12/2から待降節(アドベント)です

2018年は、12/2からクリスマスを待ち望む期間、待降節(アドベント)です。
そのため、今日11/25は礼拝後、みなさんで会堂にクリスマスの飾りつけをしました。それに合わせてホームページも、クリスマス仕様にしました。
今年のクリスマスも良いクリスマスになりますように。

すべてのものを集める神

時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。
エペソ1:10

 

新約聖書のエペソ人への手紙に入りました。エペソ人への手紙はパウロが書いた手紙です。手紙の内容から、この時、パウロはローマで囚人となっていたと考えられます。宛先は、タイトルを見るとエペソ人への手紙となっていますが、パウロはこの手紙をエペソの教会以外の他の教会にも回して読んでらえるようにと考えていたようです。ですので手紙の内容も、一つの教会の個人的な内容というよりは、キリスト教の根幹にかかわるような一般的な、重要な事を記し、注意と励ましを与えています。今日の私たちにとっても、教えられることの多い手紙です。

パウロは手紙の書き出しで、パウロは自分の事を「キリスト・イエスの使徒パウロ」と紹介し、エペソ人々については「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たち」と呼んでいます(1:1)。どちらもキリスト・イエスのものであることを語っています。そしてこのキリストが自分たちに何をして下さったのか、改めて語っています。パウロは自分の事をキリスト者と呼んでいましたし、エペソ教会の人たちも自分たちはクリスチャンと思っていたでしょう。そのキリスト者、クリスチャンとはさて一体、何者であったのか、改めて語っています。キリスト者、クリスチャンは、神様がキリストにあって選び出して下さった者たちです。神様はキリストの十字架によって、私たちを罪から救い出し、永遠の滅びから、永遠のいのちへと移してくださいました。それは私たちがそうされるに相応しかったからではなく、ただ神様の恵みによるのです。

神様の恵みは、私だけに与えられたものではありません。私たちに与えられたものです。神様は罪の中にいた一人ひとりを救い出して、キリストの体である教会に集めて下さいました。ですから教会には本当にいろいろな方々がいます。神様の恵みは年齢、性別に左右されません。いろいろな方々がいますが、共通しているのはみんな、神様の恵みによって、キリスト・イエスにあって召しだされた人たちであるということです。教会はいろいろな方々がいらっしゃるので、時に課題も生じますが、恵みもたくさん与えられています。自分だけでは知りえないこと、できないことも、教会では分かち合う事ができます。一人ひとりが持っている個性、賜物がたがいに生かされて、分かち合われていくことが神様の目的です。一人ひとりが個性、賜物を分かち合うことで神様の栄光が表されていくのです。

また今でもすでに教会にはいろいろな方々がいらっしゃいますが、神様はさらに多くの人がまだ神様の救いを受け取っていないこともご存知です。神様はもっと多くの方々を召しておられます。こうしてこのちのすべてのものがキリストにあって集められる時、私たちには想像もつかないようなとてつもない出来事ですが、その時にやっと神様の栄光の一部分が表される事になります。それほどに神様の懐は広く、深いのです。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです(1:23)」そのような恵み豊かな神様が私たちを罪から救い出し、常に見守り、豊かな交わりのある教会に入れて下さっていることに感謝したいと思います。そして一人ずつでもこのキリストの交わりに加われる方が起こされるように、また今、教会にいらっしゃる方々が守られるように、祈りたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 9-10月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • クリスマス飾付、甲斐師CGNTV撮影のために
  • 宣教師の阿部師、矢花師のために
  • 桜ヶ丘教会のために

 

神様に集中して祈る

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。──主の御口がそう語られる。
イザヤ58:13-14

 

イザヤ書後半は、神様からの慰めと癒しのメッセージが語られています。イスラエルの民は長年、うわべでは神様に仕えると公言してきましたが、心のうちでは神様を敬っていませんでした。他の偶像を拝み、外国を頼りにしてきました。神様はイスラエルの民からそのように裏切られ続けましたが、57:18にあるように「彼の道を見たが、それでもわたしは彼らを癒やす」と仰っています。主は怒ってイスラエルの民を戒めましたが、いつまでも怒ってはいないお方です。自分の罪を認め、悔い改める者には赦しと癒し、そしてきよめを与えて下さるお方です。

神様が私たちを赦し、癒し、きよめて下さるので、私たちは自分の罪に向き合い、それらを神様の前に差し出すことができます。もし神様が決して私たちの罪を赦さないお方であったら、私たちは裁きを恐れて、自分の罪を認めることはできないかもしれません。しかし神様が赦して、罪から救い出してくださるお方なので、私たちは自分の罪を認めることができます。

神様はイザヤ58章で、断食についてイスラエルの民に語っています。断食とは何のためにするのかという事を語っています。イスラエルの民は神様に対し58:3のように言っています。「なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。」断食は食事を全部、あるいは一部抜いて、神様に祈ることです。食事を抜くという事は大変なことですから、日常的なことではないでしょう。特別、祈りを聞いてもらいたいことがあるから断食するのです。しかし私たちは特別聞いてもらいたいことがあると、そのことにばかり目が向いてしまって神様が見えなくなることがあります。叶えて頂きたいことがあると、それが叶うまで神様は祈りを聞いてないと思い込むのです。あるいは58:3の後半のようにこうあります。「見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。」これは、断食の手順さえ正しく踏めば、神様は祈りを聞いてくださる。その他の時間に何をしても構わないということです。断食の祈りの期間はお腹がすくので、イライラがつのって家族や職場の人に八つ当たりするかもしれません。そんなひどいことはしないにしても、断食するのは健康にも良いことだから、一石二鳥かもとか考えるかもしれません。それでは目的がずれてしまっていないでしょうか。神様は目に見えず、私たちのペースで生きておらず、こうすればああしてくれるという取引先のようなお方ではないので、私たちは「ただ神様の前に断食する」「ただ神様に祈る」ということがとても難しいのです。神様は、イスラエル人たちにそれは断食か?それは祈りか?と問われます。あなたの心の中にはわたしは住んでいるのだろうかと問われます。

「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。」と神様は言われます。安息日は神様を礼拝する日です。出歩くことについては時代の変化もありますが、礼拝することに変わりはありません。神様を礼拝するのであれば、神様を礼拝しましょう。神様にしっかり集中しましょう。他の思いに引かれて「自分の道を行かず、自分の好むことを求めず」礼拝したいと思います。またお祈りをする時も、「自分の道を行かず、自分の好むことを求めず」すべてを信頼できる神様に委ねて祈りたいと思います。そうすれば、それは私たちは神様だけを自分の喜びにしてると言えます。そして神様はすでに私たちの祈りを聞いて下さったと実感できるはずです。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 9-10月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 合同宣教祈祷会のために
  • クリスマス準備のために
  • みずほ台教会のために

 

わたしが神だ。ほかにはいない。

あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。
イザヤ48:18

 

イザヤ書は40章から少し毛色が変わります。神様の救いや癒しが強調されるようになります。そして53章には有名は「苦難のしもべ」と呼ばれ、キリストの十字架の預言とも言える言葉があります。今日は48章を開きましたが、この前後では神様が「わたしが神である。ほかにはいない。」というような言葉をたくさん語っています。これだけ言われれば、誰でも理解できそうではありますが、何回言われても心の底から納得するのは難しいテーマでもあります。

47章にはカルデア人という言葉が出てきました。カルデア人とはバビロニア人のことです。イスラエルの民はイザヤの活動の後、バビロニアに捕囚の民として連れて行かれます。バビロニアの歴史はとても古く、多くの知恵や技術がありました。それらは他の国々に誇れるほどであったことでしょう。彼らはそれらの知恵や技術や、占星術、聖書によれば「呪文」や「呪術」を用いて、自分たちの国を治めていました。今の時代からすればそれらがどれだけの科学的根拠があったか分かりません。しかし彼らにとっては、国の方針を左右するに十分な根拠のあるものでした。

しかし神様はそれらを俯瞰されてこう言われます。「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。(イザヤ45:12)」神様はこの天地の全てを造られた神様です。神様は天地を創造された時に、他の神々をお造りになったでしょうか?神様が天地をお造りになった時に、神様の知らない宇宙を支配する法則、呪術ができてしまったでしょうか?神様は言われます。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。(イザヤ45:22)」「わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。(イザヤ18:17-18)」

神様の理屈は単純明快です。しかしこの単純なことを信じることが私たちにはとても難しいことのように思えます。私自身のことで言えば、私は何か買い物をする時、損をしたくないと強く思います。少しでも良い物かつ、安く手に入れたいと思います。だから高い物であればあるほど、本当にありとあらゆる手段を使ってリサーチします。インターネットで検索する回数、数知れず。ニュース、テレビ、雑誌、何でもキーワードが目に着いたら調べます。同じような商品が無いか確認し、とにかく比較します。そういうことをすれば、納得のいく買い物ができると思っているからです。そして何か月も、時には何年もかけて一つの商品を買います。そして納得できたかと言えば、どうでしょう。確かなのは疲れ果てるということです。「助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。(イザヤ47:13)」の言葉どおりです。

世の中は知恵の多さ、技術の確かさが私たちを納得させる、平安にすると考えます。技術の発展は私たちを豊かにします。しかし平安は別の所から与えられます。いのちある者に平安を与えることができるのは、いのちとは何かを知っている者だけだからです。知恵、法則、技術、呪術にいのちはありません。私たちの平安は神様だけが与えてくれます。「わたしが神だ。ほかにはいない。」のです。私たちの心の奥底に神様を置きましょう。私たちの平安は神様の内にあるのです。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 9-10月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 宣教礼拝、子ども祝福式、交換祈祷会、合同宣教祈祷会のために
  • 日本青年伝道会議のために
  • 小金井教会のために