神様の思いと道

2022年7月31日

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──
天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。
まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

イザヤ書 55章8~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日はイザヤ書55章8節から12節の御言葉を見ていきたいと思います。8節9節にあるように、主の思いは私達の思いよりも高い、主の道は私達の道よりも高い、というのが絶対的なものです。伝道者の書3章11節を見ていきましょう。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

伝道者の書 3章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は神様のなさることを全部見極めることができないという思いをしっかり持つことが必要です。神様の思いは私達の思いよりも高く、神様の道は私達の道よりも高いとあります。私はかつて、2000年にアムステルダム2000という、世界伝道者会議に出席したことがあります。アムステルダムの近くに、当時、映画でも有名になったコーリー・テン・ブームの隠れ家があるので、尋ねました。するとその列に並んでいる人たちはアメリカ人と日本人ばかりで、現地の人は「この建物が何か有名な建物なのか」と言って、みな全くコーリ・テン・ブームのことを知らないし、映画も知らない状況でした。そのとき、「ヨーロッパから信仰が失われているんだな」と思いましたけれども、そこには隠れ家といって、コーリー・テン・ブームがユダヤ人をかくまった家が残されています。1階が時計屋さんで、2階がユダヤ人をかくまった隠れ家です。2階に入っていくと、まず大きな刺繍が置いてありました。その刺繍にはこのような説明書きがありました。

 「神様は刺繍の表から、一針一針間違えずに素晴らしいものを織りなしておられるのに、私達人間は刺繍の裏側からしか見えず、私達は「汚い、ボロボロだ」というふうに思ってしまいます。けれども、実は神様は一人ひとりに素晴らしいものをおりなしておられるので、私達は神様を信頼する必要があります」

 まさしくコーリー・テン・ブームの人生がそうでした。ユダヤ人をかくまい、大変な迫害の中でも生き延びて、主の素晴らしさを証した人でした。私達もそうなのです。神様がされることを最初から最後まで見極めることはできないですし、神様の思いは私達の思いよりもずっと高く、神様の道は私達の道よりもずっと高いこと、そして神様は本当に良い神様で、素晴らしいものをなしてくださっていることを、私達はまずへりくだり、認めていく必要があります。

 この御言葉から知る2番目のことは、先程お読みしたイザヤ書55章10節から11節にあります。神様の語られたことは必ずなるということです。ルカ1章45節にこのように書かれています。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

ルカの福音書 1章45節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸い」とあります。それはこの聖書の御言葉もそうですし、個人的に語られた言葉も、必ず実現すると信じた人は幸いだということです。でも、これはよくあることですが、神様の語られたことが遅延することがあります。ハバクク2章3節をお読みします。

この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。

ハバクク書 2章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 遅くなっても主が語られたことは必ず成就するという信仰を持つことが必要です。ヨセフもダビデもモーセも、神様が約束を与えられてから長らく待たされたことが聖書を見るとよくわかります。ですから私達は、遅くなっても主が語られたことは必ず実現することを覚えておく必要があります。ヘブル10章6節にはこのように記されています。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

ヘブル人への手紙 10章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 御心を行って、「約束のものを得るために必要なのは忍耐」とあります。私達の信仰の先駆者たちのように、忍耐して約束のものを得ていく必要があるということです。すぐに与えられるものも中にはありますけれども、それが大切で貴重なものであればあるほど、神様は私達を待たされることがあります。アブラハムもそうでした。ローマ4章16節から22節を見ていきましょう。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。
彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、
神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。

ローマ人への手紙 4章16~22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 アブラハムは私達の信仰の父と言われています。「アブラハムは神様には約束したことを実行する力があると確信を持っていた、だからそれが彼の義とみなされた」とあります。彼の体も、その妻のサラも、もう子どもを宿すことができないという中にありました。しかし状況がどうであれ、アブラハムの信仰はますます強くなりました。神様には約束されたことを実現する力があると信じきったので、アブラハムは義とされて信仰の父となった、とあります。ですからイザヤ書55章に記されているように、神様には、神様が言い送ったことを必ず成功させて、その御心をなす力があるので、神様が言われたこと、すなわち聖書の御言葉も個人的に語られたことも実現するという信仰を持つことが大切です。待たされることが良くありますけれども、遅くなってもそれは必ず実現するという信仰が大切です。また、アブラハムのように、状況がどんなに悪く、約束と状況が反対に行ったとしても、神様を信じることが大切です。それによってアブラハムは義と認められたということですから、私達が2番目に覚えておくことは、聖書の御言葉であっても個人的に神様が語られたことであっても、主が語られたことは必ず実現するということを、信じていく必要があるということです。

 3番目に覚えておく必要があることは、イザヤ書55章12節に書かれています。

まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

イザヤ書 55章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 主の御心に従っていくなら、私達は本当に安らかに平安をもって導かれていきます。主の御心は本当に良いものだということを私達はしっかりと心に留めておく必要があります。私達に立てておられる主の思い、道は良いものだということ、神様を愛するものには良い計画を持っておられることを信じていく必要があります。エレミヤ書29章11節をお読みします。

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

エレミヤ書 29章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は私達を愛しておられて、私達のために本当に良い計画を持っておられます。それは私達の思いや道よりも高く、私達が考えるよりもずっと素晴らしい良いものです。そのことを私達は知っておく必要があります。また、ローマ8章28節をお読みします。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙 8章28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達にとってマイナスとしか思えないようなことも、実は後から神様が全部益としてくださるという約束を私達は頂いていますから、神様をいつも信頼していきたいと思います。神様が私達のために立てておられるご計画は本当に良いもので、どんなにマイナスに見えることも益とされる信仰をもって歩む必要があります。

 今日のイザヤ書55章8節から12節から学ぶ三つのことは次のことです。一つ目は、神様の思いは私達の思いより高く、神様の道は私達の道よりも高いということです。ですから、私達は絶対に全てを見極めることはできないことを知り、神様の御前にへりくだって信頼していく必要があります。また、神様の言われたことは必ず実現することも覚えておく必要があります。御言葉に書かれていることもそうですし、個人的に語られたこともそうです。主によって語られたことは必ず実現すると信じる人は幸いだとあります。でも、待たされることが多いので、忍耐をもっていく必要があります。約束のものを得るために必要なのは忍耐だとあります。アブラハムも状況がますます悪くなっても神様を信じきったので、それが彼の義とみなされ、信仰の父となったとあります。ですから、私達も、どんなに状況が悪くなっても、神様の語られたことは必ず実現するという信仰を持っていきたいと思います。また、主のご計画、御思いは、私達の思いを超えて本当に素晴らしいものだとありますから、主に信頼することも大切です。

 私の小さなお証もしたいと思います。皆さんにも何回かお話したように、私は18歳で献身したいと思っていました(詳しい牧師の証はこちら)。もう10歳のときに伝道者の召しを受けましたし、高校生のときにも主が現れて、「私はあなたを人間を捕る漁師にしてあげよう」と言われたので、私は、将来は伝道師になると確信して、18歳のとき神学校に行こうと思っていました。でも、神学校に行こうと思ったら、その道が閉ざされたのです。それで私は、交通事故に遭いそうになる前、主を裏切ってこの世の名誉とか成功を求めたので、「主は私を拒絶されたのか」とちょっと暗くなったのです。当時うちの家は貧乏で、国公立じゃないといけないと言われていて、国立は駄目で公立の静岡県立大学の薬学部に入りました。神学校に行けなかったためで、全然本意ではありませんでした。聖書研究会がなかったので、聖書研究会を作り、救われる魂も現れたのですが、自分の意図と全然違う学部だったので、「神学校に行きたかったのにな」と思いながら、ちょっと暗い学生生活を送りました。

 それで大学を卒業したとき、「主よ、もう神学校に行って良いですか」と聞きました。けれども牧師先生も「全然」という感じで、主も何も言われませんでした。しょうがないので薬剤師の免許を取ってYキリスト教病院で働くことになりました。Yキリスト教病院の薬剤師のトップの2人はクリスチャンだったのですが、まだ若い20代の私との間にクリスチャンがいなかったので、周りの人が、「あなたは将来の薬剤部長ね」と言われて「そうなんですか」と、ちょっとがっかりしました。私は将来、このYキリスト教病院で薬剤部長として終えるのか、もう伝道者には呼ばれていないのか、と思っていました。しかし、30歳になったとき、主は突然現れて、私に「今こそ、神学校に行くときですよ」と語られたのです。しかも「アメリカの神学校に行きなさい」と言われて、色々な奇跡が起こり、アメリカで4年近く英語で学ぶことができました。

 このことを思うとき、本当に主の導きは完全だったと思います。私は18歳で神学校に行きたかったのに、30歳で日本の神学校でなくアメリカの神学校に導かれたことが、本当に今ではよかったなと思います。大学時代、自分の教派の教会がなかったので、他の教派の教会に行ったのですが、私は「自分の教派のクリスチャンこそ本物のクリスチャンで、他の教派のクリスチャンはちょっと問題がある」と高ぶっていたのです。それでそこの教会の牧師と何度も衝突して、すごい迷惑をかけました。しかし、そこで教会生活を続けるうちに、だんだんと、私の考えが間違っていたこと、教派が違っても素晴らしいクリスチャンはいっぱいいることもわかりました。そのためにそこに行ったことも良かったと思います。また、Yキリスト教病院に行くと、もっと幅広い教派のクリスチャンと出会えました。そこでも、本当に素晴らしいクリスチャンは、教派を超えていっぱいいることがわかりました。また、アメリカでも、世界中から学びに来ていて、「教派はあまり関係ないな」というふうに思いました。そして私の大好きな友人の一人は、今ではカトリックの神父さんです。本当に、その神父さんと話していると、霊的に一致できるし、私がまさかカトリックの神父さんと友達になるとは18歳の時には思いませんでした。そのときには、「カトリックはちょっと悪魔」みたいなことを言われて、それを信じ込んでいました。けれども、全くそうではないということが開かれたので、18歳の時に神学校に行くのではなくこういう導きがあったことにも、とても感謝しています。薬剤師の免許についても、私はとても暗くなっていたのですが、今振り返れば薬剤師の免許があったからこそ、テントメーカーとして、つくばの地で開拓伝道を続けられたのだと思います。このことを思うとき、薬剤師の免許もとてもありがたいものでした。40になっても50になっても、薬剤師で正職員として働けて、そして十分な開拓のための必要なお金が与えられたことに、本当に感謝しました。

 また、Yキリスト教病院では、非常に素晴らしい出会いが与えられました。S先生という院長と知り合って、先生の本当に素晴らしい信仰から学ぶことができました。そして、今こうして病院で差額ベッドなしで入院できるのも、S先生がそこを建てられたからです。神様は先のこともご存知で、そのような先生と出会わせてくださいました。また、S先生もご高齢だし会いに行こうと思って、集会でT先生とお出会いしたのですが、それもS先生を通して、またYキリスト教病院で働いたことを通しての導きだったことを思うと、本当に感謝でいっぱいです。

 また、今まで牧会するにあたって、いろいろな問題に引き込まれましたけれども、よく手伝ってくれたN弁護士の奥さんとも、Yキリスト教病院で知り合えました。この牧会生活をするにあたって、私にとって本当に大切な出会いがYキリスト教病院であったことを感謝しています。

 また、「アメリカの神学校に行きなさい」と言われてびっくりしましたけれども、TOEFLも全然実力がないのに、神様が奇跡的に点数を与えてくださいました。また、お金も十分になかったのに神様が与えて下さるという奇跡を見させて頂きました。そして、世界中からの素晴らしいクリスチャンとの出会いが得られたことも、今から思えば私にとって、とても良かったと思います。でも何よりも良かったのは、当時神学校、特にトリニティでは、世界中から有能な神学者とか、聖書学者が集まっていて、すごく聖書の深い学びができたことです。また、英語で読み聞き取れるようになったので、素晴らしいメッセージや注解書に出会い、文献を読めるようになりました。日本の神学校に行ったのでは到底できなかったと思うときに、今になって、神様の導きは素晴らしかったなと私自身、思います。18歳で神学校に行きたいと思っていたのに、その道が開かれずにがっかりしていたのですが、それ以上に神様は素晴らしいご計画を持っておられました。神様はその都度、私に説明をしてくださらなかったですけれども、今思えば、その導き一つ一つを感謝して歩んでいけば良かったな、と思います。

 本当に神様は私達を子どもとして取り扱い、喜んで導かれておられます。そのとき私達にわからなくても、神様に全てのことを感謝して歩み、神様にいつも信頼して歩むことが大切だということを、私の小さな体験からも、お証することができます。コーリー・テン・ブームの隠れ家にあるように、私達は刺繍を裏側からしか、本当に無茶苦茶なところしか見られないですけれども、神様は表から一針一針、素晴らしい織物を私達の人生になされておられます。私達はそのことを覚えていきたいと思います。神様の思いと道は私達の思いと道よりも高く、神様のご計画は必ずなり、またそれは素晴らしいものだということに信頼して、歩んでいきたいと思います。

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