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2003年5月11日(日) 「心に留め実行す」 ピリピ4:8-9 竹口牧師

ピリピの人達に対して書いたパウロの手紙も、そろそろ終りに近くなってきた。そしてその終りに近くなってからパウロは、今日の所では、8節において8つの勧めをしており、しかも、それらを心に留めないさいと命じている。そして9節に於いては、「私から学び…実行しなさい」と勧めている。従ってこうして8節、9節を比べて見ると、明らかに、はっきりと違いがあるように見える。つまり、一方は心に留めるのだから、行動には至らなくてもよい。しかし他方では、実行しなさいと命じているのだから行なう必要がある、という風に受け取ることも可能である。

でもよく考えてみると、心に留めるということは、内側にそれをもつことであるから、それは当然、外側に向かって現れてくるものである。「心に留める」とは、よく考える、熟考する、考察する、瞑想するという意味である。そしてこれは思想と深くかかわりあっている。なぜなら、常日頃考えていることが行動になって表れ、それが繰り返されると、良きにつけ悪しきにつけ、習慣となって思想を形成するからだ。邪悪な考えや思いが心を支配するなら、罪深い行動へと、その人を誘惑する。このような行動を繰り返すと、悪い考えや思いが習慣として出来上がってしまう。そうすると、この世の誘惑がいつでも入り込める余地を造ってしまう。悪い行動の繰り返しが心と思いとをますます汚していく。結果的に、悪い思想が形成されていくのである。

逆に、高潔なことを考えれば、それが行動に表れる。寛容な心があると、それが人にも知られる。キリストの愛で心が満たされるなら、だれでも、いつでも、どの様なことがあっても人を愛せる。柔和な思いが心を支配するなら、自然と柔和に人に接することができる。イエス様はある時、こう言われた。ルカの福音書6章43節以下にこうある。「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」そして45節「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と。

ここで「倉」とは、心理学の言い方をすれば「潜在意識」のことである。意識して考えると、それが隠れた「倉」に納められて、性格、記憶、行動の一部分になる。だから、パウロが8節で挙げているようなことが「倉」に満たされると、それがまた行動にも表れてくる。ということで、今回パウロは、8節、9節で明らかに分けて書いているが、どうも、私は、同じ事を言っているのではないかと思う。つまり、心に留めつつ、行ないなさいと言う事である。

今回の8節を読むと、そこで求められていることは、決してクリスチャンだから心に留めなければならないと言うものでは決してないことに気付かされる。というよりも、クリスチャンではない、一般の方々が目指している。また善いこととしていること、それが挙げられているように思う。「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること」とある。

では、なぜパウロが、ことここに至って、そのようなことを書かなければならなかったのであろうか。ある人は言う。多分、ピリピの教会から、異教社会の一般道徳に対して、どのような態度をとったらよいのか、パウロに意見を求めてきたのではないか。あるいはまた、パウロが気を配って、このことについて書き送ったのかもしれないと。実際のところは分からない。が、いずれにしても、パウロの手紙は、最初の方では神学的なことを、そして、終りのほうではより具体的なことを述べている、そんな感じがしないでもない。そしてピリピ書もそのところから来ているのかもしれない。この書では、今までに、クリスチャンであるならこうすべきだ、という点を述べてきて、そしてこの最後の方に来て、クリスチャンでなくても、良い事を行なっている。それなら、神の子である私たちもなおのこと、すべきではないか、というように勧めたかったのではないだろうか。

クリスチャンにとって守るべきこととは、それは、十戒に言い表されているし、またイエス様の山上での教えを伝え聞きもしていたなら、そういう人達には、もうあえて言う必要はないのかもしれないが、ここでは更に、一般の人々が求めていることにも目を留めなさいとパウロは勧めているのである。それは、ピリピの人達にそれが欠けていたと言うよりも、クリスチャン全体が、真の神様に従えば良いという考えで、この世から遊離した存在になることへの戒めであった、そのように考えることもでるだろう。それは、勿論、ピリピの教会がそうだったからという訳では決してない。

私たちクリスチャンは、この世に迎合する必要はないが、しかし、この世が良いと認めることに於いて、キリスト者にとっても良いことは行なうべきであると言える。ただし、パウロはローマ書12章2節で「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、即ち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい。」と言っているように、あくまでも、神の御心を中心に良いと思われることはどんなことでも、行ないなさいというのである。

クリスチャンは、この世に生きている存在である。ならば、この世の人々が良いこととしていることで、キリストに反しないことであれば、それを心に留め、また努めて、それを行なうことは、良いことである。神様が私たちの行ないを評価され、また、この世も私たちを、この世の目で見て評価する。しかし、それでもって合格点が与えられるというものでは決してない。キリスト者としてのいわば生き方がそうあるべきだと言う事である。私たちは、いつも確認させられますのは、救いと行ないとの関係である。

救われるために何々をするというのではなく、すでに救われている者は、救われているゆえに何々をする。あるいはすべきであると言う事である。私たちは、行ないによらず、恵みによって救われ、今も、その恵みによって生かされ、歩ませていただいているのだから、その私たちが、この世にあっても、世の光として輝くには、当然、この世の人達が良いと認めていることも、御心に反しない限りおこなうべきであると言える。

ところで、この世の基準と言うものは、曖昧な部分がないわけではない。パウロが8節で挙げている8つの行為は、国によって、地方によって、地区によって違いもあるので、その辺りは、注意深さも必要である。一般的には、どういう意味があるのか、ある本を引用しながら短く説明をしておきたい。まず、「真実なこと」というのが書いてある。これは、こんにちで言う真理というようなことでなく、本当のことということである。幻滅をさせないことである。あるいは嘘ではないと言ってもいいかも知れない。

この世の中は、嘘で固まっているとよく言われるが、世の中で、何が困ったことがあるかと言えば、嘘ほど困ったことはない。嘘で固められて、嘘のゆえに私たちは、本当に人間らしい生活をすることができないというのも事実であろう。だからそういう意味で、私たちはまことなこと、そういう嘘でない本当のことならば、どんな事でも求めなければならないのである。

その次の「誉れあること」とあるが、これは、評判のいいことと思うかも知れないが、それとは少し違う。これは、もとは美しく語るという意味である。もちろん、美しく語るというのだから、評判がいいのであろうが、聞く人が喜ぶというのである。がしかし、キリスト者にとって、一番大切なことは、神様が喜んで聞いてくださるということであろう。その次に「正しいこと」とある。この場合の正しいこととは、義務を果たすと言う意味である。勿論、それは人に対する義務だけでなく、神に対して、人に対して、私たちがいつでも義務を果たす事ができるようになっている事だ。人間の生活には、誰の生活にも、どうしても負わなければならない責任がある。人に対して、自分に対して、こと神に対して負わなければならない責任がある。そういうことはどんな事でも果たしなさいと言う。

次に「清いこと」。これは汚れがなくて清らかだという意味である。これは当時で考えますと、祭壇に犠牲をささげるような時に、犠牲を献げる動物が汚れていないこと。汚れていたら犠牲にならないので、汚れていない、動物をささげるような時に用いた言葉であり、そういうところから、私たちがそういう意味で、神の前に持ち出しても、人の前に持ち出しても、汚れのない生活をするということである。昔も今も、そんなに変わらないことである。次に「愛すべきこと」。これはある人は「魅力のあること」と訳しているそうだ。もし人の悪口ばかり言っていたり、必ずしも悪口でなくても、人の批評ばかりしていたなら何を引き出すであろうか。その批評からは、怒りや不愉快しか引き出せない。その反対に私たちに、もし同情深いところがあると、その相手の人の中から愛を呼び起こし、その人達が自分を愛するようになることも間違のないことであろう。

そして最後「評判の良いこと」。これは文字通り、ほめられるようなことであろう。人に褒められたいために何かをするというようなことは、軽蔑すべきことだと思われる。しかし、ここではそういう褒められることに値するようなことも求めよ、と書いてある。本当のことをいえば、私たちはみんな褒められたいのである。その証拠に、少しでも悪口を言われたら、非常に憤慨する。しかし、反対に褒められることも難しいことである。褒められると、必要もないのに照れてみたり、有頂天になったり、人の気持ちを踏みにじるようなことはすぐに出てくるが、素直な気持ちで褒めてくれる人の言葉を受けて、心からそれに感謝するということは、なかなか出来るものではない。それならば、本当に褒められるようなことをする、それを追い求めるということも大事なことだと言う事である。

最後に、徳と言われる事であるが、もし普通に道徳と言う事であるとこの一つだけで済む。しかし、ここの場合、それだけでなく、なんでもよくできることを言う。国語辞典によれば、人の道を悟って、行為にあらわす事とある。だから、およそ神によって生きているような者ならば、それを行なうのは当たり前だということである。以上、簡単に一つひとつを見てきたが、今回のパウロの勧めの中で、大きく分けて二つある内のもう一つを見ておかなければならない。それは、ここで、ことを勧めるに当たって、一つひとつに、「すべて」と言う言葉を付けている点である。それは、ある分野における何々をではなく、つまり、たとえば正しいことという場合に、一つの事柄に限定していないですべてのと言う事である。だからいちいちパウロは、「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば……」と勧めているのである。まさに、全ての面で、全ての範囲において心に留め、また実行する必要があると勧めているのだ。

ということは、クリスチャンである私たちは、あらゆる場面に於いて、一人ひとりが、その行動をよく吟味し、神の御前に正しいか、十分に考察しながら御霊に導かれて行なっていく必要があるということであろう。信仰者がそれぞれの立場で捕らえた真実であると思えること、それを心に留めつつ行っていく。尊ぶべきことと思えることがあるならば、それを大切にしていく。各自の信仰によって、神様に示されたところに従って、それを大切にしていくことが期待されているのである。パウロは9節に於いて「あなた方が私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。」と勧めている。これを読むと、パウロのうぬぼれや、自信過剰から出てくる言葉のようにある人は思われるであろう。しかし、こういう言い方は、もうすでに3章17節で同じような言い方を彼はしていた。「兄弟達。私を見習うものになってください」と言うようにである。そして、それは以前にも言ったように、パウロ自身が完全なものであるからと思って言っているのではない。そのことがお分かり頂けると思う。
キリストが自分の中に生きておられる。キリストが私を生かしていて下さる。今、生きているのは、自分の力ではなく、私を愛し、私の為にご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっている、という信仰から出てきているのである。「あなた方が私から学び、受け、聞き、また見た事を実行しなさい。」との言葉は、そこから生まれてきている。そうするときに、社会におけるあなた方クリスチャンの行動は、神に喜ばれるものとなってくる、とパウロは述べるのだ。そう言った意味で私たちは、私たちの回りにいる数々の信仰の先輩たち、すでに亡くなった人であれ、今、共に礼拝しているものであれ、信仰の友から、信仰の本質に生きることが何であるか、信仰に基づいて社会にあって生きることが何であるかを学びながら、自分に示されたところに従って、大胆に、生きて行けるのではないだろうか。

パウロは2章13、14節のところで、「神は、御心のままに、あなた方のうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」と言っていた。事を行なわせて下さるのは神様である。キリストを信じる信仰によって与えられた平安の中で、神からくる力に守られ、導かれながら、この社会においても神のみ旨にかなう事柄と思われることを誠実に当たっていく責任を、私たちは負わされているのである。そういう生き方を通して、神の豊かさが証しされるところに、神も共にいて下さって、そこを一層、福音の恵みに満ちた所として下さるに違いない。私たち一人一人は、小さな貧しい器に過ぎないが、平和の神、救いの神、和解の神の使者として、神さまからそれぞれの場所に遣わされていく光栄を与えられている。そのことを覚えつつ、神のみ旨にかなう事柄を、この世にあっても誠実に果たしていく者でありたいと願う。主からそれをなす力をいただいて、ここから遣わされていこうではないか。

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