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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様の霊によって

彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ4:6

ゼカリヤ書を開きました。ゼカリヤ書は小預言書の中ではボリュームの多い14章構成になっています。預言者ゼカリヤが神様から受けた幻と言葉を書き記したものです。ゼカリヤが神様からメッセージを受け取ったのは、ハガイと同時期でした。ゼカリヤ書のところどころに、ダレイオス王の時代であることが記されています。イスラエルの人々は捕囚先のバビロニアからエルサレムへ帰ってきました。そこで町と神殿の再建を始めます。その時、イスラエル人たちの指導者的存在だったのが、王の血を引くゼルバベルと祭司ヨシュアです。しかし神殿再建は周辺諸国からの妨害があり、途中で中断してしまいました。そんなイスラエルの人々を励ますために、神様はハガイとゼカリヤを遣わされました。

ゼカリヤ4章には、神様がゼカリヤに見せた幻が記されています。2本のオリーブの木の間に金の燭台が置かれています。2本のオリーブの木からは油が流れて来ていて、一度鉢に集められ、鉢から管によって燭台の七つのともしびに注がれています。2本のオリーブの木から絶えず油が供給されているので、燭台のともしびは消えることがありません。この七つのともしびをもった燭台は、イスラエル人たちには馴染み深いものでした。この形の燭台は、現在のイスラエルの大統領の旗にもデザインされています。この燭台は幕屋と神殿の聖所に置かれていた燭台でした。神様がゼカリヤを通してイスラエルの人々に語りかけた目的の一つは、神殿再建を励ますことです。神様は燭台の幻をゼカリヤに見せることで、神殿再建を励まそうとしています。

この燭台には2本のオリーブの木から油が絶えず供給されていました。そして神様は仰います。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」聖書において油は、神様の霊を、聖霊を象徴することが多いです。イスラエルでは王を選ぶ時、頭に油を注ぎます。これは神様の霊が王に豊かに注がれるようにということを象徴しています。ゼカリヤが見た燭台は、油が注がれ続けていて、それによってともしびが燃え続けていました。神様は今回の神殿再建も、人の力によるのではなく、神様の霊が注がれることで、なされる御業であることを教えています。「権力によらず、能力によらず」と神様は仰っています。ヘブル語ではどちらも「力」を表す言葉です。人間的なすべての力によらず、神様の霊によって成し遂げられるのです。

聖所における燭台の光は、神様の希望の光を象徴しています。聖所には窓もなく、あかりもこの燭台の灯りのみでした。ですから暗闇を照らすことができるのは、この燭台の灯りだけです。その灯りは神様の啓示、英知、計画を意味していて、神様にこそ人々の希望があることを示しています。ゼカリヤ書には再建されたエルサレムの都に王がやってこられるという、救い主の到来の預言も記されています(9:9)。この預言は、イエス様がエルサレムの町に入られる時に成就しました。この燭台は救い主という希望の光を、全世界に輝かせる燭台でもあります。権力によらず、能力によらず、神様の霊によって光を放つ燭台が、神様の霊によって来られる救い主を知らせるのです。すべての希望は神様の内にあることを感謝します。

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神様の計画

しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──主のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──主のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の主のことば──
ハガイ2:4

ハガイ書を開きました。ハガイ書は2章だけの短い書物です。神様が預言者ハガイを通して、バビロン捕囚後、エルサレムに帰還した民に向けて語られたことが記されています。586BC、南ユダ王国はバビロニアに敗れ、強制移住させられます。その後、バビロニアは衰退し、ペルシャの王クロス(キュロス2世)がバビロニアを征服します。クロス王はユダヤ人たちに寛大な処置を施し、537BCにエルサレムへの帰還を許可します。ユダの人々はバビロン捕囚が終わり、自分たちの国へ帰る事ができました。このあたりのお話についてはエズラ記に詳細が記されています。

ユダの人々は、廃墟となってしまったエルサレムの町の再建に取り掛かります。自分たちの住む家と、神様の家である神殿の再建を始めました。そして神殿の基礎部分が出来上がった時、かつてのエルサレムの栄光を覚えていた人々は喜びと悲しみの涙を流したと記録されています。エルサレムに帰った人々はその後も精力的に町と神殿の再建に努めますが、周辺諸国がこれを良く思わず、度重なる妨害をしました。神殿再建を指示していたクロス王も亡くなり、いつしか神殿の再建は中途半端なまま終わってしまいました。

これに対して、神様はハガイを通してエルサレムの民を奮い立たせているのです。中断されている神殿の建設を再び開始するようにと神様は語ります。この時のイスラエルの人々の気持ちを考えてみたいと思います。度重なる妨害、困難に会うと、私たちは意気消沈してしまいます。神様の計画によって始められた働きも、妨害に会うと、それが本当に神様の御心であるのか分からなくなってしまいます。そんな時、神様は確かな証拠を与えて下さいます。「今がその時だ。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」と語って下さいます。あるいは、イスラエルの人々は、神様の計画で始めたかもしれませんが、いつしか神様から目を離してしまって、計画案の遂行だけを求めていたかもしれません。神様の計画は、神様が推し進めるのであり、人間の力によるのではありません。クロス王の時に中断された工事が再開されるまでには、15年ほどの歳月がかかりました。その間は、ユダの人々にとっても自分たちの信仰を再考させられる期間だったのかもしれません。

神様は、神殿を再開する人々を励ましています。「強くあれ。」と繰り返し、「わたしがあなたがたとともにいる」と語ります。すべての金も銀も神様のものであると語ります。エズラ記5-6章によれば、神殿建設を再開した民に対して、周辺諸国は再び妨害を始めます。しかし、神様が働いておられました。神様はダレイオス王がユダの民の神殿建設を支持するように働きかけました。周辺諸国はダレイオス王に神殿建設を止めさせるように求めますが、逆にダレイオス王は周辺諸国が神殿建設を手伝うようにと指示するのです。まさに他国の金も銀も神様のものということを神様は証明されました。ユダの人々は勇気づけられ、神殿は完成します。神様が計画されることはすべて、成し遂げられます。人間の目からはまだその時ではないのではないか、実現不可能ではないかと思えるような状況であっても、神様に不可能はありません。そして神様はいつも私たちに最善をなして下さいます。ですから、私たちは神様の御心をいつも探り求めていたいと思います。

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救い主にハレルヤ

ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで 主への賛美を。イスラエルは 自らの造り主にあって喜べ。シオンの子らは 自らの王にあって楽しめ。
詩篇149:1-2

詩篇146~150篇は、ハレルヤ詩篇、もしくは大ハレルヤ詩篇と呼ばれるようです。特徴的なことは、各詩篇の最初と最後にハレルヤという言葉が置かれ、まるでハレルヤでサンドイッチするかのような構造になっている事です。詩の内容も詩篇の中でも特に賛美歌であるような印象が強く、合唱曲の歌詞のようになっています。詩篇は150篇からなる聖書全体の中でもボリュームの大きな書物ですが、その最後を締めくくるにふさわしいと言えるような大きな賛美の合唱の内容となっています。「ハレルヤ」とは「ハラル(賛美する)」という動詞に、神様のお名前を意味する「ヤ」をつけた、「主を賛美する」という意味の言葉です。そのような言葉を最初と最後につけることで、この詩篇全体が主への賛美であるということを印象づけています。それぞれの詩篇では、すべてのもの(人や動物だけでなく、生きていないと思えるものまでも!)は主を賛美せよと歌われていたり、主はどのようなお方であるかという事が歌われています。

詩篇149篇では、後半部分で、敬虔な者たちは剣をもって主に賛美せよと言われています。それは国々への復讐、懲らしめのためと語られています。神様の正しいさばきの象徴として、剣を持つようにと言われています。聖書にイエス様は、世の終りの時に再び地上に来られて、すべての人を裁かれると書かれています。今の時は、正しい者も、悪い者もみな生かされていて、悪い者が放任されているような印象もあるかもしれません。しかし神様は全すべの人の行いと思いをご覧になっておられ、最終的にはその裁きを行われます。このように言うと、私たちはとても恐ろしく感じます。なぜなら神様の前に全く潔白である人は一人もいないからです。しかしそのような私たちを救うためにこそ、救い主イエス様がこのクリスマスの時に、地上に送られました。すべてイエス様を信じ、救いを受け入れる人は罪を赦され、新しい天と地へ招かれます。まさに「ハレルヤ」です。149:9では「また書き記されたさばきを 彼らの間で行うため。これは 主にある敬虔な者すべての誉れである。ハレルヤ。」と書かれていて、神様の最終的なさばきは、敬虔な者、神様を信じて歩む者にとっては誉れであると書いています。

このような救いが備えられているからこそ、私たちは神様にあってハレルヤと賛美する事ができます。イエス様は世界の初まる前から王であり、この世界の創り主でした。そして、世の終りの時に再び地上に来られます。その時、新しい天と新しい地において、永遠の王として着座されます。私たちはそのイエス様の御国において、いつも楽しく、神様に「ハレルヤ」と賛美しながら過ごすことができます。苦しみも悲しみもなく、困ることも乏しい事もありません。すべての人は神様の子として、王様の子として、栄光の内に住むことができるのです。そのような日が来ることを期待し、待ち望みつつ、私たちも日々、「ハレルヤ」と賛美をしながら過ごしたいと思います。この日はもしかしたら来るかもと言う曖昧なものではなく、必ず来るという神様からの絶対の約束なのです。ハレルヤ!

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恵みに驚き、祝福を祈る

幸いなことよ このようになる民は。幸いなことよ 主を自らの神とする民は。
詩篇144:15

詩篇144篇は、表題にダビデによると書いてあります。ダビデが神様の恵みに深く感動して賛美し、神様からの祝福を祈っているような詩篇になっています。詩篇144:3は、詩篇8:4の言葉「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」と、とても良く似ています。これらの詩篇の言葉は、神様からの恵みを受けた人の素直な反応ではないかと思います。恵みとは、人の行いや思いとは全く因果関係なく、神様から思いがけずに頂くものです。ですから恵みを頂いた人はただ驚きの声をあげるのです。

IIサムエル7章には、同じように神様からの恵みにダビデが驚いて感謝しているお話があります。この時ダビデはイスラエルの王として立てられ、エルサレムの王宮に住み始めたばかりの頃でした。自分の家から外を眺めると、王宮はとても立派なのですが、神様を礼拝するための幕屋は昔からのままで、移動式のテントでした。まだエルサレム神殿ができる前だからです。ダビデはそれを見て、自分がこんな立派な家に住んでいるのに、神様をテント生活のままにするわけにはいかない。神様のために王宮よりも立派な神殿を建てようと言います。すると、神様は預言者ナタンを遣わしてダビデに言います。あなたは私のために家を建てる必要はない。「主があなたのために一つの家を造る(IIサムエル7:11)」神様はダビデに自分の神殿を建ててもらう必要はない。それどころか、神様がダビデのために家を建てよう。と仰います。神様がダビデのために建てる家とはイスラエル王国のことです。ダビデの後の王様の代になっても、神様が共にイスラエル王国と共におられ、しっかりと導いて下さると約束されたのです。ダビデは、自分が神様のために働こうと思ったのに、逆に神様がダビデのために大きな恵みを施すと言われたので、驚きました。そして「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは(IIサムエル7:18)」と言います。詩篇144:15や、詩篇8:4の言葉とも似ています。神様からの恵みを受け取った時、私たちは驚くと思います。それは私たちの思いや行動とは関係なく、神様のご意志によって与えられるものだからです。そしてただ神様に感謝を捧げます。

ダビデは神様からの思いがけない恵みを受けた後、神様がこのように仰って下さったので、ある祈りと祈る勇気を得たと言っています(IIサムエル7:27-29)。それは自分の家神様の前に差し出して、あなたの導きの通りにして下さい。「あなたの祝福によって、あなたのしもべの家がとこしえに祝福されますように(IIサムエル7:29)」と祈っています。「あなたの祝福によって」という言葉がダビデの信仰を表しています。ダビデの思いに沿ってではなく、ダビデの行いに応じてでもなく、ただ神様の思いによって、導き、祝してくださいと祈っているのです。神様の恵みはこちらから求めたから必ず頂けるというものではなく、すべては神様のご意志によります。その神様のご意志がとてもあわれみ深く、愛に溢れたものであると分かったので、後はすべて神様にお委ねしますとダビデは祈っているのです。すべてを神様の良いと思われる方向へ導いて下さいという祈りです。私たちも私たち、そして周りの方々のために、主のご意志による主の祝福を祈るものとさせて頂きたいと思います。

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祝福の源である神様

さあ 主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち 夜ごとに主の家で仕える者たちよ。聖所に向かってあなたがたの手を上げ 主をほめたたえよ。天地を造られた主が シオンからあなたを祝福されるように。
詩篇129:2-4

詩篇120~134篇には、「都上りの歌」という表題がつけられています。イスラエルでは主要な祭りの時、みんな神殿があるエルサレムの都に集まりました。そこで神様を礼拝し、きよめの集会を持つようにと聖書で教えられているからです。過越し、七週、仮庵の祭りの時、人々はイスラエル各地から集まります。その時に口ずさんだ歌が「都上りの歌」と言われています。祭りの時は、喜びの時、お祝いの時ですから、うきうきしながらこの歌を歌い、エルサレムに集まったのではないかと思います。今のキリスト教会でいえば、夏のキャンプや修養会や、新年の聖会などに、みんなで賛美歌を歌いながら集まってくるというようなイメージでしょうか。

その楽しさ、うれしさが前面に出ているかのような詩篇が、詩篇133篇ではないかと思います。「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きることは。(詩篇133:1)」主にある兄弟姉妹の交わりは本当に楽しいです。神様は人間を一人で生きるようには造られませんでした。友との交わりの中に喜びを見出すように、人を造られました。それは神様が愛なるお方だからです。キャンプや修養会でみんなで集まると楽しいのは、人がそのように造られているからです。神様がその集まりを祝福して下さっているからです。祭りの時に都に上っていくイスラエルの民も、ワクワクしながら、この歌を歌い、エルサレムに向かったのだと思います。

詩篇134篇は「都上りの歌」シリーズの最後の歌になっています。とても短いですが、神様への賛美に溢れる歌です。「さあ 主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち(詩篇134:1)」「都上りの歌」のなかで様々な神様からの祝福が歌われました。最後はその祝福を与えて下さる方に目を向け、精一杯の賛美を捧げる歌になっています。神様からの祝福はどれも素晴らしいものばかりです。主にある兄弟姉妹の交わりも神様からの祝福の一つです。しかし交わりが楽しいから、都に上って集まるのではありません。交わりが素晴らしいから、神様が素晴らしいのでもありません。神様が素晴らしいので、主にある兄弟姉妹の交わりが楽しいのです。あくまでも神様が主体なのです。教会のキャンプや修養会、いつもの礼拝は、他の人が集まるイベントと比べると地味で質素かもしれません。しかし他のイベントにはない喜びがあります。何が違うのかといえば、なんでしょうか。集まる人がみんな良い人だからでしょうか。いいえ。教会は罪人の集まりです。自分の罪の重さに耐えきれず、神様に救いを求めてきた人たちばかりです。それでは、だれかとても満たされている人がいて、人を楽ませるのが上手な人がいるからでしょうか。いいえ。私たちはみな、心に空洞を抱え、虚しさを覚え、教会に集まりました。世の何物でもその空虚さを埋める事ができなかったからです。教会の集まりが喜びに溢れているのは、神様が中心におられるからです。その集まりの中で、私たちは神様を深く感じ、喜んでいるのです。神様が私たちの罪を解決し、心の穴を埋めて下さるからです。だから私たちはもっと神様を賛美し、感謝をささげたいと思います。「天地を造られた主が シオンからあなたを祝福されるように。(134:3)」

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