罪を犯したダビデの生涯

2021年11月14日

こうしてソロモンは主の王座に就き、父ダビデに代わって王となった。彼は栄え、全イスラエルは彼に聞き従った。
すべての首長たち、勇士たち、そしてダビデ王のすべての息子たちも、ソロモン王に忠誠を誓った。
主はソロモンを全イスラエルの目の前に非常に大いなる者とし、彼より前にイスラエルを治めたどの王にも見られなかった王の威厳を、彼に与えられた。
このようにして、エッサイの子ダビデは全イスラエルを治めたのである。
彼がイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、エルサレムで三十三年治めた。
彼は幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。

歴代誌 第一 29章23~28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ダビデの生涯は、色々なことがありましたが、非常に祝福された幸せな生涯でした。そして彼は、「幸せな晩年を過ごし、齢も富も誉れも満ち足りて死んだ」とあります。満ち足りた齢というのは、長生きした、ということです。それだけでなく、彼は富も誉れも満ち足りてその生涯を閉じました。悲惨な死を遂げたサウル王とは対照的です。

 彼は、イスラエルを四十年という長きにわたって治めました。そしてその息子、ソロモンをとおしてイスラエルの確立を見ることができました。このことは、親としても、また王としても安心できることであったと思います。

 ダビデが亡くなった後、神様がソロモンに言われたのが、次の御言葉です。

もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、
わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。

列王記 第一 9章4~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、ダビデのことを、「全き心と正直さをもって神様の前を歩み、神様が彼に命じたことすべてをそのまま実行し、神様の掟と定めを守った」、すなわち、忠実な者だった、と総括しています。しかし、聖書には、彼が大きな罪を犯したことについて記されています。聖書は、どんな偉大な英雄であろうとも、赤裸々にこんなことをした、と書いています。聖書で活躍したモーセも、ダビデも、ペテロも、皆、失敗を犯しました。このことにより、聖書は、人間が罪深く、失敗する存在であることを示しています。

 ダビデが罪を犯した時のことが、次の御言葉に記されています。

ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。

サムエル記 第二 12章7~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 預言者ナタンは、ダビデが罪を犯したときに、彼が「主のことばを蔑んだ」と断罪しました。ダビデは、地位も誉れも名声も手に入れて、ふと気が緩んだすきに、人妻であるウリヤの妻、バテ・シェバと姦淫の罪を犯しました。そして、そのことによってバテ・シェバが妊娠したことがわかったときに、そのことを覆い隠すため自分の部下であったウリヤに酒を飲ませてバテ・シェバのもとに返そうとしました。その夫であるウリヤによってバテ・シェバが妊娠した、ということにしたかったのです。しかし、ウリヤは忠実な人でしたので、「〜私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私が家に帰り、食べたり飲んだりして、妻と寝るということができるでしょうか」と言って自分の家に帰りませんでした。そこでダビデは、ウリヤを戦いの最前線に送り、戦死するように手紙を送って、彼を間接的に殺しました。

 ダビデがしたことは、今の時代では、罪というよりも犯罪と言うべきでしょう。彼は、不倫を覆い隠すため、間接的に人殺しをしました。たとえその人がどのような地位にあったとしても、人の人生を破壊するような大きな失敗を犯してしまうものです。

 ここで、罪を犯したダビデから学ぶべき三つのポイントがあります。まず一つ目に、人は弱い、罪深い存在だ、ということです。

 ダビデは、若いときから、神様に忠実に仕えてきました。神様は、ダビデの心が御心にかなうのを見て、彼を油注ぎ、王としました。若いときから、彼は神様に忠実で、巨人のゴリアテと石ころ一つで戦いました。また、サウル王から追われていたときも、神様に忠実でした。しかし、イスラエルの王となり、戦いに勝利して、イスラエルが統一されてその王国が安泰になったとき、その心は神様から離れ、バテ・シェバと姦淫の罪を犯しました。

 人は、環境が変われば容易に大きな罪を犯してしまう存在です。その危険性は、例外なく皆が秘めており、皆この罪深い性質を持っています。人は環境によっては、人を殺す犯罪者にもなれてしまうのです。このように、人は、罪深い存在であることがわかります。聖書は次のように語っています。

では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
悟る者はいない。神を求める者はいない。
すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」

ローマ人への手紙 3章9~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、自分や人について、これからも罪を犯すし、犯すであろう弱い存在であることを理解する必要があります。

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

ヨハネの手紙 第一 1章8~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません」と聖書は語っています。ダビデは不倫と人殺しと言う、今の時代大スキャンダルにもなる罪を犯しました。しかし、これは私たち一人ひとりに決して関係がないわけではありません。ダビデが特別ではないのです。なぜなら、今、このような罪を犯していなかったとしても、ただ、私たちが守られているのに過ぎないからです。私たち皆のうちに、このような恐ろしいものが秘められていることを覚えて、神様の前にも、人の前にも自分は罪赦された罪人だと、へり下るものでありたいと思います。私たちは、立っていると思っても、いつ倒れるかわかりません。ホッとして気の緩みが生じたすきに罪を犯したダビデから、学んでいきたいと思います。もし今、罪から守られているなら、倒れないように気をつけなければなりません。

 また、私たちは、犯罪や罪を犯した人、特に自分に対して罪を犯した他者に対して、赦すことが必要です。私たちにも罪の性質があって、相手の立場だったらどうなっていたかわからないからです。

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

マタイの福音書 6章14~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様の赦しを受けるためには、他者に対する赦しは絶対条件です。ある人は、人を赦さなくても天国に行ける、と言います。しかし聖書には、人を赦さなければ神様も赦されないと書かれているのに、どのようにして天国に行けると言うのでしょうか。

 私たち皆、決して神様に返すことのできない負債を抱えています。それは、人が自分にした悪とは到底比較にならないほど大きいものです。私たちも、その人と同じ立場であれば、同じことをしていたかもしれません。このように考え、人を裁かないことも大切です。

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

マタイの福音書 7章1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちも、罪を犯したダビデと同じ立場だったら、どうなっていたかわかりません。「人の心は陰険で癒しがたい」と聖書の御言葉が語るとおりです。

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

エレミヤ書 17章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

このことから、私たちは、自分自身を人にゆだねない、と言うことも覚えていきたいと思います。

人を偏り見るのは良くない。人は一切れのパンで背く。

箴言 28章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 残念ながら、人は自分を守るために、一切れのパンで背く存在です。このことから、私たちが覚えておくべきことがあります。

 たとえば、受験でも、絶対通ると思っていたのに不合格だと、私たちはかなりショックを受けます。しかし、始めから通らないものと諦めていたら、不合格でもさほどショックは受けません。また、たとえば、あんな素晴らしい人と結婚できない、とわかったときにショックで自殺までしてしまう、ということも起こります。しかし、そんなに好きでもないし結婚できなくてもいいや、と思っていれば、決してそのようにはならないのです。

 人は期待が大きいと、その期待が外れたときに大きなダメージを精神的に受けてしまいます。このため、人は罪を犯しやすいものだと前もって知り、自分自身をゆだねてしまわないようにすることが必要です。私たちが自分自身をゆだねることができるのは神様だけです。このため、聖書は次のように語っています。

主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。

エレミヤ書 17章5~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「人間に信頼する者」とは、人間に自分をゆだねていくもの、という意味です。このようなものはのろわれよ、とあります。反対に「主に信頼する者に祝福があるように」とあります。

 善良であったダビデでさえも、善良なウリヤを殺しました。このことから、人にゆだねることは危険です。そのような者はのろわれよ、とあるとおりです。

 このことについて、イエス様からも学ぶことができます。イエス様は、人を愛されたがゆえに、貧しくなられ、身代わりとなって死んでくださいました。その命を与えられたほどに、私たちを愛された方の貧しさによって、私たちクリスチャンは豊かなものとされました。しかし、そのイエス様でさえも、人の心に何があるのかご存知で、ご自分をゆだねることはなさいませんでした。

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、
人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。

ヨハネの福音書 2章23~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 人びとは、イエス様が奇跡を起こされるとイエス様イエス様、と言って寄っていきました。しかし、ひとたび、難しい、聞きたくない話をされると、人びとはご自分を捨てて去っていくことを、イエス様は十分に知っておられたのです。

 人が私たちの期待を裏切ったときには、ショックが大きいものです。ですから、私たちもイエス様のように、人にゆだねることをやめることが必要です。

 二番目に、罪を犯したダビデから学ぶべきことは、種を蒔けば、刈り取りは必ずある、ということです。

どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。
今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』
主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。
あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとで、このことを行う。』」
ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。
しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」

サムエル記 第二 12章9~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ダビデは、罪を犯したことによりいくつかの刈り取りをすることになりました。まず、「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない」と預言者ナタンが宣告したように、ダビデの息子、アブサロムが王となろうとして、ダビデは追われることになりましたが、結局アブサロムは殺されました。また、ソロモン王が王になる前には、ダビデの別の息子、アドニヤが王になろうとして、結局同じように殺されました。また、「彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。 あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとで、このことを行う」と宣告を受けたとおり、のちにそのことがなりました。それだけでなく、「あなたに生まれる息子は必ず死ぬ」という宣告のとおり、バテ・シェバとの不倫によって生まれた息子は死にました。このように、ダビデがその罪による刈り取りから逃れられなかったように、私たちも罪の刈り取りからは逃れることができません。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。

ガラテヤ人への手紙 6章7~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 種を蒔けば必ず実がなるのが、自然界の法則です。それと同じように、時間がかかっても刈り取りは必ず来るものです。ダビデも、自分の罪を蒔くことによって、何倍もの苦しみを身に受けることになりました。私たちも、どういうものに蒔くのか気をつけなければなりません。この地上でも、天国においても刈り取りはあります。このため、私たちは、機会があるたびに善を行うことが必要です。このことには必ず報いがあります。私たちは、良い種を蒔いていきたいと思います。

 しかし、ここで、さらに申し上げたいことがあります。私が、種まきと刈り取りの法則について話すと、ある人は、私は悪いものばかり蒔いてきたから悪いものを受けるばかりだ、と言います。確かに、刈り取りはあります。しかし、それを打ち消す神様の恵みがあります。

 三番目に罪を犯したダビデから学ぶことは、主の赦しと憐れみは大きい、ということです。ナタンから罪の刈り取りの宣告を受けたときに、ダビデはすぐに自分の罪を告白して、悔い改めました。そのとき、「あなたは死なない」と宣言されたのです。

ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。

サムエル記 第二 12章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ソロモン王は、バテ・シェバとの間の子どもです。最初の子どもは死にました。しかし、その後の子ども、ソロモンを主は王として選び、イスラエルの王国を確立されました。ダビデは、40年もの長きにわたり王としてとどまり、その王国を確立し、幸いな晩年を過ごして齢も富も誉れも満ち足りて死にました。

 神様は、ダビデが悔い改めたとき、その罪を取り去ってくださり、何もその罪に対して言わずに、次のとおりダビデについて総括されました。

もしあなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正直さをもってわたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことすべてをそのまま実行し、わたしの掟と定めを守るなら、
わたしが、あなたの父ダビデに『あなたには、イスラエルの王座から人が断たれることはない』と約束したとおり、あなたの王国の王座をイスラエルの上にとこしえに立たせよう。

列王記 第一 9章4~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ダビデには大きな汚点がありました。しかしそれを心から悔いたとき、主は彼を全く洗い、清めて新しくされました。

 ダビデは詩篇51篇の中で、次のように、自身の罪を告白しています。ト書きのところからお読みします。

指揮者のために。ダビデの讃歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。

神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。
まことに私は自分の背きを知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。
私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました。ですからあなたが宣告するときあなたは正しくさばくときあなたは清くあられます。
ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。
確かにあなたは心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を教えてください。
ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
楽しみと喜びの声を聞かせてください。そうすればあなたが砕かれた骨が喜びます。
御顔を私の罪から隠し私の咎をすべてぬぐい去ってください。
神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から投げ捨てずあなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを私に戻し仕えることを喜ぶ霊で私を支えてください。
私は背く者たちにあなたの道を教えます。罪人たちはあなたのもとに帰るでしょう。
神よ私の救いの神よ血の罪から私を救い出してください。私の舌はあなたの義を高らかに歌います。
主よ私の唇を開いてください。私の口はあなたの誉れを告げ知らせます。
まことに私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。

詩篇 51篇1~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 彼は、このように自分の罪を告白し、悔い改めをなしていきました。すると主は、その罪を取り去ってくださいました。そして清い心を与え、恵みを与えてくださったのです。主は、悔い改める私たちにも同じようにしてくださいます。

わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし
あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ
あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。

詩篇 103篇1~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これは、ダビデが書いた詩篇です。「主はあなたのすべての咎を赦し」とあるように、ダビデは、大きな咎があっても、主が赦してくださったことを知っていました。そして、そのいのちを穴から贖われて、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、その一生をよいもので満ちたらせてくださったことを何一つ忘れずに、あなたの御名をあがめます、と告白したのです。

 私たちが、自分の罪を告白し、悔い改めるなら、良いもので一生を満たしてくださることに、目を向けていく必要があります。過去に蒔いたものの刈り取りがあったとしても、それにとらわれる必要はありません。神様は、それよりももっと良いもので満たしてくださることを覚えることも大切です。

 以上、罪を犯したダビデから学ぶ三つのポイントについて、今日は見てきました。私たちは、今立っていても、いつ倒れるかわからない存在です。このため、倒れないように毎日祈っていく必要があります。また、二番目に、人は一切れのパンで背く存在であることを覚え、赦していかなければなりません。同時に、人に自分自身をゆだねないことも大切です。また、人をさばかないようにしていく必要があります。そして三番目に、罪の刈り取りがあることを覚えて、これからは善を蒔いていくことも大切です。しかし、たとえ刈り取りがあっても、それ以上に主の恵みは大きく、主は罪を拭いさり、私たちの一生を良いもので満ちたらせてくださいます。これから、主に忠実に仕えて生きるなら、私たちを良いもので満たしてくださることを、覚えていきたいと思います。

前のページに戻る