東京聖書教会TOP /毎月の説教

毎月の説教

[先月] [来月] [最新の説教]

2003年3月9日(日) 「主にある一致」 ピリピ4:2-3 竹口牧師

先回は1節だけを取り上げ、「主にあって立つ」という話をした。今回は2節、3節を取り上げ「主にあって一致してください」とのパウロの勧めを見ることにする。一致することの難しさは、罪の入った時代から、今日に至るまで一貫しているものの一つだと私は思う。また、総論賛成、各論反対という言葉がこの世にあるが、話が具体的になればなるほど、そして、多くの人が集まれば集まるほど、そういう事態によく陥るのである。教会の中とて、決して例外ではない。そして最悪の場合、分裂するのである。そういう事態に陥る危険性は、いつでもある。なぜなら、私達は生まれた年代、男女という性別の違いや受けてきた教育、育った環境、いろいろなことが違うからだ。

だから、もし教会で何か一つの提案がなされたならば、それに対する反対意見や賛成できない思いを持つ人が必ず出てきて当然である。そして、それは実に正常な状況だとも言える。もし反対意見が全く出ない程、何か目に見えないもので束縛され、締め付けられているとしたら、それは異常事態である。とは言っても、あまりにも多くの考え、意見がありすぎてまとまらない事態であれば、それもまた正常かどうか考えてみなければならない。

聖書は、神の民がたどった歩みを赤裸々に書ている。つまり、旧約時代のさまざまな失敗の事例が記されているし、新約に入って福音書には、イエス様によって選ばれた弟子達の失敗も、何か手を加えて差し控えた、そんな感じは少しもない。パウロが書いた書簡の中にも、それぞれの教会が抱えている問題、弱さ、痛みが書かれている。そして、それに対してパウロは、適格な指摘と共に、注意や勧告、時には警告を与えて問題の所在を明らかにしながら、主の前における解決を計ろうとしているのである。

考えてみると、パウロがローマの植民都市ピリピで最初に福音を宣べ伝えた人達というのは、彼が安息日に町を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに集まっていた女性たちであった(使徒16:13)。この婦人たちの中から、ヨーロッパにおける最初のキリスト者が生れ、この異教の町ピリピに教会が創立されたのであった。この教会が他のどの教会にも勝って信仰と愛と祈りと献げ物を通して、パウロの伝道に惜しみなく協力できたのは、おそらく、これらの群れの中のキリスト者婦人達がいたからであろう。

しかしながら、このピリピ教会に大変残念なことが起こってしまった。教会の婦人の間に、不調和が生じ、その余波で教会がぎくしゃくしていたのである。パウロは、恐らくこれを念頭に入れて、1:27、2:2で、一致の勧めをしたのであろうが、今回ここでは、いわばその根に触れているのである。名指しでパウロは、これを取り上げている。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」と書いている。

この手紙を読んだ当人は、どの様な思いを持ったであろうか。これは、実に興味あるところである。また、その当人の取ったその後の行動によって、その人の信仰、そして教会の進展具合が大きく左右されただろうと私は考えている。それだけに、パウロの勧める「主にある一致」が、どれ程重要か考えさせられるのである。

パウロは4章1節のところで、「そういうわけですから…」と書き出している。つまり3章からの続きであることが分かる。そして、そこには、私達の国籍は天にあるのですから。また、主イエス・キリストの再臨を待ち望んでいる者ですから。更には、私達の卑しい体をご自身の栄光の体と同じ姿に変えられるのですからと、キリスト・イエスにつながる者の素晴らしさを語り、だから「そういうわけですから…」主にあって、しっかりと立って下さいと勧めているのである。これから述べる勧めにも是非耳を貸してほしい。心から受け入れてほしい、そういう思いを込めて書いているのである。

パウロは、いろいろな問題を取り上げているが、そこには、共通した何かがある。それは、最終的には、人間の手や人間の力による解決ではなく、神の憐れみ、十字架にかかって下さったイエス・キリストの犠牲、愛の赦しにすべてを委ねようとしている姿勢であるといえるだろう。それが、あらゆる所に現れ、またそれを私達は見ることができる。そしてそれは、私達が、よって立つ所の信仰の原点、最も大切な、最も注目すべき点であるようにも思う。なぜなら、私達は誰一人完全な者はいないからである。弱さを持つ者、過ちを犯す者であるからだ。

一人ひとりのキリスト者がそうであるなら、それで構成されている教会は言うに及ばない。私達一人ひとりが、そして教会が、弱さを抱え、誤った信仰の判断をなす恐れがあるものであれば、そこには、自己主張や、他者への攻撃性をも持っている、そのことを、まず私たちは自覚する必要があるであろう。そして、それが、神の教会に悪影響を与えているなら、パウロの勧めに素直に耳を傾けなければならない。では具体的に、今回取り上げられている二人の女性について、これから見ていくことにする。

とは言っても、あまり資料があるわけではない。その二人の女性を巡って、どのようないさかいが生じ、それによって二人の間や教会との関係が、今どういう状況なのか、ピリピ教会の人達には、その当時、当然分かっていたであろうが、現在の私達には、その詳しい内容は分からないのである。聖書には、二人の名前は、ここだけにしか出てこないし、他の手紙でも、その内容を知ることは出来ない。ただ、ここで言える事は、今回の3節に出ているように、彼女たちは、「福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」という、いわば福音の同労者であったのである。

だから、この言葉より、パウロがピリピ伝道の活動を開始した時、教会の土台を据える働きを他の人達と共に懸命に担った二人であったであろうと思われる。パウロと共に福音の為に真剣に働くことを通して、二人はこの教会における指導的な立場に立つものとなっていた、そのように考えることができるのではないか。そのために、この二人の間の対立は、二人の個人的な問題に留まらず、教会全体に大きな影響を及ぼすものとなってきていた。だからこそパウロは、この問題を教会全体に訴えて、その解決の為に心を尽くし、力を尽くして欲しいと呼び掛けているのである。

教会という組織全体が大切か、それとも、そこに集められている一人ひとりが大切か、そういった二者択一的な考えをパウロは持っていない。両者は、分けることのできない関係にあり、両者を切り離して考えることは出来ない。そのようにパウロは、今ここで考えていたのではないだろうか。ピリピ教会という一つの群れを守っていかなければならない。その一方で、二人の女性もこの教会にとってかけがえのない者である。とすれば、どうしたらいいのかということになる。

パウロはここで、けんか両成敗ではなく、また責めることもなく、非難もしていない。先回の所では、「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。」と言って、呼び掛け、主にあって立つように勧め、そして今回は、主にあって一致して下さい、とまた勧めているのである。それだけではない。今回の3節では「彼女たちを助けてやって下さい」とまで言っている。これには、私たちは多くのことを学ばなければならないと言える。

私は、法律のことはよく知らないが、もし、公共の場で、だれか二人がけんかを始めた時、当然ながら、それを取り巻く群衆ができる。その時に、その群衆が二人のけんかを止めるのではなく、けしかけた場合、正確ではないが、罪になると聞いている。とすれば、教会の中でも同じ事が言えるのではないかと思う。教会員が、二人の不一致を更にあおるような言葉や行為をするなら、それは、決して神様の望んでおられることではないし、むしろ、悲しまれることである。二人の為に祈り、一致に向かうように願わなければならない。当事者もまた、自分たちのしていることが、その教会にどれほど悪影響を与えているか、気付く必要がある。

ある先生は、ここで何を教えられるか一つの教訓を引き出しておられる。それは、一つの教会の問題、教会の中で生じる対立や争いに特効薬はないということを教えられると言われる。つまり、防ぎようがないということだ。ただ起こった場合に対処する方法は、一つの基本のみである。それは、神がイエス・キリストにおいて示して下さった憐れみにすべての者が立ち帰る事、それのみであると言われる。

「主にあって一つ思いになる」あるいはまた「主にあって一致する」ことを、言葉を補って述べるとするなら、神がイエス・キリストにおいて成し遂げて下さった和解の出来事に、すべての者が思いを向けるならば、そこに一つとなる道を見いだすことができる」と言われる。そしてエペソ2章14節を取り上げられる。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し……」という言葉である。主が私たちの為になしてくださった業、和解のわざに戻れと、その先生は勧められる。パウロも、そう言っているではないかとである。キリストの和解の業において、私たちに与えられた神の憐れみを思う時に、対立する者が一つになれないわけはないのだ。それがパウロの信仰における確信であった。神の憐れみは、隔ての中にある者に一つの橋を架ける、ということではないでしょうか、とも言われる。

私は、教会に来るような人、自分で言うのもなんであるが、真面目な人、人生について真剣に考えている人、人間関係や家族の問題、子育てや他の諸々の問題をいい加減にしないで、真剣に考える人が集まっておられる、そのように思う。それだけに、その問題の解決をいい加減にしたくない。そういう思いを持つ方が多いのではないかと察する。そして、そこに違いも出てくるのではないだろうか。パウロはすでに2章3、4節でこう言っていた。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」と。

自分の置かれている立場、そして、主にあって一致することの大切さ、それは、もう一度言うけれども、二人だけの問題ではなく、教会全体の問題だからである。パウロは言っている。「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます」とである。この真の協力者とは誰の事か、いろんな説があるようだ。「協力者」という言葉を固有名詞と取り、個人名と取ったり、あるいは、シラスとかテモテとか、バルナバとか、ルカとかいろいろあるようだ。しかし、いずれにせよ、パウロと苦楽を共にして来た人達であることは確かである。そして、何としても、二人が和解してくれることを願っているのだ。その二人は、「いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです」とある。

ここには、「いのちの書に名のしるされているクレメンス」と、クレメンスにとっては、大変名誉な書かれ方をされているが、この人についても、具体的には何も分かっていない。が、ともかく、「そのほかの私の同労者たちとともに」二人が和解するように助けてやってほしいとパウロは勧めるのである。ある人は、自分にとって悩みの種であり、たえがたく思っている兄弟の顔も、真剣な執り成しの祈りをしている中で、この人のためにこそキリストが死に給うたと言える一人の兄弟に変ってくるとさえ言う。そして勿論、自分のような者のためにもイエス様は十字架にかかって死んで下さった。だから、互いに赦された者同士、どちらが偉くて、どちらが偉くないとはいえない。そこに謙遜が生れ、また相手を見る目が与えられ、赦せる心が与えられるのではないだろうか。

イエス様は言われた。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45) イエス様からいのちをいただいた者は、もはや、自分の面子や、理想や、経験にとらわれず、主にあって、互いに歩み寄り、教会の中にあって与えられた努め、そして役目を果たすべきではないだろうか。

牧師同士の交わりに参加すると、それぞれの教会が抱えている問題を耳にする。そして、何年か後にそれを乗り越えた教会の姿を目にするとき、キリストにあって成長した教会の姿を私は、目にするのである。私たちの教会もまた小さな教会だけれども、しかし完全な教会とは言えない。問題を感じ、痛みを覚え、神様に助けを求めていかなければならない現実を認めざるを得ない。そして、その解決の第一歩は、信仰の原点である、あの人も、この人も、そして私自身も、主の前には、嫌われものの一人であったのに、赦されたものの一人にされたということを、いつも思い出すべきだと教えられる。
キリストの身の裂かれた犠牲があってこそ、こんにちの私たちがあることを決して忘れてはならない。主にある一致は、そこから生れ、そして、すべての問題を解決へと導いてくれるのではないだろうか。「彼女たちを助けてやって下さい」とのパウロの呼び掛けは、只単にユウオデヤとスントケの二人の問題ではなく、教会員一人ひとりが、自分のこととして、自分の果たすべき役割を考えてほしいと言う事であろう。私達の教会の中にも、小さな事を言えば、色々な点で違いがあるが、しかし、主にあってその違いを乗り越えさせていただき、心を合わせて主にお任せしていきたいものである。

2003年3月23日(日) 「いつも喜ぶ」 ピリピ4:4 竹口牧師

今朝は伝道礼拝なので、そのつもりで話したいが、「いつも喜ぶ」という主題にしたので、聞いてすぐに、「ああ喜び」についての話しだな、ということがお分かり頂けると思う。しかしながら、「いつも」という言葉が付いているので、これをいざ実践するとなると非常に難しいというのがまず第一印象ではないかと思う。今、開いて頂いている聖書箇所の手紙は、聖書の中でも一番多く、「喜ぶ」という言葉が使われている書である。内容的にも「喜び」があふれているので、このピリピ書を、別名「喜びの書簡」とも呼ばれている。

ところで、これが書かれた場所はどんな所だったかと言うと、イエス様の伝道者となったパウロという人が囚われの身となって、牢獄に入れられている時に書いたものである。その事を考えていただくと、そういう中で、いつも喜んでいなさい、と彼が勧めている状況がどういうものであるか、なんとなく想像できるのではないだろうか。つまり、普通では考えられない状況の中でパウロはこの手紙を書き、ピリピという町のキリスト者に勧めている箇所なのである。
しかし、そのパウロが、この様に書きながら、実は実際は自分の身の状況を悲しみながら書いているとしたら、その手紙を受けとった人達は、彼の勧めを受け入れなかったであろう。自分が実践していて初めて、説得力を持つものだからである。そうではないだろうか。皆さんが、誰かに手紙を書く時に、自分の出来ないようなことの原則論ばかりでは、やはり、相手は読んでくれないし、聞いてもくれないであろう。だから、そういう意味では、彼は、本当に牢獄の中でも、神様に感謝し、ピリピの人達に感謝し、喜んでいたのであった。そこで、彼の手紙には説得力があったのだ。

ではどうして、牢獄の中でも彼が喜ぶ事ができたのであろうか。恐らく、不思議に思われる方もおられるだろう。彼が、どんな時にも喜び、神様を褒めたたえていたか、その例を聖書の中から一つ選んでまずお話ししたい。彼は、最初ユダヤ教信者であった。それも熱心な、そしてそれが高じてキリスト者を迫害する人になった。しかしその彼は、全く神様によって変えられ、今度はキリストを宣べ伝える人になった。そしてある時、この手紙の宛先であるピリピと言う町に来た時のこと、彼はいわれのない罪で牢獄に入れられたのであった。その前に懲らしめの鞭打ちを受けた。その当時の鞭は、革ひもに鉛のかたまりや骨などが結び付けられていた。それで一振りされるだけで、身体は相当傷付いたのである。聖書によれば、彼を裸にし、何度も鞭で打たせたとあるので、牢屋に入れられた時は、彼は痛みで苦しんでいたはずであった。

更には、牢獄に於いては、両足に足枷がはめられ、動きがとれない状況であった。そんな中での彼の取った行動はどうだったかと言うと、何と神様に向かって讃美したのであった。そしてそれは、実に不思議な事をその牢屋に起こした。つまり、その時、パウロともう一人シラスという人が入れられたのであるが、その二人の讃美を他の囚人達が聞き入ったのであった。本来なら、囚人の中には「うるさい」と叫ぶとか、監視が「やめろ」と止めに入るとか、そのようにしそうであったが、しかし、この時にはそんなことはなかった。
後に、地震が起きたり、看守がイエス様を信じたりと、色々な事が起きるわけであるが、それはともかく、パウロと言う人が、そのような過酷な状況の中でも神を賛美していた、そのことを考えると、今回ここで、牢獄にありながら、「いつも主にあって喜びなさい」と言っていることは、納得いただけるのではないだろうか。彼のいう言葉には、非常に説得力があると言えるだろう。

でも、こう言えば、皆さんは、パウロと言う人は出来たかもしれないけれども、私にはできない。いつも喜んでいることなど出来るはずがない。そう思われるのではないだろうか。確かに、普通の考えていけば、そういう結論になる。実際に難しいからだ。時々喜ぶのであったなら、今でも嬉しい時は喜んでいる。でも、いつもいつもというのはできないという思いをされるであろう。しかし、パウロという人は、「いつも」という言葉をここにわざわざ入れているのある。つまり、一時の喜びで終わらないようにという勧めである。いわゆる継続的な喜びであるように、と勧めているのだ。

私達の喜びは、日常生活の中で起ってくるさまざまな出来事に喜ぶ。新しい物を買った時の嬉しさ、プレゼントされた時の嬉しさ、試験で良い成積が取れた時の嬉しさ、久し振りに懐かしい人に会えて昔話に話が咲いた楽しさ、あげれば、いろいろある。しかしこれらは、決して継続的な喜びにはなり得ない。やがて時の経過と共に消えてしまうものである。そういう意味からすると、今回のパウロの勧めは、「いつも主にあって喜びなさい」なので、しつこいようであるが、そう簡単にはいかない、と単純に考えれば思えてくる。人生、嬉しいことばかりではないからだ。

しかし、ではここで、待てよ、と考えていただきたいのだ。パウロは、自分には出来ても、では果たしてそんなに難しい事を、そして私たちに出来そうもないことを勧めているのだろうかとである。もし、仮に私たちに出来る事を勧めているとするなら、私たちはそれを試みてみる必要がある。いいえ、実際パウロはしているのであるから、仮に試みてみるのではなく、実際に行わなければならないのである。彼はそれを勧め、また勧めるだけでなく、命令しているからだ。パウロにできて、私たちにできないことはない。現に、聖書は、それを読むすべての人に、そう勧めているのだから。

それでは、もしかしたら、パウロの勧めていることと、私たちの考えていることとが違っていると言う事はないであろうか。もし、違っているとしたら、それはできないのは当たり前である。そこで、では、パウロの言っているのは一体どういうことか、それを、もっとよく知る必要が出てくる。喜ぶためにはどうしたらいいのか。普段はいつも苦虫を噛んだような顔で、時々、にやっと笑い、それも作り笑いで喜びを現そうとしたなら、それはまたパウロの言う事とは違っていると思う。パウロは、いつも喜びなさいと勧めているのである。

ところで考えてみると、パウロは、ここで喜ぶ事について、どういう場合にとか、何を喜べとか、どのように喜べとか、具体的には何も記していない。あるのは、「主にあって」と言う事である。そして、実にこの「主にあって」という言葉に大きな意味があるのである。3章1節の時にも、実はこの言葉があった。とても大切な言葉である。主にあって喜ぶのである。キリスト者がキリスト者である事の素晴らしい点は、ここにあると言っても良いのではないだろうか。そして、キリスト者でない方は、キリスト者にしていただければ、同じように、その喜びを共にすることができるのである。主にある喜び。主と共にある喜びが体験できるのである。

そこで「主にありて」ということがどういうことかをまず知っていただかなければなならないだろう。そしてそれは、主がいつも一緒にいて下さる。そして、私という人間を、あなたという人間を生かしていて下さる。主のご用の為に用いて下さる。同じ思いを持った者同志の交わりの中に加えて下さる。この世には沢山の人がおられるが、しかし、その中であなたは決して一人ではない。孤独ではない。つまり、キリストは信じる者と共にいて下さるお方だと言う事である。そのことの素晴らしさが、信仰者には誰にでもある。これを知っていただくと、喜びがふつふつとあなたの内側から湧いてくることであろう。これは、実に素晴らしい事ではないだろうか。

勿論、私たちの生涯において、すべてが平穏であり、何の問題もなく終わるわけではない。会うは別れの始まりなりと言うが、親しき友ともいつかは、別れなければならない時が来る。仕事も、順調ばかりとは言えない。学びもそうであるし、体もいつも健康であるとは限らない。年齢を重ねると、あちこち肉体の弱さを覚えるようになる。しかし、パウロが勧めているように、私は思うのであるが、人生のどの時点で、どんな荒波を経験しようとも、主が共にいてくださるなら、喜ぶ事は出来るのではないだろうか。それは、決して声を出して、腹を抱えて笑うのとはまた違う。さまざまな喜びの種類はあるでしょう。でも、その中でも、どうしても必要なもの、なくてならないもの、それが、私は一人ではないんだということだ。
いつも、私のそばにいて、人生を共にして下さる方がいて下さる。この平安からくる喜びは、何にも代えがたいのではないだろうか。私はそのことを、信仰者になって初めて知った。聖書の話しで言うと、ある時イエス様は弟子たちと共に舟に乗られた。そして、イエス様はお疲れだったのであろう。舟のともの方で、横になり眠りに入られた。その時に、嵐がやってきた。そこで弟子たちは大変恐れ、ちょうど一緒に乗っておられるイエス様に向かってこう言った。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(マルコ4:38)。

考えてみれば不思議な会話である。自分が危なければ、イエス様も危ないはずである。それなのに、イエス様は少しも慌てた様子をしておられない。しかし、弟子たちはもう、今にも死にそうなほど、取り乱していたのである。イエス様がなぜ、あの時、平然としておられたのか、今から考えてみれば分かるような気がする。イエス様は父なる神様と共におられたんだな。その事を知っておられたから、ぐっすり休むことができたのだ、と思うのである。父の懐の中で休んでおられたのであった。だから、嵐のど真ん中でも決して恐れられなかったのである。

ところが、弟子たちはイエス様と共にいながら、その事をすっかり忘れていた。いいえ。助けを求めるくらいだから、存在は認めていたが、イエス様のお心が分からなかったと言えるだろう。イエス様の弟子たちでさえそうなのだから、いわんや、私たちはなおのことと思われるであろうか。それこそ、とんでもないことである。彼等と私達とは何ら変わらないのである。同じ人間なのだ。直弟子であるかどうかの違いはない。だからこそ、弟子達が犯した過ちを同じように犯してはならないのである。

ところで、聖書にはイエス様の事を、生まれてから死なれるまで、事細かには書かれていない。生まれられた時の状況と、死なれた時の状況は詳しいのであるが、その間の事は、僅かに12歳の時の宮詣での時の事だけが書いてある。その一つの出来事をお話ししたい。イエス様は、当時ガリラヤ地方のナザレに住んでおられたが、神様を一年に一度、宮に行って礼拝を献げることになっていたので、はるばる数日かけて旅行をしなければならなかった。両親共々一家で出掛けられたのだが、その時、両親は別々だったものだから、手違いでイエス様は置き去りになった。

帰り道、イエス様がおられないのに両親は気付き、探し回って、とうとう三日の後に、エルサレムの宮におられるのを発見した。そして、両親は心配して探し回った事を告げると、イエス様は、こう言われた。「どうしてわたしをお探しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」「しかし、両親には、イエスの話された言葉の意味がわからなかった」とある(ルカ2:48,49) この時、イエス様は12歳であったが、しっかりとこの時、父が共にいて下さる。そして、父と共に歩んでいることを知っておられた。その事が聖書を読むと分かるのである。

先ほど話した嵐の中の出来事も同じである。父のみ手の中で休まれていたので、イエス様には恐れがなかった。恐れがない。これは喜ぶ以前に必要な状況である。パウロが「喜びなさい」と勧めた時、それを実行するには、まず、この恐れというものから解放される必要があると思う。弟子達は、イエス様と共にいながら嵐を恐れた。イエス様が、どういう方かをまだよく知っていなかったからである。では私がその場にいたなら弟子と同じ行動を取らなかったかと言えば、はなはだ疑問である。恐らく同じようにパニック状態になったかもしれない。

しかし、信仰者は、それではいけないのである。次々に変化する時代の流れに、一喜一憂して、その流れに振り回されてはならないのである。だから、パウロは勧めを命令形で書いているのだ。命令形である以上、従わなければならない。してもしなくてもよいものではない。そして実際、イエス様が共におられる。また良き理解者であり、助け主であることが分かれば、余計ないことで不安を持つ必要はなく、喜びは、それを土台として出てくるのである。しかし、信仰者でない方は、残念ながら、その拠り所と言うものをお持ちでないので、なおのこと、パウロの勧めを実践する事は難しいことであろう。

だから、今朝は特に、そういう方に私はお勧めしたいのである。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」というパウロのことばを実践する術を知っていただきたいのである。これが出来るのは、信仰者だけなのだから、あなたが、まずその信仰者になっていただかなくてはならない。そうでなければ、「主にあって」とパウロが勧めているように、主にあって、喜ぶことは出来ない。主においてでなければ、パウロの言う事は実行できないのである。

では、どうすれば、この「主」につらなることができるのであろうか。それは、神様との交わりの回復、神様の救いにあずかることである。今現在、あなたが真の神様なしで歩んでいる生活をやめ、神様が共にいて下さる歩みに入ることを求めることである。その為には、あなたがイエス・キリストを救い主として信じ、神によってあなたの人生を全く新しいものにしていただく事が必要である。あなたが、どんなに努力し、あなたが自分の心を入れ替えても、それは、神様の前には十分ではない。そこにはおのずと限界がある。なぜなら、神様は、それ以上を求められるからだ。

とすれば、あなたに出来ることは何であろうか。たった一つだけある。それは、神様の前に、すべてを明け渡すことである。自分を守るガードを作っているそのガードをすべて取り払って、神様に全てをゆだねることだ。あなたがどんなに頑強に神様の働かれるのを拒否しても、そのあなたの心を開く力や術を神様はお持ちである。しかし、無理に開こうとはなさらないのが神様である。自分の方から、願い出ることを求めておられるのだ。絶えず襲ってくる試練から解放されて、いつも喜んでいられる歩みを始めたいとあなたは思われないであろうか。

あなたが、もしすでにキリスト者であるなら、喜べない原因がどこにあるか、探ってみていただきたい。神様からあなたの心が離れていることが原因ではないだろうか。もし、あなたがまだキリスト者でなければ、今のままで良いのか、真剣に考えていただきたいのである。このままでは、常に変る感情に振り回されて、喜んだり悲しんだりの繰り返しではないだろうか。いいえ、考えてみたら、不平不満で、喜びなど最近経験したことがない。そういう方だっておられるかもしれない。

肉体が長く病んでいると、心も病んでくる。仕事が辛い、辛いと考えていると、苦しくなってくる。しかし、もしそのあなたのそばに、あなたの為に十字架にかかって下さったイエス様が共におられるなら、そして、その苦しみ、悲しみすべてを背負って下さるなら、あなたのその苦しみ、悲しみはどんなにか軽くなるであろうか。しかも、しっかりとあなたの将来を定め、守って下さっているとするなら何と言う感謝であろうか。いつも喜ぶためには、まず神様との関係の回復が必要である。神様との関係を回復したとき初めて、主にあって喜ぶことが可能なのだ。神様は、今朝あなたに、人生をもっと楽しんでほしい。喜んでほしいと願っておられる。なぜなら、神様ご自身があなたを造られた造り主だからである。

イエス・キリストは、あなたのために、父なる神様との間に入って、仲介の役割を果たして下さった。十字架刑というもっとも過酷な刑をあなたの代わりに受けて下さったのである。聖書は、それをあなたの罪の身代わりとなってイエス様が死なれたのだと言う。何の罪のないイエス様が、あなたとの個人的な関係があると、聖書は語りかけているのだ。あなたは、その事実を感謝のうちに受け入れていただきたい。そして、主にあることの喜びを十分に味わってほしいものである。

2003年3月30日(日) 「寛容な心」 ピリピ4:5 竹口牧師

先週は伝道礼拝だったので、4節の「喜びなさい」というパウロの命令より見てきた。今回は5節で、「寛容な心」について考えてみる事にする。そして最後の方で「主は近い」の意味を取り上げる。まずこれまでの流れ、4章1−4節までを振り返っておくことにする。ピリピの教会で指導的立場にあったと思われる二人の婦人達の間に、不調和が起った。おそらく意見が食い違ったのであろう。だから、主にあって一致してくださいという勧めがあった。彼女たちの不調和の余波が教会全体に及んでおり、その状況がパウロに伝えられたと思われる。

そこでパウロは、ひびの入った人間関係を修復したいと願って、彼女たちに一致を勧めた。また、回りの者達に、彼女達を助けてやって下さいとお願いした。だから、その勧めには、全く非難めいた語調は感じられないし、力で押さえ込もうとするような威嚇的要素も見られなかった。ましてや糾弾する言葉も一切使われていない。この一致への勧めの根底にあるのは、パウロの心からなる愛から来ていた。だからパウロは、真の協力者の助けにより、教会に再び一致をもたらせるようにしてほしいと訴えた。彼女たちも福音のために協力して戦った同労者だからだとも言っている。

次に、4節からパウロはこの手紙の最後の勧めに移った。ピリピ教会の中に、二度と不調和が生じないためのいわばその処方箋とでも言えるのが、この4、5節である。教会の一致をいつも保つことのできる秘訣が、ここに記されている。第一は、いつも主にあって喜び続けることであった。それを先回見た。そして今回は、第二番目で、すべての人に寛容な心を示すことである。第三は、主は近いということを確信して生きることである。今回は、この第二、第三の二つの点について見ることにする。

まず最初に、寛容についてであるが、パウロはこう言っている。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい」と。一口に「寛容な心」と言っても、その「寛容」の本当の意味する所は深いようである。ある本によれば、新約聖書の中に、寛容という字は、形容詞、動詞などを入れると7つあり、ある先生は、それを6つの違った言葉で訳したそうである。だからそれは、私たちが用いている新改訳のように、公に使われるものではなく、いわば、私訳ともいうべきものである。が、まあそれにしても、「寛容」という言葉の内容、意味が、それだけ豊かさを持っているということであろう。
私たちは、すべての人に対して寛容である必要があるが、しかし、ではどうしたら寛容になれるのかと言われると、なかなかはっきりしないのである。寛容は、人間関係の調和を保つための大切な、そして基本的なものの一つと思われる。もしピリピの教会のユウオデヤとスントケがお互いに寛容な心を示していたとすると、おそらく今回のように実名をあげてパウロが手紙に書く必要はなかったであろう。また、たとえ一致を乱す原因が取り除かれても、いつもお互いに寛容な心を表さなかったなら、一致を保ち続けることは難しいと思う。

では、「寛容な心」は、どこから出てくるのであろうか。寛容という言葉を旧約聖書で検索してみましたら、新改訳と、新共同訳には1回も出てこなかった。口語訳にわずか2回だけ使われている。詩篇86:5節とエレミヤ書15:15だけだ。因みに口語訳で「寛容」と訳されている詩篇86:5節を新改訳で見ると「赦しに富み」と訳され、また新共同訳は「お赦しになる方」という風に訳されている。そして今、開いているピリピ4:5を新共同訳で見ると、「広い心」と訳されている。こうしてみれば、実に苦心して訳されていることが分かる。ある本には、他に「温和さ」とか「柔和」とか「親切」とかとも訳されているとあった。実に広がりのある意味ある言葉である。

余計なことである新約では、寛容という言葉に訳されている回数は、新改訳は16回、新共同訳は9回、口語訳は20回使用されている。ある先生は詩篇86:5節を口語訳から用いてこのように解説されている。まず、口語訳を言っておこう。「主よ。あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者にいつくしみを豊かに施されます」である。そして、ここには、恵みふかいことと、寛容であることと、いつくしみが豊かである、と言う事が出ている。そして寛容になろうとするなら、神の恵み深さを知り、神のいつくしみが豊かであることが分からねばならないので、ただ寛容であろうと考えただけでは寛容になれない。だから寛容の本当の意味は、神の恵み深さと、いつくしみの豊かさとに、むすび付けられなければ分からないという事が分かるとも言われている。

聖書で言う寛容という意味は、聖書に使われる前からそういう意味があったそうである。世の中で一般のことを考えてみると、大事なこととして決められた場合、それを守ることが求められる。いろいろ約束事をみんなが決めても、それを守らなければ、この世の中は崩れてしまうからだ。そういう意味では、決められたものの中に示されている正しいことを行うことは非常に大事であるということになる。しかし、決められた通りにすることが、いつでも本当に正しいかといえば、これは大変に難しい。法律のようなものでも、条文に書いてある通りにするのがいいのかどうか、それは、なかなか難しい時がある。だから、時としては大岡裁きのようなものの方がいいのだ、と言われるであろう。

あるテレビの番組で、行列の出来る法律相談所というのがある。4人の弁護士が、ある訴えに対して持ち前の腕で答えるのであるが、実に捉え方によって全く逆の結果が出るのでおもしろい番組である。一方は法律一途に答える。また他方では人情も入れて答える。そこで、訴えた人が勝てるかどうかを判定する。そして最後に、訴えに対して大体の勝てるパーセントがでるのである。

まあそれはともかく、別の先生は、寛容をこのようにも言われている。寛容とは、消極的には人と争わないとか、報復すべき正当な理由がこちら側にあってもそうしない。積極的には、優しさや思いやりを示して共に平和に過ごそうとすること、自分を立てるよりも相手を立てる、相手を生かすことを中心におくやり方、それらを内容としている事が分かる。特に他の人との間で、少しばかり難しくこじれた問題が生じたような場合、しかも相手の側に過ちがあることが明らかな場合であったとしても、相手を攻めることに急であったり、すぐに規則とか、法則などを持ち出して、それによって相手を裁くことをしない、そういう相手への心遣いをこの言葉は意味している。そこで目指されていることは、相手をつぶすのではなく、相手を生かすことなのであると言われる。なかなかの表現だと思う。
寛容とは、このように、どのようにみても自分の側に正しさがある。そのようにしか思えない時にも、その正しさを武器にして相手に切りかかり、相手を裁くことをしない在り方である。また、たとえ苦しみや恥を相手から受けたとしても、復讐することを自分の当然の権利だと考えて、その機会を狙うことをしない生き方、それが寛容の意味している事柄である。それによって相手を励まし、赦し、また生かす事ができる在り方がここで命じられている。

では、この様な寛容を私たちが持っているのかと言われれば、残念ながら、持っていないというのが現実である。そして、神様に求める以外に無いものである。神様は、私たちに寛容をもって接して下さっている。神様が私達人間の罪を、あの律法の義そのままに裁かれるとするなら、誰がその義の前で、自分の正しさを主張することができるであろうか。もし、神様が律法に定められているご自身の要求のままに、私たち人間を見つめられるとすれば、誰が神様の目に耐える事ができるであろうか。そして、律法を守らないことによって裁かれ、滅びへとおとし入れられるとすれば、誰が命を神の前にあって、ながらえさせることが出来るであろうか。これは、実に恐ろしい事である。それだけに、今私たちが神様のみ前に礼拝を献げる事が出来、神の名を呼び、み名を賛美し、み言葉に耳を傾ける事ができるのは、また、そういう交わりが与えられているのは、まさに神様の寛容によるものであることを私たちはしっかりと知らなければならない。

詩篇130:3-4節にこのような言葉がある。「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」これは都上りの歌の一部分である。イスラエルの人達が、エルサレムに礼拝に行く時に歌った歌である。私たちの諸々の不義に神様が目を留められるならば、誰が、神様の前に立つことが出来るか。しかし、神様には赦しがあるので、寛容があるので、私たちは神様のみ前に立つことができる。そのように歌っているのである。
私たちもまた同じような思いで、神様のみ前に今、出させていただいているのではないだろうか。私たちは今、神様の寛容の満ちあふれる中で生かされている。教会の歴史の中で、礼拝ごとにこれがおぼえられ、祈りの中で、神の寛容に対する深い感謝がささげられてきた。信仰の先輩たちの祈りがいろいろな形で残されているが、その中で祈られる大切なものの一つは、神様の寛容、神様の赦しが、今私達をここに立つことを赦して下さっている、ということである。そのことを、しっかりと覚えたいと思う。

ある時、イエス様のもとに姦淫の場で捕らえられた一人の女性が律法学者とパリサイ人たちによって、連れて来られた話がヨハネの福音書8章にある。こういう場合モーセの律法に従えば、石で打ち殺されなければならない事になっていた。そこで、彼等は、イエス様にあなたならどうしますかと迫った。それに対してイエス様はしばらく黙って下を向いておられて、地の上に何かを書いておられた。しかし、彼等が問い続けるものだから、イエス様は身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と。すると、それを聞いた人達は、一人去り、二人去りして、結局みんないなくなった。そしてイエス様は言われた。「婦人よ。あの人達は今、どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」。そしてイエス様は言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と。これは、とても感動的な話である。

が、ここで言われていることは、厳しいことは言わない方がよいとか、姦淫の罪を犯した女は石で打ち殺せ、ということはあまりにも行き過ぎなので、そんな風に言わない方がよいとか、あなたがたのうちで、罪のない者が……といわれたら皆逃げ出したように、どうせ、みんな同じような弱さがあるのだから、赦してやろうではないか、ということではない。寛容とは、規則や法則を唯一の頼みとして、それを一字一句間違いなく適用するのではない。むしろ、その規則や法則や律法が目指しているものを、そこで現すことが求められているのである。律法の究極の目標は、人を神へと向かわせるものである。そして、律法は、それによって罪を正しく人に認識させる。

更には、神様の憐れみ、慈しみ、赦しなくしては生きられないことを教えてくれるものである。イエス様は、この女性に対して、こういうことは誰にでも起こり得ることだからと赦されたわけではなく、今後二度と犯さないようにと注意を与えておられる。イエス様は、この姦淫の女性を人々の前で恥の中にあることを見、そこに神様の裁きを見られ、そして二度と犯さないように、罪赦された者として生きるようにされたのであった。ここに寛容の本質が表されている。いま犯した罪の姿で、この女性のすべてを見てしまうのではなく、神の憐れみを受けるならば、この罪ある女性もまた、新しい人間として生きることができる。そういう可能性を持ったものとして、この女性をみる。これが寛容の在り方である。単なる人情論ではない。
神様が用いて下さるなら、罪ある者も新たに生きることができる、その可能性を信じるところに寛容と言うものが生まれてくる。だから、ここで大切なのは互いに罪人同士だから、まあいいか、とばかりにお互いに慰め合って赦すのではなく、きちっと、罪は罪として認め、それが本当に悪いことであることを認め、その上で赦されなくてはならないのである。そして、それができるのは、イエス様だけなのだ。なぜなら、イエス様だけが罪を犯したことがない方だからである。つまり、本当の意味で寛容であることの出来るのは神様だけである。イエス様だけである。そして、私たちに出来ることは、その神様の寛容によって赦されている自分を見つめながら、人を見ることだと言えるだろう。

ある人は言う。消極的な面から見ると、寛容は論争したり、言い争いをしない。自己勢力の拡大をしない。自分の領域が侵害されたからといって怒ったり、自分の縄張りを広げていくこともしない。厳しい、苛酷な態度をとらない。自分には優しく、他人に厳しくすることもない。寛容な心とは、このような態度ではない。「寛容な心」とは、積極的には、心が寛大でよく人を受け入れることである。人の欠点・短所をとがめだてしないで、赦すことである。たとえ害を受けても、感情を抑えて耐え忍ぶことである。決して報復をしようなどと考えないで、赦し、柔和な態度を示すことである。ここに調和を保つ秘訣がある。

だれに対しても寛容な心で接するなら、調和を保つことができる。なぜなら、寛容な心は、二つの極端を避けさせるからだ。教会の中で、この寛容さはとても大切であり、現在の私たちの教会でも求められているといえるかもしれない。寛容な心を示すのは、特定の人に対してではなく、自分と馬が合う人にだけ、寛容を示すのでもなく、「すべての人に」寛容な心が示されるところに、信者同志の人間関係ばかりでなく、すべての人間関係において美しい調和が保たれていくものと言える。

最後のほうになったが、一致の為に必要な3番目、「主は近いのです」というパウロの言葉を見ておきたい。主にあって喜び、寛容な心で互いに接する。なぜなら、「主は近いのです」、だからとパウロは言う。この「近いのです」という句を再臨と現実とを指す考えがある。まず主の再臨を意味しているという一つの解釈の場合、終末が近づいている。世の終りが近づいている。すべてのことが主の御前で報告され、正しい審きが行われる時が来るので、主をお迎えする備えをもって生きよということになる。そしてこの解釈を支えるのは、この手紙の3章20節の言葉である。「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」というパウロの再臨待望の信仰である(1コリント15:51一57、1テサロニケ4:13−18参照)。

パウロが、主の再臨は近いという信仰に生きていたことは明確である。だから「主は近いのです」の句は再臨ととれる。そしてもう一つの解釈は、場所の近さである。すなわち主の現臨、つまり臨在を指す。主はいつも、ご自身を信じる者の近くにおられるという信仰である。主は遠くにおられる方であるが、同時に、ご自身を信じる者の近くにもおられる方だ。

詩篇の詩人が、「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる」(145:18)と歌っているのは、「主は近いのです」ということを確信していたからである。従って、「主は近いのです」を時の近さと解するか、主の再臨ととるか、それとも場所の近さと解して、主の臨在ととるかは、難しい。しかし、教会が一致して問題に当たるには、どれであってもよいと言える。否むしろ両方を合わせて捉えても良いように思われる。そうすることが、当時のピリピの教会に、そして現代では私たちの教会に必要な事だと教えられる。

神様が私たちに与えて下さっている賜物を有効に、そして無駄なく、更に主に用いて頂くには、4、5節のパウロの勧めは非常に大切であるように思う。私たちは色々な事を判断するが、正しい時もあれば、間違っているときも、過去を振り返って見ればある。最終的には主が精算して下さるのであるから、私たちはパウロの言っている3章16節の言葉、「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」と言う言葉に従って歩もうではないか。主はすべての事を益として下さる方であるから、その信仰に立って喜びながら、寛容でありながら、そして主の来臨を待ち望みつつ、主と共に歩み続けたいものである。

[先月] [来月] [最新の説教]

 東京聖書教会TOP /毎月の説教