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祈祷会メッセージとお祈りの課題

私たちが生きるために

いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
ヨハネ14:19

ヨハネの福音書13~17章は、最後の晩餐のお話になります。主にイエス様が弟子たちに向かって話されています。13:1には、十字架に架かる時が来たことを知ったイエス様は、愛する弟子たちに「その愛を残るところなく示された。」と書かれています。まさにそれを示すようにヨハネは5章に渡ってたっぷりとイエス様の言葉を記しています。ヨハネの福音書は全部で20章になりますから、全体の4分の1を最後の晩餐に用いていることになります。

イエス様はこれから十字架刑があることをご存知なので、なるべく多くの霊的真理を弟子たちに分かち、励まそうとされています。しかし弟子たちはこれから何が起こるのか知らないので、イエス様の言葉に相当不安を覚えています。14章でイエス様は、これからイエス様と弟子たちは離れ離れになることを明らかにしていますが、弟子たちはなぜ、これからはイエス様と共に行動できないのか理解できません。イエス様はこれから十字架に架かり、いのちを落とします。それは私たち全ての人の罪のためです。まさにそのためにこそ救い主イエス様は地上に来られました。イエス様は言います。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません(14:6)。」イエス様の十字架による罪の贖いがあって初めて、私たちは天の神様との和解ができ、神様の国に入ることができます。イエス様を通してでなければ、だれ一人として父なる神様と共に過ごすことはできません。イエス様が14章の中で何度も語られている通り、イエス様と父なる神様は一緒だからです。三位一体なる同じ神様だからです。イエス様は父なる神様の御心のままに、地上での業を成し遂げてきました。イエス様によって私たちは救われるのです。イエス様がこれから十字架に架かって、弟子たちから離れ離れになることも、私たちの救いにとって、弟子たちにとっても必要な事でした。

イエス様は悲しみのうちにある弟子たちを励ましています。目には見えなくなっても、イエス様と弟子たちはこれからも変わらずいつも一緒にいます。イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです(14:18)」と仰いました。イエス様は十字架に架かっていのちを落とされますが、三日目に復活されます。それも私たちの救いのために必要な事でした。イエス様が罪に死んで、神様の力によって復活されることで、信じる私たちも同じように罪に死んで、神様に生きる者となるのです。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです(14:19)」とイエス様が仰る通りです。イエス様は十字架で死んで復活しますが、永遠に生きるお方です。いのちそのもののお方です。弟子たちは復活のイエス様にお会いし、イエス様が天に昇られてからも、霊的にはずっと弟子たちのそばにイエス様がおられます。そして地上生涯を終えてからも弟子たちはずっとイエス様と共にいます。もはやイエス様と弟子たちを切り離せるものは何もありません。私たちも同じです。私たちも目には見えませんがイエス様といつも一緒にいて、これからもずっと一緒です。だから私たちは心を騒がす必要はなく、神様を信じ、イエス様を信じてこれからも歩んでいきたいと思います。

お祈りの課題

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見えること、見えないこと

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
ヨハネ9:39

ヨハネの福音書は、イエス様が神様であることを伝えるために、興味深い描き方をしています。イエス様の行ったことと並べて、その奇跡に関連するパリサイ人たちとの論争を描いているのです。7章ではイエス様は仮庵の祭りに行きました。仮庵の祭りは水が使われる祭りですが、それと関連してイエス様はご自身が「生ける水」の与え主であることを証ししています。8章では姦淫の現場で捕らえられた女性を赦すという事をしていますが、それと関連してイエス様が罪の赦しを行う権威を持っておられる神であることの論争が描かれています。今日開いた9章では生まれつき目の見えない人の癒しを行い、霊的に目が開かれることについての論争を行っています。

イエス様は唾で泥を作り、それを生まれつき盲目だった人の目に塗りました。イエス様がその人にシロアムの池に行って目を洗うように告げます。ここでその人とイエス様は一旦別れたと思われます。その人が池に行って目を洗うと、目が見えるようになっていました。周りの人々は、その人がずっと目が見えなかったのを知っていたので驚いて質問をします。すると、その人はイエスと言う人が神様の奇跡の業を行って下さったと告げます。9:25の「私は盲目であったのに、今は見える」という彼の言葉は、Amazing Graceの歌詞の一部になっています。日本語の驚くばかりのの歌詞には訳しだされていませんが、英語では(I) was blind but now I see…という歌詞が入っています。彼は生まれつき目が見えなかったのに、目が開かれて見えるようになるという奇跡を体験しました。これは神様の奇跡だと素直に信じました。そして再びイエス様に出会ったときに、イエス様が救い主であると信じていることを告白しています。

しかしパリサイ人たちは彼のいう事を信じることができませんでした。普通に考えれば奇跡以外の何物でもないできごとなのですが、パリサイ人たちは「イエスを認めない」という前提を頑なに持っていたため、この出来事を正しく理解できませんでした。パリサイ人たちは今や目が見えるようになっているこの人が、かつて盲目であったということが嘘なのだと言い張るようになりました。ヨハネの福音書9章はパリサイ人たちの滑稽さを見事に描いています。

ヨハネの福音書9章の論争は、霊的に盲目であるとはどういうことかを教えています。パリサイ人たちは、目はハッキリと見えているのですが、「イエスは救い主ではない」という固定観念に縛られているため、見えていることを正しく認識できていません。見えているのに見えていないのです。パリサイ人たちは自分たちはハッキリ見えていると自負しているので、自分たちの中に間違いがあると認めることができません。イエス様が神様であるという事を認めるには、自分たちには見えていない世界があることを認めなければなりません。イエス様の業、神様の業は私たちの知っている常識を超えているからです。むしろ自分は目が見えないと自覚している人の方が、イエス様の真理がよく見えるかもしれません。私たちは自分の目に見えていること、常識だと思っていることに囚われず、神様に霊的な目を開いて頂く必要があります。すると思いがけないところに神様の導きと恵みがあふれていることに気づくかもしれません。

お祈りの課題

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イエス様の与えるいのちの水

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。
ヨハネ4:14

ヨハネの福音書に入りました。ヨハネの福音書は、他の福音書と比べてあまり重なる部分がありません。ヨハネの福音書が執筆された時には、他の福音書がすでに出来上がっていたので、ヨハネは他の福音書を補完する形で、ヨハネの福音書を執筆したのではないかと考えられています。そういうこともあってか、ヨハネの福音書は序盤から、イエス・キリストの救いの核心とも言える部分を存分に書き記しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)」は、聖書の中の聖書とも呼ばれる節で、キリストの福音の本質を端的に記しています。

ヨハネ3~4章には、ニコデモという律法学者と、サマリヤの女性が出てきます。彼らは境遇は全く異なっていましたが、人目をはばかっているという興味深い共通点があります。ニコデモは律法については人に教えられるほどの権威のある人でした。しかしその権威が仇となって、人前でイエス様に教えを乞うのをはばかり、夜中にイエス様を訪問します。またサマリヤの女性は、男性と5回も結婚しては分かれるという経緯があり、そのゆえに人前に出ることが難しく、日中一番日が高く上り、暑くて誰も泉に来ないような昼間に泉にやってきました。そこでイエス様に声をかけられたのです。彼らは共に人には言えないような心の渇きがあり、イエス様の救いを必要としていました。

人はだれでも、心に飢え渇きがあります。心の中のその部分は本来、神様との活けるコミュニケーションの中で満たされていくべき部分です。他の何物をもってしても埋めることはできません。しかし私たちは罪のゆえに神様に求めることを拒み、他のものでその隙間を埋めようとします。サマリヤの女性は男性との関係の中に、その隙間を埋める何かを求めました。しかし何度も裏切られ、傷ついていたのです。ニコデモは善行であったり、律法を学び、人に教える権威によってそれを埋めようとしました。しかし神様を離れた善行や律法の教えは空虚なものとなりました。イエス様は言います。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます(ヨハネ4:14)」その隙間は神様の与えるいのちの水以外で埋めることはできません。イエス様は神様なので、その水を与えることができます。イエス様はニコデモとサマリヤの女性にこのいのちの水を与えました。

サマリヤの女性の変化はすぐに訪れています。サマリヤの女性はイエス様に出会い、自分のすべてを理解し、満たしてくださる方に出会ったことによって、喜びを抑えられなくなりました。彼女はそれまで町中の人の目をはばかっていましたが、今は町中の人に声をかけ、イエス様の事を話しました。それは自分のしてきた悪い行いを公表することになりましたが、彼女にとってはイエス様に理解してもらえたことで、他の人の目が気にならなくなったのです。それよりもイエス様に理解してもらえた喜びの方が大きくなりました。イエス様の仰った通り、いのちの水があふれるほどに湧き出たのです。誰でも心に渇きを覚えている人はイエス様からいのちの水を頂くことができます。その人その人にふさわしい水が与えられ、心に喜びがあふれるようになります。イエス様を求めていきましょう。

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もはや神殿も必要ない

私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
黙示21:22

黙示録も終わりに近づきました。キリストの支配が確立され、キリストと教会の婚宴が開かれ、21章には新しい天と新しい地の様子が記されています。この新しい天と新しい地には、キリストを信じる者、いのちの書に名前の記されている者が入ることができます。21~22章に記されている様子は、まさに天国の様子という事ができますが、これも黙示文学であることを念頭に入れておく必要があります。天国の様子が文字通りの意味であるかどうか、はっきりとは言えません。例えば、21:16には、御使いが都の大きさをはかっています。その寸法は、縦、横、高さがみな同じ長さで、12,000スタディオンだったと記されています。これは文字通りの意味で都の形が立方体であると捉えることもできます。また21:17には144(=12×12)という数字が御使いの尺度だと書かれていて、この数字が天において意味のある数字であることを物語っています。都の形についても12×12×12という象徴的な数字を用いて十分な広さを表しているとも言えます。

21:22ではこの都の中に神殿が無いという事が記されています。神殿とは礼拝をする場所、建物です。現代で言えば教会の建物のようなものです。これは一見「なぜ?」と思う事ではないでしょうか?旧約聖書の初めの方から、神様は神殿の原型である幕屋の作り方、そこでの礼拝の仕方を教えています。そしてイスラエル人はその幕屋と神殿での礼拝を大切に守ってきました。神殿は神様を礼拝するために必要な場所、もっと言えばユダヤ教、キリスト教にとってなくてはならないもののはずです。その神殿が新しい天と新しい地にはありません。このことは神殿、教会の建物について、またキリスト教とは何なのかという理解について大きな示唆を与えていると思います。

黙示録は新しい天と新しい地に神殿が無い理由について、「それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」と記しています。神様ご自身が神殿であるということです。その神様は、新しい天と新しい地においては、常にそこに住む私たちのそばにいます。21:3には「神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。」と記されています。新しい天と新しい地においては、私たちと神様の関係は今よりもっと近くなります。今は私たちは神様を目で見て、肌で触れることはできませんが、新しい天と新しい地においては、目で見るよりももっと近く、肌で触れるよりももっと近い関係になります。だから神様を礼拝するためにわざわざ場所を変える必要はありません。いつでも礼拝し、感謝し、話すことができるのです。神殿や幕屋、教会の建物は私たちが神様に近づくために必要な場所です。そこに来る時に私たちは心を切り替えて神様に近づきます。しかし真の礼拝とは、場所が大事なのではありません。私たちと神様の関係が大事なのです。私たちが神様に近づくことができれば、どこでも礼拝し、感謝し、祈ることができます。黙示録の新しい天と新しい地の描写は、究極的に大切な物は何かを伝えています。キリスト教にとって究極的に大切な物は、神様ご自身であり、教会の建物の事ではないことを伝えています。そして神様は永遠であり、不滅であり、いつも私たちのそばにいてくださいます。だから私たちは目の前がどんなに変わろうとも、心動かされず神様に信頼して歩むことができるのです。

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最後の時もイエス様を信じて

第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。
黙示16:17

15章からの続きで、7つの鉢を持った御使いが、神様の怒りの満ちた鉢をぶちまける様子が描かれています。この7つの鉢についての描写は、「神の激しい怒りの7つの鉢」や「地に向かってぶちまけよ。」という激しい表現が使われています。15:1にも「神の激しい怒りはここに窮まるのである」と激しい表現で書かれています。これらは神様の正義を表した怒りです。世の中には、悪い事が横行しているように見え、悪人も神様の裁きなど無いかのようにふるまっています。しかし黙示録は、神様は正義のお方で、全てのことは神様の前に記録され、悪い事はちゃんと裁かれることを示しています。今、まだ私たちがこの裁きの時を迎えずに昨日と同じ生活を続けているのは、神様が悪事を全て見逃しているからではなく、悔い改めるチャンスを与えているからです。私たちは誰でも蒔いた種の刈り取りをしなければなりません。

16章に記される災いは、神様の裁きの時の恐ろしさを描いています。そしてこの恐ろしい時にも終わりはあります。16:17で聖所からの大きな声が「事は成就した」と言っています。これは神様の裁きが滞りなく執行された宣言でもあり、災いの時が終ったことの宣言でもあります。神様は何物にも邪魔されることなく、必ず正しい裁きを執行されますが、その裁きの時も完了する時が来ます。神様がこの災いの期間を短くして下さらなければ、誰一人として生き残ることはできません。しかし神様はいつまでも怒っておられるお方ではありません。神様の願いは私たちを滅ぼしつくすことではなく、神様と私たちが共に生きていくことだからです。イエス様の再臨の目的は裁きだけではなく、この後の章で描かれる新しい天と地のためでもあるのです。

黙示録16:17の「事は成就した」という言葉は誰が放った言葉でしょうか。黙示録は「大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て」と記しています。声を出した人物については詳しく記されていません。もしかしたら声だけが聞こえてきた可能性もあります。しかしこの言葉は、ヨハネ19:30の十字架上のイエス様が仰った「完了した」という言葉を連想させます。もしかしたらこの時、「事は成就した」と仰ったのはイエス様かもしれません。イエス様が十字架で仰った言葉は、私たちの罪の贖いの業が滞りなく行われたことを宣言された言葉でした。渡司たちはイエス様の十字架の贖いが無ければ誰一人救われることはありません。自分たちでは罪の清算をすることができない程、私たちの罪は重いからです。イエス様はそんな私たちの罪を十字架によって完全に贖って下さいました。私たちはイエス様の十字架のゆえに救われたのです。黙示録に記される裁きの時、私たちはこの恐ろしい光景を前にどうしていいか分からなくなるでしょう。しかしこの裁きの時にあっても、自分の力でその時を乗り切る必要はないのです。むしろ自分の力で乗り切れる人は一人もいません。私たちはこの時にあっても、やはりイエス様を信じて、イエス様の力によって乗り越えさせて頂く以外に無いのです。イエス様は小羊を抱くように信じる私たちを集めて、額に小羊の印を押し、守って下さいます。最後の最後まで私たちはイエス様を信じて歩みたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 9-10月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • クリスマスの諸準備のために、新聞折り込みのチラシが用いられるように
  • 八王子教会のために