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祈祷会メッセージとお祈りの課題

救い主であるイエス様

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
マタイ16:15-17

マタイの福音書を開きました。12弟子とイエス様が行動を共にするようになってしばらく経ちました。イエス様は様々な神様として奇跡を行われ、神様の御国のことを宣べ伝えていました。ある時、イエス様は弟子たちに、人々はイエス様のことを何と言っていますか?と質問します。弟子たちは答えます。バプテスマのヨハネだと言う人もいれば、エリヤ、あるいは他の預言者の一人だと言う人もいます。イエス様は続けて質問されました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」するとペテロは答えました。「あなたは生ける神の子キリストです。」ペテロは、イエス様が神様の独り子であり、昔から預言されてきた救い主キリストであると答えたのです。ペテロの答えは人々の答えよりも正確にイエス様のことを言い表していました。まさにイエス様は人々を救うために来られた神様なのです。姿かたちは私たちと変わらない人間でしたが、神様なのです。

イエス様はペテロに言います。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」ペテロにイエス様が生ける神の子キリストであることを示したのは、神様ですとイエス様は仰いました。神様がペテロに教えられたので、ペテロはイエス様が誰であるか知る事ができました。当時、たくさんの人がイエス様と出会いました。しかし、ペテロのようにイエス様が救い主であると告白できなかった人もいました。誰も神様の霊によらずにイエス様のことをキリストと告白することは出来ません。逆に神様は、真実に神様を求め、救い主を待ち望んでいる人には、イエス様がどんな格好をしていても、キリストであると示してくださいます。ですから私たちがすべきことは一つに絞られます。いつも心からイエス様を求め続けることです。

ペテロはこのようにイエス様が生ける神の子キリストであると告白して後、今度はイエス様を否定してしまいます。イエス様は続けてこれからご自分が十字架に架けられて殺され、三日目によみがえるということを弟子たちに話されました。これを聞いたペテロは、「そんなことがあなたに起こるはずがありません。」とイエス様をいさめ始めます。人々はキリストに対して、多くの期待をしていました。自分たちをどのように救って下さるのか深い関心を持っていました。それがいつしか自分の願望と重なって、自分の期待に応えてくれる救い主像を心の中に描いていました。ペテロにも自分の思い描く救い主像があったのでしょう。しかしそれは神様の思いとは異なっています。イエス様はペテロの仰います。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」私たちが救い主を待ち望み、期待することは間違ってはいません。しかし救い主は私ではないということを覚えておく必要があります。救い主は神様です。神様の御計画が成されるべきで、私の願望に沿うべきではありません。そして神様の御計画の方が私の願望よりはるかに優れています。私の願望ではなく、神様の救いが達成されるようにいつも期待し、祈りたいと思います。

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神様との関係

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
マラキ3:10

マラキ書を開きました。マラキ書は旧約聖書の最後の書物になります。年代としても、旧約聖書のほぼ最後の時代に神様が語られたことが記されています。マラキ書には神様と人々の関係はどのような関係であるのか記されているように思います。神様はイスラエル人たちと契約を結びました。神様はイスラエルを祝福し、イスラエル人は神様を唯一の神様として礼拝します。契約の内容は書面(聖書、律法)に記されました。現代の私たちにとって契約書と言うのは、ビジネス上の付き合いをより簡略にするためのものです。毎月の電気、ガス、水道や電話などは、業者が提供してくれます。しかし毎日のように業者の方と会って、「いつもお世話になっています。今日はこれだけ使いたいので、これ位の代金でよろしいでしょうか。」というようなやり取りをするのは、利用者にとっても、業者にとっても大変です。ですので契約を交わし、契約書の文面に則ってサービスを提供し、料金を払います。こうすることで、過度な付き合いを避けることができます。しかし同時に友達の様な親密な付き合いでもなくなります。神様とイスラエルの契約は同じようなものなのでしょうか?

マラキ書の特徴の一つとして、神様の宣告と人々の「どのようにして?」という疑問が交互に現れます。1:2には「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。…」というやりとりが書かれています。「…あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。(1:6)」、「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。(1:7)」というようなやり取りが繰り返されます。イスラエル人たちは、神様との契約に則って、捧げ物を捧げていたようですし、祈りをしていたようです。しかしそれはまるで契約書の文面に則って形だけ遂行している、心の伴わないものでした。捧げ物は生活の余り物で済ませていました。過度に神様に捧げ物をしない代わりに、過度に神様の祝福に期待しませんでした。神様と交わした契約を「見よ、なんと煩わしいことか(1:13)」と考えていたようです。

神様は私たちと、もっと友達との付き合いや、親が子を愛するかのような関係を望んでおられます。形式上の関係ではなく、日々の何気ない会話や、心の伴った“おしゃべり”ができる関係を期待しています。神様は言います。10分の1を携えて来て、わたしに捧げて見なさい。こうしてわたしを試してみなさい。10分の1とは献金のことです。当時は収入の10分の1を神様に捧げるようにという律法がありました。10分の1はとても大きい額です。それは心が伴わずに捧げることのできる額ではありません。神様はお金欲しいのではなく、心が欲しいのです。神様に対して心を込めて贈った献金、祈りの言葉を神様はないがしろにされません。必ず私たちの思いに応え、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を与えて下さいます。どのような祝福が返ってくるか、それは神様がお決めになる事です。私たちの願い通りではないかもしれません。しかし大きな祝福であることは間違いありません。私たちは神様にどのくらい期待しているでしょうか。まあ形式上の、ほどほどの付き合いを望んでいるでしょうか。それとも友達以上の、親子以上の関係を望んでいるでしょうか。

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神様の霊によって

彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ4:6

ゼカリヤ書を開きました。ゼカリヤ書は小預言書の中ではボリュームの多い14章構成になっています。預言者ゼカリヤが神様から受けた幻と言葉を書き記したものです。ゼカリヤが神様からメッセージを受け取ったのは、ハガイと同時期でした。ゼカリヤ書のところどころに、ダレイオス王の時代であることが記されています。イスラエルの人々は捕囚先のバビロニアからエルサレムへ帰ってきました。そこで町と神殿の再建を始めます。その時、イスラエル人たちの指導者的存在だったのが、王の血を引くゼルバベルと祭司ヨシュアです。しかし神殿再建は周辺諸国からの妨害があり、途中で中断してしまいました。そんなイスラエルの人々を励ますために、神様はハガイとゼカリヤを遣わされました。

ゼカリヤ4章には、神様がゼカリヤに見せた幻が記されています。2本のオリーブの木の間に金の燭台が置かれています。2本のオリーブの木からは油が流れて来ていて、一度鉢に集められ、鉢から管によって燭台の七つのともしびに注がれています。2本のオリーブの木から絶えず油が供給されているので、燭台のともしびは消えることがありません。この七つのともしびをもった燭台は、イスラエル人たちには馴染み深いものでした。この形の燭台は、現在のイスラエルの大統領の旗にもデザインされています。この燭台は幕屋と神殿の聖所に置かれていた燭台でした。神様がゼカリヤを通してイスラエルの人々に語りかけた目的の一つは、神殿再建を励ますことです。神様は燭台の幻をゼカリヤに見せることで、神殿再建を励まそうとしています。

この燭台には2本のオリーブの木から油が絶えず供給されていました。そして神様は仰います。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」聖書において油は、神様の霊を、聖霊を象徴することが多いです。イスラエルでは王を選ぶ時、頭に油を注ぎます。これは神様の霊が王に豊かに注がれるようにということを象徴しています。ゼカリヤが見た燭台は、油が注がれ続けていて、それによってともしびが燃え続けていました。神様は今回の神殿再建も、人の力によるのではなく、神様の霊が注がれることで、なされる御業であることを教えています。「権力によらず、能力によらず」と神様は仰っています。ヘブル語ではどちらも「力」を表す言葉です。人間的なすべての力によらず、神様の霊によって成し遂げられるのです。

聖所における燭台の光は、神様の希望の光を象徴しています。聖所には窓もなく、あかりもこの燭台の灯りのみでした。ですから暗闇を照らすことができるのは、この燭台の灯りだけです。その灯りは神様の啓示、英知、計画を意味していて、神様にこそ人々の希望があることを示しています。ゼカリヤ書には再建されたエルサレムの都に王がやってこられるという、救い主の到来の預言も記されています(9:9)。この預言は、イエス様がエルサレムの町に入られる時に成就しました。この燭台は救い主という希望の光を、全世界に輝かせる燭台でもあります。権力によらず、能力によらず、神様の霊によって光を放つ燭台が、神様の霊によって来られる救い主を知らせるのです。すべての希望は神様の内にあることを感謝します。

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神様の計画

しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──主のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──主のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の主のことば──
ハガイ2:4

ハガイ書を開きました。ハガイ書は2章だけの短い書物です。神様が預言者ハガイを通して、バビロン捕囚後、エルサレムに帰還した民に向けて語られたことが記されています。586BC、南ユダ王国はバビロニアに敗れ、強制移住させられます。その後、バビロニアは衰退し、ペルシャの王クロス(キュロス2世)がバビロニアを征服します。クロス王はユダヤ人たちに寛大な処置を施し、537BCにエルサレムへの帰還を許可します。ユダの人々はバビロン捕囚が終わり、自分たちの国へ帰る事ができました。このあたりのお話についてはエズラ記に詳細が記されています。

ユダの人々は、廃墟となってしまったエルサレムの町の再建に取り掛かります。自分たちの住む家と、神様の家である神殿の再建を始めました。そして神殿の基礎部分が出来上がった時、かつてのエルサレムの栄光を覚えていた人々は喜びと悲しみの涙を流したと記録されています。エルサレムに帰った人々はその後も精力的に町と神殿の再建に努めますが、周辺諸国がこれを良く思わず、度重なる妨害をしました。神殿再建を指示していたクロス王も亡くなり、いつしか神殿の再建は中途半端なまま終わってしまいました。

これに対して、神様はハガイを通してエルサレムの民を奮い立たせているのです。中断されている神殿の建設を再び開始するようにと神様は語ります。この時のイスラエルの人々の気持ちを考えてみたいと思います。度重なる妨害、困難に会うと、私たちは意気消沈してしまいます。神様の計画によって始められた働きも、妨害に会うと、それが本当に神様の御心であるのか分からなくなってしまいます。そんな時、神様は確かな証拠を与えて下さいます。「今がその時だ。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」と語って下さいます。あるいは、イスラエルの人々は、神様の計画で始めたかもしれませんが、いつしか神様から目を離してしまって、計画案の遂行だけを求めていたかもしれません。神様の計画は、神様が推し進めるのであり、人間の力によるのではありません。クロス王の時に中断された工事が再開されるまでには、15年ほどの歳月がかかりました。その間は、ユダの人々にとっても自分たちの信仰を再考させられる期間だったのかもしれません。

神様は、神殿を再開する人々を励ましています。「強くあれ。」と繰り返し、「わたしがあなたがたとともにいる」と語ります。すべての金も銀も神様のものであると語ります。エズラ記5-6章によれば、神殿建設を再開した民に対して、周辺諸国は再び妨害を始めます。しかし、神様が働いておられました。神様はダレイオス王がユダの民の神殿建設を支持するように働きかけました。周辺諸国はダレイオス王に神殿建設を止めさせるように求めますが、逆にダレイオス王は周辺諸国が神殿建設を手伝うようにと指示するのです。まさに他国の金も銀も神様のものということを神様は証明されました。ユダの人々は勇気づけられ、神殿は完成します。神様が計画されることはすべて、成し遂げられます。人間の目からはまだその時ではないのではないか、実現不可能ではないかと思えるような状況であっても、神様に不可能はありません。そして神様はいつも私たちに最善をなして下さいます。ですから、私たちは神様の御心をいつも探り求めていたいと思います。

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救い主にハレルヤ

ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで 主への賛美を。イスラエルは 自らの造り主にあって喜べ。シオンの子らは 自らの王にあって楽しめ。
詩篇149:1-2

詩篇146~150篇は、ハレルヤ詩篇、もしくは大ハレルヤ詩篇と呼ばれるようです。特徴的なことは、各詩篇の最初と最後にハレルヤという言葉が置かれ、まるでハレルヤでサンドイッチするかのような構造になっている事です。詩の内容も詩篇の中でも特に賛美歌であるような印象が強く、合唱曲の歌詞のようになっています。詩篇は150篇からなる聖書全体の中でもボリュームの大きな書物ですが、その最後を締めくくるにふさわしいと言えるような大きな賛美の合唱の内容となっています。「ハレルヤ」とは「ハラル(賛美する)」という動詞に、神様のお名前を意味する「ヤ」をつけた、「主を賛美する」という意味の言葉です。そのような言葉を最初と最後につけることで、この詩篇全体が主への賛美であるということを印象づけています。それぞれの詩篇では、すべてのもの(人や動物だけでなく、生きていないと思えるものまでも!)は主を賛美せよと歌われていたり、主はどのようなお方であるかという事が歌われています。

詩篇149篇では、後半部分で、敬虔な者たちは剣をもって主に賛美せよと言われています。それは国々への復讐、懲らしめのためと語られています。神様の正しいさばきの象徴として、剣を持つようにと言われています。聖書にイエス様は、世の終りの時に再び地上に来られて、すべての人を裁かれると書かれています。今の時は、正しい者も、悪い者もみな生かされていて、悪い者が放任されているような印象もあるかもしれません。しかし神様は全すべの人の行いと思いをご覧になっておられ、最終的にはその裁きを行われます。このように言うと、私たちはとても恐ろしく感じます。なぜなら神様の前に全く潔白である人は一人もいないからです。しかしそのような私たちを救うためにこそ、救い主イエス様がこのクリスマスの時に、地上に送られました。すべてイエス様を信じ、救いを受け入れる人は罪を赦され、新しい天と地へ招かれます。まさに「ハレルヤ」です。149:9では「また書き記されたさばきを 彼らの間で行うため。これは 主にある敬虔な者すべての誉れである。ハレルヤ。」と書かれていて、神様の最終的なさばきは、敬虔な者、神様を信じて歩む者にとっては誉れであると書いています。

このような救いが備えられているからこそ、私たちは神様にあってハレルヤと賛美する事ができます。イエス様は世界の初まる前から王であり、この世界の創り主でした。そして、世の終りの時に再び地上に来られます。その時、新しい天と新しい地において、永遠の王として着座されます。私たちはそのイエス様の御国において、いつも楽しく、神様に「ハレルヤ」と賛美しながら過ごすことができます。苦しみも悲しみもなく、困ることも乏しい事もありません。すべての人は神様の子として、王様の子として、栄光の内に住むことができるのです。そのような日が来ることを期待し、待ち望みつつ、私たちも日々、「ハレルヤ」と賛美をしながら過ごしたいと思います。この日はもしかしたら来るかもと言う曖昧なものではなく、必ず来るという神様からの絶対の約束なのです。ハレルヤ!

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