神様と私の関係

2021年11月21日

ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。
すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」
人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。

ローマ人への手紙 9章18~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、絶対的な創造者なるお方です。そして、支配者です。聖書には、神様は陶器師で、私たちは陶器であると書かれています。先ほどお読みした箇所では、私たちはその関係性を認識する必要がある、と語っています。

 「 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。
 この御言葉は、神様がそのような権利をもっておられることを示しています。神様は、たとえば、天皇に献上するような尊い器であっても、普通の食事のために使う食器であっても、それらを自由に作る権利をもっておられるお方なのです。陶器師と陶器の関係について、御言葉は次のように述べています。

ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。

イザヤ書 29章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか」とは、見なしてはならない、という意味です。この御言葉は、陶器師が粘土に対して絶対的な権利を持っていることを示しています。陶器師は、思いのまま、自由に、粘土から陶器を作ることができます。つまり、粘土は陶器師に対して、決して文句は言えないのです。

 それと同じように、神様は私たちを作る権利を持っておられるお方です。私たちが、私たち作った神様に対して、抗議など決してできないことを、次の御言葉は語っています。

ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。

イザヤ書 45章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、陶器師と粘土の関係性について、以下の御言葉にも記されています。

主からエレミヤに、このようなことばがあった。
「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」
私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。
陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
それから、私に次のような主のことばがあった。
「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。

エレミヤ書 18章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今お読みしたエレミヤ書の箇所は、私たちがまったく神様の御手の中にあるものだということを示しています。もし、神様の気にいるのでなければ、神様はそれを壊してもう一度作りなおす権利のあるお方です。

わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。
わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、
もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。
さあ今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。』

エレミヤ書 18章7~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちの幸せにしても、また滅びにしても、すべては神様の御手の中にあります。このことからも、神様と私たちとの関係性が見えてきます。

 つまり、神様は絶対的な陶器師のようなお方です。神様は私たちを作られました。そして、神様は意のままに作り、壊す権利を持っておられるお方です。それゆえ、神様と私たちは決して同等ではないのです。私たちはこの関係を認識していく必要があります。なぜなら、神様と私たちが同等であると考えることから、色々な問題が生じるからです。

 まず、私たちは文句を言ってはいけません。これは、神様と自分を同等にみなす、高ぶりからくるものです。

人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

ローマ人への手紙 9章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが高ぶり、不平不満を言うときに、神様の怒りが下ります。そして、様々な問題が生じてきます。

 聖書には、人びとが失敗した例がたくさん書かれています。そして、その根底にあるものはすべて高ぶりでした。神様が陶器師であり、私たちは作られたものであるという関係性を忘れて、高ぶり、文句を言うところから様々な問題が生じてくるのです。

 たとえば、ウジヤ王がその一人です。彼は、神様の助けによって南ユダ王国で用いられた人でした。彼は、16歳の頃から南ユダ王国の王となり、若いときにはゼカリヤと言う預言者の教えに従って生きたので、驚くべき助けを得て、その名声は遠くまで及びました。しかし、最後は高ぶり、退けられてしまいました。

ユダの民はみな、当時十六歳であったウジヤを立てて、その父アマツヤの代わりに王とした。

歴代誌 第二 26章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神は彼を助けて、ペリシテ人、グル・バアルに住むアラビア人、メウニム人に立ち向かわせられた。

歴代誌 第二 26章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。
神を認めることを教えたゼカリヤが生きていた間、彼は神を求めた。また彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた。

歴代誌 第二 26章4〜5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

さらに彼はエルサレムで、巧みに考案された兵器を作り、矢や大石を放つために、やぐらの上や城壁の角の上に据えた。こうして、彼の名声は遠くにまで広まった。彼が驚くべき助けを得て、強くなったからである。
しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。
すると、彼の後から祭司アザルヤが、主に仕える八十人の勇敢な祭司たちとともに入って来た。
彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは主の信頼を裏切りました。あなたには、神である主の誉れは与えられません。」
ウジヤは激しく怒った。香をたくための香炉を手にしていたが、彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。
祭司の長アザルヤと祭司たち全員が彼の方を見ると、なんと、彼の額がツァラアトに冒されていた。そこで彼らは、急いで彼をそこから連れ出した。彼自身も急いで出て行った。主が彼を打たれたからである。
ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔離された家に住んだ。彼が主の宮から断たれたからである。その子ヨタムが王宮を管理し、民衆をさばいた。

歴代誌 第二 26章15~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 後見人であるゼカリヤが亡くなると、その強さのゆえに、ウジヤの心は高ぶりました。そして「ついに身に滅びを招いた」とあります。彼は、アロンの子孫である祭司だけができることなのに、神様の神殿で香をたこうとしました。そして、祭司アザルヤと主に仕える八十人の勇敢な祭司たちが、彼をやめさせようとしました。しかし、ウジヤはこのことに対して「激しく怒った」、とあります。ここで、自分は間違っていた、とへりくだれば良かったのです。しかし、彼は高ぶり激しく怒ったので、彼の額にツァラアト、すなわち、難治性の皮膚病が現れました。「主が彼を打たれたからである」とあるとおりです。そこで彼らは急いで彼らを連れ出し、隔離しました。結果、「ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔離された家に住んだ」とあります。

 神様の前に自分は同等だ、と思ったことにより、ウジヤ王はこのような結末を迎えてしまいました。彼は、若いときは神様に従っていましたが、その名声が上がると高ぶりました。しかし、聖書には、高ぶるものは退けられる、と書かれています。よってウジヤ王は、その高ぶりによって神様に退けられてしまったのです。

 この例は、ウジヤ王だけではありません。モーセが導いたイスラエルの民も、高ぶって主に対して不平不満を言いました。

さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。
その場所の名はタブエラと呼ばれた。主の火が、彼らに向かって燃え上がったからである。
彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。
だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」
マナはコエンドロの種のようで、一見、ベドラハのようであった。
民は歩き回ってそれを集め、ひき臼でひくか臼でつき、これを鍋で煮てパン菓子を作った。その味は、油で揚げた菓子のような味であった。
夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれと一緒に降りて来た。
モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。

民数記 11章1~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 民が主に対して繰り返し激しく不平を言ったことにより、主の火が彼らに向かって燃え上がりました。また、彼らが、神様からの大きな恵みであったマナについて文句を言い、「ああ、きゅうり、すいか、にら、玉ねぎやにんにく、肉が食べたい!」と言ったため、主の怒りが激しく燃え上がり、多くの民が死にました。

 このように、神様に感謝もせず、自分の分をわきまえずに、不平不満を言うことは、大きな問題です。私たちは、神様に感謝をしていくべき存在なのです。それなのに不平不満を言うことが、問題を招くのです。

 また、あのモーセからも、私たちは学ぶことができます。彼も、神様と自分を同等においたことがありました。

イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。
そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。
民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。
なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに告げられた。
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。

民数記 20章1~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、「あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と、モーセに命じました。しかし、モーセは「われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と言って、杖で岩を二度打ちました。

 ここでモーセは二つの失敗を犯しました。まず一つ目に、神様が岩に命じなさい、と言われたのに、彼は岩を二度打ちました。確かに、神様の恵みによって、豊かな水が湧き出ましたが、結局神様からの怒りを買い、「あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない」と宣告されました。また二つ目の失敗は、「われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と言ったことです。岩から水を出すのは、神様のされることで、モーセとアロンはただ、神様に用いられる器に過ぎませんでした。それなのに、「われわれが」と言ったことに、神様と自分を同等におく問題がありました。

 人生において、私たちのなすことが段々祝福されてくると、私たちはいつの間にか高ぶり、ふとしたことで自分がしないといけないのか、と言ってしまうことがあります。しかし、神様に変わって自分が神となり、自分を神様と同等におくことによって、大きな不利益を被ってしまいます。

 つまり、私たちの問題は高ぶりの問題なのです。このため、神様の命令を絶対視し、すべて聞き従っていくことが大切です。

 このことについて、二つ、たとえをお話しします。まず、あるオーナー社長がいて、一から会社起こし、雇われている社員がいるとします。そして、そのオーナー社長は、自分の息子を社長とすることに決めました。しかし、ここまで会社が大きくなったのは自分の力もある、と思っていた社員は、そのことに対して反対します。ここで、オーナー社長はどうするでしょうか。もちろん、不平不満を言う社員を説き伏せて、説得しようとします。それでも社員が納得いかないのなら、(株式会社であればその会社に出資する株主の投票によって選ぶものですが)自分の息子を社長にするために、その社員を解雇することも十分に起こりうるのです。

 また、別のたとえをお話ししますと、ある親が、子どもたちには贅沢をさせるべきではなく、自分で一から財を築かせるべきで、自分たちの財産を残すべきではないと考えていたとします。そして、その億という単位のお金を、どこかに献金しようとしたとします。このことに対して、どんなに息子たちが文句を言ったとしても、親が決めたことなので変えることはできません。

 今述べてきた、たとえと同じように、神様は絶対的な存在です。神様は土から尊い器でも、普通の器でも、どういうものでも作ることができます。このため、私たちが神様を自分たちと同等において、神様の命令に聞き従わないことは許されません。このことをしっかりと認識していく必要があります。

 神様は、完全なお方です。そして、不公平なことをされないお方です。私たちが知るどんな人格者よりも、人格者であり、人間の知恵によらない、愛と恵みに富んだお方です。私たちが、もし、へり下って生きるなら、決して悪いようにはされません。もし、私たちが自分の分をわきまえ、神様をあがめ、仕えて生きるなら、神様は大いに祝福してくださるのです。

 私たちが、自分をただ、作られたものに過ぎないと認め、神様の命令に従い、へり下って生きるなら、幸いな人生を歩むことができます。多くの失敗例が、聖書に書かれています。私たちは、今の世の終わりの時代にあって、そこから学んでいく幸いなものでありたいと思います。

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