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祈祷会メッセージとお祈りの課題

イエス様を信じる義

私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。
使徒15:11

前回、10章では神様の導きによって、コルネリウスという外国人(異邦人)が聖霊を受けて、バプテスマを受けるという出来事を見ました。これによってユダヤ人クリスチャンたちは少しずつ、外国人にもイエス・キリストの福音を伝えるようになります。そして13章でいよいよ大きな転機が訪れます。神様の導きにより、パウロとバルナバを宣教師としてユダヤ以外の地域へ派遣することになったのです。パウロとバルナバは、初めは他の地域に住むユダヤ人たちにイエス・キリストの福音を語っていました。しかしそのうちにユダヤ人だけでなく、多くの異邦人がパウロの言葉に熱心に耳を傾けて、イエス・キリストを信じるようになりました。こうして外国人への宣教が始まっていったのです。

異邦人たちは元々ユダヤの文化で生活していた人たちではありません。まったく違う生活を営み、聖書も読んだことがありませんでした。しかし彼らは、パウロが証ししたイエス・キリストの福音を受け入れ、神様を信じてバプテスマを受けました。そしてその後で、聖書を学び、神様に従って歩む生活を始めるようになったのです。これは私たち日本人がキリストの福音を聞き、信じ、クリスチャンとしての生活を始めることと似ているかもしれません。それまでは聞いたこともなかった神様の話を聞き、聖霊によって心動かされ、これからは神様に従って歩もうと決心したのです。

14章の終わりでパウロとバルナバはある程度の宣教の働きを終え、アンティオキア教会へ帰って来て、神様がどれだけ豊かに外国人たちに働きかけて救って下さったかを報告しました。アンティオキア教会はその報告を聞いてとても喜び神様に賛美しました。ところが15章に入ると教会全体は、一つの問題に直面します。それは今まで聖書を知らず、律法を知らずに生活してきた外国人に、どこまで律法の行いを守って生活するように指導するかという事でした。これは要約すると、神様の救いを受け取り、神様に従って歩むにはどのような生活をしたら良いかという事を表しています。ユダヤ人たちは旧約聖書の律法に従って生活してきました。律法は神様から与えられた聖なるものであると分かっていたからです。しかし多くの場合、失敗してきました。それは罪ある人間が聖なる生活を続けることの困難さを表しています。イエス様の十字架はそれらすべての赦しと贖いのための十字架でした。イエス様の十字架を信じて歩む信仰によって、私たちは全ての律法の行いを全うし、神様の前に義とされているとみなされるのです。しかしだからと言って、何をして生きてもいいという事ではありません。15章で教会はその線引きの仕方を議論したのです。そして一致したことは15:20にあるように、偶像を避けること、偶像に捧げたものを避けること、淫行を避けることと決めました。つまり神様以外に心を捧げることを避けることでした。この議論では、何かを避けることについてのみ言及され、積極的に神様の愛によって行動することについては聖書に書かれていません。しかし神様の愛によって行動することも外国人たちに積極的に教えられたと思われます。大事なことは、私たちは何かをしたから救いを受けるのではなく、神様の愛、恵みによって救われたという事です。そしてユダヤ人と外国人の違いはありません。ですから私たちは今後、神様以外のものを神とすることなく、神様の愛と導きによって生活していけばいいのです。

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どこの国の人であっても

どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。
使徒10:35

イエス様は全ての人の救いのために十字架に架かって下さいました。しかしイエス様ご自身は、ユダヤ人以外の所には積極的に宣教に行きませんでした。イエス様は神であり、何でもできるお方でしたが、救い主として地上に来られた時には、人間としての制約に縛られていました。イエス様は十字架の贖いを第一にして行動し、それを神様の計画通りに全うしてくださったのです。イエス様が復活し天に昇られた後は、神としての無限の働きを弟子たちの背後でなさっています。

ユダヤ人以外への伝道は、主にイエス様の弟子たちが担いました。その弟子たちの働きが使徒の働きに記されています。しかし弟子たちは当初はユダヤ人以外の所へ伝道に行くことを考えていませんでした。しかしイエス様は弟子たちを、ユダヤ人以外にも伝道するようにと導いていきます。その一つが使徒の働き10章のお話です。

コルネリウスというローマの百人隊長は、ユダヤ人ではありませんでしたが真の神を恐れる人でした。10:2に「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた」とあります。コルネリウスの祈りは神様にしっかりと聞き届けられていました。神様はコルネリウスを用いて、ユダヤ人以外への伝道の足掛かりとしてくださいました。御使いが幻のうちにコルネリウスに現れ、イエス様の12弟子のペテロを招くようにと教えます。コルネリウスは自分の舞台の兵士を送り、ペテロを招きます。同じころ、イエス様はペテロにも働きかけて、コルネリウスの招きに応じるようにと教えます。

当時、ユダヤ人たちは、外国人たちと一緒に食事をすることはありませんでした。異教の者と一緒に交わることは汚れることであると考えられていたからです。このことは10:28でペテロが説明をしている通りです。ペテロもユダヤの伝統を守り、汚れを避けて生活していました。このままでは弟子たちが外国人に伝道していく機会には発展していきません。イエス様は夢の中でペテロに語り、コルネリウスの家に行くことは神様の導きであることを伝えます。コルネリウスの家は神様がきよめたのできよいのです。

ペテロはイエス様の後押しもあって、コルネリウスの家に行き、福音を語ります。そしてイエス様の福音を語りました。すると、10:44に書かれているように、コルネリウスたち外国人にも聖霊が降りました。彼らは聖霊に満たされて異言を語り、賛美し始めました。これを見たペテロたちは驚きました。そして神様はユダヤ人も外国人も関係なく、すべての人に救いを提供しておられる事を知りました。こうして外国人に対する伝道が始まっていくことになります。しかしそれは同時に、新しい問題課題を教会に突きつけることにもなります。この先、使徒の働きはその問題課題も丁寧に記しています。

私たち日本人が神様の救いを受け取ることができるのも、神様がえこひいきをなさる方ではないからです。ユダヤ人も外国人もみな同じように神様からの救いが提供されています。肌の色、出自、心身機能に関係なく、神様を恐れる人には豊かに神様からの祝福が与えられます。そして教会はそのような違う人たちが主にあって兄弟姉妹として集まっている場所なのです。神様の深い愛によって違う人同士が一つとされている場所です。

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神に従う

しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。」
使徒5:29

聖書通読は使徒の働きに入りました。イエス様が十字架に架かり、復活され、天に昇って行かれるところから、使徒の働きは始まります。イエス様は弟子たちに聖霊を与えることを約束されました。その約束を信じて弟子たちは祈り待ち望んでいました。聖霊はペンテコステの日に弟子たちの上に望みました。その時弟子たちは、力強く救い主イエス・キリストを証しし、多くの人が救われ、キリスト教会が誕生しました。使徒の働きは、キリスト教会の誕生と広がりを伝えています。

イエス様の弟子たち、つまり使徒たちはどのような動機で、何を宣べ伝えていたのか、最初のいくつかの章で明らかにされています。使徒たちは、旧約で預言されたメシヤであり、罪の贖い主であるイエス・キリストを宣べ伝えていました。当時のイスラエルの人々からすれば、イエス様は十字架に架けられた罪人でした。しかし使徒たちは、イエス様には何の罪も無く、またメシヤとしての特別な使命を帯びて、人となられた神であったと説いています。イスラエルの指導者たちからすれば悩みの種でありましたが、全くコントロールできずに手を焼いている姿が記されています。使徒たちは聖霊の力を受け、その導きに従って、イエス様のことを証ししました。その中でたくさんの奇跡が行われたことも記されています。

使徒たちが行った奇跡は、聖霊の力、イエス様の力、神様の力によります。3:6でペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言っている通りです。使徒たちの行った奇跡も、兄弟たちの教会での奉仕と捧げ物も、みな動機は神様にあります。すべては神様の御名のためであり、神様への感謝、神様からの愛を受けての行動でした。奇跡や大きな捧げ物は人の目を惹きつけます。多くの人から注目を浴びますが、それが目的ではありません。しかし5章の最初には人からの注目を浴びたいがために、たくさんの捧げ物をしようとしていのちを失ったアナニアとサッピラが出てきます。聖書はイスラエルの指導者の口を通して私たちに語ります。「もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう(5:38-39)」だから私たちは、ペテロと使徒たちの言う通り「人に従うより、神に従うべきです。」

「従う」という言葉を用いていますが、無機的に何も考えずに神様のなすがままにするという事ではありません。また神様は、何か自分のエゴのために事を進めようとされる方でもありません。使徒たちはイエス様から本当にたくさんの愛を受け、感謝したいことがたくさんありました。神様からたくさんの喜びを受け、そしてその喜びをもっと多くの人と分かち合いたいと思っていたことも事実です。そして神様もすべての人にその喜びを知ってもらいたいと思っています。神様はエゴで事を進めるようなことはなさいませんが、人間はエゴのために宗教心や教会の奉仕さえも道具にしようとするものです。罪の心がそうさせるのです。一見、自由な意志をもって自分の人生を決めているように見えますが、罪の心の奴隷となっている状態です。しかしイエス様はその罪の心から解放してくださいました。従うと言う言葉を用いていますが、イエス様に従って生きると言うことは、罪の心から自由になっていることでもあります。感謝と喜びと安心にあふれた自由な、従う生き方なのです。

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与え、取られる主の愛

こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。
ヨブ42:17

ヨブ記も今日で終わりです。38章になって神様はヨブに語りかけ始めました。神様はヨブに、神様がお造りになった宇宙と、地上の動物たちの姿を思い起こさせます。しかしその中にはヨブが見たことのある動物たちの姿ばかりではありませんでした。むしろヨブの知らない動物たちの営みを神様は語り始めたのです。私たちは動物たちの営みについて知っていることもたくさんありますが、知らないことも多いです。また宇宙の神秘についても知っていることもありますが、知らないこともまだまだたくさんあります。いわば、私たちはどうしてこの世界が存在し、調和がとれているのか、全く分かっていないのです。しかし神様はその全てをデザインし、見守っておられます。だから神様は言います。「何も知らないのに、あなたは因果応報の論理を宇宙に対して、また私に対して突きつけるのか?」「だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ(ヨブ41:11)」

これだけを聞くと、神様はとても恐ろしいだけの存在のように聞こえますが、神様はこう続けています。神様はレビヤタンという生き物に目を向けさせます。レビヤタンがどの動物の事を指すのか、よく分かっていませんが、ワニのような、ウミヘビのような生き物と考えられています。それはとても人間が太刀打ちできるような生き物ではありません。力と凶暴さだけで言えば、どんな生き物よりも強い生き物です。しかし神様は、ただレビヤタンの強さだけを語るのではなく、レビヤタンにはレビヤタンの役割があり、営みがあり、そのために必要なだけの備えをされたこと語ります。同じように神様はヨブにも、ヨブだけの営みがあり、そのために必要な力と知恵を与えておられることを神様は語るのです。そして他のすべての動物たちを神様が見守っているように、神様はヨブを気にかけ、大切に思い、一言で言えば、愛を持って接しておられます。ヨブだけでなく、私たち全ての人に対して、それぞれの営みを知り、そのために必要な力と知恵と助けを与えています。それらはすべて神様からの祝福、恵みです。1章でヨブは言いました。「主は与え、主は取られる(1:21)」確かに神様は私たちに与えるお方であり、また取られるお方です。しかしその一つ一つに神様の愛がこもっている事を忘れてはなりません。神様はただいたずらに与え、取られているのではないという事です。その理由は全て明らかにされませんが、そこに愛があることは確かなのです。すべての事の背後にある神様の愛に気づくと、私たちの人生は本当に自由になります。神様のご計画の内では、「すべてのことがともに働いて益となること(ローマ8:28)」を心から納得して、信じることができるからです。

ヨブはその後、祝福された人生を歩みました。ヨブ42:17はそのように語ります。しかしその言葉の意味は「ヨブが聞き従ったので神様は祝された」という意味ではないことに気が付くと思います。ヨブの傷跡は残ったままです。失った息子たち、娘たちは帰ってきません。そして理由は明らかになりません。しかし神様の愛の豊かさを知ったヨブは、すべて御手の内にあるという確信を持ち続けたので、その後の人生における揺れ動きを、神様の愛によるものと確信して受け止めることができました。それはとても神様の愛に満ち足りて余りある生涯でした。

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全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。
ヨブ21:15

ヨブ記の半分まで来ました。友人たちのとの議論は2巡目になり、議論は白熱していきます。友人たちはこれまで因果応報説によって、ヨブが災いを受けているのは、ヨブが(あるいは家族が)罪をおかしたからではないか?と主張してきました。それに対してヨブは自分の身の潔白を主張してきました。ヨブが神様の前に正しい人であったことは、1~2章を見ても明らかです。ヨブの言い分は一見、おこがましくも見えますが、私たち以上にヨブは正しい人であったことを忘れてはいけません。

21章に入ると、ヨブは因果応報説そのものに疑問を持ち始めます。聖書は「神様に従えば祝福を受け、神様に従わなければ災いを受ける。」と教えます。申命記はだからこそあなたがたは心を尽くして、神を愛しなさいと教えます。しかしよくよく世の中を見まわしてみると、ヨブが言うように、「悪しき者が生きながらえて 年をとってもなお力を増し加え(21:7)」ています。神様が機械的に因果応報によって人をさばいているのであれば、彼らは衰えていき、滅びるはずではないかと言います。しかし悪人がみな滅びないわけではありません。確かに滅びていく悪人も多いのです。災いを受ける悪人と、災いを受けない悪人の差はなんでしょうか?その差というのは友人たちがヨブが受けた災いの理由と関係があるのでしょうか?逆に差が無いとするのであれば、「全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで(21:15)」ということになります。ヨブはこれらの事を考えると、「おびえ、戦慄でからだが震える(21:6)」と言います。

ヨブや友人たちが陥っている因果応報という考え方は、とても自己中心的な考え方でした。ヨブの行いの故に、神様はヨブの状況を変えるはずだと言う考えです。これは神様の上に自分を立たせる高慢です。神様は因果応報によって裁きを行わなければならず、だからこそ私という人間はその因果応報に従って行動するという考え方です。そうでなければ、神様に従わなければいけない理由が無くなってしまうのです。全能者とは何者なのか?わたしが「正しいからいって、それが全能者の喜びとなるだろうか(22:3)」ということです。

私たちは日頃、このように私中心で物事を見て生きています。他の人の心は見えないからです。想像するしかありません。だからと言って想像するのを止めてしまうと、とても自己中心的な生き方、自分ファーストな生き方になってしまいます。他の人との接し方を、自分の利害に合うか合わないかで決めてしまいます。この自己中心性が罪です。私たちはその物の見方を改めなければなりません。

私たちは神様との関係を見る時にも、私中心の見方ではなく、別の角度、神様からの角度で見る必要があります。神様は聖書の中で、神様に従うように教えています。そうすれば祝福を受け、従わなければ滅びてしまうとはっきりと仰っています。しかし神様には別の理由があって、滅びをとどめているのです。神様が機械的な冷徹なお方ではなく、人格的で人に同情できるお方であることがここに現れているのです。ひとことで言うならば、愛です。私たちは自分中心の見方をしている限り、この神様の愛を見出すことは難しいです。一たび、なぜ神様は因果応報をとどめるのか、視点を移して考えた時に真理が見えてきます。

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