私達に与えられた大きなミッション(後編)

​​2022年5月29日

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイの福音書 28章18~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これまで、イエス様の十字架と復活について見てきました。聖書の中で一番大切な教えは、イエス様の十字架と復活です。これが私達の信仰の柱となるわけです。その復活されたイエス様がよみがえられ、お弟子さんたちに遭われ、天に帰られる前、最後に、私達にミッションを与えて下さいました。このミッションについて、日本語では大宣教命令と言われているため、「福音を伝えることが大切だ」という風に誤解されているところがあります。福音を伝えることも凄く凄く大切ですけれども、正しくは英語でグレイト・コミッションと言われています。大宣教命令については、私もアメリカに行って「大宣教命令じゃなかったのか。ザ・グレイト・コミッションなのか」と思って少しびっくりしました。聖書を日本語で読むとはっきりしないところがありますが、原語のギリシャ語で読むとはっきりします。この19節と20節の中で、命令形は一つだけです。それは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」というところです。「あらゆる国の人々を弟子としなさい」「イエス様の弟子を造りなさい」というのが、実は復活されたイエス様が天に戻られる前に、私達に命じられたことなのです。

 そして、この19節と20節を原語で読むと三つの動詞の分詞形があり、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」というところを形容しています。その三つの形容の一つ目は、「あなたがたは行くことによって」です。行くこと、すなわち福音を携えていくことによって弟子を造りなさい、ということです。二つ目は、「父、子、聖霊の名において、彼らにバプテスマを授けることによって弟子を造りなさい」です。そして三つ目は、「私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えることによって、弟子としなさい」ということです。ですから、宣教もすごく大切ですが、この部分を大宣教命令と訳してしまうと、ちょっと片手落ちになってしまうのです。実をいうと、イエス様が私達に与えられたミッションは、「あらゆる国の人々イエス様の弟子としなさい」ということです。

 そして、クリスチャンと呼ばれるイエス様を信じる人達がいて、その中の特別な弟子と呼ばれる人がいる、という風に、私達は勘違いするかもしれません。お花とかでも、何とか流などと言って、お花をやる人の中で特別な弟子がいたりするので、誤解するかもしれないですが、実は「あらゆる国の人々を弟子としなさい」というところの「弟子」は、クリスチャン皆が弟子なのです。そして、ただ単に、自分が困った時「ああ、困ったので助けてください!と言う人を造りなさい」とイエス様は言われたわけではありません。そうではなく、本当にイエス様に従う人をイエス様は求めておられるのです。私達は、聖書を自分に都合の良いように解釈したいところがあり、難しい犠牲が伴うことは辞めたいという流れがあるので、聖書の理解が曲げられているところがあります。しかし、私達は、イエス様が何を求めておられるのか、というところにしっかりと立つ必要があります。

 イエス様は、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われました。そして、弟子となる人だけが天国に入るのです。「主よ、主よ、と言うものが皆天の御国に入るのではない」とイエス様は言われました。「主よ、主よ」というのは、原語で読むと、「私の主人よ、私の主人よ」という風に言っています。イエス様のことを「私の主人様」と言っているけれども、「神様の御心を行わないものは知らない」と言われているわけです。そして、「神様の御心を行う者が天の御国に入るのだ」とイエス様は言われました。ですから、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、そこから入っていくものが多い。でも狭い門を見出すものはまれだ」と言われているわけです。イエス様ははっきりと、「神様の御心を行うことは、全くイエス様の弟子となって従うことで、そういう人が天国に入るのだ」と言われているのです。

 日本では、ただ単にイエス様を「私の主人よ」などと言って、困った時だけイエス様を呼ぶ人がクリスチャンと呼ばれています。また日本ではともかくクリスチャン人口が少ないので、クリスチャンになったこと自体がもう狭い門を通った、と思われているところがあります。しかし、実際にイエス様が言われたのは、「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」ということです。そして、家族の反対が色々とあった時、私よりも父、母、息子、娘を愛する者はわたしにふさわしくない、とはっきりと言われました。イエス様を大事にする人を、イエス様は求めておられるのです。ですからイエス様は聖書の中で、「あなたがたは、良く考えてみなさい。自分の財産を全部捨てる覚悟がなければ、私の弟子になることはできないから、その覚悟が無いんだったら、最初から弟子になることはやめても良い」というようなことも言われているのです。「よく考えてからにしなさい」「すべてを捨てるのでなければ私の弟子になることはできない」と。

 これからは終わりの大変な時代になります。特にこの時代には迫害も起こる、と書いてあります。この様なことを言うと、この教会に最初に来てくださった方は、「いや、そんな厳しいことを言われても」と思うかもしれません。しかし、イエス様が言われたことはとても厳しいです。そして、実際にイエス様が十字架にかかられる時も、あまりにも厳しく、皆がイエス様を捨てて逃げてしまった、という様なこともありました。本当に、「天国に行く道は細く、その門は狭い。これを見出すものはまれだ」とイエス様は言われました。

 そして今、臨死体験をする人もいて、最後の裁きを見てきた人が証言をしています。「一人ひとり、神様の御前に出て裁きを受けるけれども、クリスチャンで、私は絶対に天国に行ける、と思っていた人が地獄に投げ落とされたのを見てびっくりした」と。「クリスチャンでも十人に一人ぐらいしか天国に行けなかったんですよ」と最後の裁きを見て生還した人が報告しています。

 また、私が伝道説教学のセミナーに参加した時に、アメリカのオルフォード先生が興味深い話をされていました。「確かに、アメリカはクリスチャンの人口が多いけれども、教会に所属している人の中で本物のクリスチャンは、十人に一人しかいませんよ」と言われていたのです。それを聞いた時、裁きの時に十人に一人しか天国に行けなかった、という証言とつじつまが合うな、と思いました。今日、教会に久しぶりに来てくださった方もいるので、本当に弟子となってイエス様に従う人が天国に入るのだ、ということを覚えてほしいと思います。

 イエス様を一回でも信じたら天国に行けますよ、と言えば人気があるので、私もそう言って人を集めたいところですが、イエス様が聖書の中で言われていることは本当に厳しいです。これは苦難の道だ、と。市民マラソンでも、エントリーしたら、誰でも参加するのは簡単だけれども、完走するのは難しく、苦しみもあるのと同じです。ですから、クリスチャンとしてスタートを切るのは簡単だけれども、最後までイエス様に聞き従う人は本当に難しいし少ない、苦しいんだ、ということも覚悟の上で、イエス様に従うことが大切です。しかし、この報いは素晴らしく大きいのです。イエス様の弟子となることによって、この地にあっても、イエス様は共にいてくださり、いつもイエス様の助けを具体的に受けることができるからです。そして神の子とされるので、イエス様によってすべての罪が赦されていきます。

 私もちょっと九日間入院していて、ほとんど絶食で絶対安静だったので、それは自分の人生を振り返る良い時でした。そんな中で、自分が今まで罪だと思っていなかった、大きな罪を示されました。この罪をどうしたら良いのかと思って困惑していた時に、そうだ、と思いました。すべて罪を告白するなら神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦してくださる、という御言葉が与えられたのです。こうして私は、今まで気が付かなかった罪を告白し、祈りました。そして、イエス様がおられなければ、私はこの罪のために地獄の苦しみに入っていたんだと思った時に、イエス様の十字架の愛が本当によくわかったのです。この罪の故に、私達は滅んでいくものでした。しかし、私達がただ、「私は罪を犯しました」と言って、イエス様の前に自分の告白し、赦しを求める時に、十字架で流されたイエス様の血潮によって罪が赦される恵みにあずかるのです。そのことは大きな恵みだ、と思いました。そして、私達は皆、この地上での人生がいつか終わりますけれども、神様は私達を天国に連れて行ってくださるという大きな恵みに感謝しました。

 ルーレットを作ったことで有名なパスカルですけれども、彼は確率論者でした。そして、人生の中で一番ローリスク・ハイリターンなことは何か追求しました。そして、「ああ!イエス様を信じて天国に行くことが、人生で一番、ローリスク・ハイリターンだ」と確信したのです。ですから、フランスで成功者だったパスカルは、イエス様に従うため、文字通り自分の財産を売って、貧しい人達に毛布とか食料を配った、と言われています。本当にこの世の財産すべてを投げ打ってでも、イエス様に従い、イエス様の弟子となることには価値がある、ということなのです。

 真珠商人の話も聖書に出て、「高価な真珠一つを見つけたなら、他の真珠を全部売り払ってでも買う価値がある。それが天の御国だ」と語っています。どんな地上のものを売り払ってでも、神の子とされる、即ちイエス様の弟子となりイエス様に聞き従うことに価値がある、ということです。

 ヨハネの3章16節に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。「御子を信じる者が永遠のいのちを持つ」とありますが、この「御子を信じる」というところが、日本語では分かりづらくなってしまっています。ヨハネの福音書で「信じる」というところを原語で見ると、「すべてをゆだねる」「信頼しきる」という意味で書いてあるのです。自分のすべてをゆだねていく者が永遠の命を得る、ということです。

 また、ヨハネの3章36節で、「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」とあります。自分のすべてをゆだねていかなければ聞き従えないですから、そういうものが永遠の命を持っていく、ということです。日本語で訳されるとはっきりせず、私達の好きなように解釈してしまうところがあるのですが、原本を読むとそう書いてあるのです。このため私達は出来るだけ、イエス様が言われたことに忠実に聖書を見ていきたいと思います。ですから、イエス様はこのように言われました。「もう一度私がこの地に戻ってくる時、本当に地上に信仰が見られるだろうか」と。皆が好き勝手に聖書を解釈して、イエス様が言われた本当の意味が失われてしまっている、そういう時代になってしまうことをイエス様も警告されているわけです。

 少し前置きが長くなりましたけれども、イエス様が私達に与えられたミッションは、大宣教命令と呼ばれるように宣教をするだけでなく、とにかく宣教して、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けて、イエス様が命じられたすべてのことを守るように教えることです。この三つのことをもって弟子としなさい、とイエス様は言われた、ということです。

 先週はその宣教について見ていきました。日本こそ世界有数の宣教地で、私達が日本にいること自体、福音を宣教する大切な使命があることだ、と。そして、私達が語らなければ福音を聞くことができない人はたくさんいる、ということをお話しました。福音を語っても、罪がわからないとなかなか福音が伝わっていきません。このため、罪と、イエス様にあるその罪の赦しを伝えないといけない、ということをお伝えしました。そして、私達自身の力で宣教するよりも、私達が福音を宣べ伝える時、主が共に働いてくださることも先週お話しました。

 今週は、この二つ目の、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマ授け」というところの、バプテスマの意味について見ていきたいと思います。ローマの6章3節から11節をお読みします。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私達はみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私達は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私達も、新しいいのちに歩むためです。
私達がキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
私達は知っています。私達の古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私達がもはや罪の奴隷でなくなるためです。
死んだ者は、罪から解放されているのです。
私達がキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私達は信じています。
私達は知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

ローマ人への手紙 6章3~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 バプテスマの意味は洗礼で、自分の公の信仰告白です。「私はイエス様と共に葬られます」と告白すること、すなわち、自分を捨てるということです。「私が生きるのではなくて、私のうちにイエス様は生きておられるんだ」ということです。「イエス様にまったくすべてをゆだねて、イエス様と共に死んで葬られ、イエス様と共に生きていきます」という信仰の告白なのです。ですから、真に罪を悔い改めて、イエス様にすべてをゆだね、イエス様とともに葬られ、イエス様とともに生きるという決心をして洗礼を受けるということです。

 そして、洗礼を受けることはすごく大切なことです。それはまず、イエス様が「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」と命じられたからです。また、マルコの16章16節を見るとこのようにあります。

信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

マルコの福音書 16章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「信じてバプテスマ受ける者は救われます」とありますが、バプテスマが人を救うわけではなく、イエス様が命じられた命令に従うことが大切、ということです。信じてバプテスマを受け、イエス様の命令に従います、ということが大切なのです。

 「いや、バプテスマを受けなくても大丈夫だよ」という人もいますけれども、バプテスマを受けるということ自体が、イエス様の命令に従うということです。もちろん、例外はあります。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗は、バプテスマを受けられなかったけれども天国に行けました。また、重病の中でバプテスマを受けられない人達もいらっしゃいます。このように例外はありますけれども、そういう特別な例外がなければ、洗礼を受けることをイエス様は命じられていて、それが一つのイエス様に従うという行為なのです。

 それは「イエス様とともに私は葬られ、私が生きるのではなく、これからの人生はイエス様が私のうちに生きておられる。私はもうイエス様の奴隷です」と告白することです。「奴隷」というところは、日本語では「しもべ」と書いてありますが、原語では「奴隷」という風に強い意味で書いてあります。聖書が書かれた当時は「もう私はイエス様の奴隷です」という様な信仰の告白だったわけです。

 そして、洗礼、バプテスマを受けることのもう一つの大切な意味は、使徒の働きの2章の38節に記されています。

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

使徒の働き 2章38節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで「罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と言われています。自分が罪人だと認めて、それを悔い改めて、「これからはもう自分中心の生き方ではなく、イエス様中心の生き方で生きていきます」という告白、つまりバプテスマを受けなさい、と命じられたわけです。「そうすれば賜物として聖霊を受けます」とありますから、聖霊を受けるためにも洗礼を受けることは、一つのステップです。

 しかし、これにはもちろん例外もあります。私も洗礼を受ける前に聖霊を受けた人は何人も見てきましたし、聖書の中でも、コルネリウスという人が聖霊を受けたので、水のバプテスマを授けましょう、ということになりました。ただ一応これらは例外で、水のバプテスマを受けることはイエス様も命じられていることです。そして、イエス様の命令に従っていくことは大切なステップです。信仰の公の告白で、イエス様に従うことなので、とても大切です。バプテスマは「私は、イエス様と共に生きるものです」という告白であり、賜物として聖霊を受けていくために大切だ、ということです。

 また、「イエス様の弟子としなさい」とイエス様が言われた時、「まず行って、福音を伝えることによって弟子としなさい」と言われ、二番目は、「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けることによって、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました。次の三つ目のステップは、先程お読みした28章20節にあるように、「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えることによって、弟子としなさい」です。

 このような時代にあって、本当にイエス様が命じられたことが人間の好き勝手な解釈によってぼやかされているところがたくさんあります。しかし、私達は、イエス様が命じられたことをはっきりとさせる必要があります。イエス様が命じられたことはどういうことなのでしょうか。マタイ5章17節から22節をお読みします。

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。

マタイの福音書 5章17~22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は17節で、「私が律法や預言者を廃棄するために来たと思ってはいけない」と言われました。これはイエス様が、律法や預言者を廃棄するためではなく成就するために来られた、ということです。律法の一点一画は、天地が消え去るまで決して消え去ることなく実現するものだ、ということです。ですから私達は、律法や預言者をないがしろにしてはいけない、ということです。もちろん、旧約の時代に動物の血が献げられていましたけれども、それは子羊であるイエス様の血潮がただ一回流されることによって必要なくなりました。それはイエス様によって成就したのです。しかし、本質的な律法や預言者の教えは、イエス様が成就するために来られました。このため、私達はそれをないがしろにしてはいけない、ということです。その本質を私達は守っていく必要があるのです。

 日本では大多数の人がディスペンセーションで、時代を区切るので、イエス様の教えさえも一つ前の時代に言われたことと捉えて、私達には語られてないという捉え方をします。しかし私達はそういう捉え方ではなく、イエス様は何を教えられたのか、聖書は何を教えられたのかに重点を置きます。神様もイエス様も、昨日も今日もとこしえに変わることのないお方で、色々と変わったりはされないので、これは大切な教えなのです。ですから、イエス様は、「私は律法や預言者を廃棄するために来たのではなく成就するために来た」と言われたのです。そして19節で、「ですからこれらの戒めの最も小さいものを一つでも破りまた破るように人々に教えるものは天の御国で最も小さいものと呼ばれる」とも言われました。これらの教えはとても大切なことだ、ということです。ですから私達は、律法とか預言者に書いてあることでも、イエス様によって成就されたものについては、そのイエス様の御言葉に従ったら良いのです。

 例えば、21節で「人を、殺すものは裁きを受けなければいけない」という戒めについて、イエス様はそこから一歩踏み込んで「兄弟にばか者というものは最高法院で裁かれる。愚か者と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれる」と言われました。イエス様は、このようにもっと厳しく掘り下げて言われているので、そのことについて私達は、イエス様に従うわけです。旧約聖書では「目には目を。歯には歯を」と言う風に言っていますけれども、それはイエス様によって否定されて、「右の頬を打つ者には左の頬を向けなさい」と語られました。旧約の教えを聞いていた人びとが、当時まだ神様の御言葉を聞くに絶えられなかったので、「目には目を。歯には歯を」などと言われたのですが、イエス様によって深く掘り下げられたものについて、私達はイエス様の教えにもちろん従います。しかし原則としては、イエス様が律法や預言者を廃棄するためではなく成就するために来られたことを、まず私達はしっかりと押さえておく必要があります。

 そして今の時代は、本当に自分勝手に聖書を解釈したい時代だ、ということも私達は覚えておく必要があります。第二テモテの4章2節から4節を見ていきましょう。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

テモテへの手紙 第二 4章2~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、終わりの時代には、「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと」して、そういう話をする教師が人気が出てくるのです。そして、「真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になる」ので、私達はしっかりとイエス様が教えられたことを教えないといけない、ということです。自分に都合の良いように聖書を解釈して、それが主流になっていくからです。

 よく言われているのは、「一回でもイエス様を信じたら天国に行けますよ」ということです。それはそんなはずはないですよね。イスカリオテのユダも、一回は「イエス様を信じます」と言ったけれども、彼はイエス様を売って地獄に行きました。そして、その書簡が私達クリスチャンに語られていると言われている、ヘブルの6章5節から6節には、次のように書いてあります。

神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

ヘブル人への手紙 6章5~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、「神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わった」ということは、一回「イエス様を信じます」と言って、聖霊に満たされたわけです。でも、堕落してしまう人もいる、とあります。「そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです」とあります。ですから、一回「イエス様を信じます」と言っても、滅びる人なんていうのは、いっぱいいるわけです。それを「一回イエス様を信じたら絶対天国行ける」というのは、この手紙は今の時代のクリスチャンに語られている、と解釈する人にとっても、ちょっと違うな、とわかるわけです。しかし、ディスペンセーションと呼ばれている人達は、イエス様はユダヤ人に語られていて私達には語られていない、という風に捉えています。

 でも、先ほどお読みしたマタイの28章に戻ると、イエス様はユダヤ人だけに語られていないことがはっきりとわかります。先程お読みした19節には、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と書かれていますが、「あらゆる国の人々を弟子とすること」の三つ目に、「私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えることによって、弟子としなさい」と書かれています。イエス様が命じられたすべてのことを守っていくようになる人が天の御国に入るわけですから、ユダヤ人にだけイエス様が語られているというのは、ちょっとおかしいわけです。「あらゆる国の人々を弟子としなさい」とイエス様は言われました。そして「私が命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」と言われましたから、これは全く人間的な解釈だということがわかります。

 また、ある人達は「今は恵みの時代で、律法の時代じゃない」と言います。確かに今は恵みの時代です。当時、神様はユダヤ人だけに示されたのに、イエス様の時代になって日本人の私達も、イエス様の教えを聞き、聖霊を受け、救いを受ける恵みの時代になりました。けれどもイエス様は「律法や預言者を成就するため、完成させるために来た」と言われています。ですから、自分の都合の良いように聖書を解釈する、そういう終わりの時代から守られるために、イエス様が何を教えられたのか、本当に真剣に学んでいく必要があります。また、世の終わりには偽預言者や偽教師が来て惑わす、とイエス様は言われました。

そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。
もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。
そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。
いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。
ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。

マタイの福音書 24章21~26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この終わりの時代には、「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと」大きなしるしとか不思議とか、私達の目を奪うようなことをしてみせる、とイエス様は言われました。惑わしが起こる、ということです。イエス様が何を教えられたのか、しっかりと握っていかなければ、私達は惑わされてしまいます。ですから、色々な奇跡や現象によって惑わされないためにも、イエス様が命じられたことと教えられたことがどういうことなのか、きちんと学んで心に留めておく必要があります。

 そして、イエス様が命じられたことを学ぶことからさらに進んで、それを守り行うことが大切です。先ほどお読みしたマタイ28章の大宣教命令には、「私があなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」とあります。まず命じられたことはどういうことなのか学んでいく必要がありますし、「すべてのことを守るように教えなさい」と言われているように、それを守り実行していくことが大切です。ヨハネの3章36節にもこのように記されています。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「御子に聞き従う」とは、イエス様が言われた命令を守っていくことです。そして、実行していくことです。私もいろいろなクリスチャンと付き合いがあって、今までの人生の中で思いましたけれども、本当のクリスチャンは、教団教派を超えて、御言葉通りに生きている人です。本当に御言葉通りに生きていて、本当に素晴らしいクリスチャンだ、という人とたくさん会ってきました。「御子イエス様に聞き従う」とは、「ああ、その教えは素晴らしいな」というところからさらに踏み込んで、実際にイエス様が言われたことを実行することです。イエス様を信じる兄弟姉妹の一人が、食べ物がない時には食べ物を与え、乾いた時には飲ませ、着るものがない時には着せてあげる、そして旅人で泊まるところがない時に泊めてあげて、病気の時には見舞い、福音のために牢に入れられた時には尋ねる、これらを実行することがとても大切なのです。

 そして、イエス様が最後に羊と山羊をわける時、イエス様に対する信仰告白があったかどうかで分けるのではありません。本当に、イエス様の教えに従い、イエス様を信じる小さな兄弟姉妹の中で、食べるものがない空腹な人に食べ物を与えたのか、それともそんなの全然無視して生きてきたかによって、羊と山羊をわける、と言われたのです。ですから御言葉を信じて聞き従い、実行して生きていくかによって、イエス様は羊と山羊をわけられるのです。

 「私はあなたがたの行いに応じてそれぞれ報いをする」と言われました。律法主義でも何でもなく、本当にイエス様に自分のすべてをゆだねて、イエス様に聞き従って生きる人というのは、イエス様の語られたことを実行する人です。具体的に言えば、「本当にイエス様を信じる小さな兄弟姉妹が困っているとき、自分には助ける力があるのにそれを無視した人は駄目ですよ」とイエス様は言われているのです。「自分に助ける力があるなら喜んでその人を助ける、その人こそ天の国に入る人だ」とイエス様も言われているわけなのです。マタイの7章の21節から23節をお読みします。

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタイの福音書 7章21~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様に向かって「主よ、主よ、私の主人様、という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行うものが入るのだ」とイエス様は言われました。これは律法主義でも何でもなく、イエス様が本当に言われたのは、「イエス様の弟子を造りなさい」ということです。そして、本当のイエス様の弟子というのは、もう自分のすべてを捨てて、イエス様に従う、イエス様を第一として従っていく人です。自分の罪を悔い改め、自分の人生のすべてをイエス様にゆだねていく人です。「私が生きているのではなく、イエス様が私のうちに生きておられる」というように告白する人です。本当にそうする人は、困っている小さな兄弟姉妹たちをないがしろにすることなく、自分に助ける力があるなら喜んで助けていく人です。それこそが、天におられる神様の御心を行う人だ、ということなのです。いくら華々しく、色々な奇跡を行った、何をしたと言っていたとしても、小さな兄弟姉妹たちが困っていて、助ける力があるのに、それを無視した人達に対しては、「私はお前たちを全く知らない。不法を行う者たち、私から離れていけ」と言われるわけです。

 ですから、私達は、イエス様が命じられたことを本当にしっかりと守り行っていくことが大切です。それは律法主義とかでなく、本当にイエス様の弟子となっていくなら、自然と、困っている小さな兄弟姉妹がいて、自分に助ける力があるなら無視するなんてことはできないのです。それを実行していく人こそ、本当に天の御国に入る人なのです。

 私達はまず、イエス様が命じられたことはどういうことなのか教え、それを守りを行うように教えていくことが大切です。そうすることによって、イエス様の弟子を造りなさい、とイエス様が言われました。これが私達に与えられているミッションなのです。英語でグレイト・コミッションと言った方がピンと来ます。大宣教命令ではちょっと片手落ちで、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われています。日本は宣教地なわけですけれども、宣教に行くことによってもそれを行うことができます。そして「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けることによって」また、「イエス様が命じられたすべてのことを守り行うように教えることによって」弟子としなさい、というのが、私達に与えられているミッションです。

 そして自分自身がまず、イエス様の弟子となっていくことが大切です。また、「弟子を造りなさい」と言われているので、そのことも守りを行っていきたいと思います。私達が語らなければ生涯、イエス様のことを聞くことがない人が周りにたくさんいます。そして、多くの人が間違った教えに惑わされたりしているので、イエス様は何を命じられたのか学び、それを守ることが大切です。

 今は、「律法主義だ、行いじゃない、信仰によって救われるのだ」などと言われます。確かに信仰によって救われます。私達の罪は、どんなに良いことをしたって赦されません。「イエス様が私のために死んでくださった」それを受け入れる信仰によって救われ、行いによって救われるわけでは全くないですが、意味が違うわけです。行いによって救われるわけではないけれども、私達はイエス様から、神様の御心を行うようにと言われています。そして、イエス様が命じられたことが神様の御心であり、その御心を行う人が、天の御国に入るのだ、と言われています。ですから、私達はしっかりとそこのところを理解していく必要があるのです。

 特にこの終わりの時代には、いろいろな教えがあり、本当に惑わしの嵐が吹き荒んでいます。その中で、私達は、しっかりとイエス様が教えられたことはどういうことか理解し、それを行っていくことが大切だということを覚えていきたいと思います。そして、もちろん福音を伝えていくことも大切だということを、しっかりと押さえていきたいと思います。

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