愛なる神様と怒られる神様

2022年5月15日

 前回は、Nさんから個人的に受けた二つの質問のうち、一つ目について見ていきました。今日は残りの二つ目の質問に、お答えしたいと思います。まず、先週話したことについて、少しレビューしたいと思います。

***以下は、前回の礼拝のレビューなので、
飛ばしたい方は、こちらから下に飛んでください***

 先週見た一つ目の質問は、献金についてで、十分の一献金と席上献金をどのように捉えたら良いか、ということでした。十分の一献金については、マラキ書の中に、「私(神様)から盗んでいるから、イスラエルの民はいつまでたっても豊かにならない」と書かれています。「十分の一を私の元に携えてきなさい」ということです。これは旧約聖書の教えですけれども、イエス様は新約聖書の中で、「私は律法や預言者を廃棄するために来たのではない」と言われました。マラキは預言者ですから、マラキが語った「神様の前に、十分の一と奉納物を献げなさい」とい教えは生きているということです。確かに、正義と憐れみと誠実さの教えと比べれば、その重要度は落ちるけれども、イエス様は「天国では、小さい教えであってもそれを守るように教えるものが天国で偉大なものと呼ばれる。けれどもそのような小さい教えを小さいからと言って蔑ろにするものは、天国でも最も小さいものと言われる」と言われたので、献金についての教えを守っていくことが大切だ、ということを見ていきました。

 そして、教会では、十分の一献金について強制はしません。しかし、私が見てきた中で、忠実に十分の一を献げ続けた人の生涯は本当に祝福されていて、反対に献げずケチった人は、どこかでお金を浪費していることになっている、ということを見ていきました。十分の一は強制ではないけれども、本当に喜んで献げる人を神様は愛してくださるので、捧げることは祝福だということをお話ししました。そして、それぞれの収入、つまり給与をもらっている人は給与の十分の一を、学生さんであればアルバイトやお小遣いの中から十分の一など、自分のできる範囲で捧げたら良い、ということをお話ししました。

 また、席上献金についての教えについても見ていきましたので、その箇所をもう一度読んでみましょう。

あなたのうちの男子はみな、年に三度、種なしパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主が選ばれる場所で御前に出なければならない。主の前には何も持たずに出てはならない。
あなたの神、主が与えてくださった祝福に応じて、それぞれ自分の贈り物を持って出なければならない。

申命記 16章16~17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 日曜日ごとに捧げる席上献金について、神様は「主の前には何も持たずに出てはならない」と言われています。そして、金額は特に定まっているわけではないですが、「あなたの神、主が与えてくださった祝福に応じて、それぞれ自分の贈り物を持って出なければならない」という教えから、席上献金が献げられている、ということをお話ししました。これも強制ではないですが、たとえ小さな教えであってもそれを忠実に守ることは、後々とても大切になってくるので、お話した方が良いかな、と思いました。

 M姉妹のこともお話しました。大学院を卒業して正職員にはなれなかったのですが、K研究所で時給職員で働いていました。M姉妹は生活も大変だということがわかっていたのですが、献金について教えて、「最初が肝心だから、神様に十分の一を捧げると経済的にも祝福してくださるから良いよ」とお話しました。また、「神様は喜んで与える人を愛してくださると聖書に約束があるので、そんな贅沢はできないかもしれないけど、最初から十分の一を捧げた方がいいよ」ということもお話しました。そこでM姉妹は、その時から忠実に献金を捧げていました。そうしたら、そこでの契約が終わりそうな時に、今度はもっと良い待遇で就職できたのです。でも、そこも契約社員だったので、もっと安定した職場が与えられるようにと祈っていました。そうしたら、普通はなれない国家公務員の正職員に採用になったのです。普通は無理でも国家公務員になれたということは、M姉妹にとっては大きな祝福でしたし、私にとっても神様からの一つのしるしでした。若い女の子が良い服も着たいだろうし、バッグも持ちたいだろうし、それなりのアパートに住んでいたら、生活も大変だからちょっとどうなのかと思ってたのですが、あの時献げていなければ、今国家公務員にはなれていなかったと思います。もし国家公務員になれなかったのであれば、イエス様が地上にまだ来られなくて、65歳まで働くことを考えると、時給職員で働くのと国家公務員で働くのと、生涯年収が一億五千万ぐらい違ってくるわけです。ですから、神様のために本当に喜んで献げるときに、経済的な奇跡が起こってくるのです。神様はマラキ書の中で、「十分の一と奉納物を献げることによって、私が溢れる祝福を注ぐかどうか試してみなさい」と語られていますが、「神様を試してみても良い」と言われているのはこのマラキ書だけです。この献金の教えだけなのです。あとは「神様を試してはいけない」とあります。この様に、神様は御言葉に従って、喜んで献げる人を愛してくださる、ということをお話しました。

 そして、私のお世話になっている、ある院長の先生は、今90歳ですけれども、喜んで、どんどんどんどん献げられています。私がある時、「先生、そんなに献げて大丈夫なんですか」と言った時に「いや、もう九十だよ。お金持って死ねるわけじゃないしね」などと言っておられました。それでも、お金がどんどんどんどん与えられているという奇跡を見るときに、神様は、御言葉に忠実に生きる人に、忠実に報いられるお方だということを、私自身経験しました。

 そして、神様の前に、ケチって「十分の一は献げない、席上献金は献げない」という風にしている人で、経済的に祝福されている人を、私は今のところ知らないです。ですから、これは本当に強制ではないですけれども、喜んで十分の一と席上献金も献げられることが、神様の大きな祝福だと思います。

***前回のレビューはここまで***

 それで今回、Nさんからのもう一つの質問にお答えしたいと思います。今日の御言葉は、ヨハネ3章36節です。

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 Nさんから受けたもう一つの質問は、先ほどお読みしたヨハネ3章36節に記されています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」というところの、「神の怒りがその上にとどまる」とはどういうことですか、という質問でした。神様は愛なる方なのに、「神様の怒りがその上にとどまる」というのは、Nさんとしては納得がいかない、ということだったのです。それで、そのことについて、聖書から見ていきたいと思います。

 私は、質問を受ける時は、いつも自分勝手に答えるのではなくて「御言葉にはこう書いてあるのでこうしましょう」というような形でお答えするようにしています。まず、私達は、神様はどういうお方か、よく理解しておく必要があります。それは「神様は変わらないお方だ」ということです。そのことをしっかりと押さえておく必要があります。旧約時代の神様も、新約時代の神様も、全く変わりません。神様は変わりません。旧約時代はイエス様の誕生前で、新約時代はイエス様の誕生後です。そして、今は、この救いが異邦人、私たちにも広がったという、恵みの時代にあるわけですけれども、神様のご性質はまず変わらないということを、私たちはしっかりと押さえておく必要があります。神様がもし変わったとしたら、とても大変なことです。詩篇の102篇25節から27節をお読みします。

あなたははるか昔に地の基を据えられました。天もあなたの御手のわざです。
これらのものは滅びます。しかしあなたはとこしえの方です。すべてのものは衣のようにすり切れます。外套のようにあなたがそれらを取り替えられるとそれらはすっかり変えられます。
しかしあなたは変わることがなくあなたの年は尽きることがありません。

詩篇 102篇25~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、神様は「はるか昔に地の基を据えられました」とありますが、26節で「これらのものは滅びます。しかしあなたはとこしえの方です。すべてのものは衣のようにすり切れます」と書かれています。そして、27節で、「しかしあなたは変わることがなくあなたの年は尽きることがありません」とあります。ですから、天と地は確かに、いつか滅びます。しかし、神様はとこしえに変わらないとあるわけです。また、マラキの3章6節を見ていきましょう。旧約聖書の最後です。

主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。

マラキ書 3章6節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「主であるわたしは変わることがない」とありますから、神様は決して変わらないお方です。これは旧約聖書に書いてありますが、新約聖書にも、神様は変わらない、と書かれています。

すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

ヤコブの手紙 1章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この後半に「(天の神様)には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」とある通り、神様は変わらないお方と、はっきり記されています。ですから、私たちの住んでる地は、確かに時代とともに変わっていきますが、神様は変わらないお方です。また、御子イエス様も変わらないお方です。ヘブルの13章8節をお読みします。

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

ヘブル人への手紙 13章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちの主イエス様も、「昨日も今日も、とこしえに変わることが」ないのです。ですから、まず第一に押さえておかなければならないことは、神様もイエス様も、「昨日も今日も、とこしえに、」昔から今も、また将来も、ご性質が変わることがないお方です。この天地は滅び去って、全く新しい天と地に変えられますけれども、神様もイエス様も変わらないお方だということを、私達はしっかりと心に留めておく必要があります。

 そして、神様は変わらない神様ですけれども、旧約時代から今の新約の時代において、神様はご自分に聞き従うものを祝福すると言われました。でも、神様に聞き従わないものには「呪いがくる」「神様の怒りが留まる」と記されているわけです。これは旧約時代も新約時代も一緒です。まず旧約聖書から見ていきましょう。申命記の28章1節から14節です。神様に聞き従うなら、祝福があると記されています。

もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
主は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
あなたが、あなたの神、主の命令を守り主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
地上のあらゆる民はあなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
主があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
私が今日あなたに命じる、あなたの神、主の命令に聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。

申命記 28章1~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 この様に、神様に聞き従うなら、あらゆる祝福を与えてくださると神様は約束されました。続いて、神様に聞き従わないなら、神様の怒り、憤り、呪いがくるということが記されています。ちょっと長いですが先ほどの続きの15節から62節までを読み、どういうことが起こるか読んでいきましょう。

しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。
あなたの胎の実も大地の実りも、群れの中の子牛も群れの中の子羊ものろわれる。
あなたは入るときにものろわれ、出て行くときにものろわれる。
主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと混乱と懲らしめを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、たちまちにして滅びる。これは、わたしを捨てたあなたの行いが悪いからである。
主は疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが入って行って所有しようとしている地から、あなたを絶ち滅ぼす。
主は肺病、熱病、高熱病、悪性熱病、また干ばつ、立ち枯れ、黒穂病であなたを打つ。これらのものは、あなたが滅びるまで、あなたを追いかける。
あなたの頭上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。
主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。
主はあなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻めて行くが、敵の前で七つの道に逃げて行く。あなたのことは地上のすべての王国にとっておののきのもととなる。
あなたの死体は空のすべての鳥と地の獣の餌食となり、しかも、これを追い払う者もいない。
主はエジプトの腫物、腫れもの、湿疹、疥癬をもってあなたを打ち、あなたは癒やされることがない。
主はあなたを打って錯乱させ、盲目にし、心を混乱させる。
あなたは目の見えない人が暗闇で手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは何をしても成功せず、いつも虐げられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。
あなたが女と婚約しても、ほかの男が彼女と寝る。家を建てても、その中には住めない。ぶどう畑を作っても、その初物を味わうことはない。
あなたの牛が目の前で屠られても、あなたはそれを食べることはない。あなたのろばが目の前から略奪されても、返って来ない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを助ける者はいない。
あなたの息子と娘はほかの民に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。
あなたの大地の実りもあなたの労苦の実もみな、あなたの知らない民が食べる。あなたはいつまでも虐げられ、踏みにじられるだけである。
あなたの目に見る光景で、あなたは気がふれる。
主はあなたの膝とももを悪性の腫物で打たれ、あなたは癒やされることがない。それは足の裏から頭の頂にまで及ぶ。
主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせる。あなたはそこで木や石の、ほかの神々に仕える。
主があなたを追いやられる先の、あらゆる民の間で、あなたは恐怖のもと、物笑いの種、なぶりものとなる。
畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。
ぶどう畑を作って手入れをしても、そのぶどう酒を飲むことも、ぶどうを取り入れることもできない。虫がそれを食べるからである。
領土のいたるところにオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。
息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕らわれて行くからである。
あなたのすべての木と、大地の実りは、害虫が取り上げてしまう。
あなたのうちの寄留者はあなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。
彼はあなたに貸すが、あなたが彼に貸すことはない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。
これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついにあなたは根絶やしにされる。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令と掟を守らなかったからである。
これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。
あなたがすべてのものに豊かになる中で、あなたの神、主に喜んで心の底から仕えようとしないので、
あなたは飢え渇き、裸となり、あらゆるものに欠乏し、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主はあなたの首に鉄のくびきをはめ、ついにはあなたを根絶やしにされる。
主は遠く地の果てから一つの国を来させ、鷲が獲物に向かって舞い降りるように、あなたを襲わせる。その話すことばをあなたが聞いたこともない国である。
その国は横柄で、老人に敬意を払わず、幼い者をあわれまず、
あなたの家畜が産むものや大地の実りを食い尽くし、ついにあなたは根絶やしにされる。彼らは穀物も新しいぶどう酒も油も、群れの中の子牛も群れの中の子羊も、あなたには少しも残さず、ついにはあなたを滅ぼす。
その国は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを閉じ込め、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁は落とされる。彼らが、あなたの神、主が与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを閉じ込めるとき、
あなたは包囲と、敵がもたらす窮乏のために、あなたの神、主が与えてくださった、あなたの胎の実である息子や娘の肉を食べるようになる。
あなたのうちの最も優しく、ことのほか上品な男でさえ、兄弟や愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、
自分が食べている子どもの肉をだれにも分け与えようとはしない。あなたのすべての町囲みの中には、包囲と、敵がもたらす窮乏のために、何も残されていないからである。
あなたのうちの優しく上品な女で、あまりにも上品で優しいために、足の裏を地面に付けようともしない者でさえ、愛する夫や、息子や娘に物惜しみをし、
さらには、あらゆる欠乏のために、自分の脚の間から出た後産や自分が産んだ子さえ、ひそかに食べることまでする。あなたの町囲みの中が包囲と、敵がもたらす窮乏の中にあるからである。
もしあなたが、この書物に記されている、このおしえのすべてのことばを守り行わず、この栄光に満ちた恐るべき御名、あなたの神、主を恐れないなら、
主はあなたへの災害、あなたの子孫への災害を驚くべき仕方で下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。
主は、あなたが怖がっていたエジプトのあらゆる悪疫を、再びあなたにもたらされる。それがあなたにまといつく。
主は、このみおしえの書に記されていない、あらゆる病気、あらゆる災害までもあなたの上に臨ませ、ついにあなたは根絶やしにされる。
あなたがたは空の星のように多かったが、少人数しか残されない。あなたの神、主の御声に聞き従わなかったからである。

申命記 28章15~62節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで神様ははっきりと、ご自分に聞き従わないならば怒り、呪いが来ると言われました。そして、結局イスラエルの民は、神様に聞き従わず、神様に反抗して歩みました。

 そして、今読んだところを一つ一つ見ると、全部成就していったのです。本当にイスラエルの民は困窮していきました。しかし、それでも神様に反抗し続けて、自分の産んだ子供さえも食べてしまうというようなことが起こりました。そして、聖書を見ると、イスラエルの民は一つの王国を作ったけれども、分裂して北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされてしまうということが、実際に全部起こったわけです。神様の警告通りのことが実際に起こったことが、旧約聖書を読み進めるうちにわかります。

 そして、この旧約聖書は、終わりの時代に生きる私たちのための警告だと言われています。確かに、神様に聞き従うなら、神様はその人を喜ばれて祝福されます。もちろん、終わりの時代には、エレミヤに仕えたバルクに神様が言われたように、「大きなことを求めてはいけない。でも、あなたが行くどこででも、あなたの命を分捕りものとしてあなたに与える」と神様は言われました。その時代に合った、神様の祝福と守りがあるのです。でも、神様に聞き従わないなら、神様は怒られて、あらゆる呪いが来ると警告されています。

 旧約時代に、今読んだことが全て成就していることを、私たちは覚えておく必要があります。神様に聞き従う人を神様は祝福され、神様に聞き従わない人は、神様の怒り、呪いが来ます。しかし、先ほどお読みしたヨハネ3章36節に「御子イエス様を信じるものは永遠の命をもつ」とある通り、自分の罪を認め、悔い改めて、神様が与えてくださった一人子イエス様を自分の主人、救い主として受け入れる、即ち神様の命令に聞き従う人には祝福があります。その祝福は、神様との親しい交わりを持ち、最終的に天国に行けるという祝福です。でも神様が送ってくださった一人子、イエス様を拒むものは、「神様の怒りがその人の上に留まる」のです。

 神様に聞き従わない者への怒りは、旧約時代も新約時代も何も変わりません。ですから、私たちはしっかりと覚えておく必要があります。旧約の神様も、新約の神様も変わらないのです。神様に聞き従うものは祝福されるけれども、神様に従わないものには怒りと憤り、呪いが来ます。そのことを神様は、はっきりと私たちに警告されています。

 そして、どちらを選ぶかは私たちの選択に関わっています。ですからNさんが、「どうして神様の怒りがイエス様を信じないものに留まるんだ」と言われても、神様は変わらないお方ですから、神様に聞き従わない、つまりイエス様を受け入れないというのは、神様の怒りの対象になるのです。これは、聖書ではっきりと私達に語られていることです。

 「なんだ、神様は愛なるお方じゃないのか」と、今度はNさんが言われるかもしれません。しかし、神様は非常に愛なるお方です。もう私たちが考える以上に愛なるお方なのです。それは旧約時代も新約時代も、決して変わることはありません。神様は旧約の時代に、「神様に聞き従わないならば呪いが来る。聞き従うならば祝福が来る」とはっきり言われたのに、イスラエルの民はどうしたかと言うと、反抗したのです。神様が「してはいけない」と言われたことを全部やって、好きなように神様を無視して生きました。しかし神様は何度も何度も思い留まって、イスラエルの民を滅ぼし尽くされませんでした。

 申命記が書かれた時代の荒野にあっても、必要なものは全部与えられたのに、何か問題が起こるたび「ああ、肉が食べたい」「スイカが食べたい」と言って、イスラエルの民は神様に文句を言いました。このため神様の怒りが燃え上がって、全ての民を滅ぼし尽くそうとされました。しかし、モーセのとりなしもあったものの、全ての人が滅ぼされるわけではなかったのです。一部の主導した人たちは滅ぼされるということはありましたが、神様は忍耐を持って、忍耐を持って、イスラエルの民をカナンの地、約束の地まで、荒野の旅を通して導かれました。そして、まだ国はできていなかったのですが、カナンの地に入った後も、イスラエルの民は神様に反抗しました。でも神様に叫んだ時には、いつも士師たち(ジャッジ)が送られて、イスラエルの民は守られ、救われました。それでも、喉元過ぎれば熱さを忘れるように、イスラエルの民は反抗し続けました。それでも神様は、忍耐して導いてくださいました。

 それから、一つの王国ができた後も、民は反抗していきました。その結果、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされたわけです。その過程で、神様は何度も何度も、民に呼びかけておられました。「私に帰ってきなさい」「悔い改めて、その悪い行い、石とか木で作った他の神々を拝むのではなく、私に聞き従いなさい」と、神様は何度も何度も、預言者たちを送り、呼びかけられました。でも、イスラエルの民は、神様が送られた預言者を歓迎するどころか排斥したり、殺したりしました。それでも神様は、諦めずに、何度も何度もイスラエルの民に語りかけられました。私たちはここに、神様の深い愛を見ることができます。

 神様は、はっきりとこの申命記で、「神様に聞き従わないならば呪いが来ますよ」と言われたのに、それを無視して生きてきたイスラエルの民に対して、神様はすぐ滅ぼしてもよかったのです。なのに、ずーっとずっと、長い間忍耐して、彼らが悔い改めるのを待たれていました。これは、人間のどんな人が持つ以上の、深い忍耐と愛のお方だからです。私たちだったら、裏切られて、その時は「まあしょうがないか」と思って赦すことはあるかもしれません。しかしそれが七度とかとなったら、「ちょっと距離を置いたほうがいいんじゃないか」と思います。もちろん、クリスチャンの私たちはその人を赦しますけれども、それが何百回ともなれば大体人間はもう耐えられません。何度も何度も私たちを裏切る人を耐えられないと思いますけれども、神様はじーーーーっと我慢して、耐えられたわけなのです。そして、その時その時に、ご自分の愛するしもべ、預言者を送って、「その悪い業を悔い改めなさい」「やめなさい」「私のもとに帰ってきなさい」と何百年にも渡って語り続けられたのです。でもイスラエルは、それを辞めることをせず、とうとう滅ぼされるということが起こりました。

 それでも神様は愛なるお方なので、滅ぼし尽くすことはされず、英語で「レムナント」と言いますが、「残りのもの」を置かれて、イスラエルの民を残そうとされました。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、民は捕囚としてひかれていきました。しかし、その70年後、神様はクロス王という王様を立てられて、イスラエルの民をエルサレムに帰還させるようにされました。本当は滅ぼし尽くしても良かったのです。しかし、滅ぼし尽くすことをせず、なんとかイスラエルの残りの人たちを選び、ご自分の民として育てていかれたわけです。そして、神様は悪いものが滅びる時に、喜ばれてはいません。本当に悲しまれていると旧約聖書にも書かれています。

しかし、悪しき者でも、自分が犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべての掟を守り、公正と義を行うなら、その人は必ず生きる。死ぬことはない。
彼が行ったすべての背きは覚えられることがなく、彼が行った正しいことのゆえに、彼は生きる。
わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。

エゼキエル書 18章21~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで愛なる神様は、「悪しき者でも、自分が犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべての掟を守り、公正と義を行うなら、その人は必ず生きる。死ぬことはない。 彼が行ったすべての背きは覚えられることが」ないと言っておられます。そして、23節で「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか」「彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか」と言われています。ですから、神様は、その悪しき者が滅んでいくことを、決して良しとされない、ということなのです。その人が立ち返るのを待っておられます。続いて31節と32節も見ていきましょう。

あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──神である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。」

エゼキエル書 18章31~32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、「あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない」と言われました。「」というのは、滅びのことで、地獄に行くということです。それを「喜ばない」とあります。「だから立ち返って、生きよ」と、言われているわけです。神様に反抗し続けてきた、悪い民であっても、神様はまだ彼らが滅びることを良しとされず、「立ち返りなさい」と言われました。そして、「あなたが立ち返って神様に聞き従って生きるなら、今まであなたがしてきた悪いこと何も覚えられないし、命を得る」と言われました。「わたしは悪いものが滅びることを喜ばない」と。このようにはっきりと、主は言われているのです。

 ですから、覚えなければならないのは、旧約時代にあっても、神様は本当に忍耐して忍耐して忍耐して、イスラエルの民を愛し続けられた、ということです。ですから、旧約時代の神様も愛なるお方ですし、もちろん、新約時代の神様も愛なるお方です。

 神様は一人子イエス様を、わざわざこの地に送る必要はなかったのです。生まれながらにして神様を無視し、反抗して生きてきた私たちですから、そのような私たちを救う筋合いはないわけです。例えばこの社会における人間関係の中でも、色々と自分に対してすごく敵対心を持つ人とか、嫌なことを言う人とかがいると思います。別にそういう人たちを無視して生きてもいいわけです。でも神様は、そのように神様を無視し、反抗して生きる私たちのために一人子イエス様を与えてくださいました。ここに大きな大きな愛があるのです。

 ですから、神様の深い愛は、イエス様であられる一人子を送られたことにあります。また、イエス様にしても、天の栄光を持って最初の天地創造の時からおられたのに、わざわざ人となって、貧しい飼い葉桶の中で生まれてくださいました。そして、私たちが経験するであろう、すべての苦しみを経験してくださって、地上において、私たちの罪の贖いをして十字架で死んでくださいました。本当に、大きな神様の愛であり、イエス様の愛です。私たち人間には全く思いもよらないことです。私たちに反抗し無視する人たちに対して、大きな犠牲を払って最高の贈り物をしようなんて、私たちは思わないです。でも神様とイエス様はそれを成してくださいました。ですから、神様は本当に、愛なるお方なのです。ヨハネの3章16節見ていきましょう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネの福音書 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様を送ってくださる義理も何もなかったのに、イエス様を与えるほどに、反抗する私達を愛してくださいました。それは、イエス様を「信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。イエス様が来られなければ、確かに私達は暗闇の地獄行きでした。私たちの犯した罪ゆえに地獄に行き、永遠に昼も夜も苦しみを受ける者でした。しかし神様が私たちを愛し、イエス様を送ってくださったゆえに、イエス様を信じて従っていくなら永遠の命を得て、天国に行けるという大きな大きな恵みに預かる道が、私達に与えられたのです。ここに深い神様の愛があるのです。ですから、私たちは、神様の大きな愛を覚えておく必要があります。旧約時代も神様は忍耐して、イスラエルの民を愛されました。そして、新約時代も、神様は深い愛のお方です。私たちのために、イエス様を与えるほどに愛してくださいました。第一ヨハネの4章7節から10節を見ていきましょう。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヨハネの手紙 第一 4章7~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 本当の愛というものは、神様からしか来ない、ということです。日本語でも「愛は惜しみなく奪う」とあるように、神様・イエス様から離れた愛というのは、人をコントロールすることもあるわけです。神様の愛はアガペーで無償の愛です。本当にただ私たちのためだけに、イエス様をくださったのです。でも人間は、その人から何かを得ようとか、他のものが混じっています。

 例えば、「親子関係は神様の愛に近いのではないか」と言われる方もいます。けれども、親であっても、自分の老後を見てもらおうとか、自分の思い通りに子供を動かそうとか、自分の手元に置いておこうとか、自分のエゴが入っている純粋な愛ではないのです。ですから、「愛は惜しみなく奪う」とは、本当にその人を祝福し、その人が自由に、その人らしく生きられるよう祝福するというよりも、その人を通して、自分のために何かを得ようとするので、人間社会の中には純粋な愛がない、ということです。愛というものは、神様にしかないものです。

 「でも、問題のあるご主人に、仕えている奥さんがいますよ」という人もいます。例えば、ご主人がアルコール中毒であれば、「もう、せっせせっせと、ご主人に仕えている素晴らしい奥さんもいますよ」と。しかし、いろいろな研究が進む中で、アルコール中毒の人はその奥さんから離されると、アルコール中毒が良くなる、ということがわかってきました。また、反対にそのアルコール中毒の人を奥さんの元に帰すと、アルコール中毒に戻っていくことが、アメリカの研究でわかりました。そして、そこでわかってきたことは、実は奥さんには存在不安があって、困っている人を助けていくことに存在意義を見出していて、助けることに自分の生きがいがある、ということでした。ですから、ご主人が困った人でないと、自分は存在意義を見出せないのです。

 ここで何を申し上げたいのかというと、人間の愛というものは、どこか、その人に本当に全部与えるというよりも、人から奪おうとするものが入っている、純粋な愛ではないということです。でも、神様の愛は純粋です。本当に私たちに良いものを与えたいと願っておられます。神様にとっては大きな犠牲だったけれども、ただただ、私たちが滅びの道から天国の道に立ち返る様にと、イエス様を送ってくだったのです。本当の愛は神様からしか来ない、ということです。ですから、「神は愛」と言われる所以なのです。

 そして、私たちも「この愛を持って、互いに愛し合いましょう」と聖書で言われています。その人から何か見返りを求めてとか、その人から何か利益を得よう、とかではありません。そうではなく、「本当に神様は私たちを愛してくださったので、私たちも互いに無償の愛を持って、本当にその人の幸せを思って、祝福して愛していきましょう」というのが主の教えなのです。ですから、私達が覚えておく必要があるのは、旧約時代にあっても新約時代にあっても、神様は、本当に私たちを愛してくださった、愛なるお方だということです。

 そしてもう一つ、覚えておかないといけないのは、この世界は滅びることが決まっている、ということです。イスラエルの民は、何百年も何千年も神様に反抗し続けて、とうとう滅ぼし尽くされました。それと同じように、私達も神様に反抗し続けたので、神様の怒りが積まれて滅びることが決まっています。そして今、終末の時代に入ってきているため、コロナなどの感染症、大地震、色々な災害、戦争などがこれから起こり、困難な時代を迎えて終わりがきます。それはもう聖書に預言されていることなので、はっきりしていることです。そして、「神様の怒りが注がれている」とヨハネの黙示録にもある通り、神様に反抗し続けている私たちのゆえに、滅ぼされる、と聖書にあります。

 そして、イスラエルの民の出来事は、これから来たるものの影であって、私たちへの警告です。長く続いたイスラエルの民ですけれども、神様の怒りが来て滅ぼされました。確かに、その中からも、少しの残りのもの、レムナントが残されたように、私たちのうちからも少しのもの、即ち天国の民は残されます。しかし神様の怒りが世界に降ることは、否定しがたいことです。ローマの2章4節から11節を見ていきましょう。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。
神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。
忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、
利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、
善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
神にはえこひいきがないからです。

ローマ人への手紙 2章4~11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 4節に「それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか」とあります。「神様は私たちが悔い改めるように導かれ、待っておられるのに、その寛容を軽んじているのですか」と。そして、5節では「あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えて」いる、とあります。そして、6節に「神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます」ともあります。神様に聞き従わない人たちには、神様は忍耐深く悔い改めるのを待っているけれども、御怒りが積まれている、ということです。また、第二ペテロの3章7節から11節に、次の様にあります。

しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。
しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。

ペテロの手紙 第二 3章7~11節
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 この様に、「神様は、最後にはこの地を火で焼き尽くされる」とあります。ノアの時代には洪水で滅ぼされたけれども、「この時代は火で焼くために取っておかれている」とあります。それは、核戦争かもしれないですし、カルデラ火山の爆発かもしれません。ともかく最後、この地は火で焼かれるということだけは確かです。

 「どうして神様はこんなに遅くて、何も起こらないのか」と疑問に思われる方もいるかもしれません。その答えは9節に書かれていて、「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」とある通りです。「神様は誰も滅ぼされることを喜ばれない」と旧約のエゼキエル書にありますが、新約時代の神様も一緒です。誰も滅びることを喜ばれません。一人でも二人でも、悔い改めに導かれるように、忍耐して待っておられます。でも、「主の日は盗人のようにやってくる」「そして全てを滅ぼす」とあります。その様な神様の怒り、憤りが降る日は必ず来るということを私たちは覚えておく必要があります。ヨハネの黙示録6章17節に、この様に記されています。

神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」

ヨハネの黙示録 6章17節
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 これは終わりの時代の滅びのときを表しています。神様、またイエス様の御怒りが降る、裁きの時が必ずあるので、私たちは本当に身を整え、清い生き方をしていく必要があると、警告されています。

 ですから、Nさんの「神様は愛なるお方なのに、どうして怒られるのか」という質問に対しては、聖書を見ていけばわかる通り、「神様は本当に深い愛の方であり、それは旧約時代も新約時代も変わらない」ということを申し上げたいと思います。それと共に、「神様に聞き従わない人に対しては、神様は怒り、また憤りを降される。それは変わらない」ということも申し上げたいと思います。

 神様がご自分に聞き従わないものを滅ぼされるということは決まっています。しかし、神様は、悪い人が滅びるのを良しとされません。私たちが想像する以上に神様は愛なるお方で、私たちが一人も滅びないように待っておられます。ですから私たちは、聖書を正しく理解していく必要があるのです。

 神様は決して変わらないお方で、「神様に聞き従うなら祝福されて、聞き従わないなら呪いが来ますよ」と警告されています。そして神様の愛は、旧約時代も新約時代も決して変わりません。そして、イスラエルの民が聞き従わずに滅ぼされたように、この世界も、神様に反抗したゆえに滅ぼされる日がきます。そのことを私たちは覚えておく必要があります。神様は愛なる方です。でも、神様は変わらないお方ですから、ご自分に聞き従わない者に、怒り、憤りが降されるということを私たちはしっかりと理解しておく必要があります。

 そして、一つ、終わりの時代について申し上げたいのは、人びとは自分勝手に聖書を解釈する様になると、聖書で警告されていることです。第二テモテの4章の2節から4節をお読みします。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

テモテへの手紙 第二 4章2~4節
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 この終わりの時代には、「人々が健全な教えに耐えられなくなり、自分の耳に心地よい話を聞こうとする」とあります。

 「いやいや、神様は愛なる方だから、どんな風に生きてても大丈夫!愛してくださるお方だから」と言われると、それは自分に都合が良いですよね。そして「全部赦してくださる」というのは、確かにそうです。けれども、「悔い改めたら赦される」ということです。悔い改めないのに悪いことばっかりして、好き勝手にしていて、「神様は愛なるお方だから、私を天国に導いてくださる、私を祝福してくださる」というのは作り話です。「神様は愛なるお方」というところばかりを強調し、「神様に聞き従わないものに憤りを降される、呪いがくる、怒られる」というところは無視して、自分に都合の良いように聖書を解釈する時代になると警告されているわけです。

 私たちは、聖書を健全に読んで理解する必要があります。そして、御言葉に純粋に従って、生きていきたいと思います。イエス様はもう一度この世に来られます。しかし、「私が来る時、果たしてこの地上に信仰が見られるだろうか」と言われました。それは、人々が健全な教えに耐えられなくなって、自分の好きなように聖書を解釈するような時代になってしまうからです。ですから私たちは、神様がどういうお方なのか、何を神様は喜ばれるのか、ということをしっかりと学んで、心に留めておく必要があります。

 今日はNさんの質問にお答えして、「神様は本当に私たちが考える以上に愛なるお方だけれども、いつかは神様に聞き従わないものに対する忍耐が終わって、怒り、憤りが降され、滅ぼされる」ということを見てきました。そのことが起こるのは、イスラエルの民が、「これから来たるものの影」と言われているからです。その時、少しの者だけが残されたように、今の時代も少しの者だけが残されていくという恵みがあるのです。イエス様も、「天国への道は狭い門だ、細い道だ」と言われました。でも、神様の御心を行っていく者に、神様は喜んでその道を備えてくださり、その人を受け入れてくださいます。

 都合の良い教えに惑わされることなく、本当に聖書の御言葉から聞いて、主に従っていく信仰生活を送っていきたいと思います。

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