福音とは何か

2021年4月11日

また私は、もう一人の御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、言語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。
彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」

ヨハネの黙示録 14章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 福音とは何でしょうか。福音は、英語では”Good News”と言い、良い訪れを意味します。四福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書は、イエス様から私たちへの、メッセージです。そして、その最も大切なこととして語られているのは、次の御言葉に書かれているとおりです。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。

コリント人への手紙 第一 15章3~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様が「私たちの罪のために死なれたこと」「葬られたこと」、また、「三日目によみがえられたこと」、これらのことが、福音として聖書で語られていることです。なぜ、このことが福音、つまり「良い訪れ」「Good News」となるのでしょうか。そのヒントが、次の御言葉に書かれています。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

ローマ人への手紙 3章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 聖書には、すべての人が罪を犯した、と書かれています。罪とは具体的には、神様に反抗したり、神様を無視したり、また、隣人を自分のために利用したり、といったことなどです。罪の結果、どうなるのでしょうか。そのことが次の御言葉に書かれています。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙 6章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 罪の結果は死である、と聖書に書かれています。死とは、神様との永遠の断絶です。これにより私たちは地獄に行かなければなりません。罪によって、私たちは、死に捉えられた状態となりました。しかし、そんな私たちを救うため、神の子、すなわちイエス・キリスト様が死んでくださいました。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

ローマ人への手紙 5章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちは、このことがはっきりとした事実であることを認識する必要があります。実際、イエス様はこのことを受け入れるようにと、私たち一人ひとりを招いておられます。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

マタイの福音書 11章28~30節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ヨハネの黙示録 3章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、実際に私たち一人ひとりの心の戸をたたいて招いておられます。しかしその戸は、内側からしか開けないようになっています。つまりその戸は自分にしか開くことができないのです。イエス様は、私たちが「イエス様、どうか入ってください」と言う時に入って来られます。

 また、上の御言葉に「ともに食事をする」とありますが、これは当時のユダヤ文化の文脈で書かれており、「親しい交わりをする」という意味です。私たちは、イエス様を受け入れることによって神様との親しい関係に入れられます。イエス様を受け入れるとは、先ほど述べた事実を受け入れるということと同時に、自分の罪を悔い改めることでもあります。私たちは、神様との親しい交わりに入れられるために、イエス様を救い主として受け入れるだけではなく、悔い改める必要もあります。

ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」

使徒の働き 2章36~39節
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 悔い改めとは、自分中心に生きてきたけれども、神様中心に180度方向転換する、ということです。後悔することとは違います。よく、後悔する人の中に涙を流す人もいますが、涙を流すからと言って、その人が本当に悔い改めているかどうかは別です。180度方向転換するとは、自分が自分のボスだったけれども、イエス様をボス、つまり自分の主人として受け入れ、生きていくということです。その時確かに、自我は心にありますが、心の王座をイエス様に明け渡し従う状態となります。私たちは、この事実を受け入れる、また悔い改めることにより、罪のゆるしが与えられ、神様との断絶が解かれて神の子どもとして受け入れられます。そして永遠の命が与えられるのです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネの福音書 3章16~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は聖書を要約している箇所と言われています。ここで語られている「信じる」とは、イエス様に信頼して、全てをゆだねる、という意味です。また、次の御言葉では、信じることと聞き従うことが対比して語られています。つまり「信じる」とは、聞き従う、という意味でもあります。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 以上、述べてきたことが、福音です。しかし、ここで注目すべき事実があります。それは、イエス様は、十字架の死を遂げて復活される前に、福音を述べ伝えられた、ということです。つまり聖書では、イエス様による救いだけでなく、もっと広い意味でも福音という言葉が使われています。

イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。

マタイの福音書 4章23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

マルコの福音書 1章14~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 最初にお読みしたヨハネの黙示録14章では、この広い意味での福音について語られています。そこには、「永遠の福音」という言葉が出てきます。これがどういう意味かは、後半の御言葉に書かれています。

彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」

ヨハネの黙示録 14章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 一つ目のポイントは、「天と地と海と水の源を創造した方」とあるように、神様は唯一の創造者であるということです。学校で教えられる進化論について、私たちクリスチャンは、事実ではなく一つの理論に過ぎない、と考えます。つまりアメーバはアメーバ、猿は猿、と言った様にです。それではネアンデタール人がいたという証拠はどうなるのか、と聞く人がいるかもしれません。それも当時骨粗鬆症となって背が曲がった人であった、との見解もあります。また、人は品種改良によってより良いものをつくります。実際、品種改良などによって手入れをしていかないと、種をかけあわせることにより、元に戻ろうとする働きがどうしても起こるのです。また、物体はどこから来たのか、と疑問に思う人もいるでしょう。驚くべきことに、2021年の科学を持ってしても一つの生物はおろか、単細胞すらつくることもできません。つまり、神様が全てを造られた、と言う方が理にかなっているのです。

 二つ目のポイントは、「神のさばきの時が来た」とあるように、さばきの時は必ずくるということです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

ヘブル人への手紙 9章27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

ヨハネの黙示録 20章10~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」とあるように、天国か地獄かを決めるのはいのちの書です。そしてここでは他にも書があって、それは私たちが地上で成してきた行いによって天国での報いを決める書物です。天国か地獄かは確かに大きな大きな違いですが、天国に行っても、そこでの報いは違います。私たちが、地上で与えられたものを通して、神様にどう仕えてきたか、が問われています。ここで個人的に振り返って、「私は大して働きをしなかった・・・」と卑屈になる必要はありません。地上で大きな目立つ働きをした牧師が天国では一番低い位にいて、全然目立たない働きをした人が王様だったということもあるのです。

 それでは、私達はどのように生きていけば良いのでしょうか。

彼は大声で言った。「神を恐れよ。神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからだ。天と地と海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」

ヨハネの黙示録 14章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 それは、常に神様の目があることを覚えて神様を恐れて生きるということです。これなら気付かれないだろう、と思ってはいけません。なぜなら、神様は全てをご存知なので、神様の目をごまかすことはできないからです。

主よあなたは私を探り知っておられます。
あなたは私の座るのも立つのも知っておられ遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り私の道のすべてを知り抜いておられます。
ことばが私の舌にのぼる前になんと主よあなたはそのすべてを知っておられます。

詩篇 139篇1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

ヘブル人への手紙 4章13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 また、自分の栄光を求めるのではなく、神様に栄光を帰すことも重要です。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

コリント人への手紙 第一 10章31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この御言葉は、常に神様に栄光を帰すようにと私達に命じています。クリスチャンは、このことについて失敗を犯しやすい者です。私達は、自分の栄光を求め、すぐ有頂天になりやすい者だからです。しかしそうするならば、神様から退けられてしまいます。

 アメリカの伝道者であったムーディは、靴職人で、英語は間違えだらけの無学の人でした。しかし彼の説教は、神様に大変用いられ、人々を驚かすほどでした。そんな彼は常にへり下っていました。神様があまりにも彼を用いられるため、ある日、彼と共に働きをしていた同僚は、「群衆が自分達の話を聞くのは私達が素晴らしいからだ」とムーディに言いました。ムーディはそのことを非常に心配しました。なぜならその同僚は、神様に栄光を帰さないで、高ぶっていたからです。案の定、その人がその言葉を発した時から、彼は神様に退けられ、働きに用いられなくなりました。

 同様に、神様に栄光を帰さないで、退けられた人物が旧約聖書に記されています。以下のダニエル書の御言葉を見ていきましょう。

その子であるベルシャツァル王よ、あなたはこれらのことをすべて知っていながら、心を低くしませんでした。
それどころか、天の主に向かって高ぶり、その宮の器を自分の前に持って来させ、あなたと貴族たちとあなたの側室や侍女たちは、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。しかしあなたの息をその手に握り、あなたのすべての道をご自分のものとされる神を、あなたはほめたたえませんでした。
そのため、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。
その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
そのことばの意味はこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせたということです。
『テケル』とは、あなたが秤で量られて、目方の足りないことが分かったということです。
『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディアとペルシアに与えられるということです。」
そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけさせ、彼がこの国の第三の権力者であると布告させた。
その夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。
そして、メディア人ダレイオスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。

ダニエル書 5章22~31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ベルシャツァル王は、神様から権限を受けていないのに、神様の前に高ぶり、宮の器を使ってぶどう酒を飲みました。自分が神様の栄光を取る事は、神様に対して大きな不敬な罪です。また、新約聖書にも、神様に栄光を帰さなかった人の例が書かれています。

さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対してひどく腹を立てていた。そこで、その人々はそろって王を訪ね、王の侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方は王の国から食糧を得ていたからである。
定められた日に、ヘロデは王服をまとって王座に着き、彼らに向かって演説をした。
集まった会衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
すると、即座に主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に食われて、息絶えた。

使徒の働き 12章20~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ヘロデ王は、「神の声だ。人間の声ではない」という会衆の声を喜んでいました。すると即座に、ヘロデは打たれ、息絶えてしまいました。このことから学ぶのは、私達は、すぐに心を低くして、私は土塊に過ぎません、とへりくだることが必要であるということです。全ては神様から与えられています。自分が素晴らしいからではありません。

 また、上のヨハネの黙示録14章に戻ると、「礼拝せよ」とあるように、私達は神様を礼拝するように、とも命じられています。

 これまで述べてきたことをまとめると次の通りです。まず、私達は、福音がどういうものなのか理解しなければなりません。それは、この天と地を創造された唯一の神様を信じるということ、その神様が私達一人ひとりをさばかれるお方なので、この方を恐れて生きるということ、そのように生きるためには、神様に栄光を帰し、礼拝することが必要、ということです。神様は全てをさばかれるお方です。だから立ち返りなさい、と語られています。

 このように生きることこそ、人間にとって全てだ、とソロモンは旧約聖書の伝道者の書で述べています。彼は、全てを得た後で、全ては虚しい、と語りました。そして、私達がそのように生きる者とされるために、イエス様は道を開いてくださったのです。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

ヨハネの福音書 14章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 時に私達は、「富士山の頂上に行くには色々な道がある」という様な言葉を耳にします。例えば、御殿場からでも良いし、甲府からでも良いし、と言った具合にです。しかし、イエス様はここではっきりと、「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と言われました。イエス様だけが、唯一の道です。

 さて、これまで述べてきた通り、私達が聖書の語る福音に立つ、ということも大切ですが、同時に、福音を述べ伝える、ということも大切です。

それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

マルコの福音書 16章15~16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達は、イエス様の十字架の死が私の罪のためだった、と認め、神様に全ての栄光を帰し、礼拝していくことを通して、裁きの座の前に立ちおおせる者となれるようになりたいと思います。そのことは、イエス様の助けによってできると信じます。

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