カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

苦難の理由ではなく

私は、自分の友の笑いものとなっている。神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに。正しく誠実な者が笑いものだ。安らかだと思っている者はわざわいを侮る。わざわいは足がよろめく者に用意されている。
ヨブ12:4-5

ヨブ記12章に入りました。3章でヨブが語り始め、3人の友人たちと交互に議論を交わしていきます。エリファズが語り、またヨブが語り、ビルダデが語り、ヨブが語り、ツォファルが語り、またヨブが語り、と議論が一巡しました。ヨブ記の解釈はとても難しいのですが、3章でヨブがサタンの思惑通り、神様を呪い始めたと見ると、ヨブ記は勧善懲悪的なとてもシンプルな構造にはなりますが、ヨブの苦しみを理解できないことになり、ヨブ記の持つ深みのあるメッセージが見えなくなります。ヨブ記に登場する人物はそれぞれ、篤い信仰を持っている面々で、人生経験も豊かで、神様に背くことはしないどころか、かえって信仰の弱っている人たちをたくさん励ましてきた人たちです。

ここまでの議論で友人たちが主張してきたことは、神様は正しいものを祝福し、悪い者を罰するお方なので、今ヨブの身に(あるいは、ヨブの家族に)起こった災いは、何らかの罪が原因なのではないかということです。これは正論と言えば、正論になります。もしかしたら私たちも日ごろ、このように考えるかもしれません。自分の身に何か辛いことが起きたら、それは神様からの罰であると思うかもしれません。友人たちもこの点を疑いました。神様は正しい方なので、正しい方を罰するはずは無いから、では逆にヨブか、ヨブの家族に悪者がいたに違いないと考えたのです。しかしヨブは終始自分の正しさを主張しています。そして1~2章に書かれていた神様とサタンのやり取りを見ている私たちにも、ヨブが正しい人であったことは明らかです。神様はヨブを絶賛していました。ヨブがこのような試練にあったのは、ヨブが正しいから、悪いからということとは別な理由があったということです。そして最終的には、神様はその理由を決して明らかにはなさいません。これは私たちにとっては辛いことかもしれません。苦難の理由は絶対明かされないのです。

ですからヨブの友人たちのように苦難の理由にばかり目を向けると、答えが得られないばかりか、苦しむヨブに対して、さらに苦しみを与えてしまう事になります。ヨブは12:4-5で語ります。「私は、自分の友の笑いものとなっている。…正しい誠実な者が笑いものだ。」確かに友人たちの語る通り、私たち全ての人は、神様の前に潔白であることはできません。だれでも罪を持っています。ヨブ自身もそれは良く知っていました。だからこそヨブは、いけにえを捧げ続けて(1:5参照)、神様に悔い改め続けてきたのです。慰めにやってきたはずの友人たちは、ヨブを慰めるどころか、返って傷口に塩を塗るようなことをしてしまいました。苦しむ人を慰めるという事の難しさを感じます。伝道者の書7:16に「あなたは正しすぎてはならない。」とあります。正しいことが必ずしも人を助けることにはなりません。その前の伝道者の書7:15には「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある」と書いています。「神様は勧善懲悪なお方」ですが、「神様が勧善懲悪だから滅びた人はみな悪人」とはならないという事です。神様は、私たちに苦難の理由ではなく、別の事に目を向けてほしいと願っているのかもしれません。続くヨブ記を読む中で、そんなことを考えながら読みたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 12月~1月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 教団家族セミナー、教団代議員総会、聖餐礼拝のために
  • 教団の神学生たちのために
  • 守谷教会のために