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祈祷会メッセージとお祈りの課題

自らの心を顧みる

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
ローマ7:14

ローマ人への手紙を続けて読んでいます。パウロはこれまで律法による義と信仰による義について話を進めてきました。私たちはユダヤ人ではないので「神様から与えられた律法を持っている」ということがどういうことなのか、今一つ実感として湧きません。パウロがローマ人への手紙で語っていることはとても難しい事のように感じてしまいます。パウロが7章で説き明かそうとしているのは、「律法が正しいから人は正しくいられる」とか、「人の生活が悪いのは律法が間違っているから」ということではないということです。また「信仰によって救われるなら律法は要らない」と言おうとしているのでもありません。そのような観点の議論ではなく、「律法は良い物、聖なる物だが、人は罪深い」ということを示そうとしているのです。

例えば、私たちは今、民主主義の社会で生きています。民主主義の社会では、みんなで考えてより良い法律を作ります。より良い法律をつくればより良い社会になると信じているからです。しかしより良い法律があるから即、より良い社会になるでしょうか?あるいは社会がなかなか良くならないは、法律が悪いからでしょうか?そのような議論は一つ、決定的に見落としている部分があるのではないか?とパウロは言います。どんな法律があろうとも、人の心に罪(悪)がある限り、社会は良くならないのです。人の心の罪は、たとえどんなに良い法律であったとしても、抜け道を探って、自分だけ得をしようとするからです。たとえ律法が神から与えられた聖なる物であったとしてもです。

パウロは自らの心も省みて嘆いています。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています(7:19)。」「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか(7:24)。」私たちは良い法律、律法を見れば、それが良い物であると心の底から賛同します。そしてそのように生きたいと願います。しかし同時に私たちの心のうちには、その法律、律法を守りつつも、他の人よりも得したい、あるいは法律、律法に書かれていないことならやっても悪くないと考える心があります。聖書でいう罪とは過去の過ちのこともそうですが、むしろ自己中心的な考え方、心の在り方です。ですからそのような心を持ち続ける限り、私たちの間に平和はありません。常に騙し合いの社会になるからです。そしてその心は神様に対しても、ある程度の悪さは出し抜けるのではないかと考えるようになります。パウロは。この罪の心が解決されない限り、本当に惨めだと言っているのです。

イエス様はこの罪の心を解決するために十字架に架かって下さいました。続くローマ8章以降に詳しく書かれています。イエス様は私たちの罪の心を十字架の上で処罰し、代わりに神の聖霊、御霊を与えてくださいます。御霊は常に私たちと共にいて、何が良い事で、何が悪い事か語りかけてくださいます。8:4にあるように御霊に従って歩むなら私たちは、良い物である律法、私たちも良いと認めている律法を十分に全うして生活できます。良い法律があるか無いかが問題ではありません。問題は私たちが自分の罪の心を自覚し、神様の解決を求めているかどうかです。私たちは今一度、自分の心を顧みて、神様の解決を求めて生きたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 4-5月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 神学生支援デー、教会運営会議、家族セミナーのために
  • 甲斐師CGNTV撮影のために
  • 南平教会のために