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祈祷会メッセージとお祈りの課題

他人は救ったが、自分は救えない

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
マルコ15:31-32

マルコの福音書も終わりに近づきました。イエス様が十字架にかけられる場面が描かれています。イエス様には何の罪もありませんでしたが、私たちすべての人のために十字架にかかり、代わりに刑罰を受けてくださいました。救い主イエス様はそのためにこそ、地上に来られたのです。イエス様の十字架と復活は一番大事なことですので、4つのすべての福音書にその出来事が記されています。

イエス様が十字架に架けられている時、ほとんどの人はイエス様の救いの意味を理解していませんでした。弟子たちを含めすべての人が理解していなかったと言ってもいいかもしれません。多くの群衆が、十字架上のイエス様を見て、自分と関係があるとは露ほども知らずにののしり、あざけりました。その一つとしてマルコの福音書は祭司長、律法学者の言葉を記しています。彼らはイエス様が救い主、神の子、イスラエルの王であるという噂を聞いていました。イエス様は数多くの奇跡を起こして、たくさんの人を癒し、救ったと聞いていました。しかしそのことを認めず、むしろ自分を神だというイエスは死罪にあたると考えていたのです。しかしもし今、イエス様が十字架から降りることが出来たら、それを信じると言っています。救い主であれば、神の子であれば十字架から降りる、そして何事も無かったかのように、傷一つ負っていないという奇跡を起こせるはずだと考えていました。たくさんの人を救ったというのだから、自分一人を救う位わけないだろうという考えです。

しかし、この祭司長、律法学者の言葉はとてもナンセンスです。「救い主」という存在をまるで理解していない言葉です。嘲る言葉ですから、わざとナンセンスにしたのかもしれませんが。確かにイエス様は神様ですので、やろうと思えば十字架からすぐに降りることができます。しかしそれはできません。なぜなら今、イエス様が十字架に架かって刑罰を受けているのは、自分のためではなく、他の人のためだからです。そして十字架にかかるためにこそ、イエス様は地上に来られたからです。もし今、イエス様が神の力を使って十字架から降りてしまったら「自分は救えるが、他人は救えない」ことになってしまいます。それはもはや「救い主」ではありません。

イエス様は「救い主」だからこそ十字架から降りないのです。他の人を救うために自分を犠牲にしているからです。他の人を救うためには自己犠牲の愛を持っていなければなりません。「他人は救ったが、自分は救えない」のではなく、「他人を救うために、自分を救わない」のです。祭司長、律法学者の論理は一見正しいように見えますが、自己中心の愛の論理です。神様の愛を正しく捉えていません。神様の愛は自己中心ではなく、自己犠牲の愛です。私たちはイエス様を救い主として信じ、その愛を受けています。感謝して神様の愛を受け取りたいと思います。そして私たちも自己中心からきよめられ、少しでも自己犠牲の愛を持つものへと変えられ続けたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 5-6月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • FMTC、修養会、キッズフェスタのために
  • 青梅教会のために

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