神様が望まれる人間関係

2022年1月23日

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。
兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章12~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先週は、世の終わりは盗人が夜くるように、突然やってくるということ、そしてその日は必ずくるということをお話しました。その日は、イエス様を信じない人にとっては悲しみ以外の何ものでもなく、反対にイエス様を信じる人にとっては恵みの日であること、そして、私たちは、主が来られるその日まで、身を慎むべきであるということもお話しました。

 今日はその続きとして、イエス様のご再臨を待つ私たちが、地上でどのように人間関係を築いていくべきか、神様の望まれる人間関係はどのようなものかということについて、見ていきたいと思います。まず一番目に、指導者との関係について見ていきます。そして二番目に、教会内の人びととの関係です。そして最後三番目には、一般的な人びととの関係について見ていきます。

 まず、指導者との関係についてですが、プロテスタントの教会では、指導者として牧師がたてられています。(※教会の宗派によって異なりますが、ここではプロテスタント教会での呼称にあわせて牧師と記すことにします。)次の御言葉は、その牧師との関係について語っています。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章12~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 本題に入る前に少しご説明しますと、教会がはじめての方は、ここで語られている兄弟たちとは何のことだろう、と疑問に思われたかもしれません。聖書に兄弟と記されているのは、日本語だと兄弟は女性(姉妹)も含めて兄弟と呼ぶからです。父なる神様がお父様であられるなら、神様を信じる人びとは皆一つの家族だから、教会では、男性であれば兄弟、女性であれば姉妹と呼びます。

 それでは本題に戻ります。先ほどお読みしたテサロニケ人への手紙第一5章12~13節の御言葉で、あなたがたの間で労苦し、とあるように、牧師はたましいの救いのため、また教会をたてあげるために働く人です。イエス様のもとにたましいを導くだけでなく、救いを全うしていけるように手伝うことは、労苦するということになります。そして、主にあってあなたがたを指導し、とあるように、牧師は御言葉を教える人です。また、訓戒している人たち、とあるように、牧師はその人が誤った道にいるなら間違ってますよ、と教え、悔い改めに導き、忠実に神様に従うよう訓戒していく働きがあります。人は、基本的に自分中心なので、教え導いてくれる人がいなければぐちゃぐちゃになってしまうものです。また、人は自分の思い通りにしたいという欲求があるので、教え導いてくれる人がいなければ教会の秩序が保たれません。このため、指導し、訓戒してくれる教会の指導者が必要なのです。

 しかし、ここで注目して頂きたいのが、主にあって、というところです。教会の指導者は、あくまでも聖書の御言葉に従って指導し、訓戒するものです。このため、自分の私利私欲のために働く指導者は除外しなければなりません。

 それでは、指導者が教会に立てられている目的は何なのか、次の御言葉から見ていきたいと思います。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

エペソ人への手紙 4章11~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 まず、キリストご自身が、牧師を立てられた、とあります。牧師は、自分がなりたいです、と言ってなるものではなく、英語ではコーリングと言って、イエス様に召されてなるものです。私自身も十歳のときにコーリングがあり、ここからは離れられないな、と思ったものです。

 それでは牧師が立てられた目的について見ていきましょう。先ほどのエペソ人への手紙の御言葉に、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、とあります。イエス様を信じる人、すなわちクリスチャンのことを、聖書では聖徒と呼日ます。そして彼らは、自分中心の生活から離れ、イエス様のような人格を持つものに変えられていく途上にあります。このため牧師は、彼らが変えられ、イエス様に支える働きをしていけるよう彼らを整えていく働きがあります。また、キリストのからだを建て上げるため、とありますが、キリストのからだとは教会のことを指します。以上をまとめると、牧師は、クリスチャンたちがイエス様に仕えるものとなり、教会を建て上げていけるように働く人です。

 また次に、私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです、という御言葉についてですが、神の御子に対する信仰と知識、とあるとおり、聖書にはイエス様に関する知識が記されています。牧師は、この聖書についての知識を教え、クリスチャンたちが一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するように、つまり、イエス様のようになれるよう助けていく働きがあります。

 そこから次の御言葉へと続きます。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく・・・。この地上では、異端的な教えが氾濫しています。牧師は、そのような教えが間違っていることを、御言葉に基づいて教えていきます。そしてクリスチャンたちが間違った方向に行かないよう指導していきます。

 さらに、次のように記されています。むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです・・・。ここでも、クリスチャンたちがイエス様と同じようになれるよう、成長していくのを助ける働きが牧師にあるということが記されています。

 最後に、キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります、とあります。先ほどもお伝えしたとおり、からだとは教会のことを指すので、からだ全体とは教会全体のことです。クリスチャンは皆、異なった賜物を受けています。それは、奉仕したり、教えたり、助けたり、マネージすることであったり、皆異なります。牧師は、クリスチャンたちがこうした異なる賜物を使い、神の栄光を現す教会を建て上げていけるよう助けるという働きがあります。

 以上の内容をひとことで表すなら、教会の牧師は、神様の栄光を現す教会を建て上げるために神様に召されているのです。

 こうした目的があるため、冒頭でお読みしたテサロニケ人への手紙第一5章では、牧師との関係をどのように持つべきかについて、次のように命じています。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章12~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 人間の罪の本質は自分中心です。罪を英語で言うとsinですが、真ん中にI、つまり自分が来ます。罪は、Iが中心、自分中心です。このため、聖書はクリスチャンたちに向かって、牧師や教師に対して自分中心の反対である愛を持ちなさい、と命じています。また、牧師や教師に対してこの上ない尊敬を払いなさい、とも命じています。それはその前の御言葉にある、その働きのゆえに、です。聖書がなぜこのように私たちに命じているかというと、皆が自分中心だからです。自分が正しいと思っているのにそれが間違っていると言われると、怒りがくるのが人の本能だからです。実は、牧師批判というものが世にあるのはこのためです。牧師は、イエス様に従い生きるものなので、ときに訓戒をすると、すごく反発を受けることが多々あります。だから聖書は、訓戒を受けてムカっとしても、その働きのゆえに愛を持って尊敬を払いなさい、と命じているのです。牧師は皆人間なので、誤ることも、問題も欠点もあります。このため、牧師や教師に対して、愛を持って接していくことが大切です。

 また、さらにこのことは、お互いに平和を保ちなさい、という御言葉にも通じています。牧師批判があると、教会の中がギスギスして、キリストの栄光のからだを建て上げる妨げとなってしまいます。このため、牧師との関係において、お互いに平和を保ちなさい、と聖書はクリスチャンたちに命じているのです。

 以上述べてきたとおり、牧師はイエス様のからだを建て上げるために御言葉に従っている人びとです。そのため、クリスチャンたちはその真の価値を理解していく必要があります。

 そして、反対に指導者たちに対しては、聖書は次のとおり命じています。

私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。
割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。

ペテロの手紙 第一 5章1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は長老たちに対して語られていますが、プロテスタント教会の中でも、教師や牧師と同じように長老と呼ばれている人びとがいます。つまり、これはまとめて教会の指導者たちに対して語られていることです。この御言葉によると、彼らは羊の群れ、つまり教会に集う人びとを支配するためにおかれているのではなく、むしろ、その模範となるようにおかれています。

 まとめると、牧師や長老、教師の働きとしてイエス様が求められているのは、まず一つ目に、クリスチャンたちを支配するのではなく、その世話をすることです。また、彼らがこの地上でイエス様に従い、天国に行けるように指導し、誤った道を行きそうなら間違っていると言いつつ、悔い改めを促していくことです。そして、その模範となっていくことです。

 実は教会の指導者に対するさばきは厳しく、大変な面もあるので、それは自分からなるものではありません。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 確かに、人は誰でも皆、最後神様によってさばきを受けますが、牧師である私がさばかれる基準は皆さんよりも厳しいです。この地上で指導している間、ちゃんとやったのか?ちゃんと指導して訓戒したのか?卑しい私利私欲を求めたか?搾取していないか?といったことが問われるからです。私としては厳しくないさばきを願っていますが、よくやったと言われたいので、従うようにしています。

 このように、牧師は大変な面もあるので、牧師に対する批判を聞くときに気をつけなければなりません。確かに、批判をするその人の言うとおりかもしれませんが、牧師は弱い存在で欠点もあります。だから、聖書が命じるとおり、その働きのゆえに尊敬をはらっていくことが必要です。人は自分の都合の良いように言うものだということを覚えるべきです。もし、その批判を言う人に同調するなら、それは神様に喜ばれません。私たちは、牧師に対する批判を聞くとき吟味していく必要があります。

 ここまでは、テサロニケ人への手紙第一5章12~13節の御言葉をとおして、牧師など教会の指導者との関係で求められていることについてお話してきました。次に、その御言葉に続く14節から、教会内部での人間関係についてお話します。以下の御言葉は教会の内部の人に勧められていることです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 まず、怠惰な者を諭しなさい、とあります。原語で読むと、怠惰な者という言葉は軍隊用語です。これは、任務を続けず隊列から離れてしまい、他の人の世話になり怠けている人のことを指しています。このような怠惰な人について、以下の御言葉にも記されています。

兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたの間で、私たちは怠惰に暮らすことはなく、
人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。
私たちに権利がなかったからではなく、あなたがたが私たちを見習うように、身をもって模範を示すためでした。
あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。
ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。
そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

テサロニケ人への手紙 第二 3章6~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書は怠惰な人について、「怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟」そして「怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たち」と呼んでいます。そのような人たちに対して、聖書は「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と主イエス・キリストによって命じ、勧めています。私たちは、教会の中にそのような人がいるなら、この聖書の命令と勧めに従うように、その人を諭していく必要があります。

 また、14節に戻って、そこには小心な者を励ましなさい、と続いています。中には、すぐ落胆してしまい、色々なことをあれこれと心配している人びとがいます。このように、信仰や生活面で落胆しやすい人びとのことを、聖書は小心な者と呼んでいます。私たちはそのような人びとに対して、大丈夫ですよ、と愛を持って励ましていくことが必要です。

 さらに、14節で、弱い者の世話をしなさい、と命じられているとおり、私たちは助けを必要としている弱い人の世話をしていく必要があります。弱い人は、物質的な必要を抱えているかもしれないし、あるいは信仰的な弱さを持っているかもしれません。このような弱い人びととの関係について、聖書は次のようにも私たちに命じています。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

ローマ人への手紙 15章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは弱い人びとに対して、自分には信仰があると喜ぶのではなく、その弱さを担うべきだ、と聖書は言っています。またさらに、次のように語られています。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

ローマ人への手紙 14章1~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、信仰の弱い人びとの意見をさばかないようにするべきです。その人を神様が受け入れてくださっているため、見下してはいけません。そして、その人がつまずかないように配慮していくことも、教会に求められている大切なことです。

 最後に14節では、寛容でありなさい、と記されています。愛は寛容です、という御言葉のとおり、寛容であるということは愛するということです。先ほど述べたような怠惰な人は、生活パターンを変えることがなかなかできないので、諭したときに「わかりました」と言っても、またもとに戻ってしまうことが多々あります。また、すぐに落胆して色々なことを心配する小心な人は、一回励ましてもまた落胆してしまうことが多いです。そんなときに、またか!とは思わずに、忍耐を持って接していくことが必要です。これが寛容であるということ、すなわち愛するということなのです。

 以上テサロニケ人への手紙 第一5章14節から、教会内部での人間関係について見てきました。これらは、私たちに命じられている大切なことです。次に、教会の外の一般の人びととの関係について、続く15節の御言葉から見てきたいと思います。

だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。

テサロニケ人への手紙 第一 5章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 悪に対して悪を返すということは人間にもとから備わっている本能です。人は子どもから大人まで、さらには国家間においても復讐したいという思いを持つものです。しかし、神様は復讐してはいけません、と私たちに命じておられます。そして、教会の人に対してはもちろんのこと、すべての人に対して復讐するのではなくいつも善を行うように、と命じておられます。実は、いつも、そのようにしていくことこそが幸いな生き方です。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

ローマ人への手紙 12章19~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちはもし悪いことをされたら、その悪い人はどうなるのか、と疑問に思います。それに対して聖書は、神の怒りにゆだねなさい、と言っています。もし復讐をするならその相手もまたやり返し、あり地獄に入って行ってしまいます。私たちは聖書が命じるとおり、そのことにただ耐えて神様にゆだねていくことが大切です。もしそれがあまりにもひどいなら神様が働いてくださいます。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」とはそのことを語っています。

 また、「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ」とあります。この御言葉を聞いたアフリカの人が誤解して、敵の頭に本当に火を投げつけた、という笑えない話がありますが、聖書をその時代背景によって理解しないと、このようなことになってしまいます。聖書は、2千年前のユダヤ人の文化に基づいて書かれているので、私たちは理解できないのです。当時はマッチもライターもなかったので、自分で火を起こす必要があり、とても大変でした。そこで、村に火を守る人がいて、朝、ご飯の用意をする時間になると、火を守っていた人がその頭に炭火を置いて、一軒一軒「炭火ですよ」と言って配ったのです。こうして、その家の人は、「待ってました!もらいます、ありがとう」と言って受け取りました。つまり、彼の頭上に燃える炭火を積むとは、良いことをしてもらった人は幸せな気持ちになり、今度は自分も良いことをしてあげようとして、良いものを分かち合っていくことになる、ということなのです。

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

ローマ人への手紙 12章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉が言う善をもって悪に打ち勝ちなさい、とは、その相手の益となり役立つことを行うのことによって悪に対処しなさい、と言う意味です。

 先ほども述べたとおり、相手があまりにもひどいことをすれば、神様が怒られます。このため、私たちは悪に対して悪を報いず、すべての人が役立つこと、助けとなること、益となることをもって悪に打ち勝つ必要があります。

 このように、聖書はこの世の価値観とは真っ向から反します。しかし、神の教えたとおりに実行すると人生は幸いな道となっていきます。自分中心ではなく神様の教えに従っていけば、色々な奇跡と守りが起こり、絶体絶命の時にも神様の助けを経験することができます。バカ正直でいるとバカを見るのでは?とこの世の人は思いますが、そうではありません。

 私たちは、御言葉に従うことにより幸いな人生を歩むことができます。今日御言葉から語られたことを覚えて、幸いな人生を歩むものでありたいと思います。

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