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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様の中に飛び込む

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
創世記15:5-6

今日は創世記15章を開きました。創世記は12章からアブラム(アブラハム)の生涯を描いています。12章で神様がアブラムを呼ばれた時、アブラムは75歳でした。すでに高齢でしたがアブラムには子どもがおらず、後継ぎがいませんでした。神様はアブラムに「あなたは大いなる国民となる」と約束されましたが、子どもが生まれることもなく、後継ぎ候補も神様から示されず、10年が経とうとしていました。アブラムは不安になって神様に問いかけます。「私の跡取りは誰になるのでしょう。」すると神様は15:4ではっきりとアブラムに子どもが生まれることを約束されました。続けて神様は15:5で空の星を数えるように言います。アブラムの子孫はその星の数のようになると仰いました。アブラムは神様を信じました。すると神様は、それをアブラムの義と認められました。

聖書は面白い表現を使います。アブラムを義と認めたとは書かず、「それが彼の義と認められた。」と書いています。聖書がいう「それ」とは何のことでしょう?神様が義と認められた「それ」とは一体何のことでしょうか。おそらくその前の一文「アブラムは主を信じた」のことを指していると思われますが、この文もとても簡潔です。アブラムは神様を信じました。「それ」がアブラムの義であると神様はお認めになったのです。

英語で信じる、信頼するという言葉は、believeあるいは、trustです。I believe himでも私は彼を信じるという意味で通じるようですが、宗教的な事柄に関して、あるいは特に強い信頼を寄せているような事柄の場合には、I believe in himとなり、inという言葉をつけます。神を信じるという時にはI believe in God あるい、I trust in Godとなるのです。聖書の元々の言葉であるヘブル語の場合にも同じようなことが言えるようです。15:6のヘブル語の文章では「アマン」という言葉が使役形で使われています。この言葉は単体でも信じるという意味がありますが、15:6では「べ」という英語のinに相当する言葉が添えられています。英語においても、ヘブル語においても、強い信頼を表す時にはinという言葉を添えるのです。しかしなぜinなのでしょう。toやatではなく、in(内側に)です。このin(内側に)には、その中に向かって飛び込んでいくような意味合いがあるのではないでしょうか。ただ「ああ。あそこに神様がいるね」と外側から眺めて信じるのではなく、神様の中に向かって自分を投げ込んでいくような意味合いです。15:6にあるヘブル語の「アマン」は使役形になっていると言いました。使役形とは「自分を~させる」というような意味です。「アマン」には「持ち運ぶ」という意味もあるようで、そのような意味合いで用いると、15:6は「彼は彼自身を神の中に持ち運んだ」という意味になります。それが「彼は神を信じた」といういみになるのです。

ローマ4章でパウロはこのアブラムの信仰について語っていますが、「彼は望みえない時に望みを抱いて信じ(ローマ4:18)」と評価しています。もう飛び込んでしまったので、周りで何が起ころうとも神様から他へ移ろうとしない状態です。アブラムは「神には約束したことを実行する力がある、と確信していました(ローマ4:21)」私たちも神様を信じたいと思います。傍から見ている信仰ではなく、神様の中に飛び込んでいく信仰を持ちたいと願います。

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神様の霊が人を生かす

そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」
創世記6:3

創世記を開きました。創世記6~9章にはノアの箱舟と大洪水の話が記されています。今回、通読していて改めて気づいたのですが、大洪水の記録の中には、ノアのセリフが一度も出てきません。代わりに神様はずっと話し続けています。これは他の聖書箇所と比べるととても珍しい特徴ではないかと思います。他の聖書箇所では人物が良くしゃべり、神様は必要最低限の言葉しかお語りにならなかったりします。これはこの大洪水のお話が、神様の目線で記録されていることを示しているのではないかと思います。そう改めて見返しますと、神様がご自分の感情をあらわにしている箇所が多々あります。神様が悔んだり、心痛めたり、という言葉が6章には見られます。神様は人々が地上に増え広がっていくのをご覧になりました。同時に、人の心がいつも悪に傾くのをご覧になりました。そして心を痛めておられます。そして大洪水を決断されるのです。

神様は6:3でこのようなことを言われました。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。」神様の霊を表すヘブル語はルアハという言葉で、「息」や「風」という意味もあります。聖書は、地の塵から造られた人に、神様の息が吹き込まれて生きるようになったと書いています。人の内に神様の霊、息が吹き込まれているので人は生きています。逆に神様の霊、息が去ってしまうと人は生きていけません。人はいくら肉体が健康であっても、神の霊が内に注がれていなければ、生きていけないのです。この真理は創世記の始めから語られ、聖書全体を貫いています。そして創世記6章で神様がご覧になった悲しいことは、私たちの肉がいつも悪に傾いて、神様の霊を受け入れることを拒否してしまう事です。

特に、この神様の霊と肉の関係について詳細に語っているのは、新約聖書のローマ人への手紙8章です。ローマ人への手紙によれば、私たちは肉の思いと神様の霊に従う事を両立させることは出来ません。「なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです(ローマ8:7)」ですから私たちが肉の思いに惹かれて、いつも心を悪に傾けている以上、神様の霊は私たちの内に留まる事ができず、私たちは生きていくができないのです。ローマ8:6はハッキリと言います。「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」そして私たちはこの肉の思いに傾かないようにするのが、とても難しく、自分の力で克服できないのです。

しかしそのようなみじめな私たちを救って下さったのもまた神様です。キリストの十字架が私たちの肉を処罰し、贖って下さったからです。こうして私たちは肉の思いではなく、神様の御霊に満たされることで生きる事ができるようになります。「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(ローマ8:10)」と書かれています。ですから私たちはキリストの十字架の救いに感謝し、肉の思いではなく、神様の霊に従って歩みたいと思います。神様は私たちをいのちに導くために、神様の霊を豊かに注いで下さるのです。

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十字架の血潮

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
マタイ26:27-28

いよいよイエス様が十字架に架かられる時が近づきました。イエス様は12弟子たちと最後の晩餐の時を持ちました。過越しの祭りの時でしたので、旧約聖書の時代から続く過越しの食事の伝統に則って食事をしました(26:17-19参照)。過越しの食事は、出エジプトの時に、神様がイエスラエルの民を救って下さったことをお祝いする食事です。出される一つ一つの食材に意味が込められていて、年長者がその意味を説明しながら食事を食べます。この時はきっとイエス様が説明をなさったのでしょう。そしてイエス様はそれらの食事にもう一つの意味を追加されました。それはこれから起こるイエス様の十字架を覚えることです。

イエス様はパンを取って神をほめたたえ、「取って食べなさい。これはわたしのからです(26:26)」と言われました。また杯を取って感謝し、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です(26:28)」と言われました。この時はまだ弟子たちはイエス様が十字架に架かられるとは想像もしていませんでした。イエス様は度々、ご自分は十字架に架けられて殺され、三日目によみがえると仰っていました。26:2でも十字架のことを話されています。しかし弟子たちには現実味がありませんでした。救い主であり、王であるお方が人々に捕らえられて殺されるなど想像もできなかったのでしょう。しかしこの後、現実にイエス様は捕らえられて、裁判にかけられます。イエス様が捕えられた時、弟子たちは恐ろしくなって逃げてしまいました。ペテロは事の成り行きを見ようとこっそりとついていきますが、人々にイエス様と一緒にいたことを指摘されるとイエス様を3回知らないと言って裏切ってしまいます。

イエス様が十字架に架かられたのは、食事の中でも仰っているように、私たちの罪の赦しのためです。罪とは神様を知らないということであり、自己中心に生きる事です。いつもの生活の中ではもしかしたらあまり意識しないかもしれませんが、そのような心が私たちの中にはあります。そして突然恐ろしい出来事や、苦しいことが起こるとその罪の心が露になります。私たちの罪の心は努力して何とか消せるものではないという事がよく分かります。弟子たちもイエス様を裏切るつもりは毛頭ありませんでした。ペテロも「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません(26:33)」とまで言っています。そんなペテロでさえも、のろいをかけて誓う程にイエス様を知らないと言ってしまいます(26:74)。

私たちの罪の赦し、救いのためには神様の力が必要です。イエス様の十字架の血は私たちの罪を赦し、私たちの罪の心を洗い清める力があります。イエス様は神様であり、救い主であられます。信じる者にはだれにでも罪の心の赦しと救いが与えられます。そのような救いを与えて下さっている神様に感謝します。神様は私たちを愛しておられるので、私たちに救いを与えて下さいます。今一度、自分の心を点検し、イエス様からの十字架による救いを受け取りたいと思います。

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救い主であるイエス様

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
マタイ16:15-17

マタイの福音書を開きました。12弟子とイエス様が行動を共にするようになってしばらく経ちました。イエス様は様々な神様として奇跡を行われ、神様の御国のことを宣べ伝えていました。ある時、イエス様は弟子たちに、人々はイエス様のことを何と言っていますか?と質問します。弟子たちは答えます。バプテスマのヨハネだと言う人もいれば、エリヤ、あるいは他の預言者の一人だと言う人もいます。イエス様は続けて質問されました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」するとペテロは答えました。「あなたは生ける神の子キリストです。」ペテロは、イエス様が神様の独り子であり、昔から預言されてきた救い主キリストであると答えたのです。ペテロの答えは人々の答えよりも正確にイエス様のことを言い表していました。まさにイエス様は人々を救うために来られた神様なのです。姿かたちは私たちと変わらない人間でしたが、神様なのです。

イエス様はペテロに言います。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」ペテロにイエス様が生ける神の子キリストであることを示したのは、神様ですとイエス様は仰いました。神様がペテロに教えられたので、ペテロはイエス様が誰であるか知る事ができました。当時、たくさんの人がイエス様と出会いました。しかし、ペテロのようにイエス様が救い主であると告白できなかった人もいました。誰も神様の霊によらずにイエス様のことをキリストと告白することは出来ません。逆に神様は、真実に神様を求め、救い主を待ち望んでいる人には、イエス様がどんな格好をしていても、キリストであると示してくださいます。ですから私たちがすべきことは一つに絞られます。いつも心からイエス様を求め続けることです。

ペテロはこのようにイエス様が生ける神の子キリストであると告白して後、今度はイエス様を否定してしまいます。イエス様は続けてこれからご自分が十字架に架けられて殺され、三日目によみがえるということを弟子たちに話されました。これを聞いたペテロは、「そんなことがあなたに起こるはずがありません。」とイエス様をいさめ始めます。人々はキリストに対して、多くの期待をしていました。自分たちをどのように救って下さるのか深い関心を持っていました。それがいつしか自分の願望と重なって、自分の期待に応えてくれる救い主像を心の中に描いていました。ペテロにも自分の思い描く救い主像があったのでしょう。しかしそれは神様の思いとは異なっています。イエス様はペテロの仰います。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」私たちが救い主を待ち望み、期待することは間違ってはいません。しかし救い主は私ではないということを覚えておく必要があります。救い主は神様です。神様の御計画が成されるべきで、私の願望に沿うべきではありません。そして神様の御計画の方が私の願望よりはるかに優れています。私の願望ではなく、神様の救いが達成されるようにいつも期待し、祈りたいと思います。

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神様との関係

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
マラキ3:10

マラキ書を開きました。マラキ書は旧約聖書の最後の書物になります。年代としても、旧約聖書のほぼ最後の時代に神様が語られたことが記されています。マラキ書には神様と人々の関係はどのような関係であるのか記されているように思います。神様はイスラエル人たちと契約を結びました。神様はイスラエルを祝福し、イスラエル人は神様を唯一の神様として礼拝します。契約の内容は書面(聖書、律法)に記されました。現代の私たちにとって契約書と言うのは、ビジネス上の付き合いをより簡略にするためのものです。毎月の電気、ガス、水道や電話などは、業者が提供してくれます。しかし毎日のように業者の方と会って、「いつもお世話になっています。今日はこれだけ使いたいので、これ位の代金でよろしいでしょうか。」というようなやり取りをするのは、利用者にとっても、業者にとっても大変です。ですので契約を交わし、契約書の文面に則ってサービスを提供し、料金を払います。こうすることで、過度な付き合いを避けることができます。しかし同時に友達の様な親密な付き合いでもなくなります。神様とイスラエルの契約は同じようなものなのでしょうか?

マラキ書の特徴の一つとして、神様の宣告と人々の「どのようにして?」という疑問が交互に現れます。1:2には「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。…」というやりとりが書かれています。「…あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。(1:6)」、「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。(1:7)」というようなやり取りが繰り返されます。イスラエル人たちは、神様との契約に則って、捧げ物を捧げていたようですし、祈りをしていたようです。しかしそれはまるで契約書の文面に則って形だけ遂行している、心の伴わないものでした。捧げ物は生活の余り物で済ませていました。過度に神様に捧げ物をしない代わりに、過度に神様の祝福に期待しませんでした。神様と交わした契約を「見よ、なんと煩わしいことか(1:13)」と考えていたようです。

神様は私たちと、もっと友達との付き合いや、親が子を愛するかのような関係を望んでおられます。形式上の関係ではなく、日々の何気ない会話や、心の伴った“おしゃべり”ができる関係を期待しています。神様は言います。10分の1を携えて来て、わたしに捧げて見なさい。こうしてわたしを試してみなさい。10分の1とは献金のことです。当時は収入の10分の1を神様に捧げるようにという律法がありました。10分の1はとても大きい額です。それは心が伴わずに捧げることのできる額ではありません。神様はお金欲しいのではなく、心が欲しいのです。神様に対して心を込めて贈った献金、祈りの言葉を神様はないがしろにされません。必ず私たちの思いに応え、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を与えて下さいます。どのような祝福が返ってくるか、それは神様がお決めになる事です。私たちの願い通りではないかもしれません。しかし大きな祝福であることは間違いありません。私たちは神様にどのくらい期待しているでしょうか。まあ形式上の、ほどほどの付き合いを望んでいるでしょうか。それとも友達以上の、親子以上の関係を望んでいるでしょうか。

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