聖霊を受けることについての注意点

2022年6月19日

エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

使徒の働き 8章14~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日は、聖霊を受けることについて、誤解しやすい点など注意点について見ていきたいと思います。

 まず一つ目は、今日の御言葉にあるように、洗礼を受けたからといってすぐに聖霊を受けるわけではないということです。サマリアの人々は、水のバプテスマを受けましたが、まだ誰も聖霊を受けていなかったとあります。また、エペソの弟子たちについても、同じように書いてあります。使徒の働き19章1節から6節をお読みします。

アポロがコリントにいたときのことであった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。
彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。
「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。
そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

使徒の働き 19章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 エペソの弟子たちも、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったのですが、聖霊がおられるのは聞いたこともなかったので、聖霊を受けていませんでした。しかし彼らがイエスの名によって悔い改めのバプテスマを受けた後、パウロが手を置いて祈ると聖霊が降った、とあります。このように水のバプテスマを受けたからといって、すぐに聖霊が降られるわけではないことがわかります。

 なぜ聖霊が降られないのかと言うと、いくつか理由があります。一つ目は悔い改めていない場合です。聖書では、「悔い改めて、イエスの名によって水のバプテスマを受けなさい」と言われていますが、悔い改めずに水のバプテスマを受けている人もいるのです。

 清くなってから水のバプテスマを受けるわけではありません。前にも申し上げたように、聖霊様が私たちのうちに働いて、私たちを清くしてイエス様のかたちがなるように助けてくださるのです。このため清くなってから水のバプテスマを受けよう、そして聖霊を受けよう、と言っても順序が違うわけです。自分の力で清くなれるわけではありません。聖霊の力によって清くなるので、私たちはまず本当に自分の罪を悔い改めて、妨げになっている罪、咎を取り除いていくことが大切です。自分の罪を告白することです。

 そしてもう一つ、聖霊がすぐに降られない理由は、今日の御言葉にも書いてありますが、聖霊について聞いたことがない場合です。聖霊を聞いたことがないと求めることもなく、降られないということもあるわけです。ですから、いくつか理由はありますが、水のバプテスマを受けたらすぐに聖霊が降られるわけではないことを私たちは覚えておく必要があります。

 そして次に、聖霊がその人のうちにおられることは、どのようにしてわかるのか見ていきます。使徒の働き19章6節をお読みします。

パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

使徒の働き 19章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした」とあります。この聖霊の賜物が与えられたことにより、聖霊が降られたことがわかったのです。使徒の働き2章のペンテコステの日にも、弟子たちは異言を語ったので、それで聖霊が降られたことがわかりました。

 また、異邦人であったコルネリウスとその家族が聖霊を受けたことも、彼らが聖霊に満たされ、異言を語ったり、賛美をしたりしたことからわかりました。その場面を、使徒の働き10章44節から48節までの御言葉から見ていきましょう。

ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。
割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。
彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。
「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから。」
ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。

使徒の働き 10章44~48節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 それまではユダヤ人しか、イエスの名によって水のバプテスマを受けていませんでした。なぜ、異邦人で初めてコルネリウスが水のバプテスマを受けることを許されたのかといったら、ペテロが「私たちと同じように聖霊を受けた」と言っています。聖霊を受けたのはどうしてわかったのでしょうか。それは、ペテロが御言葉を語っていると異邦人コルネリウスにも聖霊の賜物が注がれて、「異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである」と記されています。

 この使徒の働きを見ると、異言や預言を語ったりする聖霊の賜物が与えられることをもって、聖霊が与えられたと判断したことがわかります。それでは今の時代はどうなのでしょうか。世界的に見れば、このように判断してるところがすごく多いです。しかし、日本は神学的な観点から、聖霊の賜物を認めない教会がすごく多いのです。

 異言や預言と言うと、あの教会はちょっと危ない教会、というように言われるところもあります。また、ディスペンセーションの教会は聖霊の賜物はもう終わった、と言っています。なぜなら、「完全なもの」を聖書と捉えているので、完全なものが現れたら、不完全なもの、すなわち、異言、預言は止む、というコリントの手紙の箇所をもって、聖霊の賜物の時代は終わったと捉えているからです。このため、日本は聖霊の賜物を認めない教会が多いです。しかし、私の恩師のラーキン先生の解釈をはじめとして、「完全なもの」はイエス様のご再臨という捉え方もあります。その方が全く自然なので、イエス様が現れたら不完全な異言や預言は必要なくなる、と私たちは捉えています。そして、聖霊の賜物は今の時代も同じように与えられる、と私たちは考えています。

 もう昔のことですが、私の場合はどうだったかな、と振り返ってみました。私は高校2年生の時に、日本海の小浜湾というところで洗礼を受けました。教会に洗礼プールもなかったですし、まだ9月でしたから、そこで洗礼をさせてもらいました。

 その後、家に帰り、何か背中にくっついてることがわかりました。日本海で洗礼を受けたので、何か漂流物が背中についたのかな、と思いました。それで、何がついているのかな、と思って、手で取ろうと思ったのですが、何もついていませんでした。しかし、どうも何かついていると思って、背中を畳にゴシゴシとつけて、取ろうとしました。でも取れなくって、「背中にくっついちゃったのは何なんだろう」と思っていました。というのも、イエス様は私の罪のために死んでくださったというところまでは聞いていたのですが、エペソの人たちやサマリアの人たちと一緒で、聖霊がおられるということは聞いていなかったのです。もし聞いていたら、「あ!聖霊様が来てくださったんだ!」と思って喜んでお迎えしたはずが、聞いておらず、来てくださることがわからなかったのです。

 それが日曜日のことでした。そして月曜日に教会に行くと、やっとそこで聖霊が降られることを聞きました。水のバプテスマを受けたから聖霊を求めたら聖霊が降ります、異言や預言を語れるので求めて祈りましょう、と言われて祈っていました。しかし、「え、そんな他国の言葉でどうやって話すんだろう」などと私の理性が邪魔をして、2時間くらい祈ったのに、全然受けられなかったのです。でも私と一緒に洗礼を受けた高校生2人は、聖霊を受けて、異言で祈り、すごく喜びに満たされていました。私だけ受けれていなかったので、ちょっと疎外感を感じました。それで家に帰って、月、火、水と「私にも聖霊を与えてください」と1時間ずつ祈りました。

 しかしその時確かに聖霊が与えられていたのです。しかし、聖霊の賜物は与えられていませんでした。そして、どうも私の理性が邪魔をしていたため、水曜日の夜祈ってから、「神様、今日も聖霊を与えてくださらないのですか」と思って眠りにつきました(この時、本当は聖霊の賜物のことを祈っていたのですが)。そして夜中に目を覚ますと、私は全く他国の言葉で話していて、真っ暗な部屋が、この世のものとは思えない天国の輝きに満たされていました。この時、異言で神様を賛美していたのですが、自分で語ろうと思って語っていたわけではありません。目を覚ましたらもう異言で祈っていて、部屋が本当に主の栄光でいっぱいだったことを思い出します。

 なぜ、背中についていたのが聖霊だとわかるか、私が高校生の時のことをお話します。高校生の時、理不尽なことを言われて(まあ理不尽なことは、高校生に限らず生きている限り色々とありますよね)私が怒ったりすると、背中についているのが去る、ということがわかってきたのです。「あ、私の背中に聖霊様がおられたけど、私が怒ったり罪を犯すと去られるんだ」と思いました。そして、自分の罪を告白すれば、神様は真実で正しい方ですから、その罪をイエス様の血潮によって清めてくださるという言葉通り、「怒ってしまって本当にすみませんでした、この罪を悔い改めます」と言うとまた、聖霊様が帰ってきて、背中にポンとつかれるのです。このような経験を通して、聖霊様は、悲しまれると去っていかれるし、悔い改めるとまた元に戻ってきてくださるということがわかったのです。

 ですから、振り返ると、聖霊様が与えられたのは、私の場合水のバプテスマを受けてすぐだったのです。その時は知らなかったけれども、与えられていたのです。それから4日経って、異言の賜物が与えられましたから、賜物は少しタイムラグがありましたけれども、人それぞれなのです。

 しかし、聖霊がおられると、みなが背中につかれているのがわかるかというと、そうでもありません。すごく聖霊に満たされた人で、背中に何も感じなくて、胸が非常に温かくなる、という人もいます。また、何も感じない人もいます。一番大切なのは聖書は何と言っているか、です。聖書は聖霊の臨在があるとこうなりますよ、など、身体的なことについては何も語っていません。このため、それは個人的な見解にとどめておくべきです。私はそう、あなたはそう。でも聖書は何も語ってないので、どうしたら聖霊がその人のうちにおられるかわかるかと言うと、それは聖書に書いていないからわからないのです。

 ただ、私の場合、聖霊の臨在がすごくよくわかるので、聖霊で満たされた人と話してると、普通の会話をしているだけでも、私のうちにおられる聖霊様が喜んで、聖霊に満たされるということはよくあります。しかし、それも聖書に書いていないので、これが確かなことです、とは言えません。ただ、聖書にはどう書いてあるのかが重要です。その人のうちに聖霊様が内住されているとどうなるのか、ということを聖書はどう言っているのかが大切なのです。身体的にどう感じるのか、ということが大切なのではなく、聖書はどう言っているのかが大切です。

 マタイ7章22節と23節を見ていきましょう。

その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタイの福音書 7章22~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 裁きの日に、天国に入れなかった人たちで、多くの者がイエス様に言うと、書かれています。「あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行った」と。これは聖霊の賜物のことです。「聖霊の賜物を私たちはいっぱい与えられた」そして「それを用いた」と彼らは主張しているわけです。しかし、イエス様は、「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち」と言っています。

 誤解しないでください。もちろん、聖霊の賜物がたくさん与えられていることは素晴らしいことです。ここで聖霊の賜物を下に見てはいけません。みなの益となるため、仕えるために、聖霊の賜物が与えられていて、預言することを熱心に求めなさいとも記されています。また、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行う賜物もすごく大切です。しかし、その賜物だけをもって、その人のうちに聖霊様がおられて、主が喜ばれているとは判断できない、ということなのです。

 では何によって判断するのかと言うと、マタイ7章15節から20節に書かれています。

偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。

マタイの福音書 7章15~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでイエス様は、「世の終わりに偽預言者もたくさんいるので、気をつけなさい」と言われました。羊の衣を着て、本当に素晴らしいことをたくさん言って、優しそうな人に見えるけれども、「内側は貪欲な狼だ」と。そして「彼らが本物かどうかは、実によって判断しなさい」と書かれています。「良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」「良い木が悪い実を結ぶことはできないし、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」「実によって判断しなさい」と。

 ですから、賜物によって判断するわけではないのです。その人のうちに、本当に聖霊様が内住されていて、その人が本物のクリスチャンかどうかは、実によって判断することが大切なのです。その人のうちに聖霊様がおられるかどうかの判断は、その人がどういう実を結ぶのかということです。第二コリント3章18節をお読みします。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

コリント人への手紙 第二 3章18節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていくのは、まさに御霊なる主の働きです」とあります。ですから、私たちのうちに本当に聖霊様がおられるなら、栄光から栄光へと、イエス様と同じかたちに、時間はかかるけれども、変えられていくということです。

 「いやあ、あの人、素晴らしい賜物持っているけど、どうも人間的にちょっと信用ならない、何か自己中心的なんだよね」と言うとき、何年経ってもその性質が変わらないなら、やはりその人のうちに聖霊様がおられるのか疑問を持った方がいいです。その人がイエス様と同じかたちに少しずつ変えられていくことで、その人のうちに聖霊様がおられて、本物のクリスチャンだ、と判断できます。

 その人のうちに見られる性質は何なのかと言うと、御霊の実です。ガラテヤ5章22節と23節をお読みします。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

ガラテヤ人への手紙 5章22~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖霊様が内住されていたら、その人のうちに愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実が出てくるのです。しかし、その前は肉に支配されています。元々うちにあるものはどのようなものだったのでしょうか。19節から21節をお読みします。

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

ガラテヤ人への手紙 5章19~21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 こういう性質だったものが、少しずつでも、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ者に変えられていくことを見ることによって、その人のうちに聖霊様がおられると判断するのが聖書的です。もちろん、私も身体的にわかるのはすごく感謝ですが、それを持って聖霊様がおられると判断するのではなく、その人のうちに聖霊様の実がなっていく、変えられていくかどうかが重要なのです。

 妬みとか、憤りばかり私にぶつけてきた人が、「今は平安で心が満たされているんですよね」なんて言うと、私も嬉しくなってきます。それはすぐにはならなかったですけれども、聖霊様が内住されることによって、変えられていくということがあるのです。その人のうちに聖霊様がおられて、栄光から栄光へとイエス様と同じかたちに変えられていく御業が、聖霊様の内住によってなされていっていることがわかると、私も嬉しくなるわけです。

 ですから、みなさんが自分のうちに、また他者のうちに、聖霊様がおられるかどうかの判断は、聖霊の賜物によってではありません。聖霊の賜物を素晴らしく持っているからといって、聖霊様が内住されている本物のクリスチャンとは言えないのです。「不法をなすもの」とは、賜物が与えられたけれども、実は聖霊様が内住されておらず、自己中心的なものばかりの人のことを言っているのです。分裂分派や妬み、またある人をいじめるなど、実際そういうこともありました。私も素晴らしいクリスチャンだと思っていたけれども、ある時ものすごくいじめられて、村八分みたいにされたこともあります。

 実によって私たちは判断するのです。聖霊様がその人のうちにおられるかどうかの判断はイエス様が言われるように、実によってです。しかし時間がかかります。賜物は「賜物」なので、異言の賜物や預言の賜物は手を置いたらすぐに与えられることも起こりますが、御霊の実は時間はかかります。しかし、御霊の実こそ、その人が本物のクリスチャンかどうかを判断する時に見るものなのです。

 普段はわからなくても、何かある時に、その人は自分のために生きている自己中心的なクリスチャンか、イエス様を本当に愛して生きているクリスチャンかすぐ分けられるものです。そしてその人のうちには、本当にこの九つの実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実がなってくるのです。

 例えば、長い間「クリスチャン」で良いことをやってても、何かちょっとしたことが気に食わないと、「もう教会来るのやめます」と言って、来なくなった人もいるわけです。本当に御霊が内住されていて、寛容、柔和、自制などの実ができていたら、そのようなことにならないはずです。教会には、気にくわないことが少しでもあると、出て行く人たちがたくさんいましたけれども、私たちはみな罪がたくさんあるので、赦しあわなければやっていけません。人間の仲ですから、ちょっとムッとすることもあると思います。しかし、嫌だからと言って、すぐに人間関係を終わらせていく時にこそ、その人が本当にイエス様に仕えていたのか、聖霊様の実を結んでいたのかがわかってきます。自分のための信仰で、自己満足でいたのか、それとも本当にイエス様に仕えたい、人に仕えたい、という思いでいたのかどうかは、何かあった時に振るい落とされるのです。確かに人間社会ですから、みなさんが教会生活をしていると、気に食わないことは色々あると思います。しかし、聖書の中の大切な教えは、「赦しなさい、そうすればあなたの罪も赦される」です。神様は、私たちが他の人を赦さないなら、私たちの罪も赦されない、と言われました。ですから、不満があったとしても、教会の中で赦し合うことはとても大切です。

 そして赦し合うことと寛容であることは、御霊の一つの実です。そのことによって、その人のうちにイエス様、聖霊様が内住されているかどうかがわかります。ですから私たちは、現象というよりも実によって、その人のうちに聖霊様がおられるかどうかが判断できるのです。

 そして、三つ目の注意点は、聖霊を一度受けたからといって大丈夫なわけではないことです。エペソ4章30節をお読みします。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

エペソ人への手紙 4章30節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されている」とあります。では、どういうものが神様の聖霊を悲しませるのでしょうか。それは31節に書かれています。

無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。

エペソ人への手紙 4章31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖霊様を悲しませるのは「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしり」であり、そういうものは「一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい」とあります。反対に、聖霊様が喜ばれるのはどういうことかが32節に書かれています。

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

エペソ人への手紙 4章32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 赦すということは、お互いに親切にすることです。「優しい心で赦し合う」と書かれていますが、私たちはみな赦しが必要なものです。みな不完全ですから、必ずみなが赦しを必要としています。しかし、赦さないと言って憤り怒りをぶつけられると、私たちはたまったものではありません。私たちは不完全なものですから。しかし、イエス様は不完全な私たちのために、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、私たちも、互いに赦し合うことがとても大切です。神様の聖霊を悲しませるのは、人を赦さないことなのです。怒り、無慈悲、憤り、こういう思いでいると、聖霊様は悲しまれて去っていかれるのです。しかし、聖霊様が喜ばれるのは、親切にしていくことです。優しい心で赦し合うことです。イエス様が私たちを赦してくださったように、赦し合うことが、何よりも、聖霊様、神様、イエス様を喜ばせることだということを、覚えておいてほしいのです。

 そして、悲しませると聖霊様は去って行かれることもあります。第一テサロニケ5章19節をお読みします。

御霊を消してはいけません。

テサロニケ人への手紙 第一 5章19節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 無慈悲な心、怒り、憤り、自分中心で生きることをすると、聖霊様は悲しまれ去っていかれて、聖霊様をその人のうちから消すということが、あるのです。三位一体の第三位を取られているのが聖霊様で、人格を持っていらっしゃいますから、とてもセンシティブなお方です。聖霊様を知らないと聖霊様が入られないのは、例えて言うなら、奥座敷に土足で入ってくるような方ではなく、ジェントルマンだからなのです。聖霊様は、「どうぞどうぞ、歓迎しますから、もう扉を開いて、どうぞどうぞこの上席にお座りください」と言うと、来られる方なのです。

 ですから、歓迎されていないと感じると、聖霊様は悲しんですぐに去っていかれます。罪深い私たちですが、人に怒ってしまったりする時には、すぐ悔い改めてその人に謝ると、聖霊様はまた帰って来られます。

 私もそのことは良く感じました。働いていると、理不尽なことをたくさんされるのです。それで怒っていると、聖霊様は悲しんで去って行かれて、どんな理不尽なことをされても、「神様、怒っていた私を赦してください。その人を赦します。こんな自分中心の私を赦してください」という風に祈ると、聖霊様はまた帰ってこられるわけです。

 もし聖霊様を去らせてしまったなら、第一ヨハネ1章7節から9節にあるように、罪を告白することが大切です。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ヨハネの手紙 第一 1章7~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる」とあります。イエス様の血によって清めてくださるという約束です。

 私たちはみな本当に罪を犯します。私も一日に何度も罪を犯すものだということは自分で自覚してます。しかしその罪を神様の前に告白していくなら、その罪を主は赦してくださるということも経験します。聖霊様が去っていかれても、その罪を告白するなら、また戻ってきてくださることは、私の場合すごくよくわかります。このように自分のうちに聖霊様がおられるかどうか体験でよくわかりますが、一度聖霊様を受けたからといって、それで安心ではない、ということです。聖霊様はずっとおられるわけではなく、悲しませるなら去っていかれます。

 特に、愛と赦しというものは、キリスト教界の中で大きな価値があることだとイエス様は言われました。私たちを赦すため、イエス様は天の御位を捨てて、この地に来てくださいました。イエス様は、私たちがまだ良い人間ではない時、イエス様を知らない時に、十字架で私たちの罪を背負って死んでくださいました。その大きな犠牲をイエス様は払って、私たちの罪を赦してくださったのです。ですから、「あなた方も愛し合いなさい。赦しなさい」ということをイエス様は、私たちに見せられたわけです。

 本当に人間はみんな不完全ですから、自分の思い通りになることなんてありません。「人は一切れのパンでも裏切る」とあるように、あくまでも人間はみな罪深いものです。赦しがなければ、誰一人として、立ち得ないものです。ですから、イエス様が私たちの大きな罪を赦されたように、兄弟姉妹の、それから比べれば些細な罪を赦していくことはとても大切なことです。しかし赦さずに、無慈悲、憤り、怒りに支配されていると、聖霊は悲しんで去っていかれます。

 私は昔から、怒りをずっと持っていると、そこがサタンの足がかりになってサタンに捕らえられてしまう、ということを申し上げてきました。赦さない怒りほど、サタンに攻撃の機会を与える大きな要素はありません。ですから、私たちが親切にし、赦し合うことが、本当に聖霊様が私たちのうちにいてくださるために大切なことです。というのは、イエス様が大切なこととして教えられたのは、イエス様が私たちを愛されたように、互いに愛し合いなさいということなのです。イエス様は、ご自分を裏切って捨ててしまったペテロも、他の弟子たちも赦されました。もちろん、意図的に悪意を持って、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダは滅びましたけれども、弱さ故にイエス様を知らないと言って見捨ててしまった弟子たちを、イエス様は受け入れて赦されました。これと同じように、赦しあい愛し合うことが、聖霊様が私たちのうちにおられるかどうかの大切な印だということです。

 そして、聖霊様をずっと私たちのうちに内住されるよう留めておくことが大切です。それこそが、救いの保証だからです。私たちが急にイエス様の前に立った時、救われるかどうかは、私たちのうちに聖霊様が内住されているかどうかによるのです。素晴らしい賜物を持っているかどうか、素晴らしいことを言うかどうかではなく、私たちのうちに聖霊様が内住されているかどうかが大切なことです。

 また、4番目に大切なことは、聖霊様で満たされ続けるための祈りです。先週も申し上げたように、同時に御言葉を頂くことも大切です。ヨハネ6章63節をお読みします。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

ヨハネの福音書 6章63節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「いのちを与えるのは御霊だ」とあります。また、「肉は何の益ももたらさない」けれども、イエス様が、私たちに話された言葉は「霊であり、またいのちだ」とあります。ですから、イエス様の話された御言葉を頂くことは、私たちのうちにあって霊となり、いのちとなるのです。ただのロゴスが、レーマとなって私たちに語りかけるのは、聖霊の働きによるわけですけれども、御言葉と、聖霊で満たされていくことは、切っても切れない関係です。このため、私たちは、聖書の御言葉をいただき、祈って、聖霊様の内住を毎日確信していくことも大切です。私たちのうちに聖霊様が働かれる時に、御言葉と祈りは大切なのです。

 聖霊はも御言葉をもたらし、御言葉は聖霊をもたらすとあります。御言葉抜きでは、片手落ちです。イエス様の話された御言葉は霊であり命なので、それを毎日頂くことによって、聖霊様が働き、命を与えてくださいます。ですから毎日祈って、聖書を読むことが大切です。それが聖霊様との交わりを保つ秘訣です。

 また、5番目について見ていきます。私たちの救いの完成は、御霊による、ということです。肉によって私たちの救いは決して完成できないということです。ガラテヤ3章3節をお読みします。

あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。

ガラテヤ人への手紙 3章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 御霊によって完成される私たちは、肉によって完成されるということはない、と語っています。私たち人間は、自分の努力によって何かをすることが好きですけれども、人間の力によって、主の御心を行うことも、強くなることも決してできません。御霊によって私たちは変えられていくということ、そして、御霊によって始まった私たちは御霊によって完成されるのだ、ということを覚えていきたいと思います。

 実はこれは大きな落とし穴です。御霊によって始まったのに、いつの間にか自分の努力によってなしていき、高ぶって落ちていく人もいます。あくまでもへりくだり、御霊によって完成させて頂くことが大切です。これが五つ目の注意点です。

 今日は、聖霊についての注意点を見ていきました。第一は、水のバプテスマを受けたからといって、すぐに、聖霊を受けるわけではない、ということです。理由は、悔い改めていないということや、そもそも聖霊様のことを知らないということもあります。また、求めていない、ということもあります。また、聖霊様がどうして降ったかわかるのか、というのは使徒の働きを見ると、賜物が与えられたからわかる、ということです。しかし一番大切なことは、その人のうちに御霊の実がなっていくか、イエス様と同じ姿、かたちが、時間はかかるけれども、なっていっているかどうかです。すなわち、その人が変えられていっていることによって、その人のうちに聖霊様が内住されていることがわかるのです。そして、3番目に、聖霊様を一度受けたから大丈夫なわけではなく、聖霊様を悲しませると去っていかれるので、悔い改めて聖霊様に帰ってきて頂くことが大切です。4番目に、御言葉と聖霊様は大切なので、祈りを大切にし、御言葉をいつも頂くことが大切、ということです。そして最後5番目に、私たちの救いの完成は御霊によるのであって、肉の力ではない、ということです。私たちは、そのことを注意点として覚えていきたいと思います。

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