神様の御心を行うとは何か(前編)

2022年6月26日

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタイの福音書 7章21~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これまで、何度もこの御言葉をお読みしました。この御言葉を通して、イエス様に向かって、裁きのときに「主よ、主よ」と言う者が皆天の御国に入るのではないことがわかります。もちろん、「主よ、主よ」と言う者で天の御国に入る人はたくさんいます。しかしそういう人が皆天に入るのではなく、「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」とイエス様は言われたのです。

 「神様のみこころを行う者が入る」とありますが、具体的に、神様の御心とは何なのでしょうか。今日は神様の御心を行う者はどういう者なのか、この御言葉から取り継がせて頂きます。

 神様の御心を行うとは、抽象的でわかりにくいかもしれません。神様の御心とは何か、ということですが、その問いに対しては、マタイ22章35節から40節をお読みしたいと思います。

そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

マタイの福音書 22章35~40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで律法の専門家がイエス様を試そうとして、イエス様に、「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と尋ねました。このときイエス様は、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです」と言われました。ともかく神様を、私達の全てを持って愛することが第一の重要な戒めということです。

 そして、「『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です」と言われました。ですから、神様を私達の全てを持って愛し、また私達の隣人を自分自身のように愛すること、この二つの命令が重要と言われたのです。

 そして、「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」と言われました。ですから、聖書全体が私達に命じているのは、「神様を私達の全力をもって愛しなさい」「隣人を自分自身のように愛しなさい」ということです。これらが聖書の重要な戒めだということです。これらの重要な戒めを守ることは、神様の御心を行うということです。ですから、「神様の御心を行う人は、どういう人ですか」と聞かれたら、それは「神様を、自分の全てを持って愛する人であり、隣人を自分自身のように愛する人です」と言えるのです。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっている、と言われているからです。

 そして、出エジプト記に記されているモーセの十戒は、旧約時代の戒めの根幹となるとても大切な戒めですが、これもこの二つの戒めにかかっています。神様を愛するとはどういうことなのか、モーセの十戒からわかるので、そこをお読みします。

それから神は次のすべてのことばを告げられた。
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。
それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

出エジプト記 20章1~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、十の戒めからなるのがモーセの十戒ですが、第一戒から第四戒が、神様を愛することの具体例です。つまり、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」というイエス様の戒めの具体例が書かれています。そして第五戒から第十戒は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めに集約されます。

 まず、神様を愛することはどういうことなのか、第一戒に記されています。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」色々な神々と呼ばれているものがありますけれども、私達の真の神様以外に神があってはいけない、ということです。これはとても大切なことです。多くの人が、「いやいや、仏陀でも、ヒンズーの神々でも、何でもいい」と言います。けれども絶対に他の神々があってはいけないと言われています。より頼み、信頼し、聞き従うのは真の神様だけだ、ということです。ですから、そこからさらに発展して、人間であっても、もし私達が神様より、より頼むものがあったとしたら、それはいけないということです。私達が全てを委ねて聞き従って行く方は、ただお一人、真の神様だけだということを、私達は心に留めて、実行しないといけません。これが第一戒です。

 そして、第二戒は4節からです。「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」どのような形のものであっても、自分のために偶像を作ってそれを拝んで仕えることのないように、というのが第二戒です。実は偶像となるもの、拝むもの、仕えるものというものには、人間もなり得ます。このため、自分がより頼み、大切にし、「この人がいれば」などと言って、偶像化してはいけない、ということです。

 そして、第三戒は、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」です。また「主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」とも言われました。ですから、ユダヤ人たちは、主の名、ヤハウェと言うときに、アドナイというふうに読みかえていったわけです。

 これを私達に適用するとどうでしょうか。クリスチャンがよくやりがちな失敗で、明らかに主の御心でないとわかるようなことも、「主が私に語られた」「これは主の御心だ」「主がこう言われたんですよ」と言う人がいます。そう言われると、私達は何も反論することはできません。そういうことも、主の名をみだりに唱える、主を利用する、ということです。

 自分がどうしても実現したいことがあって、傍目から見れば主は何も語られてないことはよくわかるのに、「いや、主は私にこう語られたんですよ」と言った後、結局、主の御心でも何でもなかったとわかる例があります。例えば、明らかに主が御心とされる結婚ではなく、破綻すると思われるようなときでも、「いや、主は、この人と結婚するように私に言われました」とすごく主張される方がいます。そう言われると周りは何も言えなくなるわけです。でも、何年かするとやはり破綻してしまうのです。このように、自分の思いを通すために「主はこう言われたんですよ」と言う例があります。「私はこの人と結婚したいんだ」と言うのであればわかります。しかし、そこに主の名を使って、自分の思いを正当化しようとすることも、主の名をみだりに唱えることに入るので、注意していきたいと思います。

 本当に主が語られたのであれば、「私にこう語られたんです」と言うのも良いことです。しかし、時には、自分の思いがあまりにも強いと、自分の思いと神様の思いを混同しがちで、それで失敗する人もいるのです。このため、主が語られていないのに、「主が私に語られた」というのも、主の名をみだりに唱えることになるので、やめた方が良いのです。

 そして、第四戒は「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない」です。そして11節で、「それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした」とあります。

 仕事、労働には色々なものがありますが、6日間働き全ての仕事をして、7日目は主の安息なので休むことが大切です。もちろん、律法的にこれをしちゃいけない、あれをしちゃいけないと言うのではなく、安息日にも飢えた人に物を食べさせ、病気の人を癒すことは良いことだ、とイエス様も言われています。ただ、若いときは力があるからといって、休まないで7日間ぶっ通しで働くこともよくあるわけですが、必ずそのツケはどこかで来ます。

 これは私自身の反省でもあるのですが、私は今まで、薬剤師と牧師の仕事をやってきて、休みは祭日しかありませんでした。教会の仕事だからこれは安息日だ、というふうにも思ったりしていましたが、これは私自身の反省で、日曜日も牧師は働くため、薬剤師はフルタイムで働くべきではなかった、と感じます。必ず1日どこかで休めるときを持たないと、体が悲鳴を上げてしまい問題が出てきます。それが例え教会の仕事であったとしても、仕事は仕事なので、主を尊び、6日間一生懸命働いて1日休むというパターンを守っていかなければならないと思います。こういうことによって神様をあがめるのです。

 これまで述べてきたことをまとめると、真の神様はただお一人で、他の神々を神とせず、偶像を作ってそれに仕えず、真の神様だけに信頼し、より頼んでいくことです。そして、主が語られていないのに、主はこう語られたなどと言って、主の名をみだりに唱えないということです。また、安息日を覚えて、その日は主を褒めたたえていくことです。たとえ教会の仕事だとしても、どこかで1日、安息日を設けていくこと、そして主をあがめることはとても大切なことだ思います。

 これらの戒めを守っていくことが神様を愛するということですけれども、第二の戒めは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」です。先ほどお読みした出エジプト記20章12節から17節に記されているのが、その戒めに関する事柄です。

 第5戒は12節にあります。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」とあります。「あなたの父と母を敬え」と言われていますけれども、前にも申し上げたように、このモーセの十戒が与えられたとき、親の世代は尊敬できる世代だったか、と言われるとそうではないわけです。常に神様に不平不満を言い、多くは荒野で滅ぼされた世代なのです。ですから、「あなたの父と母を敬え」というのは、彼らのしていることを尊敬して倣いなさい、というわけではないのです。「あなたの父と母を敬え」というのは、自分を産んで育ててくれた恩に報いていくという要素が強いわけです。

 もちろん、尊敬できる親もたくさんいますけれども、そうでない親もたくさんいるのが現実です。ただ、どのような親であったとしても、両親が年老いて、手助けが必要になったとき、育ててくれた恩に報いて助けることが敬うことなのです。

 そして、第6戒は「殺してはならない」です。これは当たり前のことです。

 第7戒は「姦淫してはならない」です。姦淫は大きな罪なので、結婚以外の性を持ってはいけないという戒めです。

 第8戒「盗んではならない」です。人の物を盗んではいけないという戒めです。

 第9戒は「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」です。隣人について、意地悪な証言をして偽ってはいけないということです。

 そして第10戒ですが、「あなたの隣人の家を欲してはならない」です。隣人が持っているものを羨んで欲しいと言ってはいけないという戒めです。

 以上第5戒から第10戒が、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めに集約できます。しかし、イエス様は、これをさらに深く掘り下げて教えられました。ヨハネの福音書13章34節をお読みします。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネの福音書 13章34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このようにイエス様は、新しい戒めを私達に与えると言われました。それは互いに愛し合うように、ということです。そしてその愛し方は、イエス様が私達を愛されたように、互いに愛し合うことです。

 モーセの十戒では、隣人に対してしてはいけないこと、するべきことについて、ある意味当たり前のことが書かれていました。しかし、イエス様は新しい戒めを与える、と言われました。それは「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」ということです。

 ヨハネ15章12節から24節をお読みします。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

ヨハネの福音書 15章12~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様が私達を愛されたように私達も互いに愛し合うこと、これがイエス様の戒めです。「人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていない」とイエス様は言われました。イエス様ご自身が私達のために、命を捨ててくださったのです。何の良いところもなかった私達のために、命を捨ててくださいました。これほど大きな愛で私達を愛してくださったわけですが、そのように互いに愛し合いなさいと言われたのです。

 イエス様が十字架にかかられるとき、途中で弟子達はイエス様を裏切り、「知らない」と言ったりして逃げたわけです。それでもイエス様は彼らを愛されました。特にペテロはイエス様を否定することがわかっていたのに、信仰がなくならないようにと、前もって取りなしをされたことも記されています。そのように自分に不都合なことをしたとしても赦し、それほどまで愛することが大切だとイエス様は教えられました。

 そして、14節で「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。ですから、イエス様が私達に命じられていることは、ただ単に隣人に対して、ありきたりの「してはいけないこと」をせず、「なすべきこと」をする、というよりも、一歩踏み込んでイエス様が愛されたように、互いに愛し合うことなのです。

 ですから、たとえ自分に不都合なことをし、裏切ったとしても、赦し愛し合っていく、そしてその人が本当に良い人生を生きられるように、心を込めて取りなしていくことが、イエス様が私達に命じられてることなのです。それをせずに、預言し、奇跡を行い、色々なことをしたとしても、兄弟姉妹たちを赦さず、憎んでいたなら、「不法を行うもの、私の前から去っていけ」ということになるわけです。

 ですから、どんなに素晴らしい御霊の賜物を持ち働いたとしても、その人を絶対赦さないなどと言って、イエス様が私達を愛されたように、互いに愛し合うことがないならば、それは神様の御心を行うものではない、ということになるのです。父なる神様も、「これは私の愛する子」とイエス様について言われました。そして、「イエス様の言うことを聞きなさい」と、天から、言われたわけです。

 ですから、私達にとって本当に大切なのは、神様を愛することであり、また、隣人を愛することです。しかし、その愛し方は、イエス様が私達を愛されたように愛するということなのです。それが、主の御心だということを覚えて頂きたいと思います。

 来週はこのことについてもっと具体的にお話したいと思います。ともかく、大切なことは、特に先ほど申し上げたような四つの点において、神様を愛するということです。そして、もう一つは、隣人を自分自身のように愛するということですが、イエス様が私達を愛されたように愛することです。例え私達を裏切り、見捨てたとしても、その人を愛して取りなしていくということです。そのような人を赦し、その人の将来に対して益を図っていくことが、イエス様が私達に求められていることなのです。

 神様を愛し、隣人を自分自身のように愛する、すなわち、イエス様が私達を愛されたように隣人を愛する人が、神様の御心を行う人だ、ということを覚えて頂きたいと思います。

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