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祈祷会メッセージとお祈りの課題

視点を移す

全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。
ヨブ21:15

ヨブ記の半分まで来ました。友人たちのとの議論は2巡目になり、議論は白熱していきます。友人たちはこれまで因果応報説によって、ヨブが災いを受けているのは、ヨブが(あるいは家族が)罪をおかしたからではないか?と主張してきました。それに対してヨブは自分の身の潔白を主張してきました。ヨブが神様の前に正しい人であったことは、1~2章を見ても明らかです。ヨブの言い分は一見、おこがましくも見えますが、私たち以上にヨブは正しい人であったことを忘れてはいけません。

21章に入ると、ヨブは因果応報説そのものに疑問を持ち始めます。聖書は「神様に従えば祝福を受け、神様に従わなければ災いを受ける。」と教えます。申命記はだからこそあなたがたは心を尽くして、神を愛しなさいと教えます。しかしよくよく世の中を見まわしてみると、ヨブが言うように、「悪しき者が生きながらえて 年をとってもなお力を増し加え(21:7)」ています。神様が機械的に因果応報によって人をさばいているのであれば、彼らは衰えていき、滅びるはずではないかと言います。しかし悪人がみな滅びないわけではありません。確かに滅びていく悪人も多いのです。災いを受ける悪人と、災いを受けない悪人の差はなんでしょうか?その差というのは友人たちがヨブが受けた災いの理由と関係があるのでしょうか?逆に差が無いとするのであれば、「全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで(21:15)」ということになります。ヨブはこれらの事を考えると、「おびえ、戦慄でからだが震える(21:6)」と言います。

ヨブや友人たちが陥っている因果応報という考え方は、とても自己中心的な考え方でした。ヨブの行いの故に、神様はヨブの状況を変えるはずだと言う考えです。これは神様の上に自分を立たせる高慢です。神様は因果応報によって裁きを行わなければならず、だからこそ私という人間はその因果応報に従って行動するという考え方です。そうでなければ、神様に従わなければいけない理由が無くなってしまうのです。全能者とは何者なのか?わたしが「正しいからいって、それが全能者の喜びとなるだろうか(22:3)」ということです。

私たちは日頃、このように私中心で物事を見て生きています。他の人の心は見えないからです。想像するしかありません。だからと言って想像するのを止めてしまうと、とても自己中心的な生き方、自分ファーストな生き方になってしまいます。他の人との接し方を、自分の利害に合うか合わないかで決めてしまいます。この自己中心性が罪です。私たちはその物の見方を改めなければなりません。

私たちは神様との関係を見る時にも、私中心の見方ではなく、別の角度、神様からの角度で見る必要があります。神様は聖書の中で、神様に従うように教えています。そうすれば祝福を受け、従わなければ滅びてしまうとはっきりと仰っています。しかし神様には別の理由があって、滅びをとどめているのです。神様が機械的な冷徹なお方ではなく、人格的で人に同情できるお方であることがここに現れているのです。ひとことで言うならば、愛です。私たちは自分中心の見方をしている限り、この神様の愛を見出すことは難しいです。一たび、なぜ神様は因果応報をとどめるのか、視点を移して考えた時に真理が見えてきます。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 12月、1月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖餐礼拝、役員会のために
  • 南大沢チャペルのために