聖霊を受けることが大切な理由(前編)

2022年6月5日礼拝

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

使徒の働き 2章1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日はペンテコステの日、聖霊が降られた日です。キリスト教界のカレンダーには、三大聖日と呼ばれるものがあります。一つはクリスマスです。これは誰もが知っている日で、イエス様のお誕生をお祝いします。次にイースター。これも世界中で祝われているので馴染みが深いと思います。そしてもう一つが今日、ペンテコステの日です。この三つをキリスト教界では三大聖日と言いますけれども、ペンテコステの日はあまり知られていないため軽く見られがちです。けれども、これはとても大切な日です。

 聖霊様が降られなければ、私達の救いの完成は決して起こりませんでした。神様が、私達罪深い人間を救おうと救いを計画されて、イエス様が、その救いの計画を実行されました。イエス様は十字架にかかり、私達の罪全てを引き受けて御体をさき、尊い血潮を注ぎ流し、救いの御業を成してくださったのです。そして「五旬節の日になって」とあるように、イエス様が十字架にかけられ、葬られてから50日経ったあと、聖霊様が降られました。

 その40日間は、イエス様はご自分が生きておられることをお弟子さんたちに現されました。そしてイエス様は弟子たちに「父から約束された聖霊を待ちなさい」と言われたので、彼らは聖霊様を待ちました。こうしてイエス様が天に昇られてから10日後に、聖霊様は降られました。実は聖霊様が降られたことによってキリスト教会の大きな進展が見られるようになったのです。弟子たちが力を受け、皆が主のために証するようになり、教会が形成されるに至った記念すべき日が、このペンテコステの日です。

 先ほども申し上げたように、神様が救いを計画され、イエス様がそれを実行されました。そして、聖霊様が救いの完成に向かって働いてくださっています。この聖霊様が降られた日を記念するペンテコステの日はとても大切です。

 そして今日の御言葉には、「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡」り、「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」とあります。異言という現象が起こったことによって、皆が聖霊を受けたことがわかったのです。今の時代も、このように異言を通して聖霊様が降られることがあります。そこで今日は、聖霊様を受けることはとても大切だ、ということを見ていきたいと思います。

 聖霊様は受けたら良いというものではありません。聖霊様を受けるのは必須です。それはどうしてでしょうか。エペソ1章13節と14節にあります。

このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

エペソ人への手紙 1章13~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「キリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」とあります。これは、キリストのものであるという証印を押された、ということです。そして「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証」とはっきりと書かれています。それぞれの人のうちに聖霊様がおられるかどうかが救いの保証なのです。聖霊を受けることは御国を受け継ぐための保証ですから、とても大切なことです。

 また、イエス様も、ヨハネ3章1節から6節でこのように言われました。

さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

ヨハネの福音書 3章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ユダヤ人の議員であったニコデモが、イエス様のところに来て質問をしました。それに対してイエス様は3節で、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。なぜなら6節にあるように、「肉によって生まれた者は肉」だからです。ここでイエス様は、肉のままでは神の国を見ることはできない、すなわち入ることはできないと言われたのです。生まれながらの人間は罪を犯して神様の前に堕落していますから、新しく生まれなければ神の国に入れない、と言われたのです。

 そして、その意味がわからなかったニコデモに対して、イエス様は更に答えられました。どのようにして生まれるのか、ということについて、5節で「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」と言われました。新しく生まれるとはどういうことなのか、一歩進んで答えられたわけです。

 水と御霊によって生まれるとは、どういうことでしょうか。まず「水」は罪を洗い流す、水のバプテスマを象徴しています。自分の罪を認め、悔い改めて罪の赦しを受け、水のバプテスマを受けるということです。そして「御霊」というのは、聖霊を受けることです。

 ですから、水のバプテスマと聖霊のバプテスマによって、人は新しく生まれ、神の国に入れるのです。私達が自分の罪を悔い改めて水のバプテスマを受け、聖霊を受け、新しくされて神の国に入るとイエス様は言われたので、聖霊を受けることは必須なのです。水のバプテスマも聖霊のバプテスマも、どちらも受けることは必須です。そして、ヨハネ6章63節にはこのように記されています。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。

ヨハネの福音書 6章63節(前半)
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は、肉によって何か良い行いをするとか、そういうことによっては救いを得ることはできません。私達は聖霊を受けることによってまったく新しくされて、神様の御心を知り、行うことができます。このため聖霊を受けることは、救いを得るための保証なのです。

 エペソに「御霊は救いの保証」と書いてあります。イエス様も「水と御霊によって生まれなければ人は神の国に入ることはできない」と言われました。水のバプテスマを受け、自分の罪を悔い改め、罪の赦しを受けていく。そして聖霊によってバプテスマを受け、変えられていくことによって、私達は新しく生まれ、神の国に入ることができるのです。また、イエス様は、「いのちを与えるのは御霊だ」「肉は何の益にもならない」と言われました。ですから、私達の救いの保証は、御霊様が私達のうちにおられるかどうかで決まります。

 聖霊様を受けることがすごく大切なのは、ともかく聖霊様が私達の救いの保証だからです。しかしその他にも理由があります。それは聖霊様が私達の助け主でもあるからです。色々な問題のある、この混沌とした世界、また反キリスト的なものがたくさんある世の中において、聖霊様は私達が信仰を全うできるように助けてくださいます。そして、神様の御心を行うようにも助けてくださるので、聖霊様を受けることは必須なのです。

 聖霊様は私達に証する力も与えてくださいます。使徒の働き1章から見ていきましょう。

イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

使徒の働き 1章3~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 昇天される前、イエス様はお弟子さんたちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われました。それはどういうことか言うと、「ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるから」です。

 ここの「ヨハネは水でバプテスマを授けました」とは、悔い改めて、罪の赦しのバプテスマを受けることです。イエス様は、水と御霊によって新しく生まれなければ、人は神の国に入ることはできないと言われました。罪を悔い改めて、水のバプテスマを受け、罪の赦しを受けていくこと。そして、聖霊のバプテスマを受けて、力を受けること。これらによって私たちは変えられ、神の国に入ることができるということです。

 また、イエス様はここで「エルサレムを離れないで、聖霊のバプテスマを授けられるのを待ちなさい」と言われました。そして8節では、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と言われました。このように、イエス様の証人となるために力を受けると言われました。私たちの肉の力ではその力はないけれども、聖霊様が与えられることによって、イエス様を証する力が与えられるのです。

 ペテロや他の弟子たちも、イエス様が十字架刑に処せられるため捕らえられたとき、怖くてイエス様を見捨てて逃げてしまう者たちでした。そして、ペテロはイエス様を知らない、と3度も否定しました。しかし、彼らは聖霊を受けてから全く変えられたのです。聖霊を受けてからすぐに、イエス様を大胆に証するようになりました。そして、ペテロはずっとイエス様を証し、伝説によると、イエス様と同じ十字架につけられるのは勿体ないことだから自分は逆さ十字架につけられていい、と言って、逆さ十字架につけられ、殉教の死を遂げたと言われています。

 彼らは全く弱い、イエス様を見捨てて否定する信仰者から、イエス様のために殉教する信仰者に変えられたのです。それは聖霊を受けたことによるものでした。またイエス様の復活を疑ったトマスにいたっては、インドまで行って福音を伝えたという伝説が残っています。彼らは全く変えられ、ある者は殉教し、ある者は「地の果てまで、わたしの証人となる」と書いてあるように、イエス様を伝えに行きました。彼らは聖霊によって助けられ、イエス様の証人となったのです。私達も肉のままではイエス様を証する力はないですが、聖霊の力を受けることによって、ペテロや他の弟子達のようにイエス様を力強く証する者と変えられていくのです。

 この様に聖霊様は、イエス様の証人となる力を与えられるだけではなく、私達をイエス様と同じ形に変えてくださるお方です。第二コリント3章18節を見ていきましょう。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

コリント人への手紙 第二 3章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達が栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられていくこと、主と似た者、主のご性質に変えられていくことをここでは語っています。これはすぐにというわけではないですが、この様に変えられていくのはまさに御霊なる主の働きによるのだ、ということです。肉の力によって人は変えられません。しかし、「あの方、ちょっと変わったね」というとき、イエス様と同じ性質を持つ者として変えられる働きも聖霊様は与えてくださる、ということなのです。

 また、聖霊様は、私達を全ての真理に導いてくださるお方です。イエス様が語られたことを教えてくださり、思い起こさせてくださる、とも書いてあります。ヨハネ14章26節をお読みします。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネの福音書 14章26節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「助け主聖霊は、あなたがたにすべてのことを教える」と書いてあります。イエス様が語られた全てのことを教え、思い起こさせてくださるということです。聖霊様こそ、私達に教え、思い起こさせてくださるお方です。

 また、聖霊様は、罪やさばきについても、その誤りを教えてくださるとあります。ヨハネ16章7節から11節をお読みします。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

ヨハネの福音書 16章7~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖霊様が来ると、罪、義、さばきについて、私達にその誤りを明らかにしてくださるとあります。続いて16章12節から13節をお読みします。

あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

ヨハネの福音書 16章12~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、真理の御霊は、私達を全ての真理に導いてくださるお方であり、これから起こることで私達が知るべきことも教えてくださるお方です。聖霊様は、真理は何なのかも教えてくださいます。

 今、世の終わりにあって、本当に真理が歪められています。キリスト教界の中でも、残念ながら真理が歪められていますけれども、聖霊様は全ての真理に私達を導いてくださるお方であり、これから起こることも教えてくださるお方です。私達が間違った理解を持っているとき、聖霊様はそれを矯正し、全ての真理に私達を導かれ、助けてくださるお方なのです。

 また、聖霊様は肉に打ち勝つ力も与えてくださいます。ローマ8章5節から9節、そして13節を見ていきましょう。

肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。
肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。
なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。
肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。
しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

ローマ人への手紙 8章5~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

ローマ人への手紙 8章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 結局、肉によって生きるか御霊によって生きるか、どちらかしかないわけです。肉によって生きることは肉に属することをもっぱら考える、ということです。そして6節にあるように、肉の思いは死です。ですから、もし私達が聖霊によって満たされて歩むのではないのなら、自分の肉の欲望によって生きるしかないわけです。人間は、本当に自分中心です。罪は自分が中心、英語でSIN(Iが中心)です。いろいろな面で、自分が中心になりたいというのが肉の思いです。そのために人を利用したり、見下したり、低めたりとか、人に対して良くないことをしたりする、あくまでもそういう自己中心なものです。しかし、13節で「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります」と続くとおり、肉によって生きるなら滅びるのです。

 もう一つの生き方は御霊に従って生きることです。5節には「御霊に従う者は御霊に属することを考えます」とあります。御霊を受けて歩むとき、「御霊に属する」とありますから、神様やイエス様のことを考えるようになります。また、6節の後半には「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です」と記されています。そして13節にあるように、「御霊によってからだの行いを殺す」こともできます。肉と御霊とは全く違った思いがあるので、私達が御霊に満たされて、自己中心的な思いを殺していくなら、私たちは「生きる」のです。

 人間は本当に生まれながら自己中心です。私ももちろんそうですし、みなが自己中心的なものですけれども、このように自己中心的な私達が、肉によってではなく御霊によって肉の行いを殺すなら、生きるようになるのです。私達が何か自己中心的な悪いことをして、いくら自分で自分を変えようと思ってもそれは無理です。表面的にはちょっと変えられることもあるかもしれません。しかし根本的に変える力は私達のうちにはありません。ただ聖霊様によって、私達はこの肉の思いに勝利することができ、「いのちと平安、」永遠の命を受けることになる、と書いてあるのです。

 そして、9節後半にあるように、「キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」ですから、キリストの御霊を持っているかどうか、すなわち私達の心の中に聖霊様が内住されているかどうかが、クリスチャンかどうかのわかれ目になるということです。

 私達は聖霊様によって、肉に打ち勝つ力を与えられます。私達は、決して自分の強欲とか、色々なものを解決することはできません。しかし聖霊様によって、自分の肉に打ち勝つことができ、イエス様と同じ思いを持つ者に変えられます。

 また、聖霊様は助け主で、色々な賜物を与えることによって、私達を助けてくださいます。第一コリント12章7節から11節を見ていきましょう。

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。
ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。
ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、
ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。

コリント人への手紙 第一 12章7~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここに九つの賜物が出てきます。聖霊様が私達に与えてくださる賜物は九つあるわけですけれども、これは「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられている」と書いてあります。知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒やしの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力。これらはその人が素晴らしいからではなく、みなの益となるために、それぞれの賜物が与えられている、ということです。ですから、このような賜物を通しても、聖霊様は私達を励まし、慰め、助けてくださっているのです。

 聖霊様の助けは、私達がクリスチャン生活を全うするためにあれば良いものではなく、絶対必要なものです。神様の御心を成していくため、勝利していくため、私達が本当に主から必要な助けを受けていくために、聖霊様の助けは絶対に必要なものです。

 先週見たグレイト・コミッション、あらゆる国の人々を弟子とする働きにも、聖霊様は深く関わっておられます。主の証人となっていくために、聖霊様の助けは必須です。力を受けなければ、私達は肉のままで主を証することは到底できません。

 以上見てきた様に、聖霊様は、栄光から栄光へと、イエス様と同じように私達を変えてくださいます。また、全ての真理に導かれます。イエス様が話されたことを教え、思い起こさせてくださいます。また、義とさばきについて、誤っているところを示してくださいます。このように全ての真理に導き、これから起こることも必要なら私達に教えてくださいます。また、私達のうちに、肉が濃厚な自己中心的な思いがあるわけですけれども、それに打ち勝つ力も聖霊様は与えてくださいます。また、聖霊様はみなの益となるために、九つの賜物を与え、私達を慰め励ましてくださるので、私達がこの大変な時代の反キリスト的な社会にあって信仰を全うしていくために、聖霊様の助けは絶対に必要不可欠なものです。

 そして先ほど申し上げたように、聖霊様が私達のうちに住まわれているかどうかが、キリストのものであるかどうかの別れ目になります。聖霊様が、私達が天の御国を受け継ぐための保証である、とあります。そしてイエス様も、人は水と御霊によらなければ神の国に入ることはできないと言われました。すなわち、水のバプテスマを受け、罪の赦しを受け、悔い改めて生き、御霊のバプテスマを受ける。この両方を受けていくことによって私達は新しくされて、神の国を受け継ぐにふさわしいものとされるのです。

 ですから、聖霊様は、受ければ良いというものではありません。聖霊様を受け、しかも聖霊様が私達のうちに内住され、ずっと留まられることがとても大切だということを、私達は知っておく必要があります。

 それでは、どのようにして聖霊様を受けられるのでしょうか。使徒の働き2章38節と39節をお読みします。

そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」

使徒の働き 2章38~39節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖霊を受けるためにはまず、悔い改めることが大切です。罪を赦していただくために、悔い改める。このステップがとても大切です。悔い改めない罪や咎があるなら、神様と私達の間の仕切りとなります。イザヤ59章1節2節を見ていきましょう。

見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。
むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

イザヤ書 59章1~2節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、主の手が短くて救えないのではなく、耳が遠くて私達の祈りを聞かれないのではない、と書かれています。私達の咎が神様との間の仕切りとなり、罪が御顔を隠させたとあるように、私達に悔い改めていない罪があるなら聖霊を受けることはできないのです。

 それでは、罪を赦していただくにはどうしたら良いのでしょうか。それは第一ヨハネ1章7節から9節にあります。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ヨハネの手紙 第一 1章7~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 罪の赦しを受けるため、私達は御子イエス様の血による赦しを受ける必要があります。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」とあるので、イエス様の十字架で流された血潮だけが私達の罪を洗い清めるのです。その赦しをいただくためには、9節に次の様に書かれています。「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」このように、自分の罪を認め告白することによって、神様と自分との間の仕切りを取り除いていくことが、神様に祈りを聞いていただくために大切なことです。

 水のバプテスマを受けることも大切ですが、洗礼式で「悔い改めます」と言っても、悔い改めていない人もいます。例えば、不倫の罪を抱えたままとか、色々な場合があったりしますけれども、そういう場合は聖霊様は与えられません。罪の赦しを受ける、つまり悔い改めることが大切です。

 そして、先ほどの使徒の働き2章38節と39節に戻りますけれども、「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け」ることによって、賜物として聖霊を受けるとあります。自分の信仰を公に告白し、イエス様に従う、ということです。告白していない罪があるなら神様に告白し、悔い改め、赦しを受けて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受ければ、賜物として聖霊を受けるのです。

 そしてこれは「遠くにいるすべての人々、」また、これからイエス様を信じる全ての人なら誰にでも与えられている約束だ、とあります。ですからこれはもちろん、私達にも与えられている約束です。私達が悔い改め、水のバプテスマを受ければ、聖霊を受けるということが起こるのです。

 そして、もう一つイエス様が言われたのは、ルカ11章9節から13節にあるとおりです。

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

ルカの福音書 11章9~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 もし罪を告白し、悔い改め、水のバプテスマを受けたのに、まだ聖霊を受けていないという方がいらしたなら、天の神様に求めれば聖霊を与えてくださいます。「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」とあるとおりです。

 また9節には、「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます」とあります。この部分は原本では、「求め続けなさい、そうすれば与えられます」という意味です。これは「それを与えてください」と祈り続けるなら、天の父は必ず聖霊を与えてくださるという約束です。ですから、もし、悔い改めて神様に罪を告白して水のバプテスマを受けたのに、まだ聖霊を受けていないという方がいらしたら、天の神様に求めていけば必ず聖霊は与えられます。これは神様の約束ですから、嘘偽りのない約束です。

 求め続けるならば、必ず聖霊は与えられます。聖霊を受けることは人生の中でも優先順位の高いものですから、聖霊を求めて祈り続けることがとても大切です。そしてそれを受けたならずっと聖霊に満たされて、聖霊様が内住されていくことが大切です。

 聖霊についてはもう少し深く聖書から見ていく必要があるので、来週その後半を見ていきます。ともかく聖霊様が私達に与えられたことは、神様の大きな恵みです。神様が救いを計画され、イエス様が救いを実行されました。そして聖霊様が救いを完全に遂行してくださるお方です。

 このペンテコステの日、神様が私達のためにイエス様を送り、助け主なる聖霊様を送ってくださったことを本当に感謝したいと思います。聖霊様の助けがなければ、私達は神様の御心を決して行うことはできません。私達の力によっては、主を証することも、罪に打ち勝つこともできないですし、真理は何なのかわからず、すぐに惑わされてしまいます。でも聖霊様によって私達は真理に立つことができます。主を証できます。罪に打ち勝つことができます。そして聖霊様が私達のうちに内住されることによって、私達は確かにイエス様の者で、神の国を受け継ぐ者であることが保証されています。

 聖霊様を受けることは必須です。聖霊様を受けるために私達はまず、罪があればその罪を告白し、神様から赦しを受けることが必要です。そして水のバプテスマを受け、神様に求め続けることが必要です。そうするなら、神様は必ず聖霊を与えてくださると約束されています。私達みなが、本当に聖霊様の証印をいただいて、御国を受け継ぐ保証を持っていきたいと思います。そしてこのペンテコステの日、聖霊様が降られたことを心から感謝したいと思います。

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