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2003年1月12日(日) [目標を目指して] ピリピ3:12-16 竹口牧師

新しい年を迎えてもう2週目に入ったが、「目標を目指して」という主題は、まだまだその新しい年に相応しいのではないかと私は思う。それは、新しい年を迎えるに当たって、皆さんそれぞれが何らかの抱負をお持ちだろうし、それに向かって、熱いものを心の内に抱いておられると考えるからである。とはいうものの、これからお話するパウロの言った言葉は、年の初めのためのものではなく、クリスチャンになった人なら誰しも、その日から新しい目標というものができ、それを目指すべきであることがお分かりいただけると思う。

パウロは、自分の信仰の間違いにキリストによって気付かされ、ユダヤ教からキリスト教へと回心した人であった。それに伴って、彼の価値観も大きく変化した事を今までに見てきた。それは彼が、言うなればエリート中のエリートの歩みをしていたのであるが、しかし、キリストを知った途端に、彼にとって得と思われていたそれらのものがみな損と思うようになり、それどころかキリストを知った今は、全てのものを捨ててちりあくたとさえ思うようになったという変化であった。つまり、キリストの下さった信仰による義、そして聖化と言う恵みの中で、神様がパウロ自身を変えて下さる。キリストと同じ様に、死んでもまた復活させて下さる。そのように、信仰が導かれ、彼はそれを今目指しているのである。

パウロは、その事を牢獄の中で、ピリピの人達に書いている。言うまでもない事だが、この手紙を書いている時点でのパウロはまだ死んではいない。だから、聖化の途上にある者の一人である。また復活の点で言うとすれば、キリストはラザロを死から生き返らせて下さったが、そのラザロもまた、やがて死んだので、キリストが復活されたように復活させていただいた者は、世界のどこにもまだ誰一人いないというのが現状である。

そういう中でパウロは、先回見たのだが、11節で「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」と望んでいるのである。そういう意味で、今日の最初の言葉にもあるように、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」と言っているのがよく分かるのである。

ここで私たちは、考えなければならないことがある。パウロの言う完全とはどういう意味かである。完全があれば、不完全があって当然であるし、また、パウロ自身が言っている「すでに完全にされているのでもありません。」とは、彼は、今は不完全であると言う事である。

ところで、今回取り上げている聖書箇所は、パウロが、ユダヤ主義者に注意しなさいと述べた後で、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、即ち、神から与えられる義を持つことができるとパウロが言いつつ、自分もキリストのように、死者の中から復活に達したいと述べた続きである。つまり、まだ彼は完全ではなく、不完全であるが、しかし、完全に向かっているので、行く行くは完全にされる。そう信じて走っていると言っているところである。

キリストは完全なお方である。そしてそのキリストに、より近付こうと私たちクリスチャンは、目指しているわけである。なぜパウロはこのような主題に触れたのであろうか。たぶんピリピの教会の信徒の中に、キリスト者の完全について誤った考え方をもつ人達がいたからであろう。ひとつの誤りは、救いに入った者はすべてのものから自由だから、完全を目ざして進む必要はない、という考え方である。この考えは「道徳律廃棄論者あるいは信仰至上主義者」とでも言おうか。キリストを信じている者は、神の恵みによって救われているのだから、道徳律法から解放されている、と考えるのである。これは、ユダヤ主義に対する反動であった。そしてそこには、キリスト者の自由が放縦になる危険性が大いにある。勿論、この生き方は聖書的でないのは言うまでもない。

あるいはまた、律法をすべて守っている。何の落ち度もない。だから、完全なものになった。すべてを得た、という考え方。これもまた、間違いである。つまり、それは信仰における真の確信を持った姿ではなく、むしろ過信であるからだ。自己の人間的な業に対する誤った満足感というものから生み出されてきたものであると言わざるを得ない。あるいはまたパウロは、誤った努力主義にも目をしっかり向けている。これは、自分はいつまでも不完全であり、全く聖くなければ救われないという考え方である。完全を目ざして救いのために努力するものであるから、その過程たるや、まことに不安の日々の連続なのである。

だから、この部類に属する人々は「永遠の求道者」、あるいは確信の持てない信仰者ということになる。自分が罪赦されていることもよく分からない。信仰を持っているとか、あるいはまた信仰者であると、自分について語ることはあっても、その信仰の内容において確信できるものが何一つとしてない。これもまた真の信仰の姿勢とは異なるものである。

ローマ8:1にある御言葉「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と言う言葉を受け止める事ができないし、あるいはローマ10:9,10にある御言葉「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中から甦らせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」という、このような約束のみ言葉を受けていても、それもまだ十分に信じられないという状態が、確かに私たちにはあり得る。

パウロは、このような背景を考えて、「キリスト・イエスが私を捕えてくださった」ので自分は完全に向かって励んでいると告白しているのである。すでに過去に「得た」とか、その結果、現在「完全にされている」というのではない。完全を目ざしている途中にいるものであり、まだ決勝点には到達していないのである。だから捕らえようとして追求していると言える。目標を目指して一心に走っている。これが現実である。

12節から14節の言葉の通りである。パウロが、ここで力強く言明していることは、すでに、得たのでもなく、すでに完全にされているのでもない、ということだ。パウロのこの告白に、誰が驚かないでいられるであろうか。パウロはキリストのために多く働きをなし、キリストとその復活の力と、キリストの苦しみを体験して、新共同訳では「その死の姿にあやかりながら」となっていますが、なお「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」と述べているのである。ここにパウロの謙遜を見ることができる。

パウロは自分を正しく見て、自分の姿を正しく評価しているのだ。パウロは、キリストとの交わりがこれで十分であるといって、決して満足していた訳ではない。完全と今の自分の霊性との間に隔たりがあるので、それを埋めていかなければならないと彼は認識していたのだ。この霊的な不満足こそ、完全に向かう前進の第一歩である。私たちも、自分の信仰の姿を、この様に正しく捕らえる必要がある。人の弱さを見て、自分は大丈夫。あんな間違いはしないなどと、高を括っていないであろうか。自分の本当の弱さを知って、それと格闘するくらいが、霊的には一番いいのではないだろうかと思う。

キリストのごとくなるために、キリストの姿を正しく捕らえ、どれだけ自分がそれから離れているか、遠くにいるか、知る必要がある。その時に、自分の不完全さをしっかりと認識できる。ただ、ここで大切なことは、自分の不完全さに失望し、立ち直れないことは避けるべきである。むしろ、キリストの素晴らしさを見ながら、自分もそのように神様が変えて下さると信じて、それを目指すべきであろう。パウロは、自分の不完全さを知った時、どうしているか13節後半で言っている。「ただ、この一事に励んでいます。即ち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」と。

私たちは、冗談で、よくこのパウロの御言葉を引用することがある。物事をよく忘れるとか、覚えておかなければならないことをすぐ忘れるものだから、つい、この言葉を使ってしまう。でも、実際のところ、よく考えてみれば、本当は正しい使い方ではなく、あくまでもクリスチャン同士の冗談である。実際の所は、うしろのものを忘れとパウロは言っているが、私たちは、忘れなければならないことを決して忘れることができず、逆に、忘れてはいけないことを忘れてしまうものだ。

誰かと仲違いして、これではいけないと和解したにもかかわらず、しかし、いつまでも、そのことが解決されないで引き摺っている。犯して来た自分の失敗の数々を、今も引き摺りながらの歩みをしている。これが現実だとしたら、パウロの言葉に真剣に耳を傾ける必要があるであろう。失敗は成功のもとと言うけれど、パウロの言っている「うしろのものを忘れ」とは、過去を一切忘れる事、なかったことにすることではない。14節においてパウロは「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」と言っているが、その目標達成に必要な事以外は一切、うしろのものは忘れるべきなのである。パウロは「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため」これが目標であった。同じ信仰者として、私たちも同じではないだろうか。私たちも又第一に、死者の中からの復活に達することであろう(3:10,11)。

言い換えると、神の国のいのちを完全に自分のものとする救いの完成の日、またイエス・キリストの再臨の日に神の御前に、何の恐れもなく立つことである(参照・テサロニケ4:13-17)。そして第二は、上に召してくださる栄冠をいただくことだ(3:14)。それは、その当時、勝者に与えられたような、やがて朽ちはててしまうオリーブの冠ではなく、朽ちない冠(参照1コリント9:24,25)また義の冠(参照2テモテ4:8)、それををいただくことである。そのために、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向って進」むことが大切なのだ(3:13)。

出エジプトの際、イスラエルの民は試みに遭ってくじけてしまい、昔を懐かしがるようになった(民数11:4-6)。しかし私たちにはそのようなことがあってはならない。ただ自分の最善を尽して前進するのみである。私たちは、用意周到に準備し、純粋な動機をもって一生懸命に事をしたにもかかわらず、結果的に失敗することがある。そんな時は、ひどく失望落胆する。がっくりする。自分が嫌になる。しかし、もしいつまでもくよくよするなら、前進の望みはない。このような場合、まず失敗を忘れることが大切だ。失敗を忘れる最良の方法は、それを聖霊にゆだねることである。聖霊により頼む時、聖霊は私たちの過去のどの失敗をも忘れさせ、それを益としてくださる。また、パウロが「うしろのものを忘れ」と述べる時、これまで自分がキリストのために成し遂げてきた過去の輝かしい成功や業績をも考えていたのであろうか。あるいは、自分の霊的成長であったのであろうか。

しかし、いずれにせよ、どのような立派な過去のものでも、それに執着し、満足しているならば、前進にとって致命的な打撃になりかねない。登山家にとって最大の危険は、登ってきたうしろを見ることである、と言われているそうだ。「うしろのものを忘れ」とは、過去をとりこにすることである。そうでなければ、過去が現在をとりこにしてしまうのである。過去が現在をとりこにするならば、未来もとりこにされてしまう。そしてそこには前進はありえない。むしろ、現在と未来が過去をとりこにするように、過去を忘れるべきである。だからパウロは15節でこう勧める。「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」と。

パウロが、ここで「成人である者はみな、このような考え方をしましょう」と勧めるとき、「このような考え方」とは、何を指しているのであろうか。それは勿論、12節から14節までに述べられていることだ。すると、「成人である者」とは、完全にされていないので、それを捕らえようとして追求している人のことになる。決勝点に到達した者ではなく、その過程にいる者である。つまり、自分が不完全であることを認めて、完全を目ざしてひたすら前進している者という意味になる。成長段階にある私たちは、神様によって足りない部分を教えていただき、よりキリスト・イエスへと近付いていく必要がある。パウロは13節で、「この一事に励んでいます」と言っている。

キリスト者は、運動選手が自分に打ち勝つ訓練を重要視するのと同じように、あるいはそれ以上に自分を制し、意志の力で自我に打ち勝つ努力をし、競技者のように汗を流して、自らの信仰生活に励む必要がある。1コリント9:25-27 にある通りだ。信仰義認の恵みは、正しい聖書の教えであると共に、それがキリスト者を怠情にしてしまうなどということは決してない。その事をここで確認しておいても良いと思う。厳しい自己訓練の歩みの中で、キリスト者一人一人を神様は成長させ、聖化の恵みに浴させ、成人させて下さるからだ。そしてその為には、16節でパウロが言っているように、キリスト者は自分の達しているところを基準として進むべきなのである。他人と自分とを比べて一喜一憂する信仰生活ではなく、自分の失敗した過去にこだわるのでもなく、神様だけを見上げて生活すべきなのである。

私たちが生まれる前から、ご自身のご計画のもとに、ご自分の子にしようとあらかじめ定め、キリスト・イエスの十字架によって、子として下さり、キリスト者としての歩みをさせて下さっているのであるから、パウロのごとく、同じ目標を目指して歩もうではないか。パウロは言っている。12節の終りで「キリスト・イエスが私を捕らえて下さったのです」と。そしてまた13節の終りで「ひたむきに前のものに向かって進み…」とも言い、更に14節の終りでは、「目標を目指して一心に走っているのです」とである。実に彼は前に向かって、前に目を見据えて、目標を目指して頑張っている。私達の目にはその姿がありありと目に浮かで来るのではないだろうか。私くらいの年になると、と言うと、まだ早すぎると思われるであろうが、ああ、また年を取ってしまったと思うのである。しかしそれは即ち、キリストと会いまみえる日が一段と近付いたということであり、むしろ喜ぶべきであろう。

キリストのように、神様によってだんだんに変えられ、近付けられ、ゆくゆくは、キリストのようにされる。何という素晴らしい特権をクリスチャンは頂いていることであろうか。この新しい年、キリストの完全な姿を目の前に浮かべながら、その目標に向かって喜びをもって進みたいものである。

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