2002年9月8日(日) 「一致を保つ」 ピリピ2:1-5 竹口牧師
先回は1:27-30で、ピリピの人達に、福音に相応しく生活しなさいとパウロが勧めているところを見た。それは、反対者が教会の外にいても、実は闘いは、教会の内側から始めなければならないからであった。イエス様もこう言われたことがあった。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも内輪もめして争えば立ち行きません」と(マタイ12:25)。だからまず内側を固めなさいとパウロは勧めたのであった。もっとも、ピリピの教会がどの程度「反対者」の影響を受け、それが浸透していたかは分からない。が、いずれにしましても、外敵と闘うためには、まず内側が十分補強される必要があった。そこでパウロは、主にある一致を勧めたのである。これは、先回に引き続いて、今回も勧めている大切な点である。
今日の最初、2章1節の始まりは、「こういうわけですから」という言葉で始まっている。これは明らかに先回の1章27節から30節と密接な関係があることを示している。また、今回の2節は先回の27節後半と重複している部分がある。2節では「心を合わせ」とあるが、27節は「心を一つにし」とあるからである。2節と27節とを見ると、「霊を一つにして」、「心を一つにして」、「一致を保ち」、「志を一つにして」との繰り返しは、それがどれだけ大切であるかを物語っている。
確かに、教会の中に一致がなく割れていたなら、外に向かっての力は発揮できない。しかしながら、ピリピの教会は、そういう一致が全く無かった、あるいは大変もめていたのでパウロはそう勧めたのではなかった。それは次に取り上げる点からも言えることだが、パウロは2章の初めでこう語り始めている。「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり・・・」と言葉を続けている。
ここでパウロは「もし・・・なら」と仮定法を使い条件文としているが、実は、ピリピの教会には、そういうものがなくて、つまり励ましも、慰めも、交わりも、愛情も哀れみも何もなくてパウロが言っているのではない。そういうような条件があったならと仮定しているというよりも、「実際に,そういうものがあるので」という、2節の命令文の根拠を提示していると言える。2節の中心は,直訳すると、「同じことを思うことによって,私の喜びを満たして下さい」となる。後の2節の途中から4節にかけては、この中心的な文を説明しているのである。
実際のところ、ピリピの教会は、パウロが宣教活動して生まれた他の教会に比べて、信仰においても、愛においても成熟していた。高い霊性を保っていたことが手紙全体に見える。とはいえ、この世に完全な教会が無いように、もう少しこうあってほしいという部分が無いわけではなかった。それが教会内の一致であったと言える。そして、それをピリピ教会の人達に求めたのであった。
彼は3つの点を取り上げ、励ましつつ勧めた。その一つが、新改訳では「キリストにあって」と訳されているが、「あって」とは、「よる」とも訳せるので、「キリストによる励ましがあり」である。そして第2に愛の慰めがあり、第3に御霊の交わりがあり、第4に、愛情と憐れみがあるならというふうに4つの項目を挙げている。これは、ギリシャ語で見れば、「もし……であるなら」と一つ、一つについているのである。
もっと詳しく言うと、「もし」の次に「いくらかでも」とか「どれほどの・・・でも」ということばが使われている。だから細かく訳すとするなら、「もしキリストによるいくらかでも励ましがあるなら」、「もしいくらかでも愛の慰めがあるなら」、「もしいくらかでも御霊の交わりがあるなら」、「もしいくらかでも愛情とあわれみがあるなら」というふうになっているのだ。くどいようであるが、それは、ピリピの人達が持っていないので、「もし・・・であるなら」と言っているというわけではない。あるものをさらに強調する意味が含まれている、ということである。先程も言ったように、ピリピの人達は、これらの4つの点を持っているとパウロは確信していた。だからピリピの人達よ。それを動機として一致を保ちなさいと勧めているのだ。
人は時々、孤独を味わう。そして、「結局は、人間は一人なんだ。ああだ、こうだというけれども、最後には一人で死んで行かなければならないし・・・。」と、思うときがあるかもしれない。しかし、決して一人ではないと我にかえるのがクリスチャンだと思う。「インマヌエル、神は私たちと共にいます」という方が共にいて下さる。だから、一人ではないのだ、と気付かされるのだ。そして、共にいて下さるキリスト、その方の励まし、慰めを見いだすのである。それはまた、罪人である私達のために、自ら命を捨てて救って下さった愛とその犠牲、その救いの出来事から生じてくる生きることへの勧め、励まし、慰めを、キリスト信仰者は自覚するのである。キリストの十字架によって罪赦された。だから私達は、罪赦された者として生きてよい。罪赦された者として互いに受け入れあうべきである。そのことをまずパウロは確認しようとしている。
2番目の愛の慰めとは、先程の励ましという言葉が、慰めの意味もあるので、ここでは神さまの慰めと取ったほうがよいようである。そこで神様の愛による慰めということに限定できる。神様は、ひとり子を与えて下さるほどに、この世を愛し、私達を愛して下さったその神様の愛が、今、私達一人一人にも向けられている。それを知ることによって、慰められ、励まされるという内容になる。 3番目の「御霊の交わり」という御霊とは、即ち「聖霊」であるから、聖霊との交わりと理解できる言葉である。私たちの信仰が保たれ、祈りの生活が導かれ、兄弟姉妹達のことを私たちが覚えることができるものとされるのは、聖霊なる神さまとの交わりが、私たちに与えられているからだ。そして、この3つは、何と三位一体の神を現していることが分かる。キリストによる励まし、すなわち御子キリストのことが最初に出てきて、次に愛の励まし、すなわち父なる神のことが記されており、第三に御霊の交わり、すなわち聖霊なる神のことが記されているのだ。
コリント人への第二の手紙13章13節には、私たちが礼拝の最後に行なっている祝祷の言葉のもとになっているものが記されている。そこには、「主イエス・キリストの恵み、神の愛と、聖霊の交わりが、あなたがたすべてと共にありますように」とである。パウロは私達の信じる三位一体の神から来る良きものすべてに目を向けさせている。それがキリストによる勧めであり、励ましであり、父なる神の愛による励ましと慰めであり、聖霊との豊かな交わりなのである。私たちはそのことを確認することができる。それに基づいてパウロはやがて信仰者相互の愛情と憐れみにも触れていくのである。
パウロは、教会のいろいろな問題や、信仰の知識に基づく問題を取りあげていくにあたって、まず徹底して、教会の業や働きや信仰者の交わりを成り立たせている上からの支え、上からの賜物について、人々の関心を呼び起こそうとしている。信仰者の共同体である教会の形成にとって基本的に必要なものは、上からのみ与えられる。上から与えられる恵みの賜物によってのみ教会は成り立っているのだ。そのことに信仰者たちの目を集中させるのである。
そのことに帰る以外に、教会の交わりを正していく道はない。神様が与えて下さっている恵みの賜物から始める以外に問題の解決はありえない、というのがパウロの確信であった。そのことがキリストの勧め、神の愛、聖霊の交わりを最初にもってくることの中に表されているのである。神様による厳粛な事実の確認からすべての歩みを始めようとする、そのパウロの信仰の姿勢を、私たちも受けついでいかなければならない。何もないところから、教会が何かを始めなければならないのではない。
神様の賜物はすでにあなた方のもとに豊かに運ばれていることに目を向けさせ、そこに立ち帰らせ、そこから現実の問題に取り組んでいこうではないか、とのパウロの呼びかけと訴えを、私たちも聞いていかなければならない。そして、この問題は、教会という共同体を考える時の基本的な姿勢であるに留まらないで、私達一人ひとりの信仰の歩みを考えることにおいても、全く同様であると言わなければならない。何もないところから、私達の信仰がなされるのではないからだ。すでに子なる神キリストによって、父なる神の愛によって、御霊なる神によって、私たちは必要なすべてのものを受けている。そこから、あるいはまた、そのことの確認から、私達の具体的な問題への取り組みを始めようではないか。そういうパウロの姿勢は、私達個人的な事柄についても、そのまま当てはまる、と言ってよい。
パウロは、そのことを確認した後で、次に、ピリピの教会の取り組むべき課題について、2節でふれることになる。「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」と。ここには、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにするというように、四つの言葉が重ねられている。それぞれに異なる響きをもった言葉であるし、強調する点が微妙に違っているかもしれないが、この四つの言葉が言わんとする事柄は、ほぼ同じであると見てよい。つまりそれは、みな同じ心になってほしい、ということである。
その場合の、同じ心とは、決して思想を統一してほしい、教会員の趣味を同じものにしてほしい、感受性とか生活様式まで同一にしてほしい、画一化してほしい、という意味では決してない。それぞれが異なっているのは当たり前である。しかし、一人ひとりが異なっておりながら、子なる神、父なる神、御霊なる神から与えられている救いの事実は、共通のものである。そうであるならば、キリストの教会に仕え、キリストの教会の形成のために働きたいという思いも、それぞれにおいて同じであるはずではないか、というのがパウロの考えである。
一人一人の生き方やものの考え方や取り組み方は異なる。しかし、賜物の相違を越えて、キリストの教会に共に仕えていこうとする思いにおいては、一人ひとりが共通であるはずだし、是非そうであってほしい、そのように訴えているのである。相互の賜物の違いが、他のものの排斥や否定につながるのではなく、それが、他者を補い、あるいは他者に補われることにつながり、それによって、教会という共同体である、この信仰者の群れが、より豊かにされていくことをパウロは願っているのである。
一人ひとりが、ある事柄について異なる知識を得たとしても、それが互いを排斥していくことに結びつくのではなくて、その異なる部分をもった知識が互いを補いあうことによって、群れ全体が豊かにされていくことを願うことにおいて、ぜひ、すべての教会員が、一つの心になってほしい。これがパウロの訴えであった。そして、そうあることが自分の喜びが満たされることでもあると、パウロは2節の初めで述べている。
決してそれはパウロの個人的な満足や、個人的な平安を求めての発言ではないはずである。むしろキリストに仕える一人の使徒として、自分の願いは、自分が仕えるキリストの喜びでもあり、願いである。だから私の喜びを満たしてほしいと、パウロは述べているのである。パウロは、エペソの教会に5章27節で、こう述べている。「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何ひとつない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」と。
教会のかしらであるキリストも、終わりの時に、聖く傷のない栄光の姿の教会をご自分に迎えることを願っておられるし、そのことを喜びとしておられる。そのことから「わたしの喜びを満たしてほしい」というパウロの言葉が生かされていく。その為に、パウロはさらに具体的な例として3、4節で語る。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」と。
ところで、これを読んで、まず私の心に浮かんだのは、「へりくだって」しかも「人を自分よりもすぐれた者と思」わなければならないほど、自分には能力があり、賢いのだろうかとまず、自分の事を考えた。確かに「何事でも自己中心や虚栄からすること」は正しくない。しかし、自己中心や虚栄というのは、自分の内に何もないのにあるかのように見せる、そして自分中心に考え、行動することである。考えてみれば、自分が他の人よりも何もすぐれていないのに、自分よりもすぐれた者と思うのは、思い上がりではないだろうか。そのように、感じたのである。皆さんは、自分自身をどのように評価されているであろうか。
確かに、パウロは、先生と呼ばれるに値する人である。そういう人が謙遜になって、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思」うのは、理に適っています。ならば、そうでない者が、自分をわきまえないで、高慢になっているなら、それは、このパウロの勧め以前の問題である。自分は駄目な人間だと、自己卑下し、落ち込み、消極的になるのも間違いであるが、能力もないのに、謙遜ぶるのもまたこれは偽善者だといわれかねない。
しかし、ここでもう一度、パウロの言葉に戻って考えていただきたい。パウロが語っているのは、彼のような優秀な人ばかりに語っているわけではない。ピリピの教会のあらゆる階級の人に語りかけているのである。とするなら、それは、どんな人にも適用できる言葉としてパウロは語っているはずである。つまり、キリストのお働き、信仰の原点に戻ってくる。パウロはコリント人への手紙第一、8章の中で、偶像に献げられた肉の問題について語り、知識のある人は、偶像なんて神ではないのだから、食べてもかまわないと思うけれども、しかし、そういう知識がない人に対して、つまり弱い人に対して、あなたがたの行為が躓きとならないようにしなさい。なぜなら、「その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになるのです。キリストは、その兄弟の為にも死んで下さったのです。」(8:9)と語っている。
キリストは弱い人のためにも死んで下さった。ある人から見て弱いとか、貧しいとか、取るに足りないとしか思えない人であっても、その人をもキリストは、かけがえのない者として見ておられる。神のもとにその人を回復するために、キリストはご自身の血を流された。その事実にしっかりと目を見据えなければならないというのである。そして、そのことがピリピの人たちにも、そして現代の私たちもそうであるが、理解される時に、また、そのような目で他者を見ることができる時に、他の兄弟や姉妹を自分の利己心や虚栄心によって自分の支配下においたり、自分の誉のための手段として用いるということは、決して出て来ない、ということになるのである。 それどころか、この兄弟姉妹を、神の大切な器として尊ぶことが当然の姿勢として、そこから生まれて来ざるを得ないのである。それぞれが、私たち一人ひとりが、何らかの形で、神様の恵みの担い手として、この地上におかれている。そのように兄弟姉妹たちを見る。それが人を自分よりすぐれた者とすることであり、自分のことだけでなく他の人のことをも考える、ということである。
私にはない何かの賜物をもっている、この友がいる。私の信仰にとって、この人がいることが必要なのだ。このように互いに考えることのできる交わり、それが、パウロの求めているキリストの教会の交わりである。そのように兄弟姉妹の間を考えられるようになって来る時、私たちの心は、一致へとより近付いているのではないだろうか。キリストにある一致。同じ目標に立った一致である。
次回見るのであるが、キリストは神の立場を捨てて、人間と同じ姿になられた。(参照マタイ20:28)そして御自身を無にしてまで他に仕える者となって下さった。十字架の死にまで従い、尊い犠牲となってくださったのである(2:6-8)。このキリストの模範を、私たちキリスト者は見つめ続けなければならない。キリストを見つめ続け、他の人々もそうしていることを自覚し合うところに、キリストにある一致が生れてくる。
教会の一致は、イエス・キリストの模範に従うことである。「この弱い兄弟の為にも死なれた」これこそが、私たちを高慢から低姿勢へと向かわせ、心一つに出来るのである。パウロは、「私の喜びが満たされるように」と語りかけた。私たちも絶えず原点に立ち返って、同じキリストの恵みに与かっているものとして、心一つにしようではないか。
2002年9月22日(日) 「イエスは主なり」 ピリピ2:6-11 竹口牧師
2002/9/22伝道礼拝 ピリピ2:6-11 イエスは主なり この朝は伝道礼拝ですから、普段とは違った聖書箇所からお話ししようかと思ったのであるが、今回の箇所は、イエス・キリストが来られた目的と、この地上でなされた働きの要約としてもよいくらいの内容であり、更には、そのイエス・キリストに対して人はどうあるべきかを短く、明確に語っているので、普段の聖書箇所の続きを取り上げることにした。
皆さんの中で、キリスト信仰をしている、いないにかかわらず、イエス・キリストが、この地上に存在されたという歴史的事実を認められないという方がおられるであろうか。恐らくおられないのではないかと思う。と言っても、いてはいけないという訳ではない。と言いますのも、ロケットが月に行って着陸し、石を拾ってきたとか、宇宙で作業をしているということを信じない人がいまだにいる。そのように聞いているからである。その人達が言うには、まだ多くの人には知られていないこの地球のどこかで作業し、持ってきた石であると、そのように信じているのだそうである。
まあ、そこまで疑う人には、あえて私が申し上げることは何もないのであるが、しかしその一方で、多数派と言いましょうか、多くの人が信じているなら、それはすべて正しい、そのように私が言おうとしているのでもない。一般的に信じられていても、間違っていることは、数々あるし、学問的に書き変えれることすらあるのである。 例えば、悪い例であるが、いつであっただろうか。日本の考古学の信頼性を大きく失なわせたことがあった。遺物発見の捏造によって歴史が作られていたことが分かったのである。犯行現場をビデオにしっかり撮られていたので、否定のしようもなく、学会では、今までのデータのどこまでが正しいのか大変な問題となった。それによって、教科書まで書き変えなければならない事態になり、更には入試問題にも影響を与え、大変社会的な問題にもなった。
その様な捏造はともかく、学問的に裏打ちされ、間違いないと信じられてきたことが、ある資料が出てくることによって大きく変わってしまう。このことは、学問の世界では、いつでもありえることである。あるいはまた、学問の世界のみならず、社会の仕組みも、政治形態も、いつ大きく変わるか、誰も知らないのである。経済も大変、不透明な時代になってきている。
それだけに、今や信頼すべきものは何か。何に信頼を置いたらいいのか、知りたいと思っている人は沢山おられるのではないかと思う。信じられないことが次から次へと起こって来ているのである。時代と共に人の考えも変わって来ている。しかも、それは良い方向ではなく、むしろ悪い方向に進んでいる。それだけに、時代が進めば進むほど、恐ろしい時代に入って行く。これは、決して否定する事は出来ない。
社会の反映している犯罪事件一つを取り上げても、事件の残虐性、証拠湮滅(いんめつ)の手段、アリバイでっち上げの巧妙性、更には、再先端技術を使った犯罪などなどからみても明らかである。確実に、人はその罪の度合いを大きくし、深くし、広くし、この世の終りを早めているのである。
しかし、神様の前には、罪が重い、軽いは大した問題ではなく、また大罪、小罪が問題ではなく、罪が全く無いか、それともあるか、それが決定的な意味を持っているのである。だから少しでも、そして一つでも罪ある者は神に審かれるのである。そう、聖書は語っている。つまり「罪の支払う報酬は死です」というのである。そういう、死の審きを受けるに値する人間の為に、神様の遠大なご計画が歴史の中で進められて行ったのであった。
先程私は、イエス・キリストがこの地上に存在されたという歴史的事実を認められない、という方がおられるであろうかと聞いたが、私たちキリスト者は、間違いなくイエス・キリストは、歴史上の人物であると信じている。それと共に、今回の聖書箇所でも語っていますように、キリストは神であったと信じている。それは、多くの人がそう信じているからではなく、聖書がそう語っているからである。
多くの人が、また長い歴史を通じて、読み、語られ、信じられて来たので聖書は信じるに値する。そのように言うこともできるが、それだけであるなら、他にもそのようなものはいっぱいあるはずだ。考古学者は、いろいろなところに発掘に行き、遺物を発見し、それに意味を持たせ、学問として成立させているからである。聖書もそのように捉えるなら、それだけで終わるであろう。
しかし、聖書はそれ以上の書物である理由がある。それは、聖書は神様のお言葉であるので、それを読む人に、その聖書を通して神さまご自身が語りかけられるからである。ここに、一般の書物との大きな違いがあるのである。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと、矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3)と、聖書自身も聖書の事を語るのである。
そしてその聖書は、私たちに、またこう語りかけてくる。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」と。
時代劇を見ていると、時に庶民の生活を正しく把握するために、時の将軍が平民に変装し、共に生活し、一般社会がどの様な状況にあるかを身を持って感じ取るといった場面がある。そのようにして、知ることによって正しい政治を行おうと言う思いが現されているのである。
ところで、神の子であるイエス・キリストが、この地上に来られたのは、そのような、政治的な問題で来られたのではなかった。また、この罪の世界の状況が、どのようなものか調べる為にわざわざ人となって来られたのでもなかった。ある人は、人の心を知るには、人にならなければ分からない。蟻の心を知るには、蟻になって、地上をはってみなければ分からない。だから、イエス・キリストもそのように、人となって来て下さった、そのようにいう人もいる。
しかし、残念ながらそれは違う。イエス・キリストは、神様であられるので、別に人とならなくても、私達の全てをご存じであられ、そういう意味では、人となって来られる必要性はなかった。神様であられるイエス・キリストが、敢えて神のありかたを捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じ様になられたのには、それだけの理由があったのである。それは8節にある通りである。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」と。
ここで、キリストが来られた理由と考えられているものの中で、違うものをもう一つ挙げておきたい。それはここでは、すでに救われたクリスチャンにイエス・キリストが、神であるにも拘らず、へりくだって、この地上に来て下さったという謙遜を教えるために書かれているのであるが、人々は、ここを取り上げて、イエス・キリストが十字架にかかられたのは、自己犠牲を教えるためであったという点である。
しかし、これもまた違う。なぜ、そう言えるかといえば、イエス様ご自身が、こう言われているからである。「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)と。つまり、決して、謙遜を教える為だけが目的ではなかった。確かに、イエス様の歩みを見ると、また、この聖書の前後を見ていただくと、本当の謙遜とはどうあるべきかが教えられている。しかし、この地上に来られた目的はそれを教える為ではなかったのだ。罪人を救うために来られた。これが目的であった。そして、そのために最後に死なれたのである。
この世には、いろいろな宗教が人が救われるためにはどうしたらよいかを説く。否、救われるためというより、御利益が得られるかを説く。現世利益をいろいろあげる。病気が治る、家庭円満になる、事故から守られる、事業が旨くいく。受験は大丈夫。就職も大丈夫。昇進も大丈夫などなどたくさん挙げる。そして、そこには払うべき代価、犠牲というものが語られる。
キリスト教はどうでしょうか。と言っても、これまた多くの派があるので一概に言えないが、少なくとも、聖書はどう言っているかをお話ししたい。聖書には、病気の人、体の不自由な人、人々から嫌われている人などが登場する。そして彼らはみんなイエス様によって、癒された。でも、それだけではなかった。彼らはみんな、その後、罪が赦されたのであった。
この罪が赦されたということは、病気が癒された、あるいは人間関係が回復した以上に大切な事である。それは、イエス・キリストを救い主と信じた人には、永遠の命と、また神の子としての数々の特権にあずかれるからである。つまり、この世にあってうける恵みもあれば、天の御国へ行けるという確かな恵みもあるからだ。だから何よりも、罪の赦しが与えられる。これはとても大切なのである。 罪の問題解決無くして、他の問題の解決は有り得ないし、そして、その為には何かが犠牲にならなければならないのである。払うべき代価が求められるのだ。しかし、他の宗教と大きく違う点がある。それも、全く違うと言っていいだろう。それは、この世の宗教は、まず、自分がしてほしい事があれば、それだけのものが与えられるために支払いなさいと言う。もっとも、どうも願っていることと、捧げているものとの値がそれにふさわしいかどうかは疑わしいものである。
何はともあれ、キリスト教ではこう言う。「もう、あなたの支払うべき値は支払われている。だから、どうぞそのことを信じて下さい。」と。ここには、実に大きな差が見られる。もし、罪人が救われるために、あるいは永遠の命をいただくためには、それに見合ったものを神様にお献げしなければ、その人は救われないとすれば、どれほどの良いことをすればよいのであろうか。片方の手で良い事をし、もう一方の手で悪いことをしている現実を見ると、人が一人救われることが、もう大変である事がお分かりいただけると思う。永遠の命に相当するものを、何かで支払うとすれば、何で支払えば良いかわからない。
人の命は地球より重いと言われるが、それにしては、簡単に人は殺されている。それが、この世の姿なのだ。罪の世界なのだ。聖書は言う。「罪の支払う報酬は死です」と。しかし、その死に対して、もうすでに、それに相応しい代価は支払われているとも聖書はいうのである。そんな旨い話しが、この世にあるかと疑われる方もおられるかも知れない。「旨い話しには気をつけろよ。何か裏があるからな!」これは、私も、この世を生きるに当たり、実践している。 ただ、ここで皆さんに注目して頂きたいのは、聖書の言葉である。誰が何を言ったかではなく、何々先生がこう言ったからではなく、聖書はどういっているか、ここに注目してほしい。もう一度言うが、聖書は、罪の支払う報酬は死であると言う。また、その死から解放するためには、それ相当の代価が必要であるが、それは命であるという。罪のない命が死をもって支払われて始めて、死んだ者が命に至ると言うのである。これが聖書の教えである。
聖書は又、罪人とは、生まれながらの人は全てであり、しかも神様の前には死んだものだという。それを命あるものに代えていただくには、命を持って買い取られなければならないと神様は言われる。そして、そこでそれを行なって下さったのが、神様ご自身であったのである。8節にこう書いてある。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」と。このイエス・キリストの死によって、罪人は死から命あるものに変えられたと聖書はいうのだ。
また聖書は言う。「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びる事なく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ3:16)と。『何も、神のひとり子が死ぬことはないだろう。何か他のもので間に合わせることは出来なかったのか』そのように考える方が、もしかしたらおられるかも知れない。しかし、他に代わるものがないからこそ、神様は、ご自分の御子を惜しまずに、私達、罪人の為に与えて下さったのである。そしてイエス・キリストは、その使命を果たされたのだ。 その使命を果たされたイエス・キリストに与えられたものは、9節にある通りでる。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」。ここに、キリスト教の素晴らしさがあるのだ。
イエス・キリストは、確かに罪人である私達の身代わりとなって死んで下さった。しかし、後に甦られた。死んで、三日目に墓の中から甦られ、40日間、弟子たちと共に過ごされ、天に戻られた。今、イエス・キリストは父の右の座に座しておられ、イエス・キリストを信じる者のために執り成していて下さる。祈っていて下さるのだ。 聖書は、あなたに永遠の命を約束する。しかも、それは、前もって何かを払い、行ないを、積み上げるというのではなく、もうすでに、そういう代価は、神様の方で支払って下さっている。そう聖書は言う。だから、あなたが今、これからすべきことは、それを信じることである。そして、こう祈ってほしい。
「神さま。あなたのご計画によって、私が救われるための全てが完了されていることを知って感謝します。どうか、今まであなたを知らず、あるいは知っていても無視してきたことを赦して下さい。」このように、申し上げればそれでいいのである。そして、イエス・キリストがして下さった業の一つ一つを覚え、感謝してほしいのだ。 イエス・キリストは、私の罪のために人となってきて下さった。 イエス・キリストは、私の罪のために十字架にかかって死んで下さった。 イエス・キリストは、私の将来の為に、甦ってくださった。それによって、私をもその甦りの恵みの希望を与えて下さった。そのことを、聖書を通していつもいつも確認してほしいのである。
初めての方に、聖書に書いてある事の全てを今すぐ理解して下さいとは言わない。あなたが、この地上にいる間に、出来るだけ、知って頂ければそれでよいわけである。一旦救われたなら、神様は最後まで確実に、天の御国に行けるようにしてくださるからだ。長い信仰歴を持つ者ですら、聖書を日々に学び続けている。
しかし、それは、救われるためにではなく、救いからもれないために、ではないのだ。なぜなら、もう一度言うけれども、救われるための行為、働きは、神様ご自身がすでにして下さっているからである。いわば、罪人であるあなたは、イエス・キリストのして下さったことを恵みとして受けとっていただきたいのだ。
神様のあなたに対する願いはただ一つである。それが10、11節に書いてある。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
実に、神様の求めておられることは、父なる神様がほめたたえられるためである。それも、すべての口が「イエス・キリストは主である」と告白すること、父なる神がほめたたえられることである。あなたはイエス様を救い主と信じて、喜んで心から「イエス・キリストは主である」と告白するのと、罪の審きの中で後悔しながら「イエス・キリストは主である」と告白するのとどちらがよいと思われるであろうか。当然ながら、前者ではないだろうか。
だから真の神さまに背を向けておられるあなたは、向きを変えて、自分の知らなかった神様のご計画、そしてその実行、完了に対して、心からの感謝と謝罪をしてほしいのである。代価なしで、無料で永遠の命が与えられる。そんな旨い話がこの世にあるのか。あるのだ。聖書にはっきり書いてある。
「あなたがたは恵みの故に、信仰によって救われたのです。それは自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」(エペソ2:8)あなたも罪赦され、心から喜んで『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる」人になっていただきたい。
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