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祈祷会メッセージとお祈りの課題

教会に礼拝に行く

こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
詩篇43:4

詩篇43篇はもともと、詩篇42篇とつながっていたと言われています。詩篇42:5, 11と詩篇43:5は同じ言葉になっています。この詩篇の作者は神様に強く訴えています。この詩篇の作者が誰であるのかはっきりとは書かれていませんが、42篇を見ますと「コラの子」と書かれています。コラの子については次回触れますが、宮で賛美をする奉仕をしていた人たちです。43:2などを見ますと、作者はどうやら敵によって追われて放浪していたようです。ダビデは多くの詩篇を残していますが、彼は生涯の中で放浪することの多い人でした。サウルに追われ、ペリシテとの戦争のために各地を巡り、息子アブシャロムに追われ、本当にたくさん放浪しました。ダビデはイスラエルの二代目の王で、賛美の賜物があり、神の宮で力いっぱい賛美することがとても似合うイメージの人でしたが、もしかしたらエルサレムにいることの方が少なかったかもしれません。詩篇42, 43篇は、そんな放浪の身にある人が、神の宮での礼拝、神を賛美することを求めている、そんな詩篇です。彼は今、敵に虐げられて放浪しています。もちろん、いのちの危機や、虐げられていることも苦しみですが、この詩篇の作者にとっては神の宮で賛美できないことも大きな苦しみでした。彼は神様がいつかもう一度、自分を「あなたの聖なる山、あなたのお住まい」に連れ帰って下さって、そこで力いっぱい神様を賛美できることを望んでいます。

個人的な事を言いますと、私は今、教会の建物の中に住んで生活していて、礼拝に来る方々をお迎えする立場にいます。「教会に礼拝に行く」という当たり前の行為をしていません。ですからこの詩篇の作者が歌っているこの気持ちは、ある意味ですごく新鮮で、大事にしたい気持ちです。多くの方は「教会に礼拝に行く」ために、外出の準備をし、「礼拝に行く」という気持ちの整理をつけて家を出て、教会に来ます。そのように時間をかけてでも教会にいくのは、神様を礼拝する喜びがあるからだと思います。「教会に来る」時間は、心を神様に向けていく上でも多少はあった方がいいのかもしれません。私は「教会に行く」ための時間はゼロですが、そのように楽しみに来てくださる方々のためにも、礼拝の準備を整えるという時間を通して、しっかりと心を神様に向けていかなければいけないなと思います。

このように「教会に礼拝に行く」とは、ある意味で日常生活から距離を置く行為でもあるとも言えます。しかし全く切り離されたものでもありません。「教会に礼拝に行く」行為は、日常生活の延長線上にあります。日常生活が神様から離れすぎると、礼拝に行く意味を失ってしまいます。神様に特別感謝することが無くなるからです。あるいは詩篇の作者のように物理的な理由で教会に行けなくなるかもしれません。私たちは礼拝に行けば神様を意識しますが、私たちの日常生活にも神様は働いてくださっています。神様が日常生活に働いてくださっていることを意識しているので、私たちは感謝が生まれ礼拝に行きます。あるいは詩篇の作者のように礼拝に行くことが妨げられている時に、神様にこの日常生活にあなたの光とまことを送って礼拝に行けるようにしてくださいと願います。そして神様からの助けが送られた時には、本当に心から感謝して力いっぱい賛美をするのです。私たちは今、毎週のように礼拝に行ける日常に感謝したいと思います。またやむを得ず礼拝に集えない方々のためにも祈りたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 2, 3月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 教会総会、交換講壇礼拝のために
  • みずほ台教会のために