苦しみの意味

2021年5月16日

彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」
エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」
ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」
その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。
「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。
しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。

出エジプト記 5章3~8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。
彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。
彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」
それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。
私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。
主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」
神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。
わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。
今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。
それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』

出エジプト記 5章19~6章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日は出エジプト記からですが、まずここで話の背景を見ていきましょう。

 今日の箇所で登場するイスラエルの民の先人として、創世記の後半に登場するヨセフがいました。彼はファラオに次ぐ第二の地位をエジプトで占めていました。彼は11人の兄弟と父と共に、エジプトで羊を耕して生活していました。彼のことを知っている王の時、彼は優遇されていましたが、ヨセフのことを知らない王が地位につきました。その王は、イスラエルの民の数が増えたことを恐れて、彼らに過酷な労働をかすようになったのです。

 そのような中で、神様は、モーセに、芝の中の燃える炎の中で現れました。そして、神様はモーセを使わし、イスラエルの民をエジプトから出させ、約束の地に導くと言われました。

 そこでモーセは、ファラオにイスラエルの民を行かせてください、と頼みました。するとファラオは益々、彼らに過酷な労働をかしました。そして藁を与えないので自分で調達してれんがを作りなさいとまで言いました。イスラエルの民はそれを聞いて、モーセとアロンに、主があなたがたをさばかれますように、と言いました。イスラエルの民は、二人が、ファラオに自分たちを嫌わせ殺すよう仕向けたと言いました。しかし神様はこう言われました。

主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」

出エジプト記 6章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでわかるのは、ファラオがイスラエルの民にかした過酷な労働は、想定されていた、ということです。つまり彼らの苦しみは、神様の計画の中にありました。

 ここから出エジプト記を読み進めていくと、神様が色々な奇跡をファラオの前でなして、ファラオはいつも心を頑なにしてイスラエルの民をエジプトから去らせなかったことが繰り返し語られます。しかし、これも神様の御心だったということが、神様がモーセに語られた次の御言葉を読んでもわかります。

わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。

出エジプト記 7章3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ファラオは、神様が奇跡を起こすその都度その都度、心を頑なにしました。それは、神様が、ファラオがモーセの言うことを全然聞かないようにして、このような状況をつくられたからです。

 実のところ、神様にとって、ファラオの心を変えるのは簡単なことでした。次の御言葉に書いてあるとおりです。

王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。

箴言 21章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、何事もなくファラオの心を変えて、イスラエルの民を去らせることは容易にできました。しかし、神様があえて、イスラエルの民が労働の苦しみによって苦しむことをゆるされたのです。

 イスラエルの民にとっては、この時、神様が助けてくれるのかと思ったら苦しみが増してきたという状況にありました。しかしこのような状況も、神様の御手のうちにありました。

 似たような状況にあったのが、聖書のヨブ記に登場するヨブです。ヨブの苦しみは、サタンが与えたものでしたが、すベて神様のゆるしの中で起こったことでした。ヨブは、一日のうちに息子や娘、家畜をすべて失いました。しかし神様に忠実だったので、サタンは今度は「ヨブの健康を打たせてほしい」と神様に頼みました。そして神様は了解しました。しかし、ここで覚えておきたいのは、神様は、神様がゆるされた範囲でだけ、サタンがヨブを苦しむようにさせた、ということです。つまり、たとえサタンがもたらした非常な苦しみであったとしても、すべて神様のゆるしの中で起こっていることなのです。

 なぜ、神様は私たちに苦しみを与えられるのでしょうか。それにはすべて意味があります。

それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。
わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。

出エジプト記 6章6~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで皆さんに考えてほしいことがあります。もし、イスラエルの民が、エジプトで恵まれた生活をしていたとしたら、どうでしょうか。彼らは、エジプトから出たいと思わなかったはずです。

 「慣性の法則」というものがあります。これは、人間の特徴を表していて、同じところで同じことを続けていたいと思い、なかなか新しいことをしたいと思わなくなる法則です。そしてこれは特に、恵まれた状況の中で働く法則です。

 神様が私たちを苦しみにあわせられるのは、私たちが次のステップに進むためでもあることがわかります。「慣性の法則」が言うように、私たちは今いる状況が心地よいものであればあるほど、なかなかそこを出たいと思わないものです。そこで神様は、私たちがそこにいたくないような気持ちにさせるために、あえて苦しみという形で人生において語られることがあります。そして、その苦しみから解放されるときに、イエス様は苦しみから解放して下さる方であることが、わかるようになるのです。

 神様は、神様の御言葉、そしてご計画がなるように計画されておられます。しかし苦しみがなければ、その計画はなりません。イスラエルの民は、さらなる労役の中で、悲鳴をあげるまで苦しみを与えられる必要がありました。それは彼らがエジプトから出て、神様によって約束されている地に導き入れられる、という計画がなるためでした。

 さらに、イスラエルの民は、奇跡を持って助けが与えられたことにより、主こそ救い主で解放者であり、主の御力は大きいのだということを経験しました。苦しみにあったからこそ、イスラエルの民は神こそ主である、ということがわかったのです。そしてさらに、神様は次のようなことも、御言葉で語られています。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。

出エジプト記 7章5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、異教徒であるエジプトについても、彼らが神様を主であると認めるために、働かれたのです。イスラエルの民が経験した苦しみには意図があったということを、私たちは覚えていく必要があります。

ヨブは主に答えた。
あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。
あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。
私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。
それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。

ヨブ記 42章1~6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 苦しみを経験したヨブは、その一連の苦しみの中でこのような告白をしています。ヨブは、神様のことを耳で聞いて知ってはいたが、苦しみを通して神様がすべてのことができることを心から知った、と。「私の目があなたを見ました」とヨブが言ったのは、ヨブが本当に神様を知ったということを表しています。そして「自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」と語ったのは、ヨブが、自分は正しいという思いが全く打ち砕かれて、悔い改めたことを示しています。ヨブは確かに、神様の前で正しい人ではありましたが、自己義もありました。神様はそのこともよくご存知で、サタンがヨブを苦しめることを良しとされたのです。

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。

申命記 8章2~5節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イスラエルの民は、四十年もの間、荒野で苦しめられましたが、イスラエルの民を苦しめたのは主ご自身でした。彼らは主が与えられた苦しみを通して、自分がどういうものであるかがわかったのです。苦しみの中でしか学べないレッスンがあり、彼らはそのような主の訓練を受けることができたのです。

 このことは、どこででも適用できます。例えば、イスラエルの罪により、北イスラエル王国は滅び、南ユダ王国はバビロン捕囚として連れて行かれました。エルサレムがバビロンに引かれて行った七十年の間に、イスラエルの民が学んだ大切なレッスンは、その捕囚以降、彼らは偶像を決して拝まなくなった、ということです。そしてそれは今現在でも続いています(一部の人は続けているかもしれませんが、イスラエルの民としては、ということです)。

苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。

詩篇 119篇71節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここでも、苦しみによってしか学べないことがあることが語られています。そして、イエス様でさえも、苦しみにより従順を学ばれたことが次の御言葉に書かれています。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

ヘブル人への手紙 5章8~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様も、苦しみにより従順を学ばれ、完全なものとされ、永遠の救いの源となり、大祭司という職務を神様から与えられたのです。つまりイエス様も受けられた様々な苦しみにより、神様からの大切な任務を全うする者となったのです。

 イエス様がそうであるならば、なおさら私たちもそうであることがわかります。私たちは、苦しみの中でイエス様に近いものとされていきます。私たちは、神様の目に喜ばれないことをたくさん身につけています。そして、そのいらないものを取っていくためには、苦しみという手術をとおして、神様によって取り扱われる必要があるのです。聖書を読むと、苦しみには意味があることがわかります。

 以上述べてきたとおり、苦しみには意味があります。それは神様が次のステップに進むためにあえて苦しみにあわせられることであっても、イエス様が解放して下さることがわかるためであっても、普段わからない自分の罪深さを知るためであっても、悔い改めに導かれるためであっても、また、苦しみによってしか学べない主の掟を知るためであっても、イエス様のようにされていくための主の訓練を受けるためであったとしても、です。

 私がアメリカの神学校で学んでいたときの出来事を鮮明に覚えています。ある学生が組織神学の授業で次のように発言しました。「イエス様は素晴らしいです。私に何も悪いことはされません。苦しみは何も経験させず、私に祝福ばかり与えられます!」と。すると教授が、次のように言いました。「あなた本当にクリスチャンですか?クリスチャンは苦しむものですよ。皆、苦しみを通されると書いてあります。あなたが本当にクリスチャンであるか疑わしい。」と。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』

出エジプト記 6章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様にとって、私たちを苦しめることは最終的な目標ではありません。神様は、最終的には、ご自分の民に良いものを与えたいと願われているお方です。

あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。
あなたの神、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。
あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、
小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。

申命記 8章5~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様がエジプトや荒野での苦しみをとおしてイスラエルの民に願われたのは、彼らを良い地に導き入れることでした。そして神様は、バビロンに捕囚に連れて行かれた民に対しても、このように語られています。

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

エレミヤ書 29章11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 神様は、彼らが、彼らの罪ゆえにバビロンに捕囚に連れて行かれるという最悪な状況の中でさえも、彼らのために立てている計画をよくご存じで、最終的にはわざわいではなく平安を与える計画を持っておられました。

 私たちは、苦しみにあうと、イスラエルの民のように、「どうしてこのようなことが起こるのですか?」と神様に文句を言いがちです。しかし覚えておきたいのは、これらは全て神様のゆるしの中で起こっていることで、神様は次のうちいずれかの意図を持たれているということです。

  • 次のステップに導こうとされている
  • 神の力を経験させたいと思われている
  • 助けは主しかないことをわからせたいと思われている
  • 大切な神様の掟を学ばせたいと思われている
  • 本当の自分自身の姿をわからせ、悔い改めに導こうとされている
  • 従順に従いとおすことを学ばせるため、訓練させようと思われている

 そして神様は、苦しみの後には良いものを与えたいと願われているお方です。究極的には、私たちを天国に行かせて安息を与えたいのです。安息は、苦しみがあるからこそ得られるものです。

 また、苦しみにあわせたとしても、神様は私たちが耐えられないような試練には決してあわせられないお方です。私たちは、そのことを覚えて、へり下って苦しみを受けていくものでありたいと思います。

 ダニエルは、80歳になってライオンの穴に投げ入れられるという苦しみに会いました。そして、そこから救い出されるという、神様の奇跡を経験しました。いくつになっても、苦しみに会うことはない、苦しみから学ぶことはもうない、ということはありません。地上にいる限り、苦しみは必ずあります。しかし、それは神様の深いご計画の中にあり、それは将来と希望を与える良いご計画であることを覚えて、神様に信頼して、どのような時も従順でありたいと思います。

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