2003年2月2日(日) 「正しい模範」 ピリピ3:17-21 竹口牧師
今日の聖書箇所の一番最初のパウロの言葉は、「兄弟たち。私を見ならう者になってください」となっている。そして、これを読んで、信仰者の方がまず最初に感じられるのは、自分自身に目を向け、自分はこんな大胆な事を言えるのだろうか、私もパウロが言っているようになってみたいものだ、という思いではないだろうか。そして次に考えるのは、いや待てよ。パウロは果たしてそのようなことを言うべき資格があったのだろうか。パウロだって完全ではないし、弱い所もあった。しかし、その彼が「私を見ならう者になってください」というのは、少し、言い過ぎではないか、という否定的な思いを持つ方もあるいはおられるかもしれない。自分の姿を厳しく見て自分を裁くか、あるいはまた人を裁くか、このパウロの言葉は、いろんな感じ方を人々に与えるものである。勿論、パウロであるからこそ、そう言えるのではないか。そのように肯定的に捕らえる方のほうが大勢であろう。
ところで、教会の中で、人間関係のもつれが生じた時、そして、それで悩む人が出た時、よくこんなことを言われる。「人を見てはいけないよ。人を見たら、必ず躓くから。それよりも神様だけをみつめなさい。そして神様の教えに忠実に歩むことだけにこころがけなさい」とである。確かにこの言い方は、一つの真理を現していると言える。教会と言えども、互いに欠けた所を持っている者の集まりであるから、いろんな問題が起こるし、それゆえまた、忍耐とか寛容とかが求められてくるからである。場合によっては、どうしても我慢できなくて教会をかわる方もある。しかし、教会をかわって問題が解決できれば良いのであるが、今も言ったように、教会にはいろんな人がいて、それも、自分も含めてであるが、完全な人は一人もいない。弱さ、欠点を持っているものの集まりである。それだけに、以前にも申し上げたが、そういう自分以外の兄弟姉妹を私たちが見る時に、欠点だらけの私をイエス様が受け入れて下さったように、あの人のためにもイエス様が十字架にかかって死んで下さったのだ。だから受け入れていかなければならない。あの人も、私と同じ様に愛されているのだ。だから私もあの人を赦し、受け入れ、愛して行くべきだ。そうすることが大切であると学んだ。
そういう風に考えていくと、パウロが「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」と言った時、決してパウロ自身が完全者であると思って言っているのではないことがお分かりいただけるであろう。この世を完全に歩み通されたのは、イエス様以外にはいないのである。また、パウロのこの言葉を聞いた時、ピリピの人達も決して、パウロが完全者であるとは思っていなかったであろう。確かに、彼の辿った道は、それもキリストによって救われてからの彼の歩みは、まさにキリスト一筋だったので、それについて彼の生き方に引かれる人は多かったであろうし、また、その中で、やり方、方法論での違いがあったり、馬が合わなかったりした人もいた、その様な時もあったであろう。私たちは誰しも、一つ一つを見て、すべてが完全である事を確認して、あの人のようになりたいとは思わない。もし、そのようにするなら、この世にはだれ一人理想とする人はいない。あるとすれば、人となって下さったイエス・キリスト以外にはおられないのである。
ただここで、イエス・キリスト以外で言えば、また理想像と言う曖昧な言い方をすると、聖書の登場人物以外で、あの人のようになりたいと思わせるような人がいないわけではない。皆さんも、いろんな人の伝記を読んで、感激され、自分もそうなりたいと思った事がおありだと思う。私の場合で言えば、例えば中国伝道で活躍したハドソン・テイラーとか孤児の為に労したジョージュ・ミラーとか、カナダの牧師であるが、小さな教会を牧会しながら海外に沢山の宣教師を送り出したアダム・J・スミスという人など、とても尊敬している。彼らの伝記とか説教を読む時に、あの人のようになりたい、キリスト者として、あのような歩みができたなら、という憧れを持つ。またそのためには、彼らがいつも心掛けていたキリストの歩みに倣う。キリスト者としての歩みに徹することの大切さを教えられるのである。
ところで、実はパウロが「私に見ならう者になってください」と言った時、そしてまた、「あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」と言っている時、そこには、その人の人間性とか、働きとか、功績とか、そういうことを指して言っていないことを、まず知る必要がある。
では、パウロはどういう意味で、「私に見ならう者になってください」と言ったのであろうか。パウロは、それを言う前にまず18,19節で、否定的な面を言っている。18節「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」と。これは実に大変な事実である。「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる」、パウロは3章1節のところで、ユダヤ主義者について述べていた。そして、その彼らの事が、1章28節にも出てくる「反対者」とも繋がっているのである。
ピリピの教会には、パウロの言う正しい模範と、ユダヤ主義者と言う間違った模範があったので、パウロの言う正しい模範に見習うようにと勧めているのだ。このことにまず目を留めていただかなければならない。そうしないと、単に「私に見ならう者になってください」だけをとりあげると、パウロの意図していない、違う方向に話しは進むことになる。だから、このピリピ書の流れから見れば、決してパウロが自分の事を自画自賛して、「私を見習う者になってください」と言っているのではない。そのことがお分かりいただけるかと思う。
「キリストの十字架の敵として歩んでいる」そういう人がいるので、そうではない私たちを見習って下さいというのだ。異教であるなら、はっきりとキリスト教とは教えが違うので、その違いがよく分かる。だから迷う事はないであろう。しかし、キリストの名前を語りながら、キリストが罪人の為になして下さった十字架の贖いの業を否定し、ひたすら律法による自分の義を主張する人達に対して、まだ信仰の弱い人達は、どちらが正しいのか迷うし、また惑わされるのである。ユダヤ主義者の間違った模範に倣った人達はどうなるか、19節でパウロはこのように言っている。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」と。
この地上には、模範としたい人が沢山いる。けれども、その模範とすべき人の土台が何であるかによって、目指すべき方向が大きく違って来るし、間違ったものを模範とするとき、とんでもない方向へと進むのである。それは滅びであり誇りであるはずのものが恥となるのだ。その間違った模範とする者の思いが何であるか、パウロはこういう言い方をしている。「彼らの思いは地上のことだけです。」と。
ここで、彼らの意図が何であるか、非常にはっきりしてくる。神を神として崇めず、神の御心に従おうとしない。彼らの本当の願いは、自分がこの地上で食っていくことにある。つまり、自分の生活が中心になっているのだ。「そんなことをしたら食っていけないではないか」と言って、聖書の教えに反したことをしてしまう。彼らにとっては「食っていくこと」つまり「自分の腹」が何よりも大事なのだ。彼らの最高の権威は、生ける神ではなく、自分の飢えを満たす欲望にしかすぎない。ここで新改訳で「欲望」と訳してある言葉は実際は「腹」という意味であるから、彼らの最高の関心事は、腹を満たすことにある。そして、これをユダヤ主義者に当てはめると、彼らは、きよい食物か汚れた食物かという区別に最も関心を持っており、それ以外には関心がなかったことを指している(ローマ14章、16章、1コリント8-10章、コロサイ2:16)。
だから、神の教えに正しく従うよりも欲望に従っている。これは今日で言えば、生まれ変わっていない人、罪を知りながらもいい加減にしている人、キリストを愛する生活をしていない人、キリストよりも、この世のことにより大きな関心を持っている人、キリスト教の根本的な教えを受け入れない人、キリスト者としての基本的な生活をしようとしない人達である。この様な人達の最後は滅びにほかならない。このような人達は、キリストにある唯一の救いの望みから自分自身を切り離してしまう(ガラテヤ5:4)。そして自ら、最後の滅びへの道をまっしぐらに歩んでいるのである。
だから、パウロは今までも「しばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが」と言って警告を与えているのだ。彼が涙を流す時、それは人々の救いに関する時であった。人が救われるか滅びるかは、彼にとって重大問題であった。それは、人が何を信じて歩むかにかかっているからである。パウロは言っている。「兄弟たち。私を見ならう者になってください。」と言った後で、「また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」と。他にも、自分たちを手本として歩んでいる人達がいるというのだ。そして今見またように、18,19節では、自分達に見習わない歩みをしている人達の事を指摘して、では、自分たちの歩み方はどうなのか、それを20,21節で、はっきりとパウロは述べるのである。
この部分からは、たまたま先週伝道礼拝であったので、天に国籍がある事の素晴らしさをお話ししたばかりであるが、しかし、今朝はもう一度、パウロの言った「私を見習う者になってください」という話しの続きで、見ておきたいのである。パウロは言った。「けれども、私たちの国籍は天にあります」と。地上の事しか頭にない人達は、地上の生活が終ると、それですべて終わりだと思っている。しかし、国籍を天に持つ者にとって、死は終りではない。多くの人は天の国籍のことを知らず、霊的無国籍の状態で地上の生活を送っている。これが現実である。あなたはどうであろうか。はっきりと、「私の国籍は天にあります」と言えるであろうか。そして、もし言えるとしたら、なぜそう言えるのであろうか。その確信を、その根拠をどこにお持ちであろうか。地上の生活を終えて、後に帰るべき真の故郷がない。これは実に寂しいことであり、また恐ろしい事でもある。
「天の国籍」を持っていても、いなくても、外面的には区別はない。天の国籍を持っている人でも病気をするし、別離や貧しさ、疲れ、肉体の死をも経験しなければならない。また、天の国籍を持つということは表面的には無価値に見える。その価値はちょうど畑に隠されている宝のようである。肉眼では見えないからだ(参照マタイ13:44)。そのために地上での生活では、天の国籍の有る無しによる生き方の価値を判断することは困難である。しかし、天に国籍があるかないかの区別がはっきりするその重大な決定的な日が、やがて必ず来るのである。その日とは、ある人にとっては地上の生涯を終えた日であり、またある人にとっては、生きていて経験するキリストの再臨の日である。その時、人は誰でも地上での生き方の結果を携えて神の審判の座に臨まなければならない(参照2コリント5:10)。その審きの座で神様の前に、罪を赦されて潔白な、永遠のいのちを得た者として立つことのできる人の条件は、ただ一つである。それは、イエス・キリストの十字架を信じる信仰に生き抜いたかどうかである。
律法主義者たちの教えは、その神様の審きの座にあっては、何ら役に立たないのである。ただキリストヘの信仰が大事なのである。パウロは福音に生き、福音の宣教の戦いに明け暮れしていた。今は、キリストの名のゆえに、囚われの身なのであるが、しかし、その囚われの身でありながら、それを恥とせず、そのようであっても「私を見ならう者になってください」(3:17)と彼は勧めているのである。「キリストの十字架の敵」として歩んでいる人達に注意するようにと勧めているのである(3:18,19)。
キリストはやがて再び来てくださる。そして私たちの罪に汚れた卑しい体を「ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」(3:21)。だから、「私を見習うものになって下さい」と勧めるのだ。ピリピ教会には、パウロという正しい模範とユダヤ主義者という間違った模範とが提示されていたが、そういう意味から、正しい模範であるパウロを見倣うようにと、彼は勧めたのである。私たちは唯一の救い主イエス・キリストを信じている。そして天に国籍を持つ者とならせていただいたのである。だから、常にキリストを信じ、従い、信仰を継続し、キリストの来られるのを心から待ち望みつつ、与えられている地上の生涯を送りたいものである(3:20)。そして信仰から信仰へと、信仰の高嶺へとますます成長させていただこうではないか。まだイエス・キリストを救い主と信じておられない方、天に国籍を持っておられない方、真剣に、今後あなたの行くべき所を考えてほしいものである。また、すでに信仰が与えられている私たちは、パウロのように、そして、完成されたイエス・キリストに、より近付く者とならせていただこうではないか。 |