神様の御心を行うとは何か(後編)

2022年7月3日

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

マタイの福音書 7章21~23節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 今日の御言葉は先週もお読みしましたけれども、まず先週お話したことを見ていきたいと思います。「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく」とあります。確かに「主よ、主よ」と言う者が入りますけれども、イエス様のことを知らない、受け入れない未信者は、どんなに良い人であったとしても天の御国に入ることはできないのです。それはどうしてでしょうか。それは罪の赦しがないからです。どんなに良い人であっても、一日に一度くらいは、心の中で悪いことも思ったりしますから、それが重なって大きな罪となります。「義人はいない。一人もいない」と聖書に書いてありますから、罪の解決がない限り、天の御国に誰一人入ることはできません。

 天の御国はイエス様を主、救い主として受け入れた者が入りますが、今日の箇所では、その中でも入れない人もいる、とあります。そして、入る人と入れない人の区別は何かというと、神様の御心を行ったかどうかです。そのことが問われる、とここに記されています。神様の御心を行う人はどういう人なのかと言うと、マタイ22章35節から40節にあります。

そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

マタイの福音書 22章35~40節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっている」と言われています。ですから、神様の御心を行う人とは、この第一の戒めと第二の戒めを守る人だということなのです。先週は、神様を愛するとはどういうことかについて、モーセの十戒から見ていきました。

 モーセの第一戒から第四戒は、神様を愛することです。第五戒から第十戒は、隣人を自分自身のように愛することです。神様を愛するということは、神様お一人だけを礼拝し、偶像を作って拝まない、拝んではいけないということです。また、神様の名をみだりに唱えて神様を自分のために利用してはいけない、ということです。言われてもいないのに「主はこう言われた」と言ったりして、神様を利用してはいけないと記されています。また、安息日を覚えてこれを聖なる日とするということです。神様は六日働いて一日休まれたので、礼拝に参加し、体を休めるのです。疲れていなくても六日働いて一日休むことは大切です。その点において私は、日曜日に主のご奉仕をしていたので「まあいいか」と思っていたのですが、祝日しか休んでいなかったので病気になってしまったのかなと反省しています。薬剤師はフルタイムではなく週四日ぐらいに抑えて、一日休めばよかったな、と今となっては反省していますけれども、皆さんもぜひ、六日働いて一日休むことはとても大切なことだということを覚えておいてください。

 また、第二の戒めも第一の戒めと同じように大切で、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とイエス様は言われました。そして、イエス様はヨハネ13章34節でこのように言われました。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネの福音書 13章34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、イエス様が私達を愛されたように、私達も「互いに愛し合いなさい」と言われました。これはイエス様の愛の本質と言っても過言ではないですが、イエス様の愛とはどのようなものでしょうか。罪人で、反抗する汚れた私達のために、イエス様は天の栄光の御位を捨てて、人となってきてくださいました。イエス様の悪口を言い、罵り、辱め、十字架につけた私達の罪を赦すために、イエス様は来てくださったということです。それは赦しが中心です。私達の罪を赦すために、イエス様が来てくださったのです。

 人間ですから、色々な問題はあるわけですけれども、とにかく、赦すことがとても大切な愛の本質と言っても過言ではありません。色々不満があったとしても、赦し合うことがイエス様のなされた模範であって、私達も倣うべきことなのです。第一コリント13章4節から6節をお読みします。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

コリント人への手紙 第一 13章4~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 ここで愛とは何なのかということが、具体的に書いてあります。まず最初に出てくるのは「愛は寛容である」ということです。隣人を自分自身のように愛しなさいということは、寛容であるということです。イエス様が私達を愛し、何の良いところもない私達の罪全てを赦してくださるために、ご自分で十字架にかかり、血を注ぎ流し、その御体をさいてくださったのです。その中心は赦しであり、寛容であることです。誰もイエス様を弁護する者はなく、皆に見捨てられましたけれども、イエス様は皆を赦されました。「彼らは何をしているかわからないのです」と言って、主なる神様にとりなされました。愛の中心は赦しといっても過言ではありません。エペソ4章30節から32節をお読みします。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

エペソ人への手紙 4章30~32節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」とあります。人が不都合なことをしたとしても、優しい心で赦し合うことは、神様が私達をイエス様において赦してくださったことに通じるからだ、と言われているのです。

 また、ローマ5章8節には、このようにあります。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

ローマ人への手紙 5章8節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私達が、罪人で神様に反抗していたにも関わらず、イエス様が私達の罪全てを背負い十字架で死んでくださいました。このことによって神様が私達に対するご自分の愛を明らかにしてくださっていると書かれています。愛の本質は赦しと言っても過言ではないのです。

 赦さないことは自分にも大きな損失を招きます。人を赦せないと思っていると、精神的にも身体的にも色々な問題が出てきますし、何よりも、神様が私達の罪を赦されないという問題が生じてきます。確かに人は色々なことをしてきます。確かに時には理不尽なことをする人もいます。けれども赦すことは自分のためになるということを常に覚えていきたいと思います。マタイ18章21節から35節をお読みします。

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

マタイの福音書 18章21~35節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 このように、イエス様は例えをもって、人を赦すことがどんなに大切かということを話されました。ペテロが「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」と聞いた時、イエス様は「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです」と言われました。これは490回かというとそうではありません。これは完全数なので、無制限に赦しなさい、ということなのです。

 そして、天の御国を王である一人の人に例えることができると言われました。自分の家来たちと精算するとき、一人の家来は、1万タラント負債を持っていた、と書かれています。ここで1万タラントと言われてもピンとこないと思います。1デナリが1日の労働賃金です。そして、1タラントは6千デナリのことです。1タラントは、6千日分の平均賃金ですから、とりあえず一日を1万円として、1タラントは6千万円となります。そして1万タラントと書いてありますから、それに1万倍して6千億円です。6千億円もの、途方もない負債を王様に抱えていた者が連れてこられて、ひれ伏して主君を拝して「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と言いました。王様はその家来をかわいそうに思って、その6千億円もの負債を全部免除してあげました。

 ところが、6千億円の負債を免除してもらったのに、その家来は、自分に借りがある仲間の一人にあって、その人に借金を返せと言ったわけです。その仲間も同じようにひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」と言ったのに、承知しなかったのです。それでその仲間の借金はというと、28節にあります。「自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った」と。タラントとデナリは全然単位が違いますよね。1タラントは6千デナリで、この百デナリは、1デナリを一日の労働平均賃金とすると、百万円です。確かに多いのは多いですけれども、6千億円の借金をなしにしてもらったのに、百万円の借金がある仲間に返せと詰め寄って、返せないと言ったら、その人を牢にぶち込んでしまったのです。

 そしてその結末を見た仲間たちは、一部始終を主君に報告しました。そうしてその主君は、彼を呼びつけて「悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」と言って、「怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡し」ました。そして、35節には、「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」とあります。

 ですから、私達も仲間に腹を立てることがあるかもしれないけれども、神様が、イエス様にあって私達のために罪の赦しをなしてくださったことを覚える必要があります。それに罪の負債というのは、例えて言うなら6千億円です。このように到底返せないものを主は、私達のために、イエス様を送って赦してくださったのです。そして、兄弟姉妹たちが私達にしたことは、百万円ほどの取るに足りないものだということなのです。それを赦せないなら神様は私達の罪も赦されないと言われているわけです。

 ですから、私達は、たとえ相手が理不尽なことをしたとしても、それは私達が神様から受けた赦しである、6千億円に対して百万円ほどのちっぽけなものだということを覚えて、赦すことを心がけていきたいと思います。赦せないなら、主も赦されないと言われました。

 イエス様の十字架の中心は赦しです。神様を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさいという時、それは赦すことが大きなウェイトを占めていることも覚えて頂きたいのです。そして、マタイ6章12節から15節にはっきりと書かれています。

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

マタイの福音書 6章12~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 これは主の祈りの一部ですけれども、この主の祈りの中で、「私達に負い目がある人たちを私達は赦す」と宣言しているわけです。そして、それゆえ、「私たちの負い目をお赦しください」と祈りの中で言っているのです。人を赦すことと神様の赦しを受けることは絶対的なものです。そして14節では、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません」とはっきりと書かれています。ですから、人の過ちを赦さないなら、神様も私達の過ちを赦さないということは、私達は罪を負ったまま地獄に行くということです。人を赦さないということは、私達にも大きな損害を与えることなのです。

 精神的にも身体的にも、怒りは私達の健康を害します。しかしそれだけではありません。神様も赦されないとなると地獄に行ってしまうのです。ある著名な神学者は、「人を赦さないから地獄に行くというのは神学的におかしい」と言っています。けれども、神学が聖書の御言葉の上に来ることは絶対ありません。どんなに素晴らしい神学であったとしても、御言葉がその上にきます。ですから、神学に惑わされず、聖書は何と言っているのか、イエス様は何と言っているのかということに目を向けて行きたいと思います。イエス様ははっきりと、私達が人を赦さないなら神様も私達を赦されないと言われています。ですから、人が私達に何をしたとしても、ともかく赦すことがとても大切です。

 イエス様が、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われた時、赦しというものが大きなウェイトを占めていたことを覚えておいてください。イエス様は「隣人を自分自身のように愛しなさい」とも言われました。赦すことがとても大切だということです。イエス様は、マタイ7章12節でこのように言われました。

ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

マタイの福音書 7章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」と言われました。これも大切な教えです。「これが律法と預言者です」と。人からしてもらいたいことを私達はする、ということです。

 だいぶ前に、日本人はノーと言えないことについての本が流行しました。日本人は共依存の人が多く、共依存の関係の特徴はノーと言えないことです。更に、ノーと言えないだけではなく、ノーと言われることを受け入れないということも特徴です。例えばアメリカであれば、よくコーヒーメーカーでコーヒーを入れる場面があります。人にもあげようと思って、「コーヒーいりますか」と聞くと、”Thank you(サンキュー)”と言って受けてもらう場合もあるし、”No thank you(ノーサンキュー)”と言って断られることもあります。でも”No thank you(ノーサンキュー)”と言われたなら、それはそれで良いわけです。コーヒーをいらないということに焦点を当てて、その時はコーヒーを飲みたくないと言っているのです。その人を否定しているわけではありません。その好意に対して「いらない」と言っているのであって、その人を否定しているのではないのです。しかし、日本人の場合はノーと言うことも受け入れてもらえない、と感じることがあります。

 人にはそれぞれ守るべき境界線があります。ノーと言ったら受け入れてもらうことは、特に相手が共依存の人だと難しいですが、ノーと言うことはその人を受け入れないと言っているわけではありません。そう思う人は、その行為に対してノーと言っているのだ、ということを区別されたら良いと思うのです。日本人はごっちゃにされることが多いのかな、と思います。何かしてそれを否定されると、自分が否定されていると取ってしまう人がいます。しかしそうではなく、「その行為はいりません。でもあなたのことは愛して受け入れていますよ」という風に言われているのだな、と受け取って区別をつけていくことが大切です。特に日本人は境界線が守られていないことが多いです。すなわち、人を別人格として敬っていくことがなかなかできていない人が多いです。

 特に、自分にとって良いと思うことを人に押し付けることには、大きな代償が伴います。例えば、何でも自分の価値観を子どもに押し付けて、完璧を求める親によって、子どもに悪い影響が出ることもあるので、絶対にやめた方がいいです。それは相手のためでも何でもなく、ただの支配にしか過ぎません。

 日本人は大体7割近くが、共依存体質だと言われています。私がなぜ、よく共依存のことを申し上げるかと言うと、それはとても罪深い性質だからです。人それぞれで違うのであって、たとえ親子であっても別人格なわけです。そしてそれぞれ神様から作られて、神様から愛される存在で、親とは違うのです。それなのに、自分の思い通りに子どもを動かすことが、その罪深い性質なのです。そこでたとえイエス様や神様が語られたりしても、自分の思いを満足させているだけです。ですから、相手の境界線というものをちゃんと守って、自分の価値観を押し付けない、自分が良いと思うことを押し付けないことがとても大切です。

 人それぞれの状態も違います。また、それぞれの生き方も違います。自分が良いと思うことを人に押し付けることは、愛でも何でもなく罪深い行為だということを皆さんにお話したいと思います。共依存の問題は、イエス様が支配者、主ではなく、自分が主になって、好きなようにやっていくという問題です。その人の心のどこかにはイエス様がいるかもしれません。しかし、心の王座にイエス様がおられるわけではないのです。そこが問題です。ですから私達は人の境界線というものを尊重したいと思います。「自分が人からしてほしいようにしなさい」とイエス様は言われたからです。

 そして自分も病気になってすごく感謝だったことは、未信者の友達ですけれども、月曜日から金曜日まで、いつも夕飯を運んでくれたのです。「食べれるものだけ食べてね」と言って、いくつかの料理を作って持ってきてくれたのですが、「洗い物も大変でしょう」と言って、わざわざ使い捨ての容器に一つずつ入れて、届けてくれました。この暑い最中でも、月曜日から金曜日までずっと届けてくれました。私はそれで、暑いこの夏の一週間を生き延びることができたと言っても過言ではありません。本当にその人はまだクリスチャンではないですが、私が本当にしてほしかったことをしてくれる良い例だと思いました。人によっては、自分の自己満足としか思えないことを押し付けてくる人もいます。しかし、人によっては本当にしてほしいことをする人もいるのです。

 ですから私達が、人に親切にし、人からしてもらいたいことしようとする時、自分の自己満足のためにするのではなく、本当にその人がしてほしいこと、必要は何なのかということを確かめてからすることはとても大切だと思います。それこそイエス様が喜ばれることです。わからなければその人に「こうしていいですか」と聞いたら良いと思うのです。そうしたらその人は「こうしてください」と言うと思うのです。本当に、その人が必要とする助けを提供し、自分の満足のためにするのではないことを覚えておいてほしいと思います。

 特に、共存的体質で人を支配する人は、自分が良いと思うことを押し付けてきますから、注意が必要です。しかし、それは本当の隣人に対する愛ではありません。隣人が本当にしてほしいことをすることが大切だということを、皆さんに覚えて頂きたいたいと思います。

 ノーと言う時、あくまでもその行為に対してノーと言っているのです。しかし、共依存の人はノーと言われると、自分が否定されたように怒り出したりするわけです。しかし、そうではないことを覚えて頂きたいたいと思います。そして状況によっても違うと思いますが、本当にその人がしてほしいことをすることが、本当にその人を愛することだということを皆さんに覚えて頂きたいたいと思います。

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