2002年12月1日(日) 「価値観の逆転」 ピリピ3:7-8 竹口牧師
今回の話しは、先回の話しと繋がっていて、更には、今回の聖書箇所の最後を見ると途中でとぎれているので、まだ更に話しが続く事がお分かりいただけると思う。いつものことであるが、聖書をどこで区切るのが良いのか、いろいろな本を読みながらいつも考えさせられる。一つの手紙といえども、必ず話しの区切りと言うものがあるからだ。そこで区切るのが本来ならよい。しかし、パウロの言葉の深い意味を考える時に、一気に進むのはとても惜しい気がしてならない。とはいえ、私がどれだけそれを汲み取る力があるかは分らない。私なりに、神様から頂いたお言葉をお取り次ぎするだけである。その結果、パウロの話しの途中ではあるが、今回の範囲となった。そしてその内容は、パウロの価値観の逆転をみる事になる。
いつであったであろうか。私が小さい頃、とても大切にしていた物のことをお話しした。それは、小学生の頃、黒板の下に溜まったチョークの粉を集めるのが趣味であったということである。先生が赤いチョークを沢山使うと、それを消した後に下に溜まるのは、赤い粉である。黄色いチョークでいっぱい線を引くと、黄色い粉が溜まる。私は、その粉を宝のように集めていた。それが今、私の家にはない。また欲しいとも思わない。当然ながら、大人になって、それが何の役にも立たない、価値のないものだと知っているからである。皆さんも、似たような思い出をお持ちであろう。
人は、その年代に応じて欲しいものが変わってくる。大切な物とそうでない物とが変わってくる。あるいは、状況によっても、まるっきり変わってくることもある。ある先生が紹介しておられるのであるが、宗教改革者カルヴァンが、難破しそうな船に例えて、こんなことを言っている。「つまり、船が沈没しそうな危険にさらされた時、船やそこにいる人命を助けるためには、積んでいる荷物を海に捨てることが必要である。貴重な荷物を海に捨てなければ人が助かる見込みがないならば、それを捨てることさえする。荷物そのものは、少しも悪いものではない。それは、軽蔑すべきものではない。つまらないものでもない。かえって、それは大切な、貴重な品々が荷物として積み込まれているかもしれない。荷物そのものは悪ではない。しかし、今、船が沈没の危険にさらされており、人の命が危険にさらされている時、救われるためには、それらの荷物は何の役にもたたないどころか、かえって邪魔でさえある。その時、人はその荷物を海に捨てて命を守ることが出来る、それが彼の讐えである」とあった。
実際、パウロは囚人として捕らえられてローマ行となって、その行く途中で、船は嵐に遭い、難破するのである。それこそ、命からがら助かったのであるが、その時にとった行動が、乗り組んだ乗客の荷物は勿論の事、船具までも投げ捨てられたのであった。そのことが、使徒の働き27章にはでている。
ところで、イエス様はマタイの福音書16章の所でこう言われた。「だれでもわたしついて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」まさに、命に勝る大切なものはないといった感じである。
さて、パウロは先回のところで、「もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。…」と言って、自分の履歴を述べた。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と彼は言っている。
人とはおかしなもので、その当時、世界を治めていたのは、ローマ帝国だったので、ローマ人であることは、とても誇りであり特権があった。だから使徒の働きの中に出てくる千人隊長のある者は、ローマ市民権を、沢山の金を出して買ったという箇所がある。その千人隊長が、パウロに向かって「あなたはローマ市民なのか」と聞くと、「そうです」「生まれながらの市民です」と答えている(使徒22:27-29)。一方、ユダヤ人はユダヤ人で、自分たちの世界を持ち、ユダヤ人であることを誇りとし、彼ら以外の人たちを異邦人として、ユダヤの律法に従わせようとしたのであった。ローマ人であること、ユダヤ人であること、それぞれが、当時、誇りとしていたわけである。だから、現代の私たちが日本人であることに誇りを持つ事はいっこうに差支えない。ただし、誇るとするなら、主にあってでなければならない。というのは、第二次大戦の大敗北の後、分裂することなく一つになって、今日を作り上げることの出来たのは、ただ神様の憐れみによるからである。これなくして、これまでの繁栄はありえなかった。
ところで、ピリピ書に話しを戻して、パウロが自分の履歴、それはこの世的には誇るべきものであったが、それを今日の所では、「…私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました」と言うのである。これは、彼の心の中に大変大きな変化が起きた事を示している。それは言うまでもなく、キリストとの劇的な出会いがあったからである。否、キリストとの劇的な出会い方というよりも、自分が信じて行なってきていたことが間違っていた、その事をキリストに出会って初めて知ったその驚きとともに、またその彼が変化した、変化させられたからである。
パウロはユダヤ人であったので生まれて8日目に割礼を受けた。また、ラビ・ガマリエルのもとで律法について厳格な教育を受け(22:3)また、その教えの通りに実行していたわけである。そしてキリスト教は異端と信じて、エルサレムで、信じている者を見かければ捕らえて次々に牢に入れ、それでも飽き足らず、なおも脅しと殺害の意に燃えて、シリヤのダマスコにまで手を延ばそうとしたのであった。彼の熱心さは、自他共に認められるものであった。その彼が、シリヤのダマスコに行く途上で、突然、天からの光が彼を巡り照らした。パウロは地に倒れ、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞くことになる。そして「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである…」との声があり、彼は変えられたのであった(使徒9章)。 個人的な事を言えば、私も、こういうパウロのような体験をして救われたいと望んだものである。それは、救われたことの事実が、これ以上確かなものはないからである。そういう劇的な経験をすることのなかった私は、何度も、本当に救われているのか、これでいいのだろうかと悩んだものである。パウロはローマ人への手紙でこう言っている。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中から甦らせて下さったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)
なかなか、これが、最初の頃の私には、そのまま受け入れられなかった。ある時は、信じて救われているように思うし、又ある時は、本当に救われているのだろうかと疑いの心が出てくるし、自分の罪の姿を見て、失望したものである。でも、ペテロは第一の手紙1章8節でこのように述べている。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」私は、パウロのようにキリスト者を迫害する者ではなかったし、劇的な体験をしたわけでもない。けれども、今は、確実に神様の恵みによって信じさせていただいているのである。 それは、今引用したペテロの言葉の通りだと言えるだろう。「見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じてお」るのである。
今、信じておられる皆さんもそうだと思う。決して、劇的な体験をしなくても、信じることによって救われるのである。そして、その確信は、徐々に神様が高めて下さるものである。だから、信じた人が、本当に救われているのだろうかと心配する必要はどこにもない。ただ、明らかに違っている点があると思う。それは、それまでとはまるで違った価値観を持つようになったと言う事である。今まで大切だと思っていたものが、救われてから変わった事実である。そして、その変わった価値観、神様が第一であるとする考え方、これは年齢によっても変化しないのである。パウロは、神様の恵みによって救われると、なんで今まで、キリスト者を迫害していたのか、律法を行なう事に全力を注ぎ、喜びがなかったのか、平安がなかったのか、不思議なくらいだったと思う。
キリストとの出会いは、それこそ180度の変化があったわけである。言葉に於いて、行動に於いて、思いに於いて、感覚に於いて、その他、あらゆる面で全く変えられたのである。それこそ、彼の場合は劇的であった。その彼はこう告白する。「誰でもキリストのうちになるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)パウロは最初の頃、全く新しくされて大変戸惑ったものである。また勿論、周りの人たちも大変、戸惑った。ある者は、パウロに対して恐れを抱き、ある者は警戒し、ある者は敵意を持つようになった。それは、当然であろう。
キリストと出会って数日後、ダマスコにいた彼は、それまでとは違い、使徒の働きを見ると(使徒9:19,20)、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めたのであるから。パウロは、恐らく、自分の変化に最初は適応し切れなかったのだと思う。そこでガラテヤ書を見ると、救われて間もない彼は、3年間、アラビアで過ごしたことがでている(ガラテヤ1:17)。彼の心の内の変化が、どのように変わったのであろうか。7節にある通りである。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」と。
ある人は言う。キリストを信じる事は、損得の問題であろうかと。それは、何か、欲得のように聞こえないだろうかと。しかし、パウロにとって、やはりそう言うのがぴったりだと思う。日本が戦争に負け、どん底から這い上がり、右方上がりの高度成長時代、この世的に言うと、有名校に入り、大手の会社に入り、順調に出世する事が誇りであった。しかし、今やご存じのように大手の会社だから安心だと言う時代ではない。合併に継ぐ合併、不正による社会の批判、更には、株価の低迷によりあらゆる分野が営業成績の下降。そんな具合だから、いやがおうでもこの世の人の価値観も確実に変わりつつある。
しかし、どんなにこの世の人達の価値観が変わったと言っても、パウロほどの変わり方ではない。もう、この世は学歴ではないのだ。この世は、大きな会社にいることが大切ではないのだ。この世では、富が幾らあっても幸せとは限らないのだ。経済不況を始め、地震や災害、戦争、テロ、この世のさまざまな良くない経験をして悟ったとしても、しかし、ではどうして生きて行くのかと考えた時、やっぱりお金がなくては、仕事がなくては、健康でなくては、人は生きて行けないし、幸せに暮らせないという結論を出す。そして今までと同じ生活感覚に戻ってしまうのである。
ところがどうであろうか。パウロは言うのである。8節で、「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と。もう一度言うが、パウロはこの世的には、ローマ人であり、生まれはきっすいのユダヤ人であり、割礼を受け、学問は、ラビ・ガマリエルから教授され、この世を生きて行くには、何の不足もないように思われた。そして、それが今の自分にとって役に立つ事も少なからずあったであろう。しかし、キリストを知らなかった過去の時間、過ごして来た生活。辿って来た歩み。これは、取り戻せないのである。
そして彼は言うのである。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と。実際、私たちは本来、ここまで言えなければ、キリストを愛しているとは言えないのではないか。そんな思いすらしてくる。人のおもな目的が何かを考え、神の栄光をあらわすことと、永遠に神を喜ぶことであると思うとき、キリストに変えられた私たちは、そのような歩みをしているのだろうか。神様が恵みをもって、私たちに臨んでくださり、救いを下さった事に対して、素直に、応えるものになっているのだろうか、そのように反省させられるのである。
キリスト者は、この世にあって、なおこの世の価値観に翻弄され、神を喜ばず、不平不満だけが信仰生活を覆っているとするなら、何という悲しい信仰生活であろうか。私たちは今一度、滅びに至る命ではなく、永遠の命を頂いている幸い。それも、キリストの身代わりの死という無代価によって頂いた、その事の素晴らしさを確認し、感謝の毎日を送ろうではないか。ソドムやゴモラの町が滅ぼされたように、今すぐ、神の審きによってこの世が滅ぼされても決しておかしくはない時代である。とすれば、神様の忍耐と憐れみによって生かされているのであるから、その事でも感謝したい。大切だと思われていたものが、全く大切なものではなかった。その事に気付かされ、その事に執着せず、ただキリストにある恵みに生かされている事を感謝しようではないか。
2002年12月29日(日) 「復活に達する」 ピリピ3:9-11 竹口牧師
先回ピリピ書からお話ししたのは今月の1日であった。そして今日は、今年最後の主の日であるから、その間に、待降節礼拝、降誕礼拝、燭火礼拝と続き、久し振りに講解説教としてのピリピ書に戻って来たような気がする。そういうわけで、簡単にであるが、今まで見てきた3章を少しだけ振り返っておくことにする。
まず1節で、パウロは「主にあって喜びなさい」と勧めていた。喜ぶと言っても、「主にあって」ということが大切だとパウロは言うのであった。そして2節には、「犬に気をつけなさい」とあった。これは勿論、愛犬や野良犬を指してはいない。間違った教えに気をつけなさいという事であった。もうすでに、この頃から、間違った教えが教会を襲っていた。そして3節で、それでは正しい教えとはどういうものかを語り、4節以下でパウロ自身の事を語っていた。それは、キリストを知ってから、それまでの彼の価値観が全く逆転をしたというものであった。8節において、パウロはこう言っていた。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」と彼は言うのであった。そして今回は、その8節の続き「それは、私には、キリストを得、また、」と言うところから始まるのである。
ところで、今回見ますところは、大変大雑把に言うと、パウロはキリストを知って、何が与えられ、その結果何を目指すようになったかが述べられているところである。ある人は言う。「キリスト者にとって、人生における最大の出来事は、キリスト・イエスを知ったということではないであろうか。キリストに出会い、キリストご自身を自分個人の救い主、主として受入れ、信じ、知った者にとって、あの瞬間は、終生忘れる事のできないものです。」と。私も、本当にそうだと思う。いろいろなきっかけでキリスト教との繋がりができ、そのうちに、求道心が与えられ、そして主を認めるに至ったのである。その過程を、皆さんそれぞれが、振り返って見て頂きたいのである。神様が私たちにして下さった業には、本当に驚くべきものがある。
私は、最初、神様の存在も、またイエス・キリストのお働きも、そして、自分との関係も全く分からず、一生懸命に祈ったものである。「あの人は、こう言います。この人はこう言います。聖書にもそう書いてあります。でも、わたしにはあなたが分かりまん。あなたが分かるようにして下さい。」とである。分かったようで分かっていない。全く分からないかと言われると、まんざらそうでもない。なかなか確信というものが持てなかった、そういう時代があった。本当に救われているのだろうかという恐れの中で祈ったものである。これは、救いを求める中で、とても大切な過程だと思う。
しかし、世の中には、何の疑いもなくすっと信じられた方もおられる。私は、そういう人のことを聞くと羨ましくさえなる。がしかし、救われてしまえば、後はみな同じキリスト者であり、喜び、苦しみを共に分かち合うよき信仰の友となったのである。一生懸命求め続けた私、たったの一回だけ教会を訪れ、その場で信じることの出来た友と、救われ方にいろいろ違いがあるにせよ、救われてからはみな同じである。いいえ、救われる前から、神様の側から見られれば、救われるべき人間はみな、同じだと言われるでしょう。なぜなら、救われた人はみな、誰でも、例外なく罪人であり、神様がまず、その人に働き掛けてくださらなければならないからである。
ある日突然、心の中に、求道心が起き、その人の求めた力の大きさの結果、救われたのではないからである。その人の持っている信仰心、熱心さ、道徳的清さなどなど、その人の持っているものとは、全く関係なく、神様によって救われたのであった。そこは、まず始めに「神様のお働きあり」ということである。その事を、私たちは覚えるべきであろう。罪人として生れ、全く神様が分からない状態の中で、まず、神様が、私たち一人ひとりに目を留めていて下さった。この事を決して見落としてはならないのである。パウロは宗教的には熱心であったが、キリストを正しくは知らなかった。キリスト者迫害の為に、ダマスコへ行く途上でキリストに語りかけられて初めて分ったのである。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』との声があった。そこでパウロは言った。『主よ。あなたはどなたですか。』するとイエス様は言われた。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。……」(使徒26:14,15)
このようにしてイエス様をパウロは知ったのである。そのパウロは、ガラテヤ人に対して4:8,9で、こう言っている。「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、……」とである。これは、私たちよりも先に神様のお働きがあったことを示している。あるいはまた、イエス様が弟子達に向かって言われたお言葉、ヨハネ15:16で「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選び、あなた方を任命したのです。」と言われたように、このお言葉でも、神様のお働きがまず最初であった事が分かる。
さらに言うなら、パウロがエペソ人に宛てた手紙の1:4で、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と言っている。ですから、私たちが意識する、しないに関係なく、それ以前から神様のお働きがあった。私たちはまず、その事を念頭において次を読まなければならない。
新協同訳は8節の終りから9節の最初の部分で、一つの文として、このように訳している。「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」と。直訳では「それは、私がキリストを得、彼にあって見出されるためです」となる。価値観の変わったパウロが、キリスト第一主義を通す為に、どのように変わったかを、あるいはまた、変えられたかを述べているのである。更に新協同訳は、その続きを、「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」と訳している。直訳では「すなわち、律法からの私の義ではなく、むしろ、キリストを信じる信仰を通して、信仰に基づいた神からの義を持つことです」となる。
お分かりのように、新改訳では、「という望みがあるからです」という言葉を補って訳されているが、その言葉はないし、またこれを補うことによって、パウロの確信が弱まっているようにさえ私には思えてならない。望みというものは、何となく希望的観測の面があるからである。そういう意味では、新協同訳のように、「信仰に基づいて神から与えられる義があります。」と言い切った方が、確信的であるし、また事実そうなのである。私たちが罪人であるにも拘らず、義人とされたのは、私たちが行なった義の業によったのではなく、キリストを信じる信仰に基づいて与えられたものである。しかも、キリストを信じることさえ、神様が与えて下さったのであるから、私たちの側に何の功績、功があるであろうか。ただ神様からの恵み、賜物、贈物、それが義認なのである。
そして、その義と認められた者が次に与えられるのが、聖化の恵みである。この世を歩みながら、キリストのごとく変えられていくという恵みである。そして、その最高の姿が、復活であろう。復活されたキリストと同じ様に、私たちのこの罪の身体は、神様の力によって変えられると聖書は約束しているのである。キリストの贖いによって罪赦されたとはいえ、なお罪を犯している現実があるけれども、しかし、神様は、その私たちを完全な者にしてくださるのだ。パウロは10,11節で言っている。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と。
ここには、まず「キリストとその復活の力を知」ること、更にまた「キリストの苦しみにあずかることも知」って、とある。実はパウロは、ここでも書いているように、これら一つ一つを、みんな知っているのである。それは、先ほど引用しました使徒の働きにあるように、ダマスコ途上で、キリストに出会い、そのことはまた、復活の主に出会ったということであった。実の所、パウロ自身、イエス様が十字架にかけられる前の姿を見ていたかどうか分からないし、十字架にかけられた姿を見たかどうかも分からないけれども、少なくとも、十字架にかけられ、殺されるような者をメシヤとして仰ぐ事は堪え難い事だったに違いない。ですから、多分、色々な情報を得て、確信を持って、キリスト者迫害にパウロは走ったのであろう。しかしその彼が、復活の主に会ったのであるから、彼自身に、大変化が起きても、不思議ではないのである。
一方、イエス様の弟子であったペテロは手紙でこう言っている。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」とである。ペテロは、イエス様と生活を共にし、復活の事実にもふれ、その事を伝えると多くの人が信じた。そしてパウロは、特殊な例であるけれども、キリストに出会い、救われてからと言うもの、ずっと反対者に遭い、命を狙われ、危険な目に遭い、それでもなおかつキリストを伝え続け、まさにキリストの苦しみに与かって来たのであった。
今や、彼の待っているものは、キリストが遭われた死、その死と同じ状態になり、そしてその死者からの復活であった。私たちはまだまだ、キリストの苦しみに与かったとは言えないのではないだろうか。以前にもお話したように、信仰を持つことによって苦しみに遭うくらいなら、信仰なんか捨てた方がよいとさえ考えていた以前の私であった。また、恐ろしい宗教にはまって、人の心が意のままに操られ、マインドコントロールされている。そういう宗教もある。大変恐ろしい事であるが、これが現実である。そういう間違った教えではなく、真理がその人を生かし、将来を正しく導いてくれる宗教であるなら、そして信仰であるなら、それは、全ての人間にとって、必要不可欠だと言っていいであろう。
余りにも間違った教えがはびこっているので、そこからくる戦いというものは、発生して当然であろう。だから、パウロは1:29でも言っていたように、即ち、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」と言っていたように、キリスト者は、キリストの為に、キリストの故に、戦いや、忍耐があるという理解と覚悟が必要であると言えるだろう。つまり、真理を知った者は、それ以外のものと戦いはどうしてもありえるということだ。
だから、キリストのために労する事を厭うようであってはならない。嫌がるようであってはならない。むしろ、キリストが私たちの為に命を捨てるほどに愛された。それに、答えていかなくてはならないと言える。と同時に、神様が私たちに用意して下さっているものにも、目を向ける必要があるのではないだろうか。それが、パウロの言う死者からの復活という恵みの事である。復活は、死がなければ、ありえない。そしてキリストは、眠った者の初穂として、死人の中からよみがえられた(1コリント15:20)。死と復活とは一体である。キリストの再臨という特別な状況があるまでは、つまり、もう一度イエス様が来られるまでは、誰一人、死を経験しない者はいないし、またその一方で、聖書の約束によると、復活も約束されているのである。
ただ、ここで私たちが大事なことを見落としてならないのは、人は死でもって終りではないと聖書は言っていることである。コリント人への手紙5章10節によると「なぜなら、私たちは皆、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」とあるし、あるいはヘブル人への手紙9章27節では、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように……」とあるのである。私たちは誰一人例外なく、神の前に立たなければならない時が来る。そうであるなら、私たちは、どういう状態で神様の前に立つべきか、今のうちに考えてみる必要があると思う。
誰一人、例外なく神様の前に立たなければならない。そしてさばきが始まる。その前に、私たちはどうあるべきなのか。パウロはなぜ、11節のようなことを書いているのか。「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と彼は言っているのだろうか。十字架上でキリストが殺された。そのキリストが甦られた。そして、自分もその復活に達したい。これは、キリストを知った人は誰もが願う事であろう。しかし、ここで私たちは、このパウロの言葉を誤解しないようにしなければならない。それは、10節の終りのところで言っているパウロの言葉「キリストの死と同じ状態になり」とは、私たちにとってどういう意味かである。それは、キリストと共に、古い自分が死ぬ事を指すのである。パウロは、もうそれをダマスコ途上で経験している。だから、罪においては死んだものなのだ。 パウロも、そして私たちクリスチャンも、である。更に、肉体の死を私たちは経験しなければならない。
ところで、パウロは11節で、こう言っている。もう一度言うけれども、「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と。このパウロの言葉は、場合によっては復活しないかもしれない。そんな恐れを持っていっているのでは?と考える人もおられるかも知れないが、そういう事は決してない事を明らかにしておきたい。その事をはっきりと言い表しているのがローマ書6章である。3節から11節まで、少し長いのであるが読むことにする。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」以上である。
ここでまたピリピ書に戻っていただいて、では、パウロはなぜあのような言い方をしたのだろうかと言うことになる。ある人は言う。これはパウロの謙遜ではないだろうか、と。ピリピの人達に、パウロがどういう人生を歩んで来たかを思い出させ、彼のような歩みをしながらもなお、神様に対して、復活に達したいと願っている。となれば、私たちも又、パウロのように、キリスト者に変えられてからの人生を全て、その事に向けてあらゆる事で歩むべきではないか、そのように教えるためではなかったか、とである。イエス・キリストの復活を信じない人が大勢いることは知っている。しかし、少なくとも私たちキリスト者は、決して私たちの肉体は死で終わるものではないこと、また、復活し、神の前に立たなければならない時が必ず来る。その時に、私たちは、どういう状態で立つのか、キリストは、眠った者の初穂として、死人の中から甦られたように、神様の絶大な力によって、その恵みに与かるだけでなく、キリストの贖いの死によって、罪ゆるされたものとして、更には、キリストに全てをささげた人生を送ったものとして、御前に立つ事ができるのか、そう考えさせられる。神様の下さる恵みの豊かさに甘んじて、怠惰になるのではなく、パウロさえも、神様の約束を固く信じて確信を持っていても、「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」と言う言葉は、謙遜以外に考えられないと言う。
一方、もっと積極的な捉え方をする人もいる。それは、パウロが復活に達する事を熱望しているというのである。この世の人間的なものに頼みとしない、否、むしろ、それらをちりあくたと思うようになった彼は、今は逆に、「どうにかして、(早く)復活に達したい」と言っているのではないか、とである。これは実に前向きで、素晴らしい捉え方だと言えるだろう。そして、私達もまた、そうでありたいと願うのではないだろうか。2002年ももうまもなく終わり、そして2003年を迎えようとしている。そのような時、私達は、どうにかして、キリストのごとく早く復活に達したい。そう願う事は、キリストによって救われた者として当然であり、また素晴らしい特権ではないだろうか。やがて迎えようとする新しい年に、神様の祝福が皆さんの上に豊かにありますよう。
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