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祈祷会メッセージとお祈りの課題

御霊によって歩む

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。ガラテヤ5:6

祈祷会のお休みの週が続き、雅歌とガラテヤを開く機会が無くなってしまったので、少し予定を変えて、今日はガラテヤを開いています。

ガラテヤ人への手紙はパウロがガラテヤの教会にいるクリスチャンに宛てて書いた手紙です。ただガラテヤという地名がどこを指すのか、聖書学者の間で議論が分かれています。大きく北部ガラテヤ説と、南部ガラテヤ説があります。パウロが北部ガラテヤと南部ガラテヤを訪れた時期がずれているので、この手紙がどちらの地域に宛てられた手紙かによって、書かれた年代も変わってきます。しかし大筋としては、パウロの宣教旅行中、紀元50~55年の間に書かれたと見られています。

使徒の働きには、救われた異邦人に対して、割礼を受けさせるかどうかエルサレムで会議をしている箇所があります。これはキリストを信じて歩むことについて、何が一番大事なのかを考える会議となりました。結果的には、救われるためには割礼を受ける必要はない、救いはただ神様の恵みによるとなりました。ガラテヤ人への手紙は、教会の中で異邦人に割礼を受けさせるべきかどうか問題になっていた時に、パウロが書いた手紙です。ここには、私たちがキリストを信じて歩むことについて、パウロがどう考えていたのか、詳しく記されています。

パウロはまず律法の行いによってはだれも義と認められないと言っています(3:11参照)。律法は神様から示された神の民として歩むべき姿が記されています。しかしその律法を完全に行うことができる人はいません。それほどに人は罪深く、弱い存在です。律法を行うことによって自分を正しいとすることは不可能なのです。私たちが義と認められるのは、ただ神様からの一方的な恵みによります。私たちが良い行いを下からではなく、キリストの十字架の贖いのゆえに、神様は私たちの罪を処罰してくださったのです。ですから私たちはキリストは私たちの罪のために死んでくださったと信じる時、私たちは義と認められるのです(2:16参照)。私たちは自分の行いや力ではなく、神様の力、働きによって救われるのです。

ですから今後私たちがどう生きればいいのかについて、パウロは5:16でこう言っています。「御霊によって歩みなさい。」御霊とは神様の霊です。神様は救われた私たち一人ひとりに、神様の霊である御霊を与えてくださいます。御霊は神様の霊ですから、神様が私たちにどんな生き方を望んでおられるかよくご存じで、一歩一歩教えて下さいます。その御霊の仰る通りに歩みなさいとパウロは教えているのです。律法をユダヤ人に与えられたのも神様です。律法には神様が人間はどのように生きればよいか書かれています。しかし今は、その律法を書かれた当事者が、私たちの内側に住んでくださるという恵みが与えられています。ですから私たちが御霊に従って歩むなら、私たちは自ずと律法を全うすることにもなります。むしろ律法には書ききれなかったことも、私たちに教えて下さるかもしれません。

パウロにとって律法は聖なる養育者です。私たちに良いこと、悪いことを教えて下さいます。だから聖書を学ぶことはとても良いことです。しかし私たちは律法の行いを頼りに生きているのではありません。律法を与え、実生活を導いて下さるキリスト、神様を信じて歩んでいくのです。

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神様からのラブレター

私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。雅歌2:16

祈祷会のお休みの週が続き、雅歌とガラテヤを開く機会が無くなってしまったので、少し予定を変えて、今日は雅歌を開きました。

雅歌は1:1が示す通り、ソロモンが書いた、あるいはソロモンを題材に書いたと言われています。全体が一つの歌劇のように構成されていて、独特の雰囲気になっています。しかし登場人物がハッキリと説明されておらず、どの節が誰のセリフなのか示されていないので、読む人によって印象が変わってきます。登場人物を3人+1グループ、もしくは2人+1グループと見る傾向が多いかと思います。全体としては愛する男女が結婚に導かれていく様子を、愛の詩に乗せて歌いあげている構成になっています。

ヨハネ3:16に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。神様は私たち一人ひとりを愛し、救いを与えてくださいました。神様によって救われた人の集まりが教会です。聖書において、特に新約聖書においては、イエス様と教会の結婚というテーマが、神様の愛と救いの目的を表す一つのモチーフとなっています。神様が私たちを罪の滅びから救い出して下さったということだけでも、神様の愛の大きさは計り知れないほどの大きな愛です。しかし神様が私たちを救い出す目的はそれだけではありません。神様と私たちとが、夫婦のような親密な関係になることが神様の救いの最大の目的です。ヨハネの黙示録の最後の19~21章には、世の終りに行われる子羊のイエス様と新しいエルサレムの結婚の様子が記されています。イエス様が花婿であり、エルサレムが花嫁です。新しいエルサレムとは神様によって救われた人たちが住む永遠の都です。つまり教会の未来の姿と言えます。世の終りには教会とイエス様が結婚して一緒に住むことになるのです。都には神様がいつも隅々におられるので、悲しみも苦しみも死も無く、永遠の喜びの希望が描かれています。

結婚とは1人の男性と1人の女性が、それまでは別々の2人の者でしたが、1つの夫婦と数えられるようになることです。1+1=1となる神秘的な出来事です。これは愛のなせる業です。聖書はイエス様と教会の結婚を通して、神様と私たちが愛によって一つに結ばれることを示しています。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの(雅歌2:16)」となるのです。これは不思議な言い回しですが、結婚の神秘を歌っています。そもそも聖書の言う結婚とは、三位一体なる神様のご性質を表しています。三位一体の神様は、3位の別々の神が、愛によって分割することのできない1つとなっている神秘的なお方です。2人の男女が結婚し、愛によって結ばれるのであれば、それは三位一体の神様のお姿の一端をこの地上で表すことになるのです。だから聖書では結婚は神によって聖定された特別な恵みであり神様が結び合わるものであること、人の都合でくっつけたり、引き離したりしてはならないと教えているのです。

雅歌に描かれる愛は、神様がどれほどまでに私たちを慕っておられるかを表している神様からの愛の詩であると言えます。神様は結婚のように、私たちと一つとなり永遠の住まいで一緒に住んでいきたいと願っておられるのです。

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弱さのうちに働くキリストを誇る

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
IIコリント12:9

 

パウロは手紙の後半で自分の使徒としての召命について語っています。パウロの時代、宣教活動を行っていたのはパウロだけではありません。他の宣教師・伝道師たちもたくさん活動をしていました。中でもイエス様の地上生涯を目の当たりにしていた12弟子たちも多くの働きをしていました。コリント教会にもたくさんの使徒、伝道師たちが来たことでしょう。私たち人間は、人の外見や、肩書でその人となりを判断しやすいものです。パウロは12弟子と比べたら、イエス様の地上生涯を目撃した人ではありませんし、一度はイエス様に従う者たちを迫害した人です。そのような経緯を見ると、パウロが使徒として本当に相応しいのか疑問に思う人も多かった事でしょう。パウロは多くの場所で自分がイエス・キリストを主として信じていること、そのイエス・キリストから使徒として召されていることを説明しなければなりませんでした。そしてイエス様に従うものを迫害していた経緯からすると、その道は相手に赦されるまで謝罪し続けるという、とても大変な道でした。

パウロは、自分の使徒職について多くの手紙で弁明していますが、自分がどれだけ弱い人間であるかを強調することが多いです。それは過去の過ちに対する大きな反省から来るものであったことは確かです。パウロはイエス様に従う人たちを迫害する前から聖書に精通した学者でした。もしかしたら12弟子たちよりも聖書に精通してたかもしれません。自分の得意なこと、強味を強調することで、自分の適性を示すこともできますが、パウロはしませんでした。というのはパウロが人々に伝えているのは自分が獲得した知識ではなく、キリストの救いだったからです。パウロが自分の経験を通してキリストの救いを語ろうとすると、自分の過去の過ちを語らないわけにはいきません。キリストの救いがどのくらい素晴らしいものであるかを語ろうとすればするほど、パウロは自分がどれだけ弱い人間であるかを示すことになります。それはパウロに限ったことではありません。私たちは強い人間だから神様に救われたのではありません。もし本当に強い人間だったら救われる必要を感じないはずです。私たちは弱いからこそ、神様の救いを必要とします。神様は私たちの弱さのうちに働かれるのです。

私たちは自分の弱さが他の人の前にさらされるのを恐れます。しかしパウロはその恐れすらも神様に委ねました。そして弱さを人前に出すことにしたのです。むしろ誇ることにしたのです。それによって自分の知識や強さではなく、キリストを示すことができるからです。パウロは自分が使徒であることを示すために弁明をします。自分がいかに至らない人間であるか、むしろキリストの敵であったかを示すこと、そしてどのようにしてそこからキリストがパウロを捕えて下さったかを示すことで、自分がキリストを宣べ伝えるものであるかを示しているのです。パウロが自分の弱さを誇りますと言う時、その実パウロはキリストの力を誇っているのです。私たちは自分の弱さに希望を持つことはできません。しかしそこから救いだして下さったキリストに希望を置くことができます。自分の弱さを認め、キリストの力を仰ぎたいと思います。

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神のみこころに添った悲しみ

しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。
IIコリント7:6

 

IIコリント7章を開きました。パウロとコリント教会の間では、何度か手紙のやり取りがありました。聖書にもIコリント、IIコリントと2通の手紙が納められています。特にIコリントは厳しい語り口の手紙になっています。コリント教会の問題課題に対してパウロが厳しい口調でアドバイスをしています。IIコリント7:8には「あの手紙」と書かれていて、パウロ本人もとても厳しい内容の手紙を送ったと認識している言葉があります。「あの手紙」というのがIコリントの手紙のことなのかどうかは、定かではありません。しかし厳しい内容、コリント教会の人々を悲しませる内容の手紙を送ったことは事実です。それは手紙を読んだコリント教会の人々が悲しんで悔い改めることが目的でした。

IIコリント7:9-11には、神様の導きによる叱責、そしてそこから生まれる悲しみがあることを物語っています。キリストを信じる信仰においても、特に重要な事に関して、妥協してはいけない面もあるという事です。キリストの十字架と復活について、偶像礼拝について、教会内での分裂について、パウロはこれらの問題について、聖書とキリストのことばに基づいて諭しました。キリストの愛と赦しの業こそが私たちにとって全てであることを語りました。パウロがコリント教会の人々に対して厳しく接したのは、ただコリントの人々を非難したいから、論破したいからではありません。また自分の知恵の方が優れていることを示そうとしたのでもありません。ただキリストを信じて従って生きて欲しいと願ったからでした。それらの言葉を通してコリントの人々は大きな悲しみを味わいました。また少なからずパウロに対して嫌悪感を抱いた人もいるでしょう。しかし神様はそのような害から守って下さったことも書かれています。

7:9には「あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。」と書かれています。神様の目的はずべての人が神様と共に歩むようになることです。その時、パウロとコリントの人々がお互いに嫌悪感を抱きながら、仲良くなれずにいることを望んでいません。すべての人が神様と共に歩むと言った時、それは全ての人が手を取りあって、神様と共に歩むことを意味しています。ですから神様はパウロとコリントの人々が手を取りあえるようにして下さっています。エペソ2:14にあるように「キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を」打ち壊すことができるお方です。IIコリントにはこの時、テトスが手紙を届けたことが記されています。テトスはパウロから厳しい内容の手紙を託されました。テトスは少し厳しすぎるのではないか、これではコリントの教会の人々が立ち直れなくなってしまうのではないかと感じたのかもしれません。しかしパウロは神様の導きを信じ、コリントの人々を信じていました。ですから7:14でパウロはテトスにコリントの人々のことを「少しばかり誇りました」と書いています。結果としてコリントの人々は熱心に悔い改め、パウロとも良い関係を続けることができるようになりました。パウロはコリントの教会の人々と再び共にキリストを見上げながら歩めることを喜んでいます。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

愛を持って勧め合う

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。IIコリント2:4

コリント人への手紙に入りました。コリント人への手紙を書いたのはパウロです。パウロは第2回目の伝道旅行、使徒の働き18章でコリントに伝道に行きました。そこで多くの人々が信じてバプテスマを受け、教会が建設されたことが記されています。その後、パウロはコリントを離れ、一度エルサレムに戻り、第3回目の伝道旅行に出発します。パウロは3回目の伝道旅行でエペソに行き約2年3ヶ月そこで活動します(使徒19:8, 10参照)。この時にコリント人への手紙第一、第二は執筆されたと考えられています。聖書に収められている手紙は2通だけですが、内容から察すると、パウロは他にもコリントへ手紙を送っていて、訪問もしているようです。今日はIIコリント2章を開きました。

コリント人への手紙は、パウロの手紙の中でも特に厳しい口調で書かれた手紙です。できたばかりのコリント教会は様々な問題に直面しました。それに対処するためにパウロは多少厳しい口調の手紙を送ったようです。コリント教会が直面した問題は、偶像崇拝や、イエス様についての異なった教え、復活の否定等、キリスト教の信仰を根底から覆すような問題であったため、パウロも厳しく対処せざるをえませんでした。私たちはたとえ同じ教会に集い、同じ礼拝に出席していたとしても、みんな同じ考え方をしているわけではありません。賜物が違うように、一人ひとり少しずつ違った考え方をして生きています。それは私たちがそれぞれ異なった環境で育ってきたことから生じているものです。中には自分ではちゃんとした聖書価値観だと思っていても、他の人から見れば聖書的ではないと映る可能性があります。パウロは何が聖書的で、何が聖書的でないか、根本部分をそれぞれ見直すように手紙に書いています。特に重要な偶像崇拝や異なった教え、復活の否定などは、イエス様の救いそのものを否定してしまうことになるので、厳しく対処せざるを得ませんでした。

しかしパウロの目的はコリント教会をつぶしてしまうことではなく、悔い改めて立ち直ってもらうことでした。神様は私たち一人ひとりを愛しています。だからこそイエス様の救いを備えてくださいました。有名な御言葉ですが「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)。」とある通りです。パウロも神様の愛によって救われた一人です。神様の豊かな愛を体験した人です。ですからパウロは神様がどんな人をも、コリントの教会の一人ひとりをも、愛しておられることをよく分かっています。パウロは神様と同じように自分もコリントの一人ひとりを愛そうとしていました。一人ひとりを論破して打ち倒すためではなく、真のキリスト信仰に立ち返ってほしいと願ったのです。この後、パウロとコリントの教会がどういう関係になったのか、想像することしかできません。しかし双方が涙ながらに和解したのではないかという事はIIコリントを読むと想像できます。私たちがキリストへの信仰を堅持することは大切なことです。しかし一人で堅持することを神様は望んでおられません。神様は私たちがみんなで互いに励まし合い、ときには勧め合い、涙のうちに和解することを求めておられます。その全ての過程において、神様と同じ愛を持って接していくことが重要です。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 7-8月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 特別礼拝、聖餐礼拝のために
  • みずほ台教会のために