2022年5月22日
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
マタイの福音書 28章18~20節
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
今日はイエス様が私達に与えられた大きなミッション、使命について見ていきたいと思います。
これまで、私達クリスチャンにとって一番大切なことは、イエス様の十字架であり、復活であるということをお話してきました。イエス様の十字架と復活。これはイエス様が、私達すべての罪を背負い、十字架で死んでくださったということと、イエス様は罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、よみがえられた、ということです。これこそ、私たちの信仰の中心であるということをお話しました。そして、よみがえられたイエス様は、「ミッション」を私たちに与えられました。これは英語で、「ザ・グレイト・コミッション」と言われています。
イエス様は「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と言われました。日本語の聖書の訳では色々と書いてあるのですが、ギリシャ語の原語で読むと、命令形は一つだけです。それは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」というところです。イエス様が私たちに与えられたミッションは、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」ということです。そして、この後は形容形になっています。「あなた方は行くことによって」「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けることによって」「イエス様が命じられた全てのことを守るように教えることによって」です。これらのことによって、あらゆる国の人々を弟子としなさい、とイエス様は命じられたのです。
「あらゆる国の人々を弟子としなさい」とイエス様は命じられましたが、何もクリスチャンの中の特別な人が弟子というわけではありません。そうではなく、クリスチャンイコール弟子です。イエス様は、ご自分に聞き従う人を求めておられます。何か都合の良いときだけ、「イエス様、助けてください」と言うのではなく、自分の全てを委ね切って、自分の全てを捧げてイエス様に従う人を、イエス様は求めておられるのです。
そのときに家族の者が反対しても、イエス様は「私よりも父や母、息子や娘を愛する者はわたしにふさわしくない」と言われました。たとえ家族の者がイエス様に従うことに反対しても、イエス様に従いなさい、ということです。そしてイエス様は、「世の終わりには、人々はあなた方を苦しい目に合わせ、殺すようなことがあるかもしれない。それでも私に従いなさい」と言われました。また、「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨てて自分の十字架を追って、私についてきなさい」とも言われました。イエス様の御心に従っていくためには、自分を捨てなければ従えない場面が多くあります。例えば、「自分の夢はこうだから」「自分はこうしたいから」「イエス様はこう命じられているけれども、人々はこういう風に自分に期待してプレッシャーをかけてきて、イエス様に従うなら仲間外れにされる、笑いものにされる」など色々な事が想定されます。ですから、「自分を捨てなさい。そして自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」とイエス様は言われたのです。
前にも申し上げたように、イエス様の弟子として歩むことは、ある意味マラソンのようなものです。市民マラソンのように、スタートラインに立つのは誰でもできます。参加します、と言えば誰でも参加できますけれども、マラソンの長い道のりを完走するのは大変です。同じように、イエス様の弟子になることには色々な苦しみがあって、途中で脱落していく人も多いわけです。けれども、イエス様は約束されました。「自分の命を捨てるものは命を得る」と。永遠のいのち、すなわち、神様の子として受け入れられ、この地でもイエス様と共に歩み、そして天国に行けるという恵みにあずかることができる、ということです。
イエス様は「自分の命を救おうと思う者はそれを失う、永遠の命を失ってしまったら何の得になるのか」そして「この世のすべての成功、名誉を手にしたとしても、自分のまことの命を損じたら何の得になろうか」と言われました。そして確かに、イエス様の弟子として歩む道は厳しい道なので、イエス様は前もって、「財産全てを捨てなければ、私の弟子になることはできません」と言われました。そのような覚悟は絶対に必要だということです。大きなことで決断を迫られることもあるので、よく考えてから神様に従うかどうかを決めなさい、と言われました。
確かにイエス様の弟子として生きる道は容易い道ではありません。けれども、報いは素晴らしく大きいものです。パスカルは、日本でも、パスカルの法則やクレオパトラの鼻の話で有名です。彼は若くして、フランスの貴族、天才として色々なものを手に入れました。けれども、イエス様と個人的に出会ってから、自分が思っていた栄誉、富というものは、永遠の命と比べたら何の価値もないことに気が付き、本当にイエス様の弟子としてイエス様の命令に従いたい、と思う様になりました。そして、貴族としてその栄華・栄誉にどっぷりと浸るよりも、貧しい人たちに仕えていった、と言われています。彼はあのルーレットも開発した人ですけれども、人生において一番ローリスク・ハイリターンなことは、イエス様を信じて永遠の命を頂くこと、天国に行くことだ、と言いました。確かに、イエス様を信じることによって苦しみがあっても、それに比べてリターンは全く大きいものです。確率論を研究したパスカルがそのように言っていて、私達も本当にそのように思います。確かに、イエス様を信じることから来る苦しみもありますし、葛藤もあります。けれども、私たちが得られる天国での祝福、また地上でもイエス様は共にいてくださるということは、本当に何ものにも比べ難いものです。
そして先ほど申し上げたように、イエス様が私たちに与えられたミッションは、イエス様の弟子を作りなさい、ということです。イエス様の弟子とは、「弟子」ですから、イエス様に全く聞き従う人たちです。その人たちが、天国に行くことになります。新約聖書のマタイの福音書7章21節から23節をお読みします。
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
マタイの福音書 7章21~23節
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、最後の裁きの時に、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのでは」ない、と言われました。「主よ、主よ」を原語で読むと、「私の主人様」とイエス様に言っています。ですから、これを言っているのは、いわゆるこの世で言うところのクリスチャンです。「主よ、主よ」と言い、「私の主人をイエス様」と言う人がみな、天国に入るのではなく、「天におられるわたしの父のみこころを行う者が入る」とあります。そして、その日には多くの人が、イエス様の名によって預言した、悪霊を追い出した、多くの奇跡を行った、と主張するけれども、「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」とはっきりと言う、と書かれています。これは「個人的にあなたを知りません」ということです。いくら素晴らしい働きをしたとしても、天におられる神様の御心を行うのでなければ、天の御国に入れない、と言われたのです。「イエス様を救い主として信じて受け入れます。イエス様こそ私の主です」と口先だけで告白し、働きもしたけれども、たくさんある神様の御心の中でもそれを行わなかった人は天国に入ることはできない、と言われたわけです。自分では天国に行けると思っていても入れない人が多い、と。ですから、同じマタイの7章13節と14節で、イエス様はこのように言われました。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
マタイの福音書 7章13~14節
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちは、日本に住んでいると、クリスチャンの人口が少ないので「私たちはわずかだから、クリスチャンになればみな天国に行ける」と誤解しています。確かに、日本人はとにかくクリスチャンになる人が少ないのが現状です。けれども、ここでイエス様が言われているのは、そのような中でも本当に主の御心を行うものはわずかだ、ということです。そして、その人たちはどういう人なのかと言ったら、イエス様の弟子なのです。イエス様に聞き従う人、すなわち、自分を捨てて、自分の十字架を負って、イエス様に従う人たちです。イエス様に従うことは、神様の御心を行うことと同じですから、何も特別な弟子を作りなさいと言われているわけではなく、本当に天国に行く人は主の弟子だ、ということです。
そして「主の弟子を作りなさい」とイエス様が言われたときに、ただ単に、都合の良いときだけ「イエス様」と呼ぶ人や、自分の都合の良いように聖書を解釈して自己満足する人を造りなさい、と言われたわけではありません。そうではなく、聖書でイエス様が教えられていることを本当に良く理解して、神様の観心を行う人を造りなさい、と言われたのです。そして、そのような人が天国に入るんだ、と言われたのです。ですから主の弟子を作ることはとても大切なことです。そして、私たちも、主の弟子になっていくことはとても大切なことです。
それで、今日皆さんと一緒に見ていきたかったのは、「それではどのようにして主の弟子を作るようにとイエス様は言われたのか」といことです。先程お話したように、三つの形容形があります。そのことについてお話する前に、マタイの13章45節と46節を見ていきましょう。
天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
マタイの福音書 13章45~46節
高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この御言葉は、いくら色々なものを持っていたとしても、天の御国はそれらを全部売り払って捨ててでも手に入れる価値のあるものだ、ということです。天の御国、すなわち、永遠の命は、他のもの全てを捨ててでも手に入れる価値があるものなのです。ですから弟子になることは私たちにとって価値があることですし、私達に与えられた、主の弟子を作るというミッションも、とても大切なことだということを、まず心に留めてほしいと思います。
それではマタイの28章に戻ります。19節から20節で、命令形は「あらゆる国の人々を弟子としなさい」でした。その後に三つの形容形があり、そこには、どういうことをすることによって主の弟子を作っていくのかが書かれています。まず、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とあります。これは全世界、あらゆる国の人々のところに行って、福音を伝えていくということです。これが一目つのステップです。二番目が「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けることによって、彼らを弟子としなさい」です。福音宣教をし、父子聖霊の名においてバプテスマを授けることです。また、三番目は「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えることによって弟子としなさい」です。以上三つのことを、イエス様は言われました。
それでは一つずつ見ていきます。まず、全世界に行って福音を伝えるように、とイエス様は言われています。マルコの16章14節から19節を見ていきましょう。
その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。
マルコの福音書 16章14~19節
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
このようにイエス様は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われました。ですから文字通り全世界に出ていくということです。日本からも色々な国に宣教師として出ていく人たちがいます。ただ、私が神学校にいた時に言われたのは、日本こそ宣教師が必要なところだ、ということです。
日本は、本当にクリスチャンが少ないです。そして、その中でも、本物のクリスチャンはごくわずかです。ですから、私たちは、日本にいながらにして、世界でも福音が伝わっていない国に置かれていると言えます。私たちはこの日本に留まることも大切です。もちろん、神様が宣教師としてどこかに行きなさい、と言われたら、それはそれで素晴らしいことです。けれども私たちが海外に行き宣教師として働かなくても、もう日本にいること自体が、福音を信じていない人たちが大勢いる、世界でも有数の国に置かれている、ということです。ですから、日本は福音を宣べ伝えるのに、本当に大きなフィールドです。ある意味働きがいがあるのです。この様な場所に、私たちが置かれていることを感謝したいと思います。
ここで私達が覚えないといけないことは、私たちが福音を宣べ伝えなければ人々は救われない、ということです。ローマ人への手紙10章8節から17節をお読みします。
では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
ローマ人への手紙 10章8~17節
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。
ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
まず、ここで良く問題になる御言葉についてお話します。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」とあります。今の日本で、イエス様を私の主と告白し、イエス様が死者の中からよみがえられたと信じることは、ある意味そんなに難しいことではありません。しかし、聖書のこの箇所は、私たちの今の状況とは全く違うところで書かれています。本当にこの聖書の意味を理解するためには、当時の二千年前のクリスチャンに宛てて書かれた手紙の意味を理解しなくてはなりません。「あなたの口でイエスを主と告白する」ことは、宗教の自由が保障されている今の日本で告白するほど、簡単なことではありませんでした。当時は非常に迫害が強かったのです。「イエスを主と告白する」ことは、「ローマ皇帝が私の主人ではない」と言うことと一緒でした。「ローマ皇帝が私の主人ではなくイエス様が私の主人です。そして、私はイエス様の奴隷です。」そんなことを口で告白するなら、殺される、命の危険も伴うようことであったと覚えておく必要があります。当時はローマ皇帝が圧倒的な主人だったため、ローマ市民でもそのことを宣誓したわけです。日本も戦時中、「神様は天皇陛下だけだ、参れ」と言われていました。そのとき当時のクリスチャンの中にも、「いいえ、神様はお一人だけだ」と言って参らずに、殉教の死を遂げたり牢獄に入れられた人たちがいます。この聖書の箇所が書かれたのもその様な状況でした。イエス様を主と告白し、「イエス様だけが私の主人です」と言うことは、命の危険も伴うような告白だったのです。それでも、当時のクリスチャンたちは、口で公に「イエス様は私の主」と告白したのです。10節と11節に、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」とあります。「ローマ皇帝ではなく、イエス様が私の主です」と告白することは、神様に信頼して全てをゆだねきることがなければできないことでした。イエス様に全部信頼してゆだね切らなければ、この告白はできなかったのです。
ですから、日本の今の状況で、この御言葉はすごく軽くなってしまっています。「ああ、もうこれで私は救われるんだ。ここに書いてあるでしょ。私はイエス様を主と口で告白したし、心で神様はイエス様を墓の中からよみがえらせた、と信じるなら救われると書いてある通り、私はしました。だから、私はもう救われて天国に行きます」などと軽く言うものではないわけなのです。本当に、自分を捨てて、自分の命のことも、財産のことも全てを信頼しきって、イエス様にゆだねきらなければこの告白はできなかったのです。ですから、そのように告白する人は、もちろん自分の思いよりも神様の思いを優先したので、神様の御心を行う人たちでした。
新約聖書は今から二千年以上前の、今とは全く違う状況の中で記されています。このため私たちは、聖書が記されたときの状況から、聖書は何と言っているのか、正しく理解していかなければいけません。このことを申し上げたかったので、ここでお話しました。
そして13節から15節にこのようにあります。「「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。」
「聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」とあるように、私たちが与えられているコーリングは、大きいものです。私たちが周りに宣べ伝えなければ、死ぬまで福音を聞くことができない人はたくさんいます。私達は、福音を伝えていくという、本当に大切なミッションがあることを覚えていきたいと思います。私たちが語らなければ、周りの人で、福音を聞かずに生涯を終える人も中にはいるからです。
そして、今、ユーチューブ、ツイッターやフェイスブックなど、色々なソーシャルネットワークサービスが発達してきました。色々な方法を通して、地球の反対側にいる日本人に対しても、福音を宣べ伝えられるのはある意味大きな愛です。福音を伝える手段として、もちろん、私たちの周りの人に伝えることもできますし、遠くの北海道でも、東北でも、九州、沖縄でも、ユーチューブやツイッターを通して、個人的に福音を伝えるきっかけが与えられていることも大きな愛です。もちろん、神様はこの終わりの時代に、福音宣教を加速しようとされて、こうしたソーシャルネットワークサービスも与えられたと思いますので、積極的に利用して、福音を宣べ伝えていきたいと思います。ただ最終的には、対面でイエス様のことを宣べ伝えることも大切です。私たちが語っていかなければ人は救われないのだ、ということを覚えていきたいと思います。私たちに与えられたミッションは重要です。
そして、何を宣べ伝えるのかと言うと、ともかく人は罪人だ、罪を犯した、ということです。この自分の罪の問題がわからなければ、イエス様の十字架の本当の意味はわかりません。先ほど礼拝の途中で、ちょっと涙が出てきたんですけれども、なぜかと言うと、イエス様の十字架のことを思っていたらすごく感謝だったからです。私は、先週の日曜日に退院したばかりで、九日間入院していました。その九日間は、ほとんど絶食で点滴をしていました。ご飯も食べないで、ベッドでほとんど寝たきりの安静と言われて、トイレに行く以外は寝ていました。けれども、まあそれは人生を振り返るのに本当にいい機会でした。これまでは忙しく、薬剤師の仕事で生活の糧を得ながら教会の働きもずっとしていました。しかし、ここで九日間入院して、ご飯も食べられないし何もすることはないわけです。もう絶対安静、と言われていたので、そこで人生について、落ち着いて振り返る機会が与えられたことはすごく感謝でした。私はそれまで、そんなに自分では悪いこともしていなかったんじゃないか、と思っていましたけれども、人生を振り返る中で、私の大きな罪を示されたのです。「あ、私、こんなに大きい罪を犯してたんだ」と。そのとき、どうすることもできない罪の大きさに圧倒されました。でも第一ヨハネの中で、約束されている御言葉があります。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
ヨハネの手紙 第一 1章8~9節
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」とあります。イエス様の血だけが、私たちの罪を清めるのです。それではその前の七節もお読みします。
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙 第一 1章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様の血が私たちの罪をきよめる、とあります。イエス様の十字架で流された血潮だけが私たちの罪を清めるのです。そして、神様は真実で正しい方ですから、私たちが罪を告白し「赦してください」とお願いするなら、私たちのどんなに大きな罪であっても、イエス様の十字架で流された血をもって神様は赦してくださる、という約束があるわけです。私が入院してて、この人生を振り返る機会を与えられたことは、すごく良かったと思います。そうでなければ、こんなに大きな罪を犯していたということを、あまり気づかずに、私は人生をそのままやり過ごしていたな、と思うのです。それと同時に、イエス様が天の栄光の御位を捨て、本当に貧しくなられ、辱められ苦しめられ、唾をかけられ、苦しまれて、十字架で私たちの罪を背負ってくださった意味が、余計に深くわかったのです。今日の礼拝でも賛美をしていたら、イエス様の十字架の意味がさらに深くわかって、感謝で涙が出てきたのです。
イエス様がおられなければ、そして、私たちの罪を背負ってくださらなければ、本当に私は私の大きな罪をどうすることもできず、滅びるしかなかった、とつくづく思わされました。ですから、罪を自覚することはすごく大切です。その私の罪は、人からは見えない罪、しかも正当化できる罪なので、誰も気が付かなかったですけれども、神様から、はっきりと「これは大きなあなたの罪です」と示されました。このため、ただただその罪を告白し、イエス様の十字架の贖いを感謝しました。ですから、私たちが人に福音を伝える時、その人に本当に罪があることがわからないと、イエス様の十字架の意味がよくわからないということがあります。このため、福音を伝えるときに、みなが罪を犯したということを伝えていくことは大切です。
そして、イエス様が私たちの罪を全部背負い、十字架で死んでくださったのでなければ、私たちの罪は絶対に解決されない大きな問題で、私達は滅びるしかありませんでした。しかし、私たちが自分の罪を認めて告白していくならば、イエス様の十字架の贖いのゆえ、神様は全ての罪を赦してくださると約束されています。全ての罪から、私たちを清めてくださるというのは、本当に大きな大きな愛です。
福音の中心が十字架と復活だと申し上げましたけれども、イエス様の流された血だけしか、私たちの罪を清めるものはありません。私も自分の罪に圧倒されて、もうどうしようどうしよう、と言ってイエス様に告白するしかありませんでした。この様な私の大きな罪のためにも、イエス様は死んでくださいました。ただただイエス様の十字架で流された血潮のゆえに、神様は私たちの罪を赦してくださいました。そして、私達は受け入れられ、神の子とされ、いつかイエス様と同じように、復活して天国に行けるという大きな愛、これがグッドニュースなのです。これを中心に福音を伝えていくことが大切です。
「まあ、でも、私にはそんな力はないわ」と言われる方がいるかもしれません。けれども聖書には素晴らしい約束があります。マルコの16章の15節と20節を見ていきましょう。
それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
マルコの福音書 16章15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕
マルコの福音書 16章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、お弟子さん達に、「全世界に出ていって全ての作られたものに福音を述べ伝えるように」と言われました。それに応答して、弟子たちは出ていって至るところで福音を宣べ伝えました。そして、「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」のです。ですから、私たちが福音を宣べ伝えるとき、主が共に働いて下さるということです。私たちの力で人々を説得したりするのは、ちょっと難しいわけです。でも、主が「ともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされ」ることによって、この人は到底救われないだろうと思う人が救われたのを、私も見てきました。それは主が、それぞれの人の人生に語ってくださるからです。私は福音を伝えただけですが、とてもじゃないけど、私がその人達を説得することはできないほど、もう本当に手強い相手でした。
私は、高校生の時に洗礼を受けたのですが、特に叔母が一番凶暴で、創価学会の熱心な信者でした。それで父のところにまで訴えに来て、「仏壇も参らないような娘は追い出せ、追い出せ」と言って、私がクリスチャンになったことに強硬に反対しました。けれどもその叔母が、親戚の中で一番早く救われたのです。もう地球がひっくり返ってもあの叔母は救われない、と思っていたのですが、福音を宣べ伝える中で、主が共に働いてくださり、その奇跡も見させて下さいました。ですから、私たちは、一人で福音を伝えるのではなく、主が共に働いてくださった、ということなのです。ですから、私たちは、何も恐れなくても良いのです。福音を伝えるときに、主が共にいて、語る言葉も教えて下さるからです。そして、人間的には難しいと思っても、主がしるしをもって、私達が語る福音が確かだということを教えてくださるのです。また、次に大切なことは、ペンテコステの日に詳しくお話しようと思っていますが、ここでは使徒の働きの1章4節と5節、それから8節も見ていきます。
使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
使徒の働き 1章4~5節
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
使徒の働き 1章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、復活されて昇天されるとき、すぐに福音を宣べ伝えなさいとは言われませんでした。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです」と言われました。そして、8節で、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言われました。イエス様が捕らえられる前は、「イエス様と一緒に死にます」などとリーダーのペテロを始め、みな口々に言いました。しかし、イエス様が捕らえられていよいよ自分たちの命も危うくなるというときに、「イエス様は知りません、知りません、知りません」と言ってペテロは否定するし、他の弟子たちもイエス様を捨てて逃げたわけです。そんな弟子たちが、福音を宣べ伝える力があるわけはなかったのです。ですから、イエス様はそのことをよく御存じで、すぐに福音を伝えなさいとは言われませんでした。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」つまり「聖霊のバプテスマを受けるまで待ちなさい」と言われました。そして、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言われました。ですから、私達は、自分の肉の力ではとてもではないけれども、福音を伝えることは難しいわけです。でも聖霊様によって力を受け、主が共に働いてくださるがゆえに、私達は福音を伝えることができる、ということなのです。その伝える力は主が、与えてくださいます。第一コリント2章1節から5節をお読みします。
兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。
コリント人への手紙 第一 2章1~5節
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。
あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。
そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
この様に、第一コリントを記したパウロが言っています。「私がコリントの兄弟たちのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしなかった」と。これは、つまり人間の知恵を用いなかった、ということです。そして、4節を見ると、「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」とあります。「それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだった」と。ですから、私達は、福音を単純に宣べ伝えることが大切です。多くの人にとって、それは愚かなことだけれども、私たちが福音を単純に宣べ伝えるとき、神様は力を与えてくださり、御霊と御力の現われによって魂が救われていくのです。そしてそれは、彼らの信仰が人間の知恵によらず、神の力によるものとなるために必要なものなのだ、と記されているのです。
まとめると、私たちは、まず福音を伝えるようにと言われています。全世界に出て行って、福音を伝えなさい、ということです。しかし、日本自体が世界有数の宣教未伝地域です。私たちは、日本にいながらにして大きなフィールドがあります。そして、私たちの周りには、私達が伝えなければ、生涯、福音に接することができない人たちがいます。このため、福音を宣べ伝える働きがとても大切です。
そして、語る福音の内容は、私たちはみな罪を犯して、自分の罪ゆえに滅びるものだった、ということです。イエス様を信じないゆえに滅びるのではなく、自分の大きい罪のゆえに滅んで地獄に行くものでした。しかし、神様はイエス様を送ってくださいました。私達が「イエス様の血潮によって、罪を赦してください」と自分の罪を告白するなら、神様は真実で正しい方ですから、その全ての罪を赦して不義から清めてくださる、という約束があります。神様は、罪を赦し、私たちの死ぬべき体もよみがえらせて下さり、天国に連れて行ってくださるという愛を与えてくださいます。そして、この地上にあっても神の子として受け入れられ、イエス様とともに歩むことができます。これが福音の大切なところです。また、福音を宣べ伝えるとき、十字架と復活を宣べ伝えることも大切です。そして、私達人間の力では人を救うことができなくても、聖霊を受けることにより力を受け、私達が単純に福音を伝えていく時に主が共にいて御霊が働いてくださり、信じる魂を起こしてくださるという約束があります。
続いて二番目に大切なことは、父と子と聖霊の名において、バプテスマを授けるということです。三番目はイエス様が命じられた全てのことを守るように教えることです。時間に限りがありますので、二番目と三番目については、来週、時間をかけてお話したいと思います。今日は、私達に与えられたミッションが大きい、ということを覚えていきたいと思います。