と来週に分けてお答えしていきたいと思います。
Nさんの質問の一つは、献金についてでした。「私は年金生活をしているので、献金はしないといけないのですか」という質問でした。私は、この様な質問を受けたときには、自分の考えで答えるというよりも、「聖書はこう言ってますよ」とお答えする様にしています。その後はご自分で判断されたら良いのかな、と思っているのです。このため、一つ目の質問に関しては、聖書の御言葉からお答えしたいと思います。今週は献金についてで、来週は、違う質問を受けたので、そのことについてお答えしたいと思います。
さて、先ほど拝読しました、マラキ書は旧約聖書の一番最後にある書です。年代ははっきりとは分かりませんが、紀元前450年くらいのものではないか、と言われています。その頃イスラエルはどのような状況だったのかと言えば、次の通りです。
まず、その民が神様に背いたので、イスラエルはバビロン王国によって滅ぼされ、神殿もうち壊されました。また、主だった民は、みな捕囚としてバビロンに連れて行かれました。それでも神様は、ペルシアのクロスを70年後に立てて、もう一度、捕囚となってバビロンに連れていかれた民をイスラエルのエルサレムに連れ戻す、と預言されていました。そして、ちょうど70年経った時にペルシアのクロスが、「イスラエルの民はエルサレムに帰って良い」「神殿を建てても良い」と勅令を出しました。それに応じたイスラエルの民は帰ってきて、最初にソロモンが建てた神殿ほど立派な神殿ではなかったのですが、第二神殿と呼ばれる神殿をエルサレムに建てました。
しかし、この当時、イスラエルの民はとても貧しかったのです。マラキ書3章11節に「わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする」とあります。実は、イスラエルの民は、イナゴの大群、バッタの大群が凶作をもたらしたり、大地の実りが滅ぼされたり、畑のぶどうの木も苦作となったりして、とても貧しい生活を強いられていたのです。去年、私達の時代にも、バッタによって、アフリカで穀物が取れなかったということが報道されていましたね。そんな中で、神様はマラキという預言者を送って語られたわけですが、次のように記されています。
あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。
マラキ書 3章7~9節
人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。
あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、神様はマラキを通して、「あなた方は十分の一と奉納物を捧げていない」、「これは私から盗んでいるのと一緒だ」語られたのです。そして、10節で、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。・・・わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか」と言われました。神様は、「あなた方は神様のものである十分の一と奉納物を盗んでいるけれども、それを捧げなさい」と言われたのです。そして、「神様を試してみよ」と言われました。実は、「神様を試してはいけない」というのが聖書の教えです。神様を絶対、試みてはいけないし、試してもいけないのです。でも、この十分の一と奉納物においては、「試しても良い」と、ここだけに、記されています。「私があなた方のために天の窓を開き溢れるばかりの祝福をあなた方に注ぐかどうかを試して」も良いと、言われているのです。
先程も申し上げたように、「イナゴを叱って大地の実りを滅ぼさないようにするし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする」と、神様は言われれました。そして、「すべての国々はあなた方を幸せ者というようになる」とも言われました。だから、ここで語られているのは、バッタの大群が凶作をもたらしたり、大地の実りが滅ぼされたり、畑のぶどうの木も苦作となったりして、あなた方の生活が貧しくなったのは、神様が献げる様にと言われた十分の一と奉納物をちゃんと捧げていないからで、あなた方が乏しいのは、神様のものを盗んでいるからだ、ということなのです。そして、もしそれを携えてくるならば、神様は大地の実りを滅ぼさないようにイナゴに命じるし、ぶどうの木が不作とならないようにするし、全ての国々はあなた方を幸せ者と呼ぶようになる、ということを、神様はマラキを通して語られたわけなのです。これがマラキ書における神様への捧げ物に関するメッセージです。
マラキの時代は、だいたい紀元前450年ですから、新約の時代まで大体450年ぐらいのインターバルがあります。そして、その間、神様の言葉はずっと途絶えていました。そして450年ぐらいたってから新約の時代に入り、イエス様が来られました。そしてイエス様は、ご自分が旧約聖書について、どのようなお考えを持っておられるのかについて語られたので、そこを見ていきましょう。
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
マタイの福音書 5章17~19節
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、イエス様ははっきりと、17節で、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」と言われました。先ほどお読みしたマラキ書のマラキは預言者です。ですから、マラキが教えていることも廃棄するために来たのではなく、成就するために来た、ということです。
確かに、イエス様によって、はっきりと、旧約の教えの中でも、新約の時代では違う、と言われたものに関しては、違います。例えば、「目には目を、歯には歯を」などです。これは、やられたらやり返せと言っている律法の教えです。しかし、イエス様は、それを聞いていた人びとは、まだ十分に成長していなかったから、神様はそのように言われたけれども、「あなたの右の頬を打つものには左の頬をも向けなさい」と言われたのです。ですから、「目を潰されたら、相手の目を潰してもいい」などということは、無効になったのです。イエス様が、違う、と言われていない旧約の教えは、全部成就するためにイエス様が来られたということです。
ですから、マラキ書についても、イエス様が成就するために来られたので、有効だ、と私たちは捉えて良いのです。そして、18節から19節では、この様に言われました。「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」と。ここでは、聖書の最も小さい教えを破ったとしても、天国には入れるということが想像できます。しかしながら、どんなに小さな教えであったとしても、それを破るように人々に教えるものは天の御国で最も小さいものと呼ばれるし、それを行ない、また行なうように教えるものは、天の御国で偉大なものと呼ばれる、のです。ですから、短い地上での旅人である私たちは、この地上でどうか、ということよりも、永遠を過ごす天国で、神様が私たちをどう思われるかの方が大切、ということです。このため、小さな戒めであっても私たちは守っていくことが大切です。
そして、私は、十分の一献金や奉納物がどれくらい大切かということについて、「それは、これくらい大切ですよ」ということは申し上げられません。しかし、マラキ書で、「あなた方は神様のものを盗んでるから、それを携えてきなさい」とも言われていますから、そんなに小さな戒めではない、という気はします。それでも、最重要のものではない、ということはイエス様も言われています。
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
マタイの福音書 23章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、偽善の律法学者、パリサイ人に対して、「あなたがたは十分の一を納めているけれども、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。これこそしなければいけないことだ」と言われました。「正義とあわれみと誠実」の方が、はるかに重要だ、と言われているわけです。これが、イエス様のお考えでした。しかし、続けてイエス様が言われたのは、十分の一もおろそかにしてはいけない、ということでした。重要度に関しては、「正義とあわれみと誠実」だけれども、十分の一もおろそかにしてはいけない、ということです。私たちは、この様なイエス様の教えに従って、自分の給料なり、また年金なり、また、学生さんでしたらアルバイト料などから、十分の一を献げることをしていくわけです。
以上がイエス様の教えですが、それでは、日曜日に献げる席上献金についてはどうなのか、見ていきたいと思います。私たちは、日曜日の礼拝の時に、席上献金を捧げています。この席上献金はどういう位置づけで見ているかというと、これは神様への奉納物として見ているわけなのです。マラキ書にも、「あなたがたは私のものを盗んでる十分の一と奉納物においてだ」と書かれていますが、この奉納物については、次の御言葉に記されています。
あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。
申命記 16章16~17節
あなたの神、主が与えてくださった祝福に応じて、それぞれ自分の贈り物を持って出なければならない。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このように、「主の前には何も持たずに出てはならない。」と16節に記されています。「あなたの神、主が与えてくださった祝福に応じて、それぞれ自分の贈り物を持って出なければならない」と。この御言葉によって、私たちは、日曜日の礼拝で神様の前に出る時に、神様が与えてくださった祝福に応じて、自分の贈り物を神様に捧げるという行為をしている、ということです。これは、いくらとか、そういう額ではなくて、それぞれの祝福に応じて神様に献げるものだ、と記されています。また、何も持たずに主の前に出てはいけない、とあるので、私たちは日曜日の礼拝ごとに感謝して主に捧げ物を献げる時を持っています。
そして、ここで注意すべき点があります。神様は、十分の一について、溢れるばかりの祝福を注ぐかどうか試しても良いと言われていますが、献金を献げる時の心構えについても、聖書に記されています。聖書には、進んで献げる心とか、喜んで献げることを主はとても喜ばれてる、ということが記されています。
主はモーセに告げられた。
出エジプト記 25章1~2節
「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この様に、嫌々ながらではなくて、進んで献げる心のある人から、これを受け取りなさいと神様は言われました。また、新約聖書に戻って、第二コリントからも見ていきましょう。
私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。
コリント人への手紙 第二 9章6~8節
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この様に、神様の原則は、「喜んで与える人を愛してくださる」ということです。また、「あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできに」なる、とも記されています。また、それは、私達が「いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるため」だ、ということなのです。私達は、ここではっきりと知らなければいけません。私たちが、いくら、あくせくして労苦して働いても、それが私たちを富ませるわけではない、ということをです。「これはもったいないから、緊急の時のために取っておこう」とか、「これは神様に献げるんじゃなくて置いておこう」とか、「余裕を持って生活していこう」とか、人間的に、私達は思いがちです。しかしながら、私がこれまで見てきたクリスチャンの中で、神様に献げることを惜しんで、経済が豊かになった人は、はっきり言って、一人も知りません。
でも、反対に神様にすごく捧げてる人がいます。それは私がY病院というところで勤めていた時の院長のS先生です。S先生は、K大学の医学部の教授でした。しかし、その職を辞して、当時潰れかかっていたY病院の院長になられました。そして、その病院が祝福されて、最初は小さな病院だったのに、600床近くになり、その病院を立て直しました。その後、Y病院の院長を定年退職されてから、今度はK病院の院長になられました。その病院も潰れかかっていたけれども、ホスピスを作ったり、いろいろと改革をされて、立て直されました。そして、K病院が経済的にしっかりと運営されるようになったので、もうお年だから引退されるのかな、と思ったら、70歳になって、今度は大阪のZ病院の院長になられました。そして、今は90歳ですけれども、まだZ病院の院長をされていて、ずっと兵庫から大阪に通われておられます。そして、その先生の素晴らしいところは、自分のためにお金を使う、というよりも、本当に喜んでいつも捧げられておられるのです。困ってる人がいたら、捧げよう、とか、バングラデッシュの医療のために捧げよう、と。そして、ちょっとこの間も電話で話していたのですが、私が「先生、そんなに捧げていて素晴らしいですけれども、大丈夫なんですか」と言いました。すると先生は、「もう90だよ、90。お金持って死ねないのになんで貯めておかないといけないんだ」という風に言われて、ちょっとお叱りを受けたのです。この様に、いっぱい、いっぱい捧げておられるのに、その先生の元には経済的な祝福が来るのです。だから、先生はさらにさらに捧げられているのです。実は、私はアメリカの新学校に行った後、日本で教会を開拓したのですが、Y病院を辞めて30年近く経っていても、いっかいのスタッフだったものもまだ覚えて、助けてくださっています。ともかく、必要があったり、神様のために、ということには、いつも捧げられているのに、90歳になった今でも、院長として働かれていて、本当に多くの献金をされているので、更にまた経済的な祝福が与えられているのです。
以上見てきたのも、一つの例ですけれども、私は神様に捧げて生活に困った、という人はちょっと見たことないです。神様への献金をケチって、なんだか穴の開いた財布みたいに、お金が入らないところに、どんどん、どんどん出ていって困っている人はいっぱい見てきました。けれども、神様に捧げて生活に困っている人は見たことがないのです。というのは、これが神様の約束なのです。神様は喜んで与える人は愛してくださるということです。これは大変素晴らしいですね。神様は喜んで与える人を愛してくださり、神様はあらゆる恵みを溢れるばかりに与えて、更にまた良いわざができるように、その人を助けてくださる、と聖書にある通り、これが神様の約束なのです。
教会のO姉妹のこともお話します。O姉妹は大学院を卒業して最初はK研究所の非常勤になりました。時給職員ということは、まあ普通の時給職員よりは高いけど、そんなに豊か、ということはないわけです。そして、一人暮らしですから、セキュリティのしっかりしたところに住みたいということで、家賃はそれなりに張ったわけですね。それで、ちょっと計算したら、毎月もらう時給の給料と生活費を見ても、ほとんどギリギリでした。十分の一献金を献げるのもギリギリだったわけです。けれども、私は、「強制はしないけれども、十分の一を献げると、神様は溢れるばかりの経済的な祝福を与えられるよ」という風には、伝えていたんです。そうすると、O姉妹は「十分の一と席上献金は続ける」と言って、そこは怠りなく、卒業してからも続けていました。そうしたら、神様は本当に聖書の約束通りにしてくださいました。K研究所の契約期間が切れる前には、もっと給料が良いところに雇われたのです。その上、また奇跡が起こって、普通は絶対なれない国家公務員になれたんですよね。本当にこれは神様が起こした奇跡としか言いようがないです。普通はどう考えても人間の力では絶対になれなかったのに、です。そして国家公務員として働けるようになって、O姉妹とも話したんですね。十分の一や席上献金を捧げてきて良かったね、と。あそこでケチって、もうちょっと「いい服買いたい」とか、「バッグ買いたい」とか言って、そっちの方にお金を使っていたら、もしイエス様がこの地上にまだ来られなくって、65歳まで、ということを考えると、生涯賃金はたぶん一億五千万ぐらい変わってきたよね、と。ですから、この例から見ても分かるように、「私が生活を助けます」というわけではなくて、神様が喜んで与える人を愛してくださって、神様はあらゆる恵みを溢れるばかりに与えて、すべての良い業に溢れるようにしてくださる、ということなのです。つまり、神様がなしてくださるのです。私も、まさかO姉妹が国家公務員になれると思ってなかったのですが、このことを神様がなしてくださったのです。
これは神様の約束なので、強制ではないですけれども、本当に神様は約束を守られる方です。また、私達がいくら貯金したからといって、お金がたまるものでもない、ということなのです。詩篇の127編の1節を見ていきましょう。
主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
詩篇 127篇1~2節
あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉に「眠りを与えてくださる」とありますが、「神様は私たちが眠っている間にも働かれる」が、前の訳です。私達が「早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい」、「神様は私たちが寝ている間にも、備えてくださる」ということなのです。それがなければ私たちの労苦なんて本当に虚しいもんだ、ということです。詩篇の後、ページをめくっていくと箴言になりますので、そこも見ていきましょう。
人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。
箴言 10章22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
一生懸命、朝起きて夜、休まずに、本当に苦労して食べても、まだ貧しい人がいるのです。でも、自分の収入を惜しみなく捧げて、それでも富んでいる人がいるのです。どうしてかと言ったら、人を富ませるのは主の祝福だからであり、人の苦労は何も加えない、からなのです。日本は神様を排除していますから、「いやいや、あなた方は一生懸命苦労すればそれなりの生活はできるんですよ」と教えます。けれども、聖書は「人の苦労は何にも増し加えない、人を富ませるのは主の祝福ですよ」と言います。
私たちは、主が喜ばれることを本当になしていきたいと思います。確かに、献金については、全く神様とそれぞれの人の自由です。自分で決めた通りにするもので、強いられてするものではありません。なので、自由、ということにしています。しかし、神様の御前に喜んで十分の一献金を捧げ、また、与えられたものの中から、感謝を持って、日曜日に忠実に、席上献金を捧げていく人で、経済的に困ったり、行き詰まったりした人は、私は、本当に見たことがないです。もし、そういう人がいたら、是非紹介してほしいぐらいです。これまでに、たくさん、たくさん、クリスチャンと呼ばれる人と会ってきましたけれども、十分の一と席上献金を捧げて生活に困ってるんだ、という人は会ったことがない、というのは私の小さな経験から、言えることです。
先ほども申し上げたように、献金は強制されるものではないので、神様と自分が決めたらいいわけです。ただ、覚えておいて頂きたいのは、神様の原則として、神様に喜ばれることをしていくならば、神様は本当に祝福される、ということです。確かに、今、スタグフレーションが進んでいます。本当に大変な経済的な時代が来ると思います。もう、多分、経済がひっくり返るような時代になると思います。今でこそ株式市場は保っていますし、これからも上がる、と言われていますけれども、ゆくゆくは聖書で預言されているように、大暴落が来ます。そして、日本の年金機構も、世界中の株式に投資しているわけです。もう、ただでさえ日本は少子高齢化のため、若い人が年金を払って、歳のいった人を支える力がなくなってきています。その上、年金機構が世界中の株式に投資しています。ですから、株の大暴落が起こり、年金も、何も当てにならないような時代に、確かに、突入してきていることがわかるんですね。でも、その時、私たちはどうやって食べていくか、心配しなくてもいいのです。「主を愛する者は主が守られる」とあります。また、エルサレムがエレミヤの時代に破壊されてしまって、「食べるものもないのに、どうやって生きていくんだ」「どうやって自分の命を守るんだ」と言った時でも、神様は、エレミヤを助けたバルクを覚えて、「あなたは大きいことは求められないけれども、私はあなたの命を守る」と言われたのです。
確かに、これから終末の時代を迎えますから、経済的にも、金融恐慌が来て大変な時代が来ます。けれども、その時、デイビッド・ウィルカーソン先生も終末の時代に起こる幻を見て書いていますが、「金も当てにならないし、大暴落する」と預言されているわけです。そして世界の株式は大暴落するが、「何が本当に大変な時代から私達を守るのか?何が私達の助けなのか?それは主の助けだ。それが一番なんですよ」と言われました。主の助け、主の守り、祝福こそが、この大変な時代における助けです。
これは、実はすごく現実的です。主の助け、すなわち、私達が具体的になすべき備えというのは、「ともかく借金は全部返しなさい」ということです。これから、金利がどんどん上がってくると言われてます。アメリカでも金利が、今すごく上がってきていますが、日本では黒田さんが、上げない、と言っています。けれども、いつかはわかりませんが、これからすごく金利が上がってくるのは、もう目に見えていることです。ですから、借金はすぐに返済しないといけません。また、自分で食べるものを作れる農地を持っておくのが良いです。それが、終わりの時代の経済的に大変な時代における、具体的な備えです。
以上の備えも大切ですが、デイビッド・ウィルカーソン先生が言われているのは、何よりも、何よりも大切なのは、主の祝福だということです。主がその人と共におかれたら、守られるということなのです。エルサレムが火で焼かれた時も、エレミヤを助けたバルクを守る、と言われたように、私たちにとって本当に最後に残るのは主の助けです。本当に、そこに焦点を当てていきたいと思います。少しのものをケチっていくよりも、神様が喜ばれることをどんどんしていって、神様の祝福を受ける方が絶対良いに決まっています。ですから、十分の一や席上献金は強制ではないですけれども、聖書が進めていることですし、私からのお勧めでもあります。これが、Nさんから聞かれた一つの答えです。また来週はもう一つの質問にお答えしたいと思います。