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祈祷会メッセージとお祈りの課題

「ワラをも」ではなく「イエス様だけ」にすがる

「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
マルコ5:28

通読は、新約聖書マルコの福音書になりました。福音書の中で最も短く簡潔にイエス様の福音が語られている書物です。毎章、たくさんのメッセージが詰まっていると思います。日々、神様の恵みをじっくりと味わっていきたいと思います。

5章は、イエス様がガリラヤ湖畔の町々で行われた奇跡が描かれています。イエス様は数多くの奇跡を起こされ、人々を助けました。本当に困窮していて、もはや誰も助けることができないような人々に癒しを与えてきたのです。イエス様の名前はガリラヤ地方で広く知れ渡っていきました。だんだんとイエス様の周りには人だかりができるようになりました。イエス様は主にカペナウムを拠点に活動していたようです。5章の前半では、湖を渡ってゲラサ人の地に行きましたが、5:21でもう一度湖を渡って自分の町に戻ってきました(マタイ9:1参照)。すでにイエス様の名前は広まっていて、たくさんの人がイエス様の周りに集まってきました。会堂司(新改訳第三版では会堂管理者)のヤイロがイエス様の許に来て、娘を助けてほしいと願います。同じ時、12年の間、長血を患っていた女性がイエス様の力で治してもらいたいと近づいてきました。本当にたくさんの人がイエス様の癒しを求めていた様子を福音書は緊張感を持って伝えています。

長血を患っていた女性は、イエス様の「衣にでも触れれば、私は救われる(5:28)」と考えていました。この女性はたくさんの医者に診てもらいましたが、逆にひどい目にあわされ、病気は治らず、持っている物全てを使い果たしてしまったと書かれています(5:26)。おそらくとても難しい病気であったのでしょう。医者も診てすぐに「これは難しい」と思ったに違いありません。現代ならば、お医者さんは患者さんに全てを説明する義務がありますので、ちゃんとしたお医者さんであれば、治せないのであれば治せないと言うと思います。しかし、当時は恐らく悪い医者もたくさんいたのでしょう。治せないのに「治せる」と言ってお金をだまし取っていたと思われます。彼女からすれば「ワラをもすがる思い」でたくさんの医者に診てもらったはずですが、とんでもない目にあわされてしまいました。

彼女は「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と考えていました。「思っていた(5:28)」の欄外注を見ると、直訳は「言っていた」であると書いてあります。自分に言い聞かせるようにして、それだけを考えて、イエス様に近づいたのだと思います。彼女は多くの医者に騙され、人間不信になってもおかしくないような状況でした。「どうせあなたも治せないかも。でも試しにやってみて。」という気持ちでイエス様に近づく可能性もありました。しかし彼女はそうではなく、自分に「イエス様なら!」「イエス様なら!」と強く言い聞かせながら近づいたのだと思います。彼女は今まで半信半疑で「ワラをも」すがる思いで多くの医者にあたりました。しかし今はそれをやめて「イエス様にだけ」すがることにしたのだと思います。私たちも「イエス様にだけ」すがりたいと思います。他の何かとイエス様の力を並べて考えるのではなく、イエス様こそが最も力のあるお方と信じたいと思います。イエス様の力だけを信じて、今日も祈ってまいりましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 5-6月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 50周年準備委員会のために
  • FMTC、修養会、キッズフェスタのために
  • 桜ヶ丘教会のために

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