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祈祷会メッセージとお祈りの課題

罪の無い神様が十字架に架かって下さった

ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
ヨハネ19:4

ヨハネの福音書も終盤になりました。18章でイエス様が逮捕され、19章は十字架にかけられる場面が描かれています。そして20~21章で復活されたイエス様のことが描かれています。聖書が示す神様の救いで最も大事なことは、イエス様の十字架と復活です。イエス様の十字架と復活こそが、救い主がこの地上に来られた最大の目的でした。新約聖書にあるどの福音書も、福音書の最後に十字架と復活の記事が記されています。

18章でイエス様が逮捕され裁判になります。当時のユダヤはローマの属国でした。ある程度の自治権は与えられていましたが、誰かを死刑する権限は与えられていませんでした。そこでユダヤの最高議会は、イエスを死刑にするために、ローマ総督のピラトの所にイエスを連れて行きます。この裁判はイエスの死刑ありきの裁判でした。ピラトは取り調べを進めますが、イエスが自分は神の子だと言ったという事くらいしか分かりません。その他には何のやましいところも見つかりませんでした。しかしユダヤ人たちは、律法によれば神はただお一人だけで、自分を神だと言う人間は、神様を冒涜しているので死刑にされると主張しました。レビ記24:16に「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない」と記されています。イエス様は確かに自分は神であるという事を主張していましたし、それを証明する数々の奇跡を行われました。しかしユダヤ人たちは、イエス様を神様ご自身であると認めませんでした。ピラトにとっては、それは死刑に値するようなことではありませんでした。ピラトからすればどうでもいい話だったのかもしれません。ピラトは他に死刑に値するような罪が認められなければイエスを釈放しようとしました。ピラトは「あの人に何の罪も見られない」と言っています。

この裁判の記事の中でヨハネの福音書は2つの大事な点を明らかにしています。一つはイエス様には何の罪も無かった事です。イエス様は何かしらの罪があったから、あるいはローマに反逆したから十字架につけられたのではありませんでした。もう一つは、イエス様は自分は神だと主張していたという事です。そしてこれについてはユダヤ人と、イエス様を信じる人々の間で意見が分かれます。ユダヤ人たちはイエス様を神であると認めていませんが、イエス様を信じる人々は神様ご自身であると認めています。

救い主の贖いは、全ての人を罪から救うものです。しかし罪のある人間には、この贖いの業はできません。そこで神様は、ご自身が人間となられて、罪の無い人間として、全ての人の贖いの業を成し遂げて下さったのです。神様にしかできないことでした。神様は私たち一人ひとりを愛しておられるので、ご自身を犠牲にして、この贖いの業を成し遂げて下さったのです。イエス様ご自身には何の罪もありませんでしたが、人々から非難され、十字架につけろと言われ、弟子たちにも逃げられ、悲しみの人となって十字架に架かって下さいました。そのイエス様の十字架と復活のゆえに私たちは救われています。そのことを改めて感謝したいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 10-11月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 2017年の感謝と、新しい年の祝福と導きのために
  • 教団の新年聖会と、1/7の新年最初の礼拝のために
  • みずほ台教会のために