神様との関係

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
マラキ3:10

マラキ書を開きました。マラキ書は旧約聖書の最後の書物になります。年代としても、旧約聖書のほぼ最後の時代に神様が語られたことが記されています。マラキ書には神様と人々の関係はどのような関係であるのか記されているように思います。神様はイスラエル人たちと契約を結びました。神様はイスラエルを祝福し、イスラエル人は神様を唯一の神様として礼拝します。契約の内容は書面(聖書、律法)に記されました。現代の私たちにとって契約書と言うのは、ビジネス上の付き合いをより簡略にするためのものです。毎月の電気、ガス、水道や電話などは、業者が提供してくれます。しかし毎日のように業者の方と会って、「いつもお世話になっています。今日はこれだけ使いたいので、これ位の代金でよろしいでしょうか。」というようなやり取りをするのは、利用者にとっても、業者にとっても大変です。ですので契約を交わし、契約書の文面に則ってサービスを提供し、料金を払います。こうすることで、過度な付き合いを避けることができます。しかし同時に友達の様な親密な付き合いでもなくなります。神様とイスラエルの契約は同じようなものなのでしょうか?

マラキ書の特徴の一つとして、神様の宣告と人々の「どのようにして?」という疑問が交互に現れます。1:2には「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。…」というやりとりが書かれています。「…あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。(1:6)」、「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。(1:7)」というようなやり取りが繰り返されます。イスラエル人たちは、神様との契約に則って、捧げ物を捧げていたようですし、祈りをしていたようです。しかしそれはまるで契約書の文面に則って形だけ遂行している、心の伴わないものでした。捧げ物は生活の余り物で済ませていました。過度に神様に捧げ物をしない代わりに、過度に神様の祝福に期待しませんでした。神様と交わした契約を「見よ、なんと煩わしいことか(1:13)」と考えていたようです。

神様は私たちと、もっと友達との付き合いや、親が子を愛するかのような関係を望んでおられます。形式上の関係ではなく、日々の何気ない会話や、心の伴った“おしゃべり”ができる関係を期待しています。神様は言います。10分の1を携えて来て、わたしに捧げて見なさい。こうしてわたしを試してみなさい。10分の1とは献金のことです。当時は収入の10分の1を神様に捧げるようにという律法がありました。10分の1はとても大きい額です。それは心が伴わずに捧げることのできる額ではありません。神様はお金欲しいのではなく、心が欲しいのです。神様に対して心を込めて贈った献金、祈りの言葉を神様はないがしろにされません。必ず私たちの思いに応え、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を与えて下さいます。どのような祝福が返ってくるか、それは神様がお決めになる事です。私たちの願い通りではないかもしれません。しかし大きな祝福であることは間違いありません。私たちは神様にどのくらい期待しているでしょうか。まあ形式上の、ほどほどの付き合いを望んでいるでしょうか。それとも友達以上の、親子以上の関係を望んでいるでしょうか。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 交換講壇礼拝(須郷裕介師)のために
  • 新しい年の導きのために
  • 南大沢チャペルのために