2002年11月10日(日) 「主にあって喜ぶ」 ピリピ3:1 竹口牧師
今回の聖書範囲は、1節だけとした。しかし、このたった1節の中にも、深い関心をもって読むと、いろいろ興味の出てくる箇所である。その一つに、一番最初にある「最後に」とパウロが書いていること。今見ているピリピ書全体の頁数から言うと、まだ、真ん中よりやや終りに近い所であるし、これからまだパウロの言いたい大事な事が数々あるわけだが、そんな中でパウロがもうここで、「最後に」と言っているので、これはどういう意味だということになって来る。少なくとも、この手紙を書くに当たっての「一番最後」と言う意味ではない事は明らかだ。だから、いろいろな解釈が出て来る。 あるいはまたこの1節に、「前と同じ事を書きますが」と書いていますが、パウロにとって、信仰者に大切と思われる事は、何度同じ事を書いても、決して遠慮はいらないし、無駄にはならない。むしろ、大切な事は繰り返したほうが良いとさえ思える。と言うのも、大切なことは、何回も、何回も教えられて、繰り返されてはじめて、その大切な事が、ピリピの人達に、あるいは現代の私達信仰者にとっても、身に着いてくるからである。そう考えると、それなのに、パウロはなぜ、その様な言い方をしているのか、そういう疑問が湧いてくる。
あるいはまた「私には、煩わしいことではなく」とか、「安全のためにもなるのです」とかなど、その言葉一つひとつを捉えて考えると、興味は尽きない。しかし、今朝は、それら一つひとつを取り上げないで、「主にあって喜びなさい」というパウロのこの言葉一点に絞ってみて行きたい。
このピリピ人への手紙は、前にも何度か申し上げたように、パウロの喜びの手紙と言われている。それは、喜びという言葉を何度も書き表しているからであろうし、実際、他の教会と比べて問題が少なかったからかも知れない。喜びという言葉の使用数から言っても、たとえば、今までにも、1:4で「いつも喜びをもって祈り」とあり、1:18には「このことを喜んでいます」とあったし、「そうです、今からも喜ぶでしょう」とあった。また1:25にも「あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために」とあり、2章に入っても、2節にあるし、17,18節には、それぞれ2度使われていた。そして28,29節に各々一度であるから、これまでにもすでに、11回も「喜ぶ」という言葉が使われてきているのである。
そういう意味では、この喜ぶと言う事を指してパウロが、「前と同じ事を書きますが」と言っていると理解すると、理解出来ない事もないが、しかし、それ以下に続く言葉を見ると、どうも、そうでもないようである。つまり、これは2節以下のことを指していると言えるだろう。そこで、2節以下の事は、次回以降に任せておいて、今回は「主にあって喜」ぶということがどういうことか、それだけに目を当てて見ていきたいと思う。
まず、「主にあって喜びなさい」という、「主にあって」はどういうことかを考えて見たい。パウロは、このピリピ書だけでも8回「主にあって」を使っている(1:14, 2:24, 2:29, 3:1, 4:1,2,4,10,)。1,3章に各1回、2章に2回、4章に4回使っています。またパウロは、第二テサロニケ以外の全ての手紙でこの語句を頻繁に使っている。私達も、手紙を書く時に、一番最後の所で、「主にありて」とか、「在主」とか、「栄光在主」という風に書く。しかし、ある人は、これは決して常套語として使うべきではない、そのように厳しく言うそうである。私達は、この言葉を乱用し過ぎているのではないかとも言うそうだ。
それは、主にありてとか、イエス・キリストにおいてとは、私達人間が、そこにおいてだけ真に生きる事が出来、また死ぬ事が出来るような場所、あるいは、そういう関係を示すもの、と言ってよいのではないか。つまり、それは、自分の全てが、キリストの内に包み込まれている状況、自分ではなくて、主が主体となって私を導いて下さっている新しい状況を指す言葉であるからだと言う。ピリピ人への手紙で、パウロが主にあって願っている事は何か。それは、今回ここでは、「喜ぶ」ことである。「主にあって喜びなさい」と命じているのである。
しかし、「喜びなさい」と言われて、嬉しくもないのに喜べるはずもない。いいえ、パウロがここで言っているのは、そういうような感情面、情緒的な面で言っているのではないであろう。なぜなら、私たちの人生は、生まれてから死ぬまで常に、嬉しい事、楽しい事、愉快な事だけに包まれている訳ではないからだ。
個人的な事を申し上げますと、私は悩みの中で、イエス様の言われた、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」との言葉によって、御前に出て救われた者の一人である。救われてから暫くの間、大変気分の高揚した時期もあったが、やがて暗い時代を迎えるのである。皆さんはどうか知らないが、救われてから後の毎日の信仰生活が、天国のようではない事は、同意していただけることと思う。本当にいろんなことがあるわけである。
聞いた話しだけれども、私の救われた時代よりももう一昔前の時代、クリスチャンの事を世間は、こう評していたそうだ。「暗くて、真面目で、体の弱そうな人を見掛けたら、その人はクリスチャンだと思いなさい」とである。それ程、その昔はクリスチャンに対してよいイメージはなかったと言えよう。しかし、現代は違う。元ヤクザ、元暴走族からクリスチャンになった人もいれば、そのような、この世からはみだした人たちばかりでなく、2世、3世の時代になってきている。
だから、昔の暗さは今や教会にはない。しかしでは、教会では、喜びで満ちているかというと、決してそうでもない。話しの途中でまた時を遡るが、19世紀のある学者が「神は死んだ」と言ったそうだ。なぜ、その学者がそう言ったかと言うと、「本当に救われているのなら、もっとそれらしく見えるはずだ」との理由からであった。喜びや生彩を失った生き方、いつもしかつめらしい顔をしてしか生きていないキリスト者の様子、いつも重苦しい空気を漂わせているキリスト者、それを痛烈に批判した言葉であった。本当に救われているなら、もっとそれらしく見えるはずだ。喜びが、その言葉に、その表情に、生きざまに表れてきてよいはずだ、というのだ。
ところで、喜びとは何なのであろうか。キリスト者の根底、信仰の基本として与えられている喜びは何であろうか。分かっているようで、もしかしたら分かっていないで、ただ感情面、情緒面だけで捉えていると言う事はないであろうか。先ほど、私は自分の事をお話しした。救われた時の喜び、そしてその後の暗い生活、教会から離れた時さえあった。そしてまた、あの救われた時の喜びを求めて、再び教会の門をくぐることになるのである。しかし、その最初の喜びを、二度と味わうことなく、今日に及んでいる。
そもそも、パウロがここで言っている、「主にあって喜びなさい」という「喜ぶ」とは、もう一度言うけれども、そういう感情的なものなのであろうか。パウロも確かに、喜ぶと言う言葉を用いながら、ピリピの人たちの自分に対する愛(1:3,4)、また、福音が述べ伝えられていることへの満足(1:18)、さらに、注ぎの供え物となっても喜ぶ、と言っている。ピリピの人たちにも喜んでほしいと言っている(1:18)。
私たちが考える喜びとは、どちらかというと感情的な事を指す。何か具体的に、嬉しい出来事が生じ、心はずむような事柄に出会ったり、それを手にすることが出来た時に、私たちは喜ぶ。それは、人と人との間のことであったり、精神的な、肉体的な、物質的なことであったり、あるいは、希望や願いがかなえられた時であったりする。もし、その逆の事が起これば、悲しむわけである。
再び私自身の事を話すのを許していただきたいのであるが、今から救われた時代の事を考えて見て、あるいはまた、それから落ち込んだ時のことをも含めて考えてみると、あの救われた時の喜びを、求め続けていたことは間違いであった。その事に今、気付かされるのである。それは、なぜかと言うと、確かに、キリストがこの私と言う罪人のために2000年も前に十字架に掛かって死んで下さっていた。それには大変驚かされたし、感謝であったし、喜びであった。しかし、キリストの愛を、あるいは神様の愛を、その時に完全に理解していた訳ではなかった、と言うのが真実だからである。神様の愛の深さ、広さ、高さは、それこそ計り知れないほど大きいものなのである。言うまでもないことであるが。
私たちは、それを一生かけて、その一部分を知っていくのである。とても、私たちに与えられた一生では知り尽くすことは出来ない。それほど神様の愛は大きいものである。つまり、私が神様の愛を知った時の喜びは、まだまだ、神様が私にして下さった事のほんの一部分を見て、あるいは知って、喜んだだけにすぎなかったのである。実際は、もっといろいろ経験をして、更に喜びが増して行ったのだ。
さて、パウロはここで、喜びなさいと言っているが、今の彼にとっては、決して喜ばれるような状況ではないことは、ご存じの通りである。今までに見てきたように、彼は、今は牢獄の中で捕らわれの身であり、しかも、死をさえ覚悟している事態なのだ。手紙の受取人であるピリピの教会には、いくらかのごたごたがあって、そのために手紙を書かなければならない状況があった。そのことも、このパウロの手紙から私たちは推測することが出来る。常識的に言えば、この手紙を書いているパウロも、そして、これを受けとるピリピの人たちも、決して喜ぶことの出来る状況にあるわけではないのである。かえって深刻に悩んでしまいそうな状況の中にある。そんな中で喜びなさいとパウロは勧めているのだ。
ということは、それは決して周囲で起こる事柄に対する反応としての喜びをパウロが語っているのではないことを示している。また、喜びなさいと呼びかけているパウロという人間が、特別に陽気で明るい性格であったために、この言葉が繰り返し用いられているのでもない。パウロは、性格的には決して明るい陽気な人ではなかった。それは、彼の書簡から推測することが出来る。パウロ自身が、人々の彼に対する批評を述べている箇所が、コリント人への第二の手紙10章10節にでているからだ。人々はこのように彼の事を言っている、と述べている。「彼の手紙は重味があって力強いが、会ってみると外見は弱々しく、話はつまらない」。
だから、表面的にはむしろ彼は、暗く弱々しい面を持った人物であったかも知れない。従って、喜びなさいとの勧めを、パウロの性格とか明るい人柄に結びつけて考えることは、当を得ていない、ということが分かってくる。
それでは、パウロの語る喜びとは一体どういうものなのであろうか。それを解く鍵が、最初の方でちょっとだけ触れたが、「主にあって」と言う言葉である。「主にあって喜びなさい」ここにあるのである。パウロは、他の手紙の中でも、「主にあって」ということを何度も使っている。それも「…しなさい」と勧めているところも数々ある。とりわけ、今回のピリピ書では、「喜びなさい」の前に「主にあって」という言葉をつけている。今回の3:1がそうであるし、4章4節にも「いつも主にあって喜びなさい」、そして10節にも「私は主にあって非常に喜んでいます」とある。
主にあってとパウロが言う時、他の書簡では別の使い方をしているが、少なくとも、ピリピ書簡では、主にあって喜ぶ事を勧めているというのは、間違いないであろう。そして、その主にある喜びと言うのが、キリスト者が持つことが出来る喜びの源がどこにあるかを端的に言い表しているものである。キリスト者の喜びの根拠が何によるかを示している。あるいは、喜びを与えられる場が、どこであるかを語っている大切な言葉である。そのようなものとして、この「主にあって」という語句を考えていかなければならないといえるだろう。
つまり、私たちが地上において、いかなる状態におかれたとしても、どのような状況の中に叩き込まれることがあったとしても、喜びを受けるような周囲の出来事がたとえないとしても、私たちが、甦りのイエス・キリストによって捕らえられていること、主の守りの中に生かされている者であること、主がいつも共にいて下さること、その事実が、私達に尽きることのない喜びをもたらしてくれる、ということなのである。このお方と結びつく時、地上での状況が、たとえ喜ぶことの出来ないようなものであったとしても、悲しみや辛さの中で、不安の中で、なお主が喜びを最終的なものとして私たちに与え、喜びで私たちを包んで下さる。それがパウロが語ろうとしていることである。
だから、喜びと悲しみ、喜びと苦悩といった相反するものが、一人の信仰者の中で共存しえないということではない。悲しみをキリスト者が持つことがある、苦悩を持つことがある、しかし、それで終わらないのである。キリスト者の根底には、キリストが共にいて下さる喜びが常に与えられている。そのことをパウロは語ろうとしていると言えるだろう。悲しみや苦しみや嘆きは、当然、私達の日常生活における歩みにおいて、それぞれの心の中に生じてくる。一つひとつの出来事に対する反応として、いろいろな感情を私たちは持つことがある。
しかし、それにもかかわらず、キリストが共にいて下さることが、ついには一切を喜びに変えてくれる、それがキリストにある喜びである。私たちが生きるにあたっての具体的な喜びの一つは、共に生きてくれる人がいるということにあるのではないだろうか。親であろうが子であろうが、夫や妻や兄弟であろうが、また、友人であろうが、信仰の仲間であろうが、自分と共に生きてくれる人がいる、そのことの中に、私達が地上に生きる時の大きな喜びがある。そして、その究極のところにイエス・キリストが立っていて下さることが、ここで示されようとしている。
地上において、共に生きてくれる人を見いだすことがたとえ出来なかったとしても、あるいは、共に生きてきた人をたとえ失うことがあったとしても、イエス・キリストを信ずる者にとっては、イエス・キリストこそが、その人と共にどこまでも歩き、その人と共にどこまでも生きて下さるお方である、その事実を見る時に、喜びが生まれて来ないはずがない。喜びを覚えないはずがない。それがパウロの訴えである。
私は主イエス・キリストを信じますという時、もうその人は一人ぼっちではない。なぜなら、信ずるイエス・キリストがそこにいて下さることを、その人は捉えているからである。そして事実、イエス・キリストは、私達と共に歩んで下さるのだ。そうであるならば、信じる者に、もはや孤独はないことになる。イエス・キリストが私たちと共におられること、これが私たちの喜びの源であり、喜びの根拠である。
救われた当初の喜びをもう一度味わおうと、教会に戻った私は、それを求め続けた。しかし、それは間違いであった。感情の高ぶりを求めての求道であったからだ。それに気付くにはなお、長い年月が私には必要であった。教会から去った時も、主は私と共にいてくださった。主に背いていたときも、主はそばにおられた。主に背いているとき、それは決して喜べる状況ではなかった。しかし、イエス様の尊い血によってあなたが、そして私が救われた。そして、天の御国に行くまでの生涯、天国に行って後は勿論のこと、共にいて下さる。これほど、素晴らしい喜ばしい事はないのではないだろうか。 主にあって喜ぶ。あるいは、主にあることを喜ぶ。しかも、与えられた喜びをもって、他者の喜びのために働く者として神様が用いてくださるなら、それは、さらに何にも変え難い喜びではないだろうか。子が喜ぶ姿を見て、親が喜びを覚えるように、私たちが喜ぶ姿を見て、神が喜んで下さる。また、私たちが喜びをもって生きることを神ご自身が望んでおられる。それゆえ、何ものによっても揺らぐことのない喜びを分かち合うために、私達一人ひとりはその喜びのために、共に働くものとして今立てられ、用いられているのである。
私たちは、この光栄ある務めを担っている者であることを共に覚えようではないか。悲しみの中にある人がいるならば、その人のそば近くにキリストがおられることを知ることによって、その人が喜びを見いだすことが出来るように仕えていかなければならない。喜びを失っている者、キリストを見失っている者がいるならば、自分に与えられた喜びをもって、その人の喜びの回復のために、キリストとの出会いの回復のために仕えていきたいものである。皆さんの今の霊的な状態はいかがであろうか。まずは、主にあることの喜びを十分に味わおうではないか。そして、その喜びを、共に分かち合いたいものである。
2002年11月17日(日) 「肉にたよらず」 ピリピ3:2-6 竹口牧師
私が住んでいる近くに大きな公園がある。その公園で散歩させるために犬を連れて来る方を多くみかける。可愛い犬、神経質そうな犬、太った犬、やせた犬、色々である。私は、犬や猫はあまり好きではないが、それはともかく、今日の聖書箇所2節の始まりは、「どうか犬に気をつけて下さい」である。
しかし、ここでパウロが言っている犬とは、そういった愛犬や、また野良犬を指して言っているのではないことはご存じの通りである。ここで言われている犬とは、2,3節をよく読んでいただくと、イエス様をキリストと信じるだけでは駄目で、割礼を受けなければ救われないと主張するいわゆるユダヤ主義者のことである。つまりここは、異端に気をつけなさいと警戒させている箇所である。このピリピ教会の頃から長い時代を経た今日に至るまで、正しい道からそれた異端の数々が蔓延しているのが現実である。もうすでにパウロの時代から、その根となるものがあった。これは、サタンがいつの時代でも盛んに活動していることを物語っているのである。 私たちは、今朝、異端の一つの根となっているものをここで理解し、もし、現在の私たちの教会でもその根が少しでも張ろうとしているなら、ばっさりと断ち切る必要があるし、また、ないかどうか自分の心の内を探って見る必要があると思う。パウロはここで、異端に対する警告と共に、行為義認を強調するユダヤ的律法主義の影響による問題も取り上げている。そしてただ信仰によって義とされたキリスト者の信仰の歩みについて教えるのである。
ところで、これまで見てきましたパウロのピリピ人への手紙の前半で、キリスト者生活について大切な勧めを四つ記していたのでまず、それを挙げて確認しておきたい。第一は福音にふさわしい生活をするように(1:27)。第二にキリストのための苦しみをも賜わっていると自覚した生活をするように(1:29)。第三に自分だけでなく、他の人のことも顧みるように(2:4)。第四はキリストの福音のためには命をも賭けることのできる生活(2:30)をするようにであった。
これらは、信仰者にとって大切であるが、しかしこれらは、決してそれを行わなければ救いが得られないと受けとるべきではないのは言うまでもない。なぜなら、パウロの言っている対象者は、すでに救われている者であり、そういう人たちが心掛けるべき生活態度だからである。
当時キリスト者の中にいたユダヤ人の律法主義的な人々は、救いの完成のためには、ただ信じるだけではだめだ、旧約聖書の律法を守り、善行も積まなければならないと教えた。しかし、それに対してパウロは断固として戦った(参照ガラテヤ2:11-16,21-3:3)。そして今回の所では、その彼らを「犬」とさえ呼んだのである(3:2)。 パウロがここで犬と表現をしたのは、聖書全体を通しても言える事であるが、その当時最も卑しい汚れた動物として見なされていたからである。間違った教えは、どれだけ多くの人を迷わせるか、また滅びに至らせるか、責任は大変大きいといえるだろう。勿論、救われる人は、神様があらかじめ定めておられるので、人が、その神様の選びの領域にまで入り込もうとしていると私が言おうとしているのではない。
ところで私は、信仰の基本となるべきものは、先回も言ったように、何度確認しても、確認し過ぎる事はないと考えている。そして、もし少しでも、間違った方向に進んでいると気付いたなら、速やかに、その方向を修正するのが正しい信仰の持ち方だと思っている。ですから、皆さんもそのようなつもりで、いつもしっかりと、聖書を読み、救いを確認していただきたい。
2節でパウロはこう言っていた。もう一度読むことにする。「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください」。ここは新改訳では、3つの「気をつけて下さい」がある。それを口語訳では「警戒しなさい」と訳し、新協同訳では3つとも違う訳にしている。順番に言うと、「注意しなさい」「気をつけなさい」「警戒しなさい」とである。原文ではみな同じ「見よ」という語である。つまり、3度同じ様に書いているのは、それ自体が強調しているので、協同訳は、それを具体的に翻訳上表現したものと言えるだろう。それほど警戒を要する危険な事なのである。正しい信仰なくして、本当の喜びはない。 救われたと思って喜んでいたら「いやいや、それではまだ不十分ですよ。あれをしなければ、これをしなければ…」と次々に要求が出てくる。それはそれは大変、恐ろしいものである。しばしば、間違った信仰の人が、非常に立派に見えることがある。そして、自分の姿を見て、迷う。私の信仰は、本当にこれでいいのかと。だからパウロは3重に注意をしているのである。犬に気をつけよ、悪い働き人に気をつけよ、肉体だけの割礼に気をつけよとである。
先ほども言ったが、犬は、この当時は汚れたもののように嫌われていた。パウロが指摘している人々はその犬と言われても仕方がないほど厚かましい、しかも哀れな人たちなのであった。しかも我々がよく知っているように、こういう人たちは、決してその時代だけにいたのではなく、いつの時代にもいるものなのである。また、悪い働き人に気をつけないさいと書いてあるところをみると、この人たちは巡回伝道者のような働きをしている人かもしれない。その彼らは、信仰生活というのは信仰だけではいけないと言う。ほかに割礼が加わらなければ、本当のものにならないと。
今日の教会の中に割礼がなければならないと言う人はいないであろう。またユダヤ人と同じ様な生活をしなければ、救われているとは言えない。そう言う人はいないであろう。さらには、食事の前には、清めのために手を洗い(これは決して衛生上ではないが)、安息日には、火をつけたり消したりしてはいけない、そのように言う人もいないであろう。が、信仰に関する誤解はあるものだ。
ここに取り上げられている割礼について特に注目すると、この問題については、すでに使徒の働き15章で解決済みであった。それは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と教える者がいて問題となり、その結果、エルサレム会議が開かれ、結論として次のように彼らは主に導かれたからであった。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」非常に、単純、明白であった。「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です」なのであった。
このように、明白に導かれたにも関わらずなお、ユダヤ人キリスト者の中には、執拗に割礼を求める者がいたのであった。パウロはガラテヤ人への手紙2:16,17でこう言っている。「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」と。
私たちがいかに罪に対して無力であるか、パウロはよく言い表している。それにも拘らず、犬と称されている人たちは、盛んに律法に従うように人々に勧めているのだ。特には割礼の問題ですが、それはそれだけにとどまらないから、これはまさに危険な教えなのである。なぜなら、それを信じた者は、決して喜びを味わうことなく、常に、神の怒りを背に受けているような歩みだからである。キリストの贖いの死によって罪赦され、自由とされた者が、再び律法によって縛られることほど、キリストの死を無意味にすることはない。 では一体、正しい信仰の在り方とはどんなものなのか、ということになる。それが3節に書かれている。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」。パウロはここで、真の割礼者とはどういう人の事をいうのかを言っている。一つは、神の御霊によって礼拝をすることである。パウロはローマ人への手紙12:1でこう言っている。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と。
身と魂を心から神様にお献げし、礼拝するのである。行ないによってではなく、キリストの成して下さった業を感謝しつつ、御前にでるのである。人間的なものを頼みとしない。つまり、この世の名声、功績、栄誉、すべてを振り捨てて、一人の罪赦された人間として、神様の御前に出るのだ。神様が、私のようなものをも救って下さった。その救われた事実だけをもって御前に出るのである。それ以外に、何も必要ない。パウロは、行ないを必要とすると考える人たちに対して、彼らが、自分自身を誇るとするなら、私はあなた方以上であると逆に4-6節にかけて言う。その4-6節のパウロの言葉をそのまま引用しよう。
「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」と。恐らくパウロの素性をよく知っている人は、これを聞いただけで、恐れをなしたはずである。パウロは、今日で言うなれば、エリート中のエリートだったからである。
そういう意味では、私は、自分自身の事を何も申し上げる事はない。日本の超有名な某大学を出て、アメリカの某大学院を出、更にイギリスで博士号を取得し、その他著書は挙げたら数知れず、というものでもなんでもないからだ。ただしいて言うとするなら、そういう私をも神様は用いて下さっているということだ。これは、私にとって感謝なことである。
ところでパウロは、4節から自分のことを言った時、人間的なものにより頼んでいる人に対して私はそれ以上だと言って誇ると同時に、逆に次回見る所では「キリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と言い、そういう事は一切、神様の前に罪赦される事と無関係であると言うのである。
ある牧師が新しい教会に赴任してまもなくのことでありますが、何人かの人からこういわれたそうだ。「この教会は偉い人が多くて自分なんかが来るような所ではないように思う。」そして、その牧師は言っている。「そのように言われるかたの気持ちが、全く理解出来ないわけではありません。そのとおりだという意味ではなくて、分かる面があるのです。しかし、それにもかかわらず、そのように考えるのはやはり、間違っているのだと思わざるを得ないのであります。なぜなら、この世的に名をなし、良い働きをし、世に認められている人たちは、私どもの教会に限らず、それぞれの教会におられるわけですが、その人たちは、それを誇るために教会に来ておられるのではなくて、それらの自分がなしてきたこと、身につけてきたものによっては救いは得られないことを知って、キリストのあがないによる以外に人の救われる道はないのだ、ということを知って、神の前にぬかずいておられるのではないでしょうか。それらの人間的なもの、パウロの言葉で言えば、肉に属するものに依り頼まないからこそ、キリストに頼る道、キリストのみを誇る道を選んで、神の前にぬかずいておられる。その点において、つまり、キリストによる以外に救いはないということにおいて、神の前に礼拝を捧げる私たちは、すべて等しいものであるというほかないのであります。」と言われている。
その牧師は更にこうも言っておられるので引用する。「注意しなければならないことは、パウロは、彼がその身に持っていた宗教的な生まれながらの特権とか、生まれながらの宗教的な情熱そのものを、悪といっているのではない、ということ。それそのものを悪と言っているのではなくて、それに依り頼むこと、それらのものをつけ加えなければ救いは完成しないと考えることを過ちだと鋭く指摘しているのです」と。
どうしても、私たちは人と比較して、安心したり、劣等感を持ったり、優越感にひたったりする。しかし、神様の目から見られれば、どれ程の差があるであろうか。みんな同じ罪人である。神様のご計画して下さったキリストの贖いの業以外には、だれ一人として救われる者はいないのである。確かに、この世には、さまざまな賜物を与えられている人がおられる。しかし、それと救いとは切り離して考えなければならない。賜物が、救いのために必要なのではなく、神様によって救っていただいたならば、その後に、神様のご用の為に用いて指せていただくことが大切なのだ。そういう意味では、神様の御前に礼拝をお献げしている時、一介の罪赦された罪人の一人として、謙遜に御前にでるべきなのである。だから、自己卑下しながら出るべきではない。神様は、こんな私をも救って下さった。そして、この礼拝に招いて下さった。そして、御言葉によって祝福して下さった。私は、それに対して、どう応えていったらいいのか、そのことをむしろ考えるべきであろう。
先ほど歌った賛美歌332番の歌詞の好きな方もおられると思う。私もその一人である。その歌詞は、こうでていた。「主は、命をあたえませり、主は、血潮をながしませり。その死によりてぞ、われは生きぬ、我何をなして、主に報いし」である。
私たちに与えられた才能や賜物、恵まれた環境などを用いて、人間の知的な、精神的な、肉体的な、または物質的な向上に貢献されたことを、私たちは素直に喜び、感謝すべきではあるが、決して私達人間に、究極的な救いを与えるものではない。また、人はすべて業績のある者であろうとなかろうと、キリストの十字架の血潮によらなければ救われることはない。この点において、人はなんらの相違も区別も優劣もない。すべては等しい者たちなのである。あらゆる人間的な違いが、そのまま神の前における救いの違いにつながることはないのだ、ということを私たちは今、はっきりと捉えることを求められているのである。
「どうか犬に気をつけてください」とパウロは訴えた。それは、愛犬や野良犬ではなく、もっと恐ろしい、間違った教えにどうか惑わされないで下さいという事であった。心に受けた割礼によって、神のものとされていることに感謝して、御前に出ようではないか。キリストのなしてくださった業にひたすらより頼むものでありたい。そして日々に、いつ、どんな時でも、キリストによって赦されている幸を味わっていきたいものである。
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