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祈祷会メッセージとお祈りの課題

敵を愛しなさい

しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
ルカ6:35

 

ルカの福音書6章は、マタイの福音書の山上の垂訓と似たイエス様の教えが書かれています。マタイでは山の上でイエス様が教えられた(マタイ5:1)ように見えますが、ルカでは山を下りてきた平らな所で教えられた(ルカ6:17)とあります。マタイの方がボリュームが多く、ルカの方がコンパクトです。私は読み比べて見て、マタイの方が慰め、励ますような口調に聞こえ、ルカの方がもう少し厳しく自分を吟味するように教えられているような印象を受けました。マタイでは八福と呼ばれる「~な者は幸いです」という教えも、今、辛い逆境にある人々に希望を与えるような内容になっています。しかし、ルカではそれが短くなっており、その後、「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです(ルカ6:24)」というような逆の事が語られています。これを聞いた人々は、混乱を覚えたのではないでしょうか。自分は貧しい者なのか、富んでいる者なのかと考えたと思います。自分は神様から祝福を受ける者だろうかどうだろうかと、自分を見つめなおすことになります。

貧しい者は幸い、富んでいる者は哀れ、と語り少し混乱を覚えた人々に、イエス様は、そもそも神様は何を望んでおられるかという話をされます。「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。(ルカ6:27)」こう言ってイエス様は、なかなか実行するのが難しいいくつかのことを述べます。呪う者を祝福し、欲しがる者には惜しまず与え、見返りを求めるなとイエス様は仰います。自分を愛してくれる人を愛したからと言って何になるのか、そんなことは罪人たちでも行っていると言います。プレイズジャムの時、マイケル・ジャクソンの歌を紹介しました。その歌詞にはSelfish loveという言葉が登場します。このSelfish loveという言葉は、日本語に訳すのが難しいという話をしました。Love愛にはいくつか種類があって、Selfish(自分勝手な)愛もあるということです。おそらく反対語はSelf-giving love(自分を捧げる愛)です。Selfishとは利己的とも訳されます。自分の利益をまず第一に求めることです。よく進化論の話の中では、自分を守るため、自分の利益を第一に求めたとしても、必ずしも他の者と敵対関係になるわけではないという事が言われます。出会う者すべてと争うのではなく、時には協力することも自分の利益につながるからです。そのような時には愛しているかのようなふるまいを見せるのです。つまりSelfish(自分勝手)でも、他者を愛せるのです。イエス様はこのSelfish loveを指摘しています。愛だ。愛だ。と言っても、結局は自分に見返りを与えてくれるものだけを愛しているのではないか?ということです。それは神様の前に罪人と同じです。

神様はSelf-giving love(自分を捧げる愛)をお持ちの方です。いと高き方は見返りを求めず、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いお方です。その子どもとなりたいのであれば、あなたがたも敵を愛しなさい。とイエス様は教えられます。返してもらおうとは思わずに与えなさいと仰います。そうすれば、だれもがあなたを神様の子どもと認めるようになります。神様も心からあなたを歓迎してくれます。問題はSelf-giving loveを私たちは持ち合わせていないということです。それは十字架の神様しか持っていない愛です。その事にまず気づきを与え、神様から愛を頂かなければなりません。「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。(ルカ6:40)」とイエス様は仰います。イエス様に入門し、そしてイエス様から十分に訓練を受けて、イエス様の愛で満たされ、実行して行く者となりましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々、求道中の方々のために
  • 懇談会、創立50周年記念礼拝のために
  • 新年度の歩みのために
  • みずほ台教会のために
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梅の花

 

梅の花が咲いて、賑やかになってきました。
今年はまだまだたくさんつぼみがあるので、しばらく楽しめそうです。
最近は日中、暖かい日も増えてきましたね。
梅の木の下では、チューリップも芽を出し始めています。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

赦しを求める姿勢

主よ あなたが御民を受け入れてくださるときに私を心に留め あなたの御救いのときに私を顧みてください。
詩篇106:4

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇106篇はI歴代16:34-36や、ネヘミヤ9章や、ダニエル9章などにも同じような表現が見られ、ダビデの時代の作とも、捕囚期以降の作とも考えられます。ダビデが作り、それ以降たくさんの時代に好まれて用いられたとも考えられます。この詩篇はイスラエルの歴史を振り返り、神様の前に数々の罪をおかしてきたことを告白しています。そして神様の前に悔い改めをしています。神様はそのような民に対し、深いあわれみを持って接して下さっている事が分かります。詩篇106篇には出エジプトから士師記くらいまでの歴史が記されているように思います。一つ前の詩篇105篇には創世記のアブラハムと神様との契約の事が書かれていますので、詩篇105篇、106篇と合わせて読むと、ダビデがそれまでのイスラエルの歴史を振り返っているような構造になります。

出エジプト記から士師記までのイスラエルの民の歴史は、聖書に赤裸々に綴られています。イスラエルの民は何度も神様に逆らいました。しかしその度に何度も神様はイスラエルの民を救われました。この詩篇で注目されるのは、イスラエルの民が神様に逆らい、神様がイスラエルの民を滅ぼそうと仰った時に、とりなし手が現れた事です。106:23にはモーセが破れてしまった神様とイスラエルの民の関係の間に立っている様子が描かれています。また106:30にはピネハスが仲立ちをしたと書かれています。もしモーセやピネハスのような、自分たちの罪を認め、神様に悔い改めて、民全体のためにとりなすような人物が現れなかったら、大変な事になっていたであろうと詩篇の記者は考えます。そう考えて106:4-6を読みますと、この詩篇の記者も自分たちの罪を認め、悔い改めて、民全体のためにとりなしているように見えるのです。

詩篇106:4を読んだ時、イエス様と共に十字架に架けられた強盗の言葉を思い出しました。ルカ23:42でイエス様と一緒に十字架刑に処せられている強盗は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。数日前にディボーションでデニス・キンロー師の本を読んでいたからかもしれません。キンロー師はシャン・カルヴァンの言葉を引用しながら、この強盗セリフは普通でてこない言葉であると語っています。イエス様も強盗も罪人として磔にされています。数人いた弟子たち以外の全員がそう思ってこの光景を眺めています。しかしこの強盗は、周りの全員が見ていなかったものを見ていました。イエス様の栄光を見ていたのです。弟子たちも悲しみのあまり、イエス様の栄光を見ていませんでした。強盗はイエス様の栄光を見て、自分の罪を顧みた時に、あまりにも罪深く、小さな自分を自覚しました。御怒りを受けても仕方のない者だと自覚しました。しかし同時にイエス様のあわれみも見たのです。強盗は自分はイエス様のあわれみにすがる資格もない者だと思いましたが、その片隅にでも覚えて頂けるならとこの言葉を言ったのです。強盗はイエス様を信じる民全体が救われて喜ぶさまを、その片隅で見る事さえできれば十分であると考えました。強盗の姿勢は、本当に自分の罪深さを自覚した時に生まれるものだと思います。そしてイスラエルの歴史を振り返った時に、本当に自分たちは罪深い存在だと自覚したこの詩篇の作者の思いともつながると思います。そのような者をもあわれみ、救いを与えて下さる神様を見る時、詩篇106:48に心から賛同して「アーメン」と言えるのではないでしょうか。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

全き心を求める

私は全き道に心を留めます。いつあなたは私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。
詩篇101:2

 

聖書通読は詩篇に戻りました。詩篇101篇は表題に「ダビデによる」と書かれています。ダビデが王となった時、自分の信仰を堅く保ち、正義を行い、自分の家、つまり国の中枢となる王宮も信仰と正義を保つっていくと覚悟をしているような歌です。この詩篇の前にある詩篇95~100篇は、それよりもずっと後の時代の者と考えられており、バビロン捕囚が終わって、エルサレムに再び神殿が築き上げられた時、歌われたものと言われています。そう考えますと、詩篇101篇はバビロン捕囚の後、新しい神殿で神様に仕えていく祭司たちが、ダビデの歌を歌って同じように信仰と正義を守り抜くことを誓い合っているように思えます。

詩篇101篇の前半は自分の生活を清く保つことについて語り、後半は自分とかかわりを持っている人について語っています。前半部分を読んだ時の私の正直な感想は「私はこんな生活とはほど遠いな」というものです。「私は家の中を全き心で行き来します」「私は曲がったわざを憎みそれが私にまといつくことはありません」と告白していますが、ダビデはよくこんな事が言えるなと思います。私は自分の生活を振り返る時、これとは真逆なのではなかろうかと思います。そしてイエス様の十字架による赦しを乞います。聖書は確かにイエス様は私たちを罪から救い、きよめて下さると語っています。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる(イザヤ1:18)」と神様は仰って下さいます。しかしだからと言って、私たちは正義を追い求めなくてよいのではありません。信仰を保つ努力をしなくてよいのではありません。自分の力では、自分の生活を清く保てるか自信がないかもしれません。しかし、神様は私たちに自由に選択するように委ねていますので、私たちは清くありたいのであれば、清くありたいとと決心する必要があります。時にはこの詩篇のように一大決心をして神様の前に自分の決意を表明する必要があります。そのように決心する私たちの信仰を神様はご覧になって、神様が私たちのところに来てくださり、生活を清く保つ力を与えて下さいます。私たちは自分の力ではなく、神様の力と御言葉によって、自分の生活をきよく保つ事ができます。しかしそのような生活を望むかどうか、神様は強制されません。私たちが自分で決める必要があります。

この詩篇のなかで、ダビデは自分の生活だけでなく、自分の家に出入りする者もきよく保つことを告白しています。ダビデは自分が神様と共にある生活をしているかどうかだけをチェックしているのではなく、他の人が神様と共に過ごせているかどうかも気にかけています。神様はどんな人でも愛してくださって、救いを与えて下さいます。ですから私も救われました。神様はまた私の周りにいる方々にも、救いを与えて下さっています。私は私の信仰生活だけを気にするのではなく、他の方々が信仰生活を守れるように気にしているでしょうか。他の方々が自ら神様とのきよい生活を選ぶことができるように、励まし、慰め、時にいさめることも必要かもしれません。愛をもって互いに接し、助け合い、祈りあう事が必要です。今日も、教会の兄弟姉妹のために、またご家族のために、そして今日は海外の先生方、兄弟姉妹のために心を砕いて祈りあいましょう。

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  • 宣教地のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

万物の源なるキリスト

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイ3:1

 

今日は順番にいくと通読箇所は詩篇になるのですが、コロサイを開く機会がなかったので、コロサイを開きます。コロサイ人への手紙は手紙の中でも何度か、パウロが語っていますが、パウロがローマで軟禁状態であった時に書かれた手紙です。1:7-8によるとエパフラスという人がコロサイの教会の様子をパウロに知らせました。この時、何らかの贈り物を持って行ったのかもしれません。パウロはそれに感謝しつつ、返信する形でこの手紙を書きました。コロサイ教会の様子を知らせてくれたのはエパフラスでしたが、この手紙をコロサイに持って行ったのは4:8-9によるとティキコとオネシモのようです。余談ですが、オネシモはピレモンの手紙にも登場し、そちらでは渦中の人物です。おそらく、ピレモンの手紙と同時期に書かれ、オネシモはコロサイ教会を訪ねた後、ピレモンのもとへ帰る予定だったのかもしれません。

コロサイ人への手紙はキリストが万物の支配者であるという宣言から始まるスケールの大きな内容の手紙です。コリント人への手紙などを見ますと、当時からキリストの教えと、世の中一般の哲学との間で揺れ動く人々がたくさんいたようです。パウロが哲学の全てがキリストの教えに反しているとは言いません。実際、パウロの手紙の多くは、修辞学という当時の弁論学的な記述の仕方で書かれているようです。当時用いられていた哲学の一つ、より良く自分の意見を人に伝えるための技術をパウロは用いていました。パウロは、私たちが何を基盤として生きるのかをこの手紙の中で教えています。学問は、人間の知恵を集めたものです。学問は世界の仕組みを解明し、生活をしていく上で、より良い方法を提示してくれます。しかし世界は学問によって支えられているのではありません。世界の仕組みはすでに出来上がっていて、学問はあくまでその完成されている仕組みを理解しようとする試みでしかないのです。そしてパウロは、世界(万物)の仕組みを完成させ、今も成り立たせているのはキリストであると断言します。ですから私たちは学問とキリストを比べるようなことはしません。本来、比べられるものではないからです。キリストを全ての土台として据え、その上に私たちは自分の生活と、学問を置きます。キリストと学問は別次元の物なのです。

私たちを救って下さったのは学問ではなく、キリストであるとパウロは言います。ですから私たちはキリストを求めます。キリストの内に全てがあるからです。生活をしているとこういう時はどうすればいいだろうと悩むこともよくあります。学問や知恵に頼ろうと思うと、アドバイスがありすぎて混乱することもあります。また全くアドバイスが無い時もあります。最終的な判断を学問に頼ろうとすると、とても難しいです。しかし私たちはキリストにあって生かされているのですから、最終的な判断はキリストにあって判断したいと思います。「イエス様ならこんな時、どうするであろうか。」ということをいつも求めながら、一つひとつのことにあたっていきたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 最近、初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 交換講壇礼拝のために
  • クリスチャンのしゃべり場のために
  • 桜ヶ丘教会のために