結婚について

2022年3月13日

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

創世記 1章27~28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先週は、世の終わりの状況について見てきました。しかし、確かに、聖書は色々なテーマについて語っています。そこで今日はガラッとテーマを変えて、結婚について見て行きたいと思います。中には、これから結婚したいという方も、また、子どもさんが適齢期を迎えるという方々もいらっしゃるので、結婚について聖書はどう教えているのか見ていくことも大切です。

 先ほどは、創世記の1章の27節と28節をお読みしました。その中で神様は、ご自身の形に人を創造されたとあります。そして、男と女とに彼らを創造されて、彼らを祝福しました。また、仰せられたのは、「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」ということです。神様が、人を男と女とに作られ、「増え広がりなさい」「地を従えなさい」と言われたように、2人の間に子どもが生まれるよう結婚を制定されたということです。

 それではここから、結婚のプロセス、または注意点について見ていきたいと思います。新約聖書からお読みします。

イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」

マタイの福音書 19章4~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先ほども申し上げたとおり、神様は初めから男と女に人を創造されて、結婚も制定されたました。そして、今お読みした箇所で「男は父と母を離れ」とあります。結婚のプロセス、または注意点としてまず第1に、結婚する前に、男性も女性も両方が、父と母、つまり両親を離れるということがすごく大切です。これは独立する、ということです。聖書は、経済的にも精神的にも独立した状態で結婚しなさい、と書いているのです。

 これまで、牧師として、結婚に問題がある人びとのカウンセリングをしてきて感じることがあります。それは、親離れしていないがゆえに問題が起こっているケースが非常に多いということです。男性の場合は、奥さんよりも自分の母親にぴったりとくっつくとか、また、女性の場合は常に夫を自分の父親と比較して駄目だ、みたいなことを思っているのです。

 このように、父離れ母離れしていないことによる問題というものがありますので、結婚においてまず大切なことは、父と母を離れることです。経済的にも精神的にも完全に離れるということです。

 そして、結婚に関する注意点として2番目に、夫、または妻と結ばれるということが大切です。結婚するということは、相手と結ばれる、つまり、性的な関係を持っていくということです。それは結婚における喜びでもあり、また義務でもあります。このことについて、聖書は次のようにはっきりと書いています。

さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、
淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。

コリント人への手紙 第一 7章1~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 人には性的な欲望もありますから、人が結婚してから変な方向に行かないように、御言葉は「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい」と命じています。結婚以外の性的な関係は全て、姦淫の罪と言い、その罪について神様は怒られます。結婚という神様が制定された枠の中でだけ、性的な関係を、神様は良しとされているのです。結婚という関係にあってのみ、神様は「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」と言われました。そして、子孫を残すために、神様は性欲というものも人間に与えられたので、その性欲によって罪を犯すことがないよう、結婚することも良いことだ、と聖書は語っているのです。もし、独身でいられるのであれば、それはそれでいいですが、淫らな行いを避けるためにも結婚することは良いことだ、と聖書にあるとおりです。

 そして、この性的な関係は喜びと同時に、また義務だともあります。自分の体は相手のものなので、相手から求められたときには、もちろんそれを拒んではいけないということです。そうでなければ、相手の性的な欲望が満たされず、結婚以外の性に走ってしまいます。もちろん、神様はそのことを喜ばれません。このため、結婚したなら、相手の性的な欲求に対しては拒まずに応じていきなさい、とはっきりと書いているのです。

 そして、サタンにこの誘惑の機会を与えないようにとも書かれています。どうしても、性的な欲望が高じてしまうと結婚相手以外の人を求めて、姦淫の罪を犯してしまいがちです。このため、サタンにそのような機会を与えないようにということなのです。

 以上お話したことをまとめると、まず、精神的にも経済的にも両親から独立した後、結婚した2人は性的にも固く結ばれるというプロセスがあります。そして、先ほどのマタイの箇所に戻りますと、「男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、(性的な関係を持って)2人は一体となる」とイエス様が言われています。結婚は神様が制定されたものなので、性的な関係を持つことによって2人が一体となる、というようなことが実際に働きます。「あの夫婦すごくよく似てるね」とはよく言われることですが、実は性的な関係を持つと、心も霊も一つとなっていくように働くのです。ですから、夫婦が似てるというのは、まさしくそうなのです。性的な関係を持つことによって、体が一つになるだけでなく、心も霊も一つとなっていくように働くのです。

 これはアメリカの方で聞いたことですが、ある男性がクリスチャンになる前、女性と性的な関係を持ったときから、占いの霊がつくようになったと話していました。そのことですごく苦しめられていたので、カウンセラーの先生が「あなたは占い師と性的な関係を持ったことないですか」と聞いたら、「そうなんです。前の彼女は占い師でした」と言ったそうです。ですから、体が一つになることによって心も霊も一つになるように働き、相手の持ってる霊的なものも共有するようになる、ということが起こるのです。これは、結婚のプロセスとして、まず父と母を離れ妻と結ばれる、つまり肉体的に結合して一体になり、体だけでなく、心も霊も一体となっていくように、神様が定められたということです。

 そして、神様は不倫や不貞以外の理由で、離婚することを禁じられています。先ほどお読みしたマタイの6節で「ですから、彼らもはや2人でなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはいけません」とあります。神様が2人を結び合わせたので、人がそれを引き離してはいけない、ということです。また、9節では、「あなたがたに言います。誰でも淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とするものは、姦淫を犯すことになります」とあります。ですから、淫らな行い、つまり、配偶者のどちらかが不倫の罪を犯したとか、不貞の罪を犯したとか、そういうこと以外の理由で離婚するならば、姦淫の罪を犯してるということになります。ですから、相手が不倫や不貞の罪を犯したとき以外の離婚を、神様は認められない、と言われているのです。それ以外の理由で、すでに一体となった2人が離婚するなら、それは姦淫の罪だというわけです。

 でも、2人とも結婚したときはクリスチャンでなかったけれども、結婚した後、一方の方がクリスチャンになり、片方はクリスチャンにならなかったということがあります。そして、相手がクリスチャンになったので嫌になって、クリスチャンにならなかった方が離れた場合は、そのままにしておきなさい、とも書いてあります。クリスチャンになった側から離婚してはいけないけれども、相手がもう嫌だと言って離れていくんだったら、そのままにしなさい、ということです。

しかし、信者でないほうの者が離れて行くなら、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとして、あなたがたを召されたのです。
妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。
ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。

コリント人への手紙 第一 7章15~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 不倫や不貞以外の理由で離婚するのはよくないけれども、以上お読みしたとおり、信者でない方の夫、または妻が去っていくならそのままにしなさい、とも書いてあります。

 次に見ていきたいのは、これから結婚しようとしてる方々に対して、結婚相手は、どういう人であるべきなのかということです。旧約聖書にはこのように書かれています。

あなたが入って行って所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れるとき、主は、あなたよりも数多くまた強い七つの異邦の民、すなわち、ヒッタイト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人をあなたの前から追い払われる。
あなたの神、主が彼らをあなたに渡し、あなたがこれを討つとき、あなたは彼らを必ず聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。また、彼らにあわれみを示してはならない。
また、彼らと姻戚関係に入ってはならない。あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない。
というのは、彼らはあなたの息子を私から引き離し、ほかの神々に仕えさせ、こうして主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がって、あなたをただちに根絶やしにするからである。

申命記 7章1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、神様はイスラエルの民に、異教徒との結婚は駄目だと言われました。なぜかと言うと、その異教徒の配偶者が心を他の神々に転じるようにして、彼らをまことの神様から離してしまうからです。ですから、異教徒と結婚関係を持ってはいけない、とはっきりと聖書で語られているのです。

 しかしながら、多くの人々がその命令を破ってきました。その代表的な例がソロモン王です。ソロモンは、ダビデ王の息子で、神様からすごく祝福された王様でした。そのソロモン王の時代に、イスラエルは一番国が栄えました。ソロモン王は、神様から知恵をいただき、今まで生きた人の中で一番知恵深いと言われ、最初は神様に忠実に仕えていました。けれども、彼は異教徒の女性たちを愛したのです。そして、結局、その異教徒の妻たちがソロモンの心をまことの神様から離して、神様にあんなに忠実であったソロモンが、異教の神々を拝むようになってしまったということが書いてあります。

ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。
この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。
彼には、七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心と違って、彼の神、主と一つにはなっていなかった。
ソロモンは、シドン人の女神アシュタロテと、アンモン人の、あの忌むべき神ミルコムに従った。
こうしてソロモンは、主の目に悪であることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。
当時ソロモンは、モアブの忌むべきケモシュのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした。
彼は異国人であるすべての妻のためにも同じようにしたので、彼女たちは自分の神々に香をたき、いけにえを献げた。
主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからである。主が二度も彼に現れ、
このことについて、ほかの神々に従っていってはならないと命じておられたのに、彼が主の命令を守らなかったのである。
そのため、主はソロモンに言われた。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約と掟を守らなかったので、わたしは王国をあなたから引き裂いて、あなたの家来に与える。
しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたが生きている間はそうしない。あなたの子の手から、それを引き裂く。
ただし、王国のすべてを引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与える。」

列王記 第一 11章1~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、ソロモンは異教徒の女性たちを愛して離れなかったので、異教徒の妻たちが拝んでいる神々に従っていったということで、神様はソロモンに怒りを発せられました。そして、神様に忠実ならイスラエルは祝福されると、神様は言われていたので、ソロモンが神様に忠実な間は、本当にイスラエルは大いに栄えました。けれども、ソロモンが異教徒の妻たちを愛し、神様から離れて異教の神々を拝むようになってから、イスラエルの国はおかしくなっていきました。そして、この箇所に書いてあるように、ソロモンの死後、その息子には一部族しか与えられず、南ユダ王国になりました。他の10部族は、ソロモンの家来であったヤロブアムに与えられて分裂し、そこからおかしくなって、イスラエルは滅亡の道を歩むようになってしまったのです。

 このようにソロモンの罪は、歴史的に大きな転換点だったわけですが、何が問題だったかというと、異教の妻たちを迎えてはいけないと神様が言われたのに、異教の妻たちを迎え、愛して、彼女たちの神々を拝んだことです。先ほども申し上げたように、結局、結婚すると、体だけなく、心も霊も、全部一つになるように働きます。このため、どうしてもまことの神様から離れて他の神々に移っていくようになるということが起こるわけなのです。「異教徒の人たちと結婚してはいけません。なぜなら、彼らがあなたの心を転じて他の神々に向かわせ、主から心が離れるからである」と書いているとおりです。

 以上は旧約の教えですが、旧約聖書については、イエス様も次のように言われました。

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

マタイの福音書 5章17~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、「律法や預言者を廃棄するために来た」のではなく、「成就するために来た」とあります。そして、「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることは」ない、と言われました。例えば旧約聖書には「目には目を、歯には歯を」などと書かれていますが、それは、それを当時聞いていた人びとがまだ十分成長していなかったために語られたことでした。しかし、旧約の時代が過ぎ去って、イエス様が来られてから、「それは違う」とイエス様は否定されたのです。

 「あなたの敵を愛しなさい」「右の頬を打たれたら左の頬をも剥けなさい」とイエス様は言われました。また、「相手に手向かってはいけない」「復讐してはいけない、復讐は神様のされることだ」と言われたので、このように明確に打ち消されたものに関しては、イエス様の言われることの方が大切です。というのは、その前はまだ神様の啓示も十分ではなく、人びとがまだ十分に教えられていなかったからです。このため、イエス様によって教えが完成されたものについては、私達はそのイエス様の教えに従います。

 例えば、他にも、動物の血が旧約聖書では献げられていましたが、今、私達は動物の血を献げる必要はありません。というのは、イエス様がもう生ける献げものとなられて、私達の罪の贖いをなしてくださったので、イエス様によって私達の罪は許されているからです。しかし、それ以外のこと、つまり、イエス様によってさらに深く意味が解き明かされて、明らかにされたものについては、私達はイエス様の教えに従います。イエス様は「私は律法を廃棄するためにではなく成就するために来た」と言われていますから、旧約聖書の時代の原則はそのまま今の時代にも生きている、ということです。

 このため、私達は、異教徒との結婚に関してはノー、と言います。そして、新約聖書にもそのことについて書いてあります。この部分は間接的ではありますけれども、お読みします。

妻は、夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、夫が死んだら、自分が願う人と結婚する自由があります。ただし、主にある結婚に限ります。

コリント人への手紙 第一 7章39節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでは、どちらかの配偶者が亡くなったら、自分の願う人と結婚しても良い、つまり再婚してもいいですよ、と書かれています。これは姦淫の罪でも何でもないということです。ただし、主にある結婚に限ります、とはっきりと書いてあります。このように、死別した場合の再婚については主にある結婚に限りますとあります。主にある結婚というのは主を中心とした結婚、すなわち、主を中心にした者同士の結婚です。これは信者同士、クリスチャン同士の結婚ということです。ここでは、死別した場合の再婚について語られていますが、独身の人たちにも語られていることが、十分にここから読み取れます。

 また、このことについてもう一つ、御言葉からお読みします。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」

コリント人への手紙 第二 6章14~18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」とあります。くびきが何か、私達はよくわからないかもしれませんが、これは牛車とか馬車とかに乗るときに使う、2本の棒のことを指します。その棒を2頭の牛とか馬の首の後ろに当てて、2頭がしっかりと歩調を揃えて歩んでいくようにするものがくびきです。聖書には、不信者と釣り合わないくびきを一緒にしてはいけない、とあります。「正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう」ともあります。

 特に結婚というのは、毎日の色々なことにおいて、神様を中心とするか、この世のことや他の神々を中心とするか、ということによって分かれてしまうものです。このため、不信者とそういう関係を持ってはいけないとあるのです。結婚ほど、2人が揃って歩調を合わせて歩かないといけないものはありません。ですから、神様は未信者との結婚を良しとされないのです。

 以上述べてきたように、配偶者は主にある結婚に限るとあります。また、不信者と釣り合わないくびきを共にしてはいけないともあります。そして、旧約聖書は、異教徒と結婚すると心が他の神々に転じていってしまうとあります。このように、不信者と結婚することは良くないことと教えられているので、神様の御心はクリスチャン同士の結婚、と私達は捉えていくわけです。

 それで、私が長い間、信仰者として生きてきた中で見てきたのは、日本ではクリスチャンが少ないので、未信者と結婚する人が多いということです。中には、後からイエス様を信じるという人も現れますけれども、大体において、結婚することによって、せっかくいい信仰を持ってたのに、もう一方の配偶者に引きずられて、信仰から離れていくという人が多いです。ですから注意しないといけません。特に今は終わりの時代ですから、自分はしっかりと神様を信じて天国に行こうと思っていても、そういう配偶者と出会って結婚すると、心を転じてしまうことになります。旧約聖書や新約聖書には、イエス様を信じる者同士が結婚するようにと書かれていることが十分に読み取れる箇所があるので、まことの神様であられるイエス様を信じている人同士で結婚される方がいいと思うのです。

 そして、最後に、これから結婚される方々に向けて、結婚のメリットは何なのか、ということについて御言葉から読みたいと思います。

二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。
一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

伝道者の書 4章9~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、「二人は一人よりもまさっている」と、「二人の労苦には、良い報いがある」とあります。二人で労苦していくと、1対1が2以上のものになっていくということです。そして、どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こしてくれる、でも、「倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ」とあります。そして、「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない」とあります。これは、神様を信じる者たち2人が三つ撚りの糸を結ぶ、つまり神様を中心に置き、本当に堅固な三つ撚りの糸を結んでいくなら、それは簡単には切れないということです。1本とか2本よりも、3つで編んだ糸は簡単には切れないから、イエス様を中心とした良い関係を持てるなら、それは本当に強固なものだと書いてあるのです。

 以上が結婚のメリットです。そして聖書には、結婚のデメリットについても書いてありますので、そのことについても見ていきたいと思います。

未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。
差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。
あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。
しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。
兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。
泣いている人は泣いていないかのように、喜んでいる人は喜んでいないかのように、買う人は所有していないかのようにしていなさい。
世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、
心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。
私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。

コリント人への手紙 第一 7章25~35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 先ほどは結婚について「三つ撚りの糸は簡単には切れない」「二人は一人よりもまさっている」というメリットをお話しました。しかし、ここでは結婚のデメリットに関して書かれています。「差し迫っている危機のゆえに」とあるように、実はパウロがこの手紙を書いた状況というのは、クリスチャンたちが迫害を受けていた頃でした。ローマ帝国によって殺される者もいましたから、危機的な状況に陥ってるクリスチャンが多かったわけです。ある意味、今も世の終わりの時代の様相を呈しているので、危機的な状況と言えます。そういう状況であるならば、そのままの状態にとどまっている方が良いと私は思う、とパウロは言っているのです。

 パウロは、このときは独身でしたが、生涯独身だったかというとそうではないと言われています。パウロはサンヘドリンの会員でしたが、会員になるためには結婚していないとなれなかったと言われています。このため、死別か何かの理由で、パウロは、ある時奥さんと離れたけれども、結婚した時期はあっただろう、というのが聖書学者の一致した見解です。ですから、結婚のことについて、パウロは聖書で詳しく書いているわけです。そしてそのパウロは、こういう危機的な状況であるならば、そのままの状態でいた方が良い、と言っています。そして、もし結婚しているならそれを解こうとしてはいけないし、独身であるなら、結婚するよりも独身の方が良いとパウロは言っているのです。

 ちなみに、結婚したからといって罪を犯すわけではない、ともあります。けれども、特にこういう危機的な状況にあっては、身に苦難を招くと書かれています。なぜかと言えば、30節にあるように、結婚するとどうしても、この世と関わりすぎることになるからです。この世の有様は過ぎ去るので、世と関わりすぎないようにしなさい、と聖書にはありますが、結婚するとどうしても、色々なことで世との関わりが増えていきます。そして、独身なら、イエス様に喜ばれたいと思うものだけれども、結婚すればそういう思いから、 どうしてもそれぞれの配偶者に喜ばれたいと思うものです。そして、世のことに心を配り、心が分かれる、とあります。このため、こういう危機的な状況であるならば独身の方がい良いと思う、とパウロは述べているのです。結婚したからといって罪を犯すわけではないけれども、こういう危機的な状況では「できれば独身の方が、主にだけ心を配れるので良いのではないですか」と言っているわけです。

 ですから、結婚のデメリットとして、この危機的な状況にあって、主だけ見上げていきたい、主にだけ心を用いてきたいと思っていても、結婚するとどうしてもこの世との関わりがあって心が分かれてしまうということが起きやすいですよ、とパウロは警告しているのです。

 では、結婚した方が良いのかということについて、以下の箇所から見て行きたいと思います。

私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。
結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。
しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。

コリント人への手紙 第一 7章7~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 結局パウロが願うのは、全ての人ができれば独身でいることだ、とあります。そして、特に、こういう危機的な状況にあっては独身の方がいいけれども、一人ひとり神様から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があるとも言っています。独身として生きていける人もあるが、結婚して神様に仕えていくことも良いことだ、ということです。

 また、ただ独身が良いからといって独身のままでいたとしても、そういう性的な欲情に燃えるよりかは結婚した方がいいですよ、とパウロは語っています。罪を犯さないために結婚して妻とそういう性的な関係を喜びなさい、と書いてあるので、そういう方は結婚しなさい、ということです。結婚することは罪を犯すわけでは全然ないということです。

 以上述べてきたことが聖書が教えている結婚です。このようにざっと短い時間でお話してききましたが、結婚というのは神様が制定されました。そして、結婚はまず父と母を離れ、精神的にも経済的にも独立してないと、後々2人の関係にひびが入ってしまいます。独立してから2人は結ばれていく、ということです。また、その関係は喜びであると同時にまた、義務でもあります。自分の体は相手のもので、そういう関係を拒んではいけないと書かれています。そして、2人は一体となるとあります。体が一つになるだけでなく、心も霊も一つとなるように神様はプログラムされているということです。そして、神様は結婚を祝福されていますが、結婚以外の性というのは、禁止されています。ですから、相手に不倫とか不貞とかが認められたとき以外の離婚は駄目だというふうに言われています。また、結婚は神様を信じる者同士でないと、後々心が神様から離れて、他の神々に行ってしまうので、クリスチャン同士の結婚に限ります。

 そして、結婚のメリットは、本当にイエス様を中心とした結婚ができるならば、堅固な関係を持ち、困難に対しても立ち向かえ、助け合えるということです。けれども、デメリットとしては、こういう危機的な状況で、相手を喜ばせようなどと考え、この世との関わりが増えてしまい、神様から心が離れることがある、ということです。それでも、結婚したからといって罪を犯すわけではなく、一人ひとり、神様からの賜物や召しがあります。独身として召されてる人、結婚するように召されてる人、それぞれ生き方があると聖書は語っています。結婚したからといって罪を犯すわけでも全然ないということです。そして、もし性的な欲求を抑えられないなら、それはもう結婚した方がいいとも書いてあります。

 以上述べてきたことに照らし合わせて、これから結婚しようとされる方々には参考にして頂きたいと思います。また、子どもさんがいる方も、これが聖書が教える結婚なんだ、ということの理解を深めて役立ててくだされば、と思います。

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