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2003年4月6日(日) 「神のくださる平安」 ピリピ4:6-7 竹口牧師

今朝の聖書は、多くのキリスト者に愛唱され、また、その御言葉によって慰められ、励まされ、それゆえにまた、覚えられてきたものの一つである。それだけ大勢の方が、この世の中でさまざまな思い煩いをしておられるのではないかと思う。ある本の孫引きであるが、このように書いてあった。「墓石に死んだ人の死因が刻まれるとするならば、多くの場合『思い煩いのため』と刻まれるであろう」とである。それほど、私たちの心と身体とをむしばんでいるのが、この思い煩いだといえるだろう。

今日、不透明な時代にあって、先が全く読めない時代の中で、確かなものが欲しいという思いを持つのは誰しも同じであろう。しかしながら、ある人は言うかも知れない。信仰者なら、そんな思い煩いなど持つのはおかしいではないか、神様がいつも一緒におられるのなら心配などないはずであろう。そういう正論もあるだろう。確かに、そうである。真の神様を信じているのだから、もし思い煩いがあり、心配しているなら、それは本当の信仰ではない。不信仰というものだ、とあっさり切り捨てることも可能である。でも、実際、多くの人がこの思い煩いで、身も心も傷ついておられるのである。そしてだからこそ、パウロがもっとも愛したと思われる教会の一つ、ピリピの教会の人達に、この事を書かざるを得なかった、とも言えるのである。

伝道者の書1章18節にこういう言葉がある。「実に、知恵が多くなれば、悩みも多くなり、知識を増す者は、悲しみを増す。」と。こういう言葉を安易に読むと、だから勉強はしなくてもいいのだ、とそのように勉強嫌いの者は受けとりやすいものだ。しかし、現実は、常に勉強し、向上しようとしない者は、この世に置いて行かれるのである。

では、一体どうしたらいいのであろうか。どうして、知識を増すと、人は悲しみを増すのであろうか。それは、なまじ知識があるために、考えなくてもいいことを考えてしまうからである。小さな子供を見ていると、親の体にまとわりついていることが平安であり、何の心配もしていないのである。知らない人が手を差し延べると、危険だと察知し、ぐっと親に抱き付く姿が目に浮かぶ。

では、果して信仰者である私達は、いつも神様の手をしっかりと握って、安心しているのであろうか。考えてみると、いろんな知識を私達は年を重ねれば重ねるほど得る。失敗は成功のもとと言うから、失敗によって学んだことが多くある。だから、次の時には同じ失敗はしないといいたいが、次はまた、予想外の事が起きて、また失敗すると言う事はおおいに有り得る。しかし、だからと言って、何もしないと言うのはこれまた問題である。

最近、引き籠もりと言う言葉を耳にする。私も一時期、そうしたい時期があった。皆さんの中にも、そういう経験をお持ちの方もおられるだろう。もう、一切合切投げ出して一人になりたい。この世のさまざまな思い煩いから逃げ出したい、そういう思いを経験した。
ところで、何かを決めようとするとき、何人かで考えた場合、必ず楽観的な人と悲観的な人が出てくる。そして最終的に決まるのは、最初に出された提案より、やや控え目な、より安全をみた案に落ち着くのが普通である。それは、自分たちの出来る範囲を、自分なりに決めて、それが、安全だし、可能だと考えるからであろう。人は、どちらかと言えば、物ごとを悲観的に考える。あんまり旨く事が進むと、本当にこれでいいのだろうかと心配するし、失敗が続くと、どうしてこんなに自分はついていないのだろう。ついに神様に見放されたのか、などとも考える。

そこで、ある人は言う。なぜ、そのような考えに陥るのか。それは、ほかでもない。我々はいつでも必ず神に愛されているという自信がないからだ、とである。そういう根拠が自分の内にない。自分は愛されないはずはないのだ、とは思えないと言う。神様が私達を愛して下さっているということを聞かされながら、その神様の愛を信じ切れないのである。しかし、そういう考えが根底にあるからであろうか。最近はやたらと、あなたは愛されています。あなたは、神様にこんなに愛されているんですよ、といういわば、癒し系の本がやたらと出るようになった。

そんな状況だから、つい最近であるが、ある先生から、それも私よりもずっと先輩の先生に言われた。「私は、誰でもいいのだが、偉い先生に教えてもらいたい。あなたは愛されている、あなたは愛されているんですよとよく言われるけれども、神様は罪人を愛しておられるわけではない。罪赦されている人が愛されているのである。確かに、一般恩寵の恵みの中に全ての人は入っているけれども、しかし、本当に愛されているのはイエス様によって罪赦された人ではないですか」とであった。私も、その話しには同感である。

神様は、私達信仰者を本当に愛して下さっている。それは、まさにイエス様の十字架の故にである。そして、その事をしっかりと踏まえた上で、本当に愛されていることを私達は忘れてはならないと思う。聖書の言っていることを、そのまま受け入れないで、自分の今まで辿って来たマイナスの経験と思われる事、それに振り回されて、神様の愛など本当にあるのだろうか。そんなことはありえない。現に今私はこうではないか。そのように勝手に決めてはならないのである。

あなたは、確かに愛されている。しかも、その愛は、キリストの十字架による身代わりの死によってである。パウロが「何も思い煩わないで」と言っているのは、まさにそこに根拠があると言えるだろう。しかも、この箇所は、命令形になっている。「何も思い煩うな」である。思い煩うと言うギリシャ語の言葉を、心配するというように訳されているのが、マタイの福音書6章に出ているイエス様のお言葉である。交読文でもすでに読んだが、今度は新改訳で25節からもう一度お読みたい。マタイ6章25節より「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物より大切なものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」

ここでイエス様が言われている「心配したりしてはいけません」という理由をみると、イエス様が私達の心をよく知っておられるのがお分かりであろう。私たちは心配したからと言って寿命を延ばすことはできない。でも、じゃあ、どうせ心配してもしょうがないのなら、考えるのやーめた、と投げやりになるとまたここでイエス様の意図しておられることと違ってくるのである。なぜなら、寿命を延ばすことは私たちにはできないが、しかし、イエス様が言っておられるのは、だから一生懸命に生きなさいと言われているからである。
その事を裏付けるのが、「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」との言葉に現れている。どんなものでもこんなに大事にして下さるのですから、だから、あなた方も、自分の命のことで余計なことを考えないようにしなさいといわれるのである。あきらめではなく、本当に心から神様に信頼することである。心配しないで、神様にお任せしなさいと言うことである。

次に見るのは、「あらゆる場合に」である。他の訳では「何事につけ」とか「事ごとに」とある。これは4節を見たときに、「いつも主にあって」とあったが、その「いつも」ということと同じとみてよいであろう。どんな場合でも、いつの場合でも、「感謝を持ってささげる祈りとお願いによって…」である。祈りなさいと言われると祈れる。でも、いつも祈りなさいと言われるととたんに難しい。それと同じ様に、感謝しなさい、と言われると出来るが、あらゆる場合に、と言われますとまた難しく感じる。

しかし、あらゆる場合に感謝出来れば、何も思い煩わないで……あるいは、心配しないことは可能であろう。先程、思い煩うと言うのは、諦めではなく、心配しないで神様に任せると言う事であると言った。自分で考え、自分でなんでも行なう。自分の思うようにならないと思い煩う。そこで、そういうことはすべて神様に任せて神様の思い通りにする事以外に無いというのが正しいのである。だから、何か自分に良いことがあった時だけ感謝すると言うのではなく、すべてのことについて感謝するということである。

とすれば、それは小さな自分の考えの中で考えて、喜んでみたり、怒ってみたりすることではないはずである。ましてや、ある人は、このパウロの手紙の状況を神の前に立つ殉教者の心構えを述べているのだと言う。殉教者と言うと、もはや「死」しか考えることは出来ない。そして別の人は、その「死ぬこと」についてとりあげ、感謝できるだろうかと問い掛ける。一生生きてきましたが、今死ぬことも感謝ですというのが本当ではないか。そうでなければ、すべてのことについて感謝したことにならない。死ぬ事についても感謝できて初めて、生きていることについても本当の意味で感謝しているといえる。もし片一方であるなら、それは自分の都合のいい事しか感謝していない。そしてそれはまた、事ごとに感謝しているとも言えないのではないか、そのように問い掛けるのである。

誰かが何かをしてくれて、自分が有り難いと思ったら感謝する。そうでなければ、感謝しないというのでは、何かしてくれたほうは、大したことをしたとは思ってくれなかったということになる。そのように考えれば、神様に対しても、自分にして下さったことに、これは感謝し、これは当然だと考えて感謝しない。それでは、世間のお付き合いと同じではないか。神様と私たちとの関係は、そうであってはならないはずである。そのように、ある人はいう。まさにそうである。

いつでも、どんなことでも神様に感謝すべきである。パウロの言葉には感謝に続いて、祈りと願いがつながっている。そして、この場合の祈りは、もっとも広い意味での祈りのことで、神様に対する心の態度、神様とのたましいとの会話、交わり、神様に対する呼び掛け、つまり、礼拝であると言われる。とすれば、あらゆる場合に、どんな場合にも感謝持って礼拝すると言うことになる。神様を神様として崇める。神様の唯一性、他と比べるものがない方として認める事である。それはまた、神様の主権とご支配を認めることになる。
とすれば、礼拝は、神様が一切の思い煩い、心配事を必ず解決して下さるとの全き信頼の表れだといえるだろう。このように見てくると、祈りと願いが別々に書かれていることがよく分かってくる。祈りと言えば、私達は、すぐに願いを想像する。しかし実際は、祈りの中には、願いは勿論あるが、感謝とか賛美とか、褒めたたえる言葉もある。にもかかわらず、ここではあえて、祈りと願いとを分けてパウロは書いている。それは、その違いを際立たせるためか、それともさらにその祈りを強調する意味があったか、どちらかであろう。いずれにしても、6節の最後には、「あなた方の願いごとを神に知っていただきなさい」とあるので、そのままずばり、「神に知っていただくため」であろう。

勿論、神様は全知全能のお方であるから、私達が話す前からすでにご存じである。子供の必要を全て知っておられるのである。では言わなくてもいいのではなかいかという理屈になる。にも拘らず、パウロはそれを勧めている。現在の状況がどうであるか。あらいざらい一切を述べるのである。祈る事は、諦めや放棄する事と同じではない。祈りは信頼を持って神への全面的な委任である。神様は、それが祈る者にとって益となる限り、必ずその祈りを神の方法に従って適えて下さる。その確信を持って祈る事ことであろう。

7節には「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」とある。「人のすべての考えにまさる神の平安が」あなたを覆うのはどんな時であろうか。思い煩う時であろうか。私達の心の中で、考えられるあらゆる知恵を尽くして、ああでもない、こうでもないと思う時であろうか。私達の信頼するべき基盤は、どこにあるのであろうか。キリスト・イエスにあるのである。

では、そこに全てを持って行くべきではないか。聖書には、多くの祈りの人が出ています。その中にイエス様も祈る人に挙げられるであろう。ルカは、イエス様がいつも祈られた事を記している。しかし、イエス様は神の子であり、神様であるので、私達人間の側から言えば祈る必要などないはずである。でも、そのイエス様でさえ、死ぬ間際まで祈られたのであった。まして、罪人である私達が、そのイエス様の執り成しによって神の子にしていただいた者である。どうして祈らずにおれるだろうか。

私達が神様に祈り願い求めた事が、その願っている通りにならないかも知れない。否、むしろ事態は悪い方向に進んでいると感じられるかも知れない。しかし、事態を変えることのできる方は、神様なのである。私達の能力、知恵の限界を越えて働かれるのが神様である。イエス様は死なれた。殺された。もう駄目だ。これが人の考えであった。しかし、神様は、その死んだイエス様を、死を打ち破り、甦えらされたのであった。ここに、「人の考えにまさる神の平安」が与えられる根拠があるのである。

パウロが4節から6節までに勧めていることは実に大切な勧めである。それらは全て、7節の「そうすれば」と言う言葉にかかってくる。私達はこの世に在って、大なり小なり問題を抱えている。しかし、私達人間の思いを遥かに越えた方が、私達を見守り、願いを聞き、最善をなしてくださるのだ。だから、私達は、その方からいただける平安の中で、出来る限りの事をさせていただきつつ、全ては神様にお委ねする、御心がなるようにと求めながら信仰の歩みをさせていただく。これが私達に求められている信仰生活である。

神様の能力を決して過少評価しないで、偉大な方の子供にさせていただいていることをいつも覚えつつ、あらゆる場合に感謝を持って、祈り、神様に知っていただこうではないか。

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