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祈祷会メッセージとお祈りの課題

苦しみの中の祈り

あなたは、モーセとアロンの手によって ご自分の民を 羊の群れのように導かれました。
詩篇77:20

詩篇73篇から第三巻となりました。昔、聖書は巻物の状態で保管されていました。詩篇はとてもボリュームの多い書物なので、一つの巻物に収まりきらず、いくつかに分けられました。そのうちの三巻目ということになります。詩篇73~83篇は表題にアサフという名前が出てきます。アサフはレビ人で、ダビデの時代に活躍した賛美の歌い手のようです。神殿で神様の前に、賛美を捧げる者として任命されました(I歴代16章参照)。レビ人はみな、神殿での祭儀を行う仕事についていた人々ですが、その中でも特に賛美専門の人だったという事になります。今日の77篇もおそらくアサフが作詞をしたのでしょう。そして表題にはもう一人、エドトンが出てきます。エドトンも同じ時代に活躍した歌い手のようです(I歴代16:41-42参照)。詩篇77篇は「エドトンの調べにのせて、アサフによる。」とあるので、作詞アサフ、作曲エドトンということかもしれません。

詩篇77篇は、苦しみの中にある人が呻いているような詩篇です。77:1では「私は神に声を上げて 叫ぶ。」となっています。しかしその後は、「私のたましいは慰めを拒んだ(77:2)」、「思いを潜めて(77:3)」、「私の心は乱れて もの言うこともできません(77:4)」などと書かれていますので、声を上げて叫んだはものの、その後はひたすら声を押し殺してうめいているかのような内容になっています。他の人からの慰めも受け入れることができず、ただ静かに一人、呻いて苦しんでいるような様子が目に浮かびます。

この詩篇の作者は苦しみながら、「なぜ自分は苦しむのか?」ということを考えています。苦しいこと、辛いことは誰だって願っていません。そういうことが自分の身に降りかかった時、なぜ自分はこんな目に合うのだろうと考えてしまいます。作者は一人苦しみながら、神様に訴えかけています。「神様。あなたはいつくしみを忘れてしまったのでしょうか?あわれみを閉ざしてしまったのでしょうか?」そして過去の事を思い返しています。聖書には昔の事がたくさん記されています。神様はこの天地を創造されました。空を造り、山を造り、崩して谷をつくり、海を造られました。そのような神様ですから、天変地異を起こされることも容易です。イスラエルの民はかつて神様の大いなる奇跡を目の当たりにしました。神様はイスラエルの民を助けるために大きな御手のわざを行われたのです。しかしそのような奇跡を目の当たりにしたにもかかわらず、イスラエルの民はたびたび、神様を要らないと言って背いてきました。そんな民を神様はあわれみ、怒りを抑えながら導いて来られました。

詩篇の作者は言います。「私が弱り果てたのは いと高き方の右の手が変わったからだ(77:10)」この言葉は神様の激しい怒りの裁きが自分に下ったから、自分は苦しんでいるのではないかという言葉に聞こえます。もしかしたら確かにその苦しみは神様が許されたものかもしれません。しかし作者は思い起こします。神様は羊飼いのようなお方であり、いつくしみとあわれみに富んでおられる方です。ご自分の民を羊の群れのように導かれる方です。神様のムチと杖は、神様の慰めによるものなのです(詩篇23篇参照)。神様はただ私たちを罰したくてそうしているのではありません。神様以外に頼っている私たちを更生したくて、もう一度神様だけに頼るように、そうなさるのです。作者はそれを思い起こして、もう一度神様に帰ろうとしているそんな詩篇となっています。

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王のための祈り

神よ。あなたのさばきを王に あなたの義を王の子に与えてください。彼が義をもって あなたの民をさばきますように。公正をもって あなたの苦しむ民を。
詩篇72:1-2

詩篇72篇は王のために祈っている詩篇です。表題には「ソロモンのために」と書かれています。ソロモンの治世は、イスラエルの国が最も栄えた時でした。この詩篇はそのようにソロモンの治世が末永く、平和に続きますようにと神様に祈り求めいてる詩篇と言えます。詩篇の作者が誰なのか、はっきりとは分かりません。最後の20節には「エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」とあります。ソロモン王の先代の王であり、父親はダビデです。ダビデの生前からソロモンは次の王に選ばれ、任命されました。20節の言葉が詩篇72篇のダビデの祈りは終わったという意味で解釈するなら、詩篇72篇の作者はダビデという事になります。先代の王が、次の代の王を祝福する祈りの言葉と言えます。また祈りの口調が民の目線に立っていることから、ダビデが民が祈る言葉と想定してこの詩篇を作ったとも言えますし、ダビデ以外の他の誰かが作ったとも考えられます。いずれにしても、この詩篇は、神様に「王を祝福してください。王としてふさわしい者へと整えてください。」と祈る詩篇になります。

日本には「君が代」という歌があります。君が代は「あなたの代が末永く続きますように」と祈っている歌です。国家として歌われていますから、「国が長く続きますように。国を守る天皇の代が長く続きますように。」と祈る歌と言えます。この歌が、天皇崇拝にあたるのか?それともそうでないのか?ということは長く議論されていて結論を見ていないように思います。しかし「王の治世が長く続きますように」という内容自体は、詩篇72篇と共通する部分があります。違っている点は、詩篇72篇の場合は、神という王を超えた存在がはっきりと示されている事です。王は、国を治めるうえで民を治める権威を持った存在です。しかしその王に権威を与え、国を治めるための知恵と力を与える存在として、神がはっきりと示されています。そしてその神に対して、「王を祝福し、整えてください」と祈っているのです。ですから詩篇72篇の歌いだしは「神よ。」です。君が代の場合は、「君」を超えた存在は示されず、誰に対して祈っているのか定かでありません。君が代の場合は、誰に対して祈るのかは歌う人のそれぞれの価値観、信仰に任されていると言えます。天皇を祝福するのは天皇だと思っていれば、天皇崇拝の歌となりますが、天皇は自分の知恵と力だけで自分の代を末永くしなさいと言っている妙な歌とも言えます。

私たちは、日ごろ、国を治める為政者の祝福のために祈っているでしょうか?為政者にも神様の祝福が必要です。なぜなら彼らも人間だからです。神様がダビデに、ソロモンに祝福を与え、整えて、用いられたように、私たちも今の為政者のために、祝福を祈り、整えて、用いて下さいと祈りたいと思います。なぜなら私たちは、呪いではなく、祝福を受け継ぐ者として召されたからです。誰に対しても、神様にその人の祝福を祈り求めていきたいと思います。

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どんなときにも神様に信頼する

民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。
詩篇62:8

聖書通読は、旧約聖書の詩篇になりました。今日は62篇です。62篇は表題にダビデの賛歌と書かれています。ダビデはイスラエルの二代目の王でした。神様から王として選ばれましたが、ダビデは困難の多い生涯を過ごしました。先代のサウル王からは妬まれ、何度も殺されかけました。また王座についてからも外国との戦争が絶えません。また自身の失敗もあり、家族同士の不和がありました。特に子どもたちの争いや、子どもから王座を狙われることもありました。困難の多い生涯でしたが、ダビデはいつも神様に悔い改めながら、まっすぐに生きようとした人でもありました。神様はそんなダビデとイスラエル王国を祝福して下さり、ダビデの時代にイスラエル王国は確固たる礎を築くことになりました。

ダビデは多くの困難の中で、神様に信頼することを学びました。それが詩篇62篇に現れています。1, 2節と、5, 6節はとても似ています。同じような言葉を少しだけ換えて使っています。神様が救いの岩であること、そしてその神様に信頼することを強調しています。そして同時に、ダビデの切羽詰まった様子もうかがえます。この時ダビデはおそらく、心が揺るがされるような、安心できない状況にあったのでしょう。しかし、これまでの経験からも必ずまた神様の守りがあるにちがいないと自分に言い聞かせているようです。この詩篇には「やぐら」や「城壁」と言った一国を治める王様らしい言葉が出てきます。国を守るための防衛の備えとして「やぐら」や「城壁」を国の周りにめぐらします。ダビデはイスラエルの国に張り巡らしたやぐらや城壁のように、神様はダビデ自身を守って下さるお方であると信じていました。周りの人は、いろいろと策略を巡らしたり、権力やお金に頼ったりします。しかしダビデはそれらのものに振り回されず、神様に信頼しようとしています。

ダビデは「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」と言って、自分以外の民全体にも語りかけています。この詩篇は「賛歌」となっていますから、礼拝などで賛美歌として歌われることを想定していたのでしょう。神様はダビデを助けてくださいましたが、ダビデだけを助けたいわけではありません。私たち一人ひとりのことも見守って、助けてくださいます。私たちは「どんなときにも神様に信頼」しているでしょうか。神様は私たちの心の思いわずらい、願い、それらを聞いてくださいます。その上で、最善をなしてくださいます。私の救いも、望みも神様から来ると告白したいと思います。私の問題、課題を解決してくださる救い、そして私の心の奥底にある願い、求めをしっかりと聞いてくださるという望みです。それらを神様の御前に注ぎ出して、委ねていきたいと思います。力は神様のものです。他の何かに頼るのではなく、最終的には全権を神様に委ねて、神様を待ち望みましょう。神様は必ず応えてくださいます。その時、私たちはこのダビデの詩篇に心から賛同して、神様を賛美できると思います。

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田舎ユダヤから御言葉が

私の理解するところでは、彼は死罪に当たることは何一つしていません。ただ、彼自身が皇帝に上訴したので、私は彼を送ることに決めました。
使徒25:25

使徒の働きも終盤になりました。使徒の働きの後半は、主にパウロの宣教旅行が描かれて、パウロがローマにたどり着くところで終わります。パウロは3回目の宣教旅行を終えて、エルサレムに戻りました。するとそこで大変な騒ぎが起きて裁判沙汰になります。この辺りから、ローマ人らしい名前の人が多く登場し、ややこしくなるので、少し整理したいと思います。

当時ユダヤの地域は、ローマ帝国の属州でした。しかしある程度の自治権が認められていました。そのため、ユダヤ人たちはユダヤ独特の言語や文化、宗教を守ってせいかつすることができました。しかし支配階級のレベルになると、あまり安定した統治が行われているとはいえず、ちょこちょこと紛争がありました。新約聖書の時代を見ると、ヘロデ大王が一人で統治していた時期、ローマ帝国本土から送られたローマの総督が統治していた時期、ヘロデ王の子孫である王たちと総督が共同統治していた時期など、様々です。使徒25章の時代はアグリッパ王2世と総督ポルキウス・フェストゥスの共同統治となっていました。ユダヤ人から見れば、ユダヤの首都はエルサレムでしたが、ローマ帝国から見れば、ユダヤ州の州都はカイサリアということになっていました。ですので、ユダヤ人たちはエルサレムで裁判することを望んでいますが、パウロはカイサリアに送られ、そこで裁判を受けています。

使徒の働きはパウロの裁判について、イエス様の裁判の時のように描いています。パウロには何の罪も認められませんでしたが、ユダヤ人たちは死罪を求め続けました。これにはユダヤの文化を良く知らないフェストゥスも困り果てたと思います。アグリッパ王2世は、ユダヤ人の血が混じっていることもあり、やや理解していました。26章に入ると、パウロはイエス・キリストについて力強く証しし、アグリッパ王2世が心動かされている様子が描かれています。イエス様の裁判とパウロの裁判の共通点は、どちらも罪はありませんでしたが、神様の召しによるものであったということです。違いは神様の召しの目的です。イエス様は十字架に架かることが目的でしたが、パウロは外国人にキリストを証しすることでした。パウロは鎖につながれてはいましたが、裁判を通して、多くの人にキリストを証しすることになったのです。

ローマ帝国にとってユダヤ属州はどのような位置づけだったでしょうか。おそらく片田舎のちょっと変わった民族くらいにしか思っていなかったでしょう。地理的に見ればエジプトに接する重要拠点ではありましたが、文化的には程度の低いものとして見ていたと思います。しかし、神様は、全く違う見方をしていました。この片田舎ユダヤから始まってやがて世界全体へキリストの福音が宣べ伝えられていきます。そのための一歩として首都ローマへのパウロの旅がありました。神様からの視点と、片田舎と思っていたユダヤに翻弄されるローマ中央の役人たちのお様子が混じって描かれているのが使徒の働き後半と言えます。どのような文化の違いも、神様の導きの前では障害とはならず、逆に福音を広める器となります。そう信じていたからこそ、パウロは鎖につながれても全く動揺せずにキリストを証しすることができました。

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みことばは、あたがたたを成長させ…

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。
使徒20:32

パウロたちは使徒18:23で一度アンティオキア教会に帰り、2回目の伝道旅行が終わりました。そしてまた3回目の伝道旅行に出ていきました。パウロは良くも悪くも、各地で名前が知られていくようになりました。そのため3回目の伝道旅行では、パウロが来ることで励まされる教会も多いですが、パウロが伝道の妨げに会うことも多くなりました。

パウロは伝道旅行において、たくさんの人をキリストの弟子として育ててきました。多くの人が、各教会で長老や御言葉を取り次ぐ伝道者となりました。パウロ自身もたくさんの同行者を連れて行くようになり、20:4ではその時のパウロの同行者たちの名前が書かれています。また20:5からは突然、文章の主語が「私たち」となり、使徒の働きの著者もこの時はパウロに同行していたことが分かります。使徒の働きの著者はルカと言われています。

また20章の中には、エペソの教会の長老たちとパウロのお別れの様子が書かれています。エペソでのパウロの活動は前の19章に記されています。この時、聖霊を受けた人たちが12人いたと書かれています。おそらくこの人たちを中心にエペソ教会は拡大していったものと思われます。そのエペソ教会の長老たちとパウロは別れの挨拶をしました。パウロへの迫害は日増しに強くなっていました。当時は飛行機のようなすぐに移動できる手段はありません。町から町へと移動するのに何日もかかる時代です。迫害の手が強まるにつれ、パウロは通ることのできる道が少なくなっていき、もう一度エペソに行くことはもうできないだろうと覚悟したのだと思います。そこでこのような別れの挨拶となりました。

パウロは別れの中で「あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ…」と言っています。パウロが宣べ伝えていたのはキリストの福音、神様の福音でした。パウロの福音ではありません。ですから究極的に言えば、パウロと会えなくなっても、キリストが中心にいれば教会は成り立ちます。むしろそうなるように、パウロは一生懸命に聖書を説き明かし続けてきたのです。パウロはキリストの福音の力、神様のみことばの力を身をもって体験していました。伝道旅行の中で、神様のみことばの力を実感し続けてきました。だからこそパウロは「あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。」と言っています。

私たちは神様の力、みことばの力をどれほど信じているでしょうか。私の個人的な話になりますが、今年は私自身がもっと神様のみことばの力を知るようにと語られている気がしています。礼拝において、祈祷会において、もっと言えば、生活の中で生き生きと神様の力がみことばを通して働くさまをもっと見るように、もっと信じるように言われている気がします。神様のみことばは私が想像している以上に、私たちの魂と心を癒し、力と慰めを与え、学びと訓練を与える力であると信じたいと思います。そしてそのようなみことばを握りしめていることに希望と誇りを持てたらと思います。

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